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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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ラマルクはラマルク説の提唱者ではない!

 しかし実際には,この話は嘘だらけだ。まず,ラマルクは科学者というより哲学者だ。彼の著書は,現在でいうところの遺伝学の考え方を素人が読んでもわかるように説明したもので,科学的な分析を重ねた学術論文ではない。ラマルクは獲得形質遺伝の概念はもちろんのこと,進化論に概念をも一般の人に普及させるのに貢献したが,彼自身はどちらの概念の提唱者でもないし,自分が提唱者だと主張しているわけでもない。当時,獲得形質遺伝説は広く支持されていて,ダーウィンもそれを認めていた。ダーウィンは自著『種の起原』の中で,進化の概念を普及させたラマルクの功績をほめたたえている。
 しかしながらジャン=バティスト・ラマルクは,自分が展開したわけでもない理論が広く「教科書」に載ってしまったことの犠牲になった。どこぞの科学ライターが,ラマルクが獲得形質遺伝の概念を提唱したという話をどこかで「獲得」して,その後に続く何世代もの科学ライターたちに「遺伝」させてしまったのだ。ダジャレを使いたくて少々ややこしい説明をしてしまったが,ようするに,だれかがラマルクを責めるようなことを書いて,それをその他大勢の人が今日まで信じてしまったということだ。教科書はいまだに,ラマルク派の研究者たちはネズミのしっぽを何世代も切り続けて,しっぽのない子ネズミが生まれてくるのを待っている,といったバカにしたような記述を載せている。

シャロン・モアレム,ジョナサン・プリンス 矢野真千子(訳) (2007). 迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来るのか 日本放送出版協会 p.166-167
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風邪ウイルスに操作されている?

 たいていの人はくしゃみを症状だと思っている。しかし,そうともかぎらないという話をこれからしてみたい。ふつうのくしゃみというのは,鼻から入ってきた異物をそれ以上奥に入れないようはじき飛ばすという,生まれつき体に備わった防衛機構だ。しかし,風邪をひいたときに出るくしゃみはどうだろう?上気道の粘膜細胞にすでに入りこんでしまった風邪のウイルスは,くしゃみぐらいで追い出せるはずがない。この場合のくしゃみは全く別の意味をもつ。風邪のウイルスは人間のくしゃみ反射をどうすれば引き出せるかを学習し,それを利用してウイルスをあなたの家族や同僚,友人たちに広めようとしているのだ。
 そう,くしゃみはたしかに症状だが,風邪をひいたときに出るくしゃみはあなたを守るためではなく,ウイルスの利益のための反応だ。僕たちは感染症にかかったときに出るさまざまな反応を症状だと思っているが,それは人間に取りついた細菌やウイルスが,つぎの宿主に乗り移るための手助けをするよう宿主操作をした結果なのかもしれない。

シャロン・モアレム,ジョナサン・プリンス 矢野真千子(訳) (2007). 迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来るのか 日本放送出版協会 p.139


有機栽培の欠点

 有機農業がときに諸刃の剣になることを説明するには,セロリがいい例になる。セロリはソラレンという物質を作って防衛している。ソラレンはDNAや組織を傷つける毒で,人間にたいしては皮膚の紫外線への感受性を高める性質をもつ。ただしこの毒は,日光を浴びてはじめて活性化する。ある種の虫はこの毒を避けるために,自分の体を葉でくるんで日光に当たらないようにして,暗闇の中で数日間をすごしながら葉を存分に食い荒らしたあと,お腹を膨らませて外に出てくるという。
 あなたがボウル一杯のセロリスープを飲んだあとにコレステロールを下げるために日焼けサロンに行くというのでもないかぎり,家庭菜園のセロリやスーパーで買ってきたセロリを心配する必要はない。ソラレンが危害をあたえるとすれば,長期にわたって大量のセロリを取り扱う人間にたいしてだ。セロリの収穫にたずさわる人の多くは皮膚炎を起こしている。
 セロリの特徴は,自分が攻撃されていると感じると急ピッチでソラレンの大量生産をはじめることだ。茎に傷が入ったセロリは無傷のセロリにくらべて100倍ものソラレンが含まれている。合成殺虫剤を使っている農家というのは,基本的には植物を敵の攻撃から守るためにそれを使っている(もっとも,殺虫剤を使うことでさまざまな別の問題も生み出しているわけだが,それについてはここでは割愛する)。有機栽培農家は殺虫剤を使わない。つまり,虫やカビの攻撃でセロリの茎が傷つくのをそのままにして,ソラレンの大量生産を野放しにしていることになる。殺虫剤の毒を減らそうとあらゆる努力をしている有機農家は,結果的に植物の天然の毒を増やしているというわけだ。
 いやはや,生き物の世界は複雑だ。

