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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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海でも

 頂点捕食者の衰退は海にも及び,大型の海の捕食者は,食べ物をめぐって競いあうどころか,自分が食べられる立場になった。
 ニシマダラはニューイングランド一体の発展を支えた魚であり,西大西洋諸国にとって通貨に等しかった。かつては2メートル近い怪物が群れをなして泳ぎ,数も非常に多く,1497年には海洋探検家のジョン・カボットが,バケツですくえばいくらでも獲れる,と記している。しかし,1920年代にバケツと釣り針の代わりにトロール網が使われるようになると,タラは姿を消しはじめた。1960年代までに北欧の海からカナダのグランドバンクスやメイン湾まで,タラという資源は枯渇し,タラに依存する経済は破綻した。現在,限られた場所ではまだ漁が成り立っているが,水揚げされるタラの平均的な大きさは30センチそこそこだ。
 大西洋のクロマグロは,体重500キロ,最高速度が時速80キロに達する雄々しい魚雷である。大洋をいくつも横断し,パワフルに突進して小魚を捕らえるが,最後には冷凍された厚板となって,東京の大規模な魚市場で寿司ネタとして売られる。極上のクロマグロ1本の市場価格は,ときに6万ドルにもなる。30年前は西大西洋に約25万匹いたが,現在は2万2000匹程度しかいない。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.79-80
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生食は時間がかかる

 なぜなら,生のものを食べるのには時間がかかりすぎるのだ。大型類人猿からその時間を推定してみよう。彼らはたんに体が大きいことから——体重30キロ(66ポンド)以上——多くの食物を必要とし,咀嚼の時間も長くかかる。タンザニアのゴンベ国立公園にいるチンパンジーは1日に6時間以上,食物を噛んでいる。食物のほとんどが熟した果物であることを考えると,6時間は長いと思われるかもしれない。たしかにバナナやグレープフルーツはたやすく呑みこめるので,チンパンジーは近くに住む人間が作った果樹園をよく襲う。しかし,野生の果物は栽培種よりはるかに不便だ。森林の果物の果肉は物理的に固いことが多く,皮や膜や毛をまず取り除かなければ食べられない。果肉が皮や種から完全に離れ,価値ある栄養素を吸収できるほどつぶされるまでに長い時間がかかる。チンパンジーにとって次に重要な食物である葉もやはり固く,小さくして効率よく吸収するために長時間噛まなければならない。ほかの大型類人猿(ボノボ,ゴリラ,オランウータン)も同じく,食物を噛むのに長い時間を費やす。霊長類では咀嚼に費やす時間が体の大きさと相関しているので,ヒトが大型類人猿と同じ食物を生で食べる時に要する咀嚼時間を見積もることができる。それは控えめに言って1日の42パーセント,12時間起きているとして5時間あまりだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.137-138

生の肉は食べにくい

 また,チンパンジーの観察からわかったことだが,類人猿の顎にとっても,手を加えていない肉は食べにくい。獲物の肉を懸命に噛むが,それでも消化されなかった肉片が糞のなかに混じることがある。この重労働と非効率のためか,ふだんつねに旺盛な食欲を示す肉をあえてあきらめることもあるくらいだ。1,2時間噛んだあと,残った肉を捨てて休息したり,代わりに果物を食べたりする。ウガンダ,キバレ国立公園内のカニャワラのチンパンジーは,ときに獲物の筋肉に歯を立てることもなく,肉食の機会をみずから放棄してしまう。私は一度,ジョニーという名のチンパンジーがそうするのを見たことがある。いつもはオナガザル科のアカコロブスを盛んに狩っていて,このときも動物性タンパク質に飢えていたようだったが,幼いアカコロブスを1匹殺し,地上におろして腸だけ食べると,死体をほかのチンパンジーの目につかないところに放置した。そしてすぐ木の上に戻り,たちまち別の幼いアカコロブスを捕まえて同じことをくり返した——地上におろし,腸を食べ,残りを放っておいた。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.117