シャロン・モアレム,ジョナサン・プリンス 矢野真千子(訳) (2007). 迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来るのか 日本放送出版協会 p.114-115.

アフリカ系アメリカ人が塩分に弱い理由

 塩分のとりすぎは血圧を上げるという話を,あなたも耳にしたことはないだろうか。この話はとりわけアフリカ系アメリカ人によく当てはまる。アフリカ系アメリカ人の血圧は,非常に塩に反応しやすいのだ。最近では「塩分」もまた悪者あつかいされているが,塩は体内の化学反応にはなくてはならない物質だ。塩は体液バランスを整え,神経細胞の機能を調節する。人間は塩なしに生きてはいけない。しかし,血圧が塩に反応しやすい人が塩分の高い食生活をしていれば高血圧になる。
 奴隷貿易でアフリカ人がその意に反してアメリカに連れてこられたとき,その移送状態は想像を絶するひどいものだった。食べ物をあたえられないどころか,十分な水さえあたえられなかった。アフリカ人はどんどん死んでいった。その中で,たまたま生まれながらに体内の塩分濃度を保つことができる人は生き延びた。体に余分な塩があったおかげで致命的な脱水症状に陥らずにすんだからだ。こう考えると,奴隷貿易はアフリカ系アメリカ人に塩分保持能力を高める「不自然な」淘汰を強いたことになる。その子孫が現代の塩分の多い食生活に接すると,あっというまに高血圧になる。

シャロン・モアレム,ジョナサン・プリンス 矢野真千子(訳) (2007). 迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来るのか 日本放送出版協会 p.90

人種

 これは簡単に答えの出る問いではない。まず,人種という言葉が何を意味するか,明確な合意がない。遺伝子的観点からも,皮膚の色はあてにならないとわかっている。移住した先で新しい環境に合わせて皮膚の色が変わることは先ほども説明した。また
最近の遺伝子研究によれば,北アフリカの人は肌の色こそアフリカ中央部や南部の人に似ているが,遺伝子的には薄い色の肌をしたヨーロッパ人に近いらしい。
 一方,ユダヤ人は,金髪に青い目だろうと黒髪に黒い目だろうと,ユダヤ人にしかない遺伝子を共有しているようだ。これも最近の遺伝子研究でわかったことだ。ユダヤ人は宗教的な伝統を維持するために自分たちを3つのグループに分けている。そのグループは,それぞれの祖先が聖書のどの部族にあたるかが基準になっている。コーヘンは,モーセの兄で初代の大司祭アロンを先祖とする司祭一族のメンバー。レヴィは,代々神殿に奉仕していたレヴィ族の子孫。その他の12の部族の子孫は単にイスラエル人(びと)と呼ばれる。
 コーヘンとイスラエル人のDNA標本を多数集めて比較をした研究グループは,その結果に驚いた。コーヘンの人たちは世界中に散らばっているにもかかわらず,コーヘンの人に共通する独特の遺伝子はほんの2,3人の男性から子孫に伝えられたものだとわかったのだ。DNAを採取したコーヘンの集団にはアフリカ出身の人もアジア出身の人もヨーロッパ出身の人もいて,外見は,白い肌に青い目の人から褐色の肌に茶色い目の人までさまざまなのだが,ほとんど全員がひじょうによく似たY染色体をもっていた。この結果だけでも驚きだが,研究グループはさらに,コーヘンの最初の2,3人の遺伝子が生きていた時代まで推定することに成功した。それはいまから3180年前だという。出エジプトとエルサレムの第一神殿破壊のあいだ,もっと正確に言えば,大司祭アロンが大地を歩いていたころである。

シャロン・モアレム,ジョナサン・プリンス 矢野真千子(訳) (2007). 迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来るのか 日本放送出版協会 p.86-87.

鉄は体にいい・・・?

 鉄は体にいい。鉄は体にいい。鉄は体にいい。
 しかし,世の中にある「よい」ものがすべてそうであるように,鉄もまた「適度」でなければならないということを,みなさんもおわかりになったことだろう。ところがつい最近まで,医学界はそのことに気づいていなかった。鉄は体にいい,多ければ多いほどいい,と勝手に信じていた。
 医者のジョン・マーレーとその妻はソマリアの難民キャンプで働いていたとき,あることに気がついた。当地の遊牧民の多くは貧血症であるにもかかわらず,またマラリアや結核,ブルセラ症など毒性の強い病原体に何度もさらされているはずなのに,そうした感染症にかかっていないようなのだ。マーレーは首をかしげながらも,きっと単なる偶然なのだろうと片づけた。そして,感染症ではなく貧血症の治療をしようと遊牧民の貧血患者に鉄補給剤をあたえた。すると,あっというまに遊牧民たちに感染症が広がった。鉄を補給された遊牧民への感染率が爆発的に増えたのだ。つまり,ソマリアの遊牧民は貧血にもかかわらず感染症にかからなかったのではなく,貧血のおかげで感染症にかからずにすんでいたのだ。彼らの体内では,鉄封じ機能がフル回転していた。
 35年前,ニュージーランドの医者たちは,先住民族のマオリ人の赤ん坊に日常的に鉄補給剤を注射していた。医者たちにしてみれば,マオリ人の食生活は栄養不良で鉄分不足だから赤ん坊が貧血症になるのだと考えた。
 ところが鉄を補給されたマオリ人の赤ん坊は,敗血症や髄膜炎など下手をすれば死に至る感染症に7倍も多く感染するようになってしまった。敗血症の赤ん坊も,体内で有毒な細菌に鉄をあたえないようそれなりのコントロールをしていたのに,医者が赤ん坊という「細菌のエサ」を外からあたえてしまったために,悲劇が起きたのだ。

シャロン・モアレム,ジョナサン・プリンス 矢野真千子(訳) (2007). 迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来るのか 日本放送出版協会 p.40-41

ガレノスにもとづく瀉血

 瀉血は,史上最古の医学治療の1つで,これほど長く,複雑な歴史を持つ治療法は他にない。もっとも古いところでは3000年前のエジプトの文献に記録が残っている。19世紀にピークを迎えたが,その後100年で急速に評判を落とし,「野蛮な治療」の代名詞となった。2000年前にもシリアの医者がヒルを使って患者を血を吸わせていたというし,12世紀エジプトのアイユーブ朝のスルタンは,有名なユダヤ人医師マイモニデスに瀉血をほどこしてもらっている。アジアやヨーロッパ,アメリカの医師や治療師は,先を尖らせた棒やサメの歯,小型の弓矢などさまざまな器具を使って,患者の皮膚や血管を開いて放血させた。
 西洋社会では,この療法は1世紀のギリシャ人医学者ガレノスが唱えた「血液,黒胆汁,黄胆汁,粘液の4種類の体液説」から生まれた,ガレノスとその後継者たちは,あらゆる病気はこの4種類の体液バランスが崩れたときに起こるのだから,絶食や胃腸の浄化,瀉血で体液バランスをもとにもどしてやるのが医者の仕事だと考えた。

(注:ガレノスは紀元129年頃生まれなので,1世紀ではなく2世紀である。)

シャロン・モアレム,ジョナサン・プリンス 矢野真千子(訳) (2007). 迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来るのか 日本放送出版協会 p.37

同種殺し

だから,私たちに最も近い親類たちでも恐ろしい振る舞いに加わっているわけである。ウィリアムズの指摘によれば,これまで注意深く研究されてきた哺乳類のいかなる種においても,そのメンバーが同種の個体殺しに加わる割合は,アメリカのどんな都市で測られた最高の殺人発生率よりも,数<千>倍も大きいのだという。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.640