タンパク質のとりすぎは禁物

 ヒトは炭水化物(植物から得られる)か脂肪(少数の動物から得られる)のどちらかを大量に必要とするので,植物は生命維持に不可欠の食物だ。炭水化物も脂肪もなければ,エネルギー摂取をタンパク質に頼らなければならない。過度のタンパク質摂取は中毒症状を引き起こす。タンパク質中毒の症状には,有毒レベルの血中アンモニア,肝臓や腎臓の機能障害,脱水症状,食欲不振などがあり,究極的には死に至る。そうした悲惨な結果を,北極圏での体験にもとづいてヴィルヒャルマー・ステファンソンが書き記している。収穫が少ない季節になると,脂肪がほとんど手に入らず(もとより植物はない),食事のなかでタンパク質が支配的な多量要素となる。“脂肪がふつうにある食事から急に赤身だけの食事に切り替えると,最初の数日で食べる量がどんどん増え,1週間ほどたつと重量にして当初の3倍から4倍の肉を食べている。そのころには飢餓とタンパク質中毒の症状を呈している。立てつづけに食事をとり,食べ終わるたびに空腹を感じ,大量の食物で不快な膨満感があり,気持ちが落ち着かなくなってくる。1週間から10日で下痢が始まり,脂肪をとるまでそれが治まらない。そして数週間で死が訪れる”
 ヒトにとって安全なタンパク質摂取の上限は,全カロリーの50パーセント前後なので,残りのカロリーはクジラの脂のような脂肪か,果物や草の根のような炭水化物から得なければならない。北極圏やティエラ・デル・フエゴ(訳注—アルゼンチンとチリのあいだの群島)のような緯度の高い地域では,脂肪が格好のカロリー源となる。海生哺乳類が寒さから身を守るために分厚い脂肪層を発達させているからだ。しかし,熱帯の哺乳類の体脂肪率はそれよりはるかに低く——平均4パーセント程度——骨髄や脳のように脂肪の多い組織はつねに量がかぎられている。つまり,赤道付近にいたわれわれの祖先は,残りの必須のカロリーを植物から得るしかなかった。熱帯の狩猟採集民に植物は欠かせない。毎年の乾季など食料が不足する時期には,肉の脂肪率はとりわけ下がって1,2パーセントになる。そういう時期に植物から得られる炭水化物はことのほか重要なのだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.50-51

口の小さな類人猿

 ミック・ジャガーがどれほど大きなあくびをしても,チンパンジーの大きさには敵わない。口が内臓への入り口であることを考えると,この大きさの種としてヒトの口は驚くほど小さい。大型類人猿はみな前方に突き出た口(突顎)を持ち,顎も大きく開く。チンパンジーはものを食べるときに,口をヒトの2倍の大きさまで開けることができる。あなたもいたずら好きのチンパンジーにキスをされれば,このことを思い知るだろう。霊長類のなかで一並みに小さな口を探すなら,体重1.4キロ(3ポンド)以下のリスザルといった小型種にたどり着くしかない。開口部が小さいだけでなく,私たちの口は容積も小さい——体重はチンパンジーより約50パーセント多いのに,口腔の容積はチンパンジーとほぼ同じだ。動物学者はよくヒト属の本質的な特徴を,体毛が薄く,二足歩行で,脳が大きい類人猿としてとらえようとするが,口の小さな類人猿と定義してもいいくらいだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.43-44

肉食の類人猿

 これまで何百もの狩猟採集民の文化が記録されているが,そのすべてにおいて,肉食が食生活の重要な部分を占めている。摂取カロリーの半分を肉から得ていることも多い。200万年以上前に動物を殺していたハビリスにとっても,肉は同じくらい重要だったことがわかっている。他方,彼らに先行するアウストラロピテクスが,チンパンジーと同じく異なる捕食行動を取っていたことを示す証拠はほとんどない。。チンパンジーは機会さえあれば,サル,子豚,レイヨウの子などを捕らえるが,肉をまったく食べずに数週間,長いときには数カ月すごすこともある。霊長類のなかで私たちだけが熱心な肉食動物であり,大型獣を殺して肉を取るのだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.7

高地だからこそ

 アフリカ高地でしか裸の人間は成立しなかったと,私は考えている。アフリカの低地にはマラリアがある。それは,現代でもひとつの村を全滅させる。だから,低地で裸の人間が生まれても,生き残る確率は非常に少なかったはずだ。しかし,高地ではマラリア蚊は少ない。
 20万年あるいは30万年前の現代人の始まりから,ヨーロッパへの進出までの長い時間について考えると,アフリカ高地からの進出がなんらかの理由で難しかったのだと,考えないわけにはいかない。同じ時期のアフリカに生きていたホモ・エレクトゥスの子孫たちやヨーロッパから近東にいたネアンデルタールたちとの生活圏を巡る争いには,現代人の祖先は耐えることができただろう。
 だが,マラリア蚊などの昆虫が媒介する熱帯病のために,毛皮のない現代人がアフリカ低地へ,さらにはナイル川の低地帯をたどって中近東へ進出するのは,実質的に困難だっただろう。
 もしも,彼らにとって大きな事件が起こらなかったら,まだしばらくはアフリカ高地だけの,たとえばヒヒ類の分布域の中に,エチオピア高原だけに分布するゲラダヒヒのように,現代人は孤立したままだったかもしれない。
 しかし,7万年前に好機が訪れる。氷河期の到来である。ちょうどこの時に,衣類の起源があるのは,現代人がどこに向かったかを示している。つづく氷河期には,裸の人類はユーラシア大陸の寒帯にまで進出し,オーストラリアに至った。
 現代人の生活跡は,最終氷河期の最盛期には永久凍土のもっとも厳しい気候条件だったロシアでも見られるが,ネアンデルタールの生活跡はそこにはまったくない。ネアンデルタールは毛皮をまとった野生動物で,南ヨーロッパ,地中海沿岸分布種だったので,この厳しい氷河期の大陸内部で生き抜くことができなかった。
 逆説的だが,現代人は裸だったからこそ,この氷と雪に閉ざされた世界に生き抜くことができたのである。現代人はネアンデルタールと違って,密閉された家を造る能力も,家の中の温度調節をする能力もあったし,衣服を作る能力を持っていた。
 しかし,裸の現代人がネアンデルタールと直接対決するまでには,さらに4万年の年月が必要だった。この時になってようやく,現代人は肉体的には自分たちより強力で,知能も劣らないネアンデルタールを圧倒できる技術を開発していたと考えるほうがいい。それが,オーリニャック文化だった。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.251-253

裸になること

 裸になった哺乳類の例は,ふたつの事実を指し示す。
 第一に,それはありふれた現象ではなく,それぞれの分類群でまったく孤立した1回限りの例だということである。ヌードマウスの例は,裸化が突然変異によって現れる特例であることを,もう一度確認している。裸化はどの種にも起こる可能性はあるが,裸化だけではその種はほとんど生き残れない。
 第二に,体の体温と水分の調節をなんらかの方法で行う特別な環境をその動物が作っていることである。これは裸化の欠陥を補う重複する突然変異のおかげである。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.171

海中起源説の問題

 人類の海中起源説の問題点をまとめておこう。
 第一。海岸生活では毛皮を必要としないか?そんなことはない。毛皮のないクジラたちは完全な水中生活者であって,海岸生活者ではない。
 海中起源者たちが仮定するような,海岸,水辺で生活する獣で毛皮を失ったものはいない。たとえば,カワウソやアザラシを見よ。
 第二。水中で直立するか?人は誰でも泳ぐ時には水平になるのであって,直立はしない。水の深さが腰を越えると,体は浮力のために不安定になり,もっと深くなると,ついには浮き上がる。
 第三。髪は日焼け除けか?泳ぐ時には,頭だけでなく肩も水面上に出ている。だから,日焼けを防ぐなら頭から肩に毛をマントのように残さなくてはならない。そうすれば雨の日にも雨具はいらなかったのに,残念である。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.142-143