カエル,ハエ,ペレット

 科学者たちが,いまにも絶滅しそうな,ハエをとる種類のカエルの小集団を集めて,保護的な管理下にある新しい環境へ入れたとしよう。そこにはハエはまったくいずに,代わりに,飼育員が定期的に,カエルの目の前に餌の小さなペレットを投げ与える,特別なカエル動物園であったのである。うれしいことに,それはうまくいった。カエルは舌を伸ばしてペレットをとらえることで育ち,やがて,一生の間ずっとペレットだけで一度もハエを見たことがない,子孫のカエル一群が得られた。<そのカエルの>眼は脳に何を伝えるのか。もし,意味は変化していないのだと主張すると,面倒な事態になる。というのは,これは,自然淘汰に常に起きていることを人工的に明瞭にした事例だからである。つまり,外適応である。ダーウィンが苦心して思いださせてくれたように,新しい目的に向けてのからくりの再利用は,「母なる自然」が成功したことへの秘訣のひとつなのだ。私たちは,さらに説得を望む人には誰にでも,次のような示唆によって肝心な点を十分に理解させることができる。管理されたカエルは,眼のペレット検知能力の違いによって,ある個体は十分に食べられず,結果として子孫を残せないことから,全員がみな同じように申し分なく生きているわけではない。てっとり早くいえば,ペレット検知に向けた淘汰が紛れもなく働き続けてきたはずなのだ。もっとも,ペレット検知と「みなせる」に十分なものがうまれたのはいつなのかと問うことは,誤りではあろうが。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.541

火星人は人為淘汰か自然淘汰か読みとれるか

簡単な思考実験を1つしてみよう。「火星人」の生物学者に,産卵用ニワトリとペキニーズと納屋ツバメとチータを送って,どのデザインに人為淘汰の痕跡があったか決めてもらうのだと仮定してみよう。彼らは,何に頼り,どういうふうに議論するだろうか。彼らは,ニワトリが卵を「正しく」世話していないことに注目するかもしれない。つまり,ある種のメンドリは,就巣本能を品種改良されているので,人間が用意した孵化器がなければ絶滅してしまうからだ。あるいは,ペキニーズは,かわいそうに劣悪な条件下にあって,想像できるかぎりの過酷な環境の中で育ったのだという注目の仕方をするかもしれない。一方で,ツバメが軒下のような作られた場所を巣の場所として生まれつき好んでいることは,彼らを誤らせて,ツバメがペットの一種だという考えに導くかもしれないし,チータは野生の生物なのだと確信させてくれるあらゆる特徴が,グレイハウンドにも見出された結果,結局それらは,品種改良家たちによって忍耐づよく促進されてきたと私たちが知っている特徴と同じではないかとされてしまうことも,ないとはかぎらない。結局,人工的な環境も,それ自体,自然の一部であるのだから,ある生体がつくられた実際の歴史についてのインサイダー的な情報がないのに,その生物体が人為淘汰の対象であったことが明らかに読みとれるといった徴しなど,<まず>あろうはずもない。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.423

真相は両方のミックスにあるのだ

思いだしていただきたいが,ニーチェはこう考えていた。もしテープをリプレイしつづけたら,ものごとは何度も何度もそっくり繰り返し起こるという考えほど恐ろしく,世界破滅的なものはない。この永遠回帰(永久反復)こそ,かつてないほど病的な観念だ。ニーチェは,この恐ろしい真実に対して「然り!」と言えるように人々に教えるのが自分の仕事だと考えていた。一方グールドは,人々がこの観念の否定に,つまりはテープをリプレイしつづけても,反復は<けっして>起こらないという事実に直面したら,彼らの恐怖をやわらげてやらねばと考えているのだ。どちらの命題も同じように信じがたいものなのか。より悪いのはどっちだろう。ものごとは何度も何度も繰り返し起こるのか,それともものごとは二度と再び起こらないのか。まあ,ティンカーなら,こう言うところだろう。「どっちにしても,否定はできない。また事実,真相は両方のミックスにあるのだ。つまり,僕のチームメイトのチャンスとエヴァースにひっかけていえば,少しの偶然(チャンス)と少しの繰り返し(エヴァー)のミックスにね。好き嫌いはともかく,これがダーウィンの危険な思想なのさ。」