必要なのは網羅的記載

 この手の人は,論理的な矛盾は問題にしない。この手法では,論理的な整合性よりも,そこをぼんやりさせていることこそ望ましい。読み手の心の中に印象を作るのであって,説得するのではない。これが無意識下への刷り込み作業である。これが,サブリミナル手法である。この手の文章を書かせると,ライアル・ワトソンはダーウィンやグールドと同じようにうまい。どうも,うまい文章を作る欧米人は,同じ手法を使うと見える。
 だが,人類の海中起源説は,裸の哺乳類を網羅した時点で論破されている。つまり,獣の裸化は,水辺や水中生活の哺乳類だけに限ったことではないという事実である。海中起源説の論者は,意識して水中,海中,水辺だけに話を制限しているが,先に裸の哺乳類の例を挙げつくしたときにはっきりしたように,裸の哺乳類は地中生活者にも,空中生活者にも,そして陸上生活者にもいる。
 事実の完全な列挙や網羅は,事実の枠組みを教えてくれる。私はずっと,日本の教養に不足しているのは博物館であると言ってきた。それは博物館が,この機能を,実物標本の収集によって,果たすべきだからである。この意見がまともに取り上げられたためしはないが,事実がここからここまでの枠組みの中にあり,それ以外にはあり得ないという,生命にとっての決定的な知識を与えてくれるのは,完全な網羅的記載方法である。
 その視点からは,ワトソンもモーガンも失格である。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.139-140

適者生存

 「最適者は生き残る」
 最適者かどうかを,どこで判断するのか?
 「生き残っているから」
 こうして「最適者生存」セオリーは,最適者を判断する根拠と断言とが堂々巡りし,つまりは事実を追認するだけとなる。ダーウィンは,変異を語ってはいるが「種の起源」のどこにも「最適者」とは何かについての具体的な例もない。「最適者」概念はダーウィンにとっては自明だった。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.17-18

神経質になりすぎ

 個人の遺伝情報はきっちり保護されなくてはならない——これは他の医療データや個人データと同様だ——が,遺伝子検査が悪用される可能性に対する懸念は,現状においては,その効果を大げさに考えすぎていることから生じたもののようだ。コロンビア大学のジョセフ・ターウィリガーは「科学者がさまざまな方法でゲノムの情報を,あるいは少なくともゲノムについて知っていることを誇大宣伝しすぎたため,今や人々はゲノムが社会に与えそうな影響について,不必要なほど神経質になるに至っている」。遺伝子は運命ではなく,前兆や前触れはたいてい漠然としていて,人をだます場合もある。遺伝子の役割は,ヨハネス・ケプラーが星に与えたものと似ている。「人が誕生した瞬間の空の様相が,どのようにその人の性格を決めるのだろうか。農民が畑のカボチャの周囲に適当に結ぶひもの輪のように,生涯を通じてその人に働きかけるのだ。輪はカボチャを育てるわけではないが,その形を決める。同じことが空にも言える。空が人に癖や履歴,幸福,子供,富,あるいは妻を与えるわけではないが,その人の状態をつくり上げる」。占星術その他さまざまな形の予測と同様,遺伝子検査とカウンセリングは間違いなくおいしいビジネスになる。2003年の《ネイチャー・ジェネティクス》誌の記事はこう述べている。「遺伝子にまつわる予測力と神秘性,自分の健康を管理して病気を予防したいという消費者の願望,そしてインターネットで容易に検査を宣伝したり注文したりできる利便性が相まって,企業を遺伝子分析の開発と推進に駆り立てている。検査が実証されて有用と証明されたかどうかは関係ない」。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.235-236

本ではない

 意外に思えるかもしれないが,DNAは本のように読めるものではない。所詮は情報の連なり,1つの長文にすぎない。一連のDNAから羊のクローン作成を計画できるのなら,DNA配列から表現型を予測するコンピュータモデルを構築することもきっとできるだろう。驚異的な人間の発達——受精,胎芽,胎児,誕生という不変の段階を経る——でさえも,一連の細かい指示を実行しているかのように,反復可能な決まった経路をたどっているように見える。しかも多細胞生物の発達は「マスター分子」からの命令よりも,数多くの小さな局所の決定に負うところが大きい。接着分子と呼ばれる特定のタンパク質によって細胞が集まる,または互いにずれあうことで,組織や器官の形を決める表面やひだができる。生物学者のリチャード・ルウォンティンの言葉を借りれば,「どの段階でも,特定部位の細胞のさらなる動き,分割,分化を決めるのは細胞と組織の局所的相互作用であり,それがさらなる局所的相互作用につながる,といった具合で成体に達する」。このプロセスが機械的で,ある程度再現可能に思えるからといって,それが予測可能というわけではない。人生ゲームならば,同じ初期条件で2回始めたら,まったく同じように展開するが,そのことは将来を推測するうえで何の役にも立たない。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.226-227

単純化のしすぎ

 「特定の遺伝子が特定の病気を引き起こす」という統計に基づいた主張は,よくよく検討してみるとほとんどの場合,単純化のしすぎである,とわかるものだ。生物学者のデイヴィッド・S・ムーアは「完全で包括的なヒトゲノムについての地図といえども,ある特定の人の形質——もしくは病気——についての正確な予想はできないのだ」と書いている。パーキンソン病,自殺,同性愛の遺伝子はすべて発見されたが,さらなる実験によって話はもっと複雑であることがわかり,すぐにこれらの発見はなかったことになってしまった。遺伝は明らかに重要だ——そうでなければ動物のブリーダーは職を失うだろう——が,個々の遺伝子,あるいは限られた遺伝子のセットが,私たちの未来を確定するのではない。精神病のような複雑な疾病の分子的な根本原理を見つけることに夢中になるのは,たいていの場合,世界を単純な物理的原因で説明したいという文化的な願望の反映であるようだ。そのせいで私たちがもっと意味のある問題に取り組もうとしないのなら,そうした願望を持つこと自体,有害かもしれない。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.218-219

個人と集団

 一般的な集団において,ある遺伝子がある形質と統計的に関係があるからといって,その遺伝子がその形質を特定の個人に引き起こすということには必ずしもならない。データには大量のランダム変動やノイズも含まれているので,相関関係があるかどうかがまったくわからないことも多い。したがって,形質が30パーセント遺伝するとか,ある遺伝子が人に病気を発症させる確率は20パーセントであるなどと述べるのは,あまり意味がない。この問題を回避するために,遺伝学の研究は遺伝的な等質性が高い部分母集団,たとえばアイスランド人やアシュケナージ系ユダヤ人などに焦点を合わせることが多いが,得られた研究結果はその集団にとってのみ役立つということになる。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.218

母胎内環境

 子宮の中に安全にかくまわれている発育中の胎児でさえ,その時点の環境が母親の身体であっても,その環境の複雑な影響を受ける。1つの因子は胎内のテストステロンレベルで,これは神経系の発達に作用し,胎児の性別に影響される。テストステロンレベルの高さは自閉症,免疫抑制,および攻撃性と緩やかに相関している。明るい面としては,その作用を受けた者は音楽と数学が得意な場合が多い。胎内のテストステロンは指の長さを制御する遺伝子の発現にも影響する。女性の場合,薬指と人差し指はたいてい同じ長さだが,男性の場合は右手の薬指はたいてい人差し指よりも長い。したがって,指の長さは前述の形質の弱い予測因子だが,その相関はあまりにも弱いので,特定の個人についてそこに何かを読み取ろうとするのは意味がない(とはいえ,ある種のピュタゴラス学派的な論理はある。男性の右手のまっすぐな指は,音楽と数学と攻撃性に結びつく)。胎内のテストステロンレベルは母親と発育中の子の対話の一分なので,それが生まれか育ちかと問われれば,どちらとも決めがたい。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.216