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.412

ダーウィン流進化論の根本原理

 自分がこうして生を受けているのはなんて幸運なんだろうかと,考えたことはあるだろうか。かつて現れたすべての生物の99%以上は子孫を残すことなく死んでいる。あなたの祖先にあたる人は誰一人この負け組には入っていないのだ。何たる勝者の家系の出か。(もちろん同じことが,フジツボや草やハエにもいえるのだが。)しかし実態はもっと不可解なのである。進化というのは不適格者を除外することで働いていると私たちは習ってこなかっただろうか。そのデザイン上の欠点のために,こうした敗者は「自分と同じものを複製する前に死んでしまうという,哀れだが称賛に値する傾向にある」(Quine, 1969, p.126)。これがダーウィン流進化論の根本原理である。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.288

変種と種の違い

 ダーウィンによれば,「変種と種の違いは何だろう」という類いの問いは,「半島と島の違いは何だろう」という種類の問いに当たる。満潮時に半マイル沖合に島が見えたとしよう。干潮時に足を濡らさずにそこまで歩くことができても,それはまだ島なのだろうか。そこまで橋を架ければ,島であることを止めるのだろうか。道を作ったらどうだろう。半島を横断する運河(コッド岬運河のような)を掘れば島に変えられるのだろうか。ハリケーンが来て掘削の仕事をしてくれるのだとしたらどうだろう。この種の探求は哲学者のお手の物である。それは定義に憂き身をやつしたり本質の探究をするソクラテス的活動,つまりXであるための「必要十分条件」の探求なのだ。ときには,ほとんどすべての人々が,そうした探求自体が無意味なのだと得心できるケースもある---島は明らかに実在的な本質を持ってはおらず,せいぜい唯名的な本質を持っているに過ぎないからだ。だが,またときには,答えることを必要とする深刻な科学的問題がやはり存在するように思われるケースもあるのだ。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.133

メンデルの単純化

ダーウィンは,遺伝子という必須不可欠な考え方にはまったく思い至らなかったが,メンデルの概念が登場して,遺伝を数学的に了解(して,遺伝的性質を混合するというダーウィンのうんざりするような問題を解決)するためにピッタリな構造を提供してくれた。そうして,DNAが遺伝子の実際の物理的基体であることが分かったとき,はじめは,メンデルの遺伝子がDNAの特定の塊と単純に<同一視>できるかに見えた(いまなお多くの関係者にはそう見えている)のだが,その後,複雑な事態が出現し始めた。科学者がDNAの現実の分子生物学や,複製におけるDNAの役割を学べば学ぶほど,メンデルのストーリーは,どんなに良く見ても,とてつもない単純化のし過ぎだということがますますはっきりするからだ。最近になって分かったことだが,メンデル流の遺伝子など実際にはどこにも<存在しない>のだ,とまで言い出す人も出てくるだろう。メンデルの梯子を登ってしまったら,もうそんなものは,お払い箱にしたらよい。とは言え,今なお何百もの科学的,医学的コンテクストのなかで日々底力を発揮しているのだから,こんなに価値ある道具を投げ捨てたいとおもう人などいるはずはない。解決法は,メンデルを一段上にあげて,メンデルもまたダーウィン同様遺伝的形質についての<抽象的な>真理を捉えたのだと宣言することである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.80

確率と進化アルゴリズム

 現実のどんな競技においても技術とツキは当然,不可避的に混じり合っているが,その比率には大きな幅があるだろう。非常にでこぼこのコートのテニスのトーナメントでは,ツキの比率が高くなるだろう。それはちょうど,第1セットの終了後,試合を継続する前に弾丸が充填されたリボルヴァーでロシアン・ルーレットをするよう選手に要求する,新ルールのようなものだろう。だがそうしたツキに支配された競争においても,統計的に秀れた選手の多くは,やはり後半のラウンドまで進むことが<多い>だろう。結局は技術の違いを「判別する」トーナメントの力も,偶然の大異変によって減少してしまうかもしれないが,一概に言えばゼロにまでなることはない。この事は,スポーツの選抜トーナメントについても,自然における進化のアルゴリズムについても,同じように当てはまるが,ときに進化の注釈家はこれを見逃してしまう。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.75