無限の組み合わせ

 すぐに驚きの声が上がったことの1つが,ヒトゲノムに遺伝子が約3万しかないことだった。回虫には1万9000,酵母菌でさえも6000ある。ヒトについての大方の推定では,単にプライドのためかもしれないが,10万以上とされていた。そんなに少ない遺伝子で,どうしてこれほど複雑なものが生まれるのか。実は重要なのは遺伝子の数ではなく,遺伝子がどう組み合わさって発現するかであり,その方法は本質的に無限にある。人類の多様性に関係している遺伝子はさらに少ない。発見されたものの93パーセントは共通なので,個人で異なる遺伝子は2000ほどにすぎない。しかしそれでも,同じ遺伝子を持つ人間が一卵性双生児以外はいないことを保証するには十分すぎる数である。たった10桁の電話番号でも,地球上のすべての人に固有の番号を割り当てるのには十分なのと同じだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.210

ゴルトンとメンデル

 近代の遺伝学的予測の物語は,1922年生まれの2人の人物によって幕を開ける。ヴィクトリア朝の博識家サー・フランシス・ゴルトンと,オーストリアの修道士グレゴール・メンデルだ。科学的予測の方法は基本的に2通りある。1つは,過去のデータに統計的パターンを探し,それが続くと予測する。これはサー・ギルバート・ウォーカーはエルニーニョ現象のパターンを見つけるのに使った方法であり(ただし,この場合の予測はかなり難しいことがわかったが),とくに財政金融学でよく用いられている。科学者は予測したあと因果関係の説明を求めて過去にさかのぼることがあるが,そうすると,一見もっともらしいが単純すぎる,あるいは間違っている説明を押しつける危険がある。もう1つは,物理的原理から引き出される数学モデルを用いる方法だ。メンデルの研究の基礎は,最も単純な形質を調べることだった。その研究は当時ほとんど知られていなかったし,評価もされていなかった——ゴールトンはあとから知ったが,あまり注意を払わなかった——が,最終的に一種の生命物理学につながっている。人間の知性のような複雑な形質に関心を抱いたゴルトンは,データ主導アプローチのパイオニアとなった。彼の研究はそのようなアプローチの,効果のみならずリスクまでも示す好例である。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.194

性的な「同化吸収」

 今日の南アメリカでは,アフリカ人の存在は誰の目にもはっきりとわかるが,ヨーロッパ人移民が残した奥深い影響はあまりよく知られていない。コロンビア国内で実施された遺伝子調査によると,南アメリカや中央アメリカのスペイン植民地では,ヨーロッパ人男子のDNAが圧倒的に優勢で,父系で継承されるY染色体の94パーセントがヨーロッパ人に起源を持つ研究結果が示された。またこれに対し,コロンビアで発見されたアメリカインディアンのmtDNA——母系のDNA——に多様性が認められたことについて,現代遺伝学の父と呼ばれるジェームズ・D・ワトソンは,「侵略してきたスペイン人はみな男で,彼らは現地の女性を妻とした。アメリカインディアンのY染色体が実際にはほとんど存在しないという事実は,植民地の悲劇的な大量殺戮を物語っている。先住民の男子は抹殺され,女子が征服者によって性的に「同化吸収」された,ということだ」と結論づけた。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.28-29

遺伝子では足りない

 遺伝子がコンピュータのシリコン・チップの設計図のように脳のニューロンの結合を決めるというのはもっともらしく聞こえるが,数学的には不可能だ。新ミレニアムの初めに完成に近づいたヒトゲノム・プロジェクトによって,人間には約3万5千個の遺伝子があることがわかった。このうち半分が脳に関与し,神経伝達物質を合成したり受容体をつくったりしているらしい。だが,先にいったとおり,脳には億単位のニューロンがあって兆単位の結合ができている。ひとつの遺伝子がひとつの結合を担当するとすれば,黄色ナメクジの脳程度にもならないうちに遺伝子が足りなくなる。遺伝子の欠陥といってもいい。シナプスが多すぎ,遺伝子が少なすぎるのだ。わたしたちのDNAは,人間の脳の配線図をつくるほど豊富ではない。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.118
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

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