存在と不在

 「輪郭あざやかな」種は確かに存在するが,--その起源を説明することがダーウィンの書の目的である--ダーウィンは種という概念の「原理的な」定義を見出そうとする私たちの努力に水をさす。ダーウィンの一貫した主張によれば,変種というのはまさに「発端の種」のことであり,普通2つの変種を2つの種に変えるものは,何かの<存在>ではなく(たとえば,それぞれのグループにとっての何か新しい本質),何かの<不在>である。つまり,かつてはそこに存在していたもろもろの事例の不在である。要するに,かつては必要な踏み石と言ってもよかったものが最終的には絶滅してしまって,<実際には>それぞれ形質も違えば生殖的にも隔離されている2つのグループが,あとに残ったのである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.62

お変わりありまくり

 よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき,「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが,半年,あるいは1年ほど会わずにいれば,分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて,お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。
 肉体というものについて,私たちは自らの感覚として,外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし,分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は,たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも,それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり,常に分子を外部から与えないと,出ていく分子との収支が合わなくなる。


福岡伸一 (2007). 生物と無生物のあいだ 講談社 p.162-163.

絶え間のない分解と合成

 私たちは,自分の表層,すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる。しかし,置き換わっているのは何も表層だけではないのである。身体のありとあらゆる部位,それは臓器や組織だけでなく,一見,固定的な構造に見える骨や歯ですらもその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。


福岡伸一 (2007). 生物と無生物のあいだ 講談社 p.161.

人種間の変異は

 ダーウィンは,ヴィクトリア朝時代のすべての人間と同じように,人類に見られる差異を強く意識していたが,彼の同時代のほとんどの人間よりもよりいっそうヒトという種の根本的な均一性を強調した。『由来』において,「さまざまな人種は別種とみなすべきだ」という彼の時代にかなり好まれていた考え方を慎重に考察し,断固としてそれを退けた。現在では,人類は遺伝しレベルで,十二分に均一なことがわかっている。全世界の人類集団のあいだの遺伝的変異よりも,アフリカの小さな地域内のチンパンジーのあいだに見られる遺伝的変異のほうが大きいと言われている(人類が過去数十万年のあいだに隘路(ボトルネック)を通過してきたことを示唆している)。さらに,ヒトの遺伝的変異の大多数は人種間ではなく,人種内に見られる。これが意味するのは,1つの人種を除くすべての人類が消滅させられたとしても,ヒトの遺伝的変異の大部分は残るだろうということである。人種間の変異は,すべての人種内にある大量の変異のてっぺんに載せられたほんのちょっとの付け足しなのである。これこそ,多くの遺伝学者が人種という概念を完全に放棄するように提唱する理由なのである。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.139.

獲得形質の大部分は破損

 獲得形質にまつわる問題は基本的にこうである。獲得形質を遺伝するのはまことに結構なことなのだが,すべての獲得形質が改善とはかぎらない。実際,獲得形質のほとんど大部分は損傷である。獲得形質が無差別に遺伝されるのであれば,あきらかに進化は一般的な適応的改善の方向には進まない。折れた足や疱瘡の跡も,固くなった足の皮膚や日焼けした肌と同じように次の世代に伝えられてしまう。どんな機械でも,古くなってから獲得した特徴の大部分は,時間の経過により積もり積もった破損によるものであろう。つまり,それはくたびれていく傾向にあるのだ。かりにそうした特徴がある種の走査過程によって寄せ集められ,次世代の設計図に織り込まれれば,あとに続く世代はしだいにがたがたになっていくはずである。新たな設計図を携えて新規まきなおしをはかるのではなく,各世代は全世代に累積した衰えや損傷でじゃまされ,その傷跡を背負って新生活をはじめることになるのだ。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 p.472.


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