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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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社会化の3対象

 イヌはまず,自分がイヌであることを知る必要があります。イヌは自分が所属する社会の中で,イヌとしてどうふるまえべきかを学ばなければなりません。その最初の学びの場は,同じときに生まれたきょうだいとの接触です。子イヌたちは遊びを通してコミュニケーションの方法を身につけていくのです。
 また同時に,人間と接することで,人間社会の中でどうふるまうべきかを学ぶ必要があります。それだけではありません。ネコや(地域と環境によっては)馬,牛,羊などの家畜ともうまくやっていけるようになることが,人間から期待されます。伴侶動物としてのイヌは,この3つの対象に対して,社会化されなければならないのです。

堀 明 (2011). 犬は「しつけ」でバカになる:動物行動学・認知科学から考える 光文社 pp.69
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専門家がいても解決できない

 近年,各地にドッグランが設営されるようになりました。イヌたちの交流の場が増えることは歓迎すべきですが,一方で,そこではイヌどうしのトラブルが頻発していると聞きます。その主な原因の一つは,まさに「すり込み」にあるのです。
 「おかしいな,前は他のイヌと仲良く遊んでいたのに,どうしてけんかするんだろう?」。イヌが1歳を過ぎた頃,こんなことを口にする飼い主がいます。その通りです。子イヌのときはうまくやれても,社会化されないまま成長すれば,間違いなく他のイヌとトラブルをおこすようになります。これには生態学的な根拠があるのです。
 おとなのイヌ(特に雄)は,子イヌにはすこぶる寛容です。これにはフェロモンが関与しています。子イヌの体に鼻をつけ,匂いを嗅いでみてください。ミルクをうすめたような独特の匂いがするはずです。子イヌ時代には,まだ成犬のような性フェロモンが分泌されていないので,このような匂いがするのです。しかし成熟期の時期を迎えると,一変します。
 イヌとしての適切なすり込みを終えたという“約束手形”を持っていないイヌは,イヌ仲間からすぐに見破られるのです。
 ボディーランゲージもごまかしようがありません。子イヌなら許された無礼なふるまいは,もう許されないのです。ちょっとしたことですぐけんかになってしまいます。
 だから仮に,ドッグランに,しつけインストラクターを配置するなどして,ソフト面の充実を図っても,問題の解決にはなりません。仕事が大変なだけです。体内のアドレナリンが急上昇し興奮したイヌのケンカを止めるのは,生やさしいことではありません。下手な止め方をすると,人間のほうが病院送りになります。

堀 明 (2011). 犬は「しつけ」でバカになる:動物行動学・認知科学から考える 光文社 pp.67-68

離別とその後

 ここでは,その結論部分だけを紹介しておきます(『犬は「しつけ」で育てるな!』では,日齢で示したが,本書では解析結果に沿って週齢で表記する)。

 5週齢以内に親きょうだいから引き離されたイヌは,例外なく他のイヌをきょくたんにこわがる。震えだすか,逃げ惑う。性的関心もほとんど持たない(雌は交配がとても困難)。攻撃をしかけるイヌもいるが,これは恐怖感からくる防御的な攻撃と思われる。
 6週齢〜7週齢に親きょうだいから引き離されたイヌは,5週齢以内のイヌに比べれば,怖がりの程度は多少ゆるむ。個体によっては,他のイヌをほとんど恐れないものもいるが,これはイヌそのものに関心を示さないことを意味しているにすぎない。イヌ本来のあいさつ行動やボディーランゲージをきちんと表現できるわけではない。
 8週齢〜10週齢に親きょうだいから引き離されたイヌは,他のイヌと出合ってから,ある程度時間が経つと,いっしょに遊ぶようになる。
 12週齢に親きょうだいから引き離されたイヌは,他のイヌとほとんど問題なく遊べる。社交的な態度がとれる。
 16週齢に親きょうだいから引き離されたイヌは,初対面の相手にも,まるで以前からの顔見知りのようにふるまえる。

堀 明 (2011). 犬は「しつけ」でバカになる:動物行動学・認知科学から考える 光文社 pp.62-63

無理な繁殖

 また,「日本のイヌの場合,イヌの超小型化を追求した結果,同胎の子イヌの中でまともな生存能力のあるのは,1頭くらい。残りは,奇形や先天的な欠陥を持っている」と指摘するアメリカのジャーナリストもいます。この意見が,事実を正確に言いあてているかどうか,確かなデータが存在するわけではないので,はっきりしたことは言えません。しかし実際日本では,流行犬種を短いスパンで大量繁殖させてきました。たとえば「ティーカップ・プードル」のような超小型犬をつくり出すために,きょくたんな近親交配をくり返しているのは事実です。

堀 明 (2011). 犬は「しつけ」でバカになる:動物行動学・認知科学から考える 光文社 pp.34-35

犬の社会化

 2010年4月,狂犬病の予防注射の会場で,イヌが咬み殺されるという事件がおきました。被害にあったのは,2歳の雄のヨークシャー・テリアで,愛知県内で行われた予防注射の際,後ろに並んでいた雑種の中型犬に,頚に咬みつかれたままふりまわされたあげく死んでしまったというものです。その雑種犬は,ヨークシャー・テリアの5倍もの体重があったといいます。
 ヨークシャー・テリアの飼い主は,「市側には,イヌが興奮して暴れないよう飼い主に適切な指示を与えたり誘導したりする義務があった」と主張し,市と咬み殺した中型犬の飼い主を相手取り,約140万円の損害賠償を求める訴訟をおこしました。訴えられた市側は「イヌどうしが接触しないようにするのは飼い主の義務」と反論し,中型犬の飼い主は,「相手のイヌが近づいてきたのが原因だ」と言って,請求棄却を求めたということです。
 三者三様,あまりにもレベルが低いと言わざるを得ません。愛するイヌを亡くした飼い主のつらい気持ちはわかります。しかし問題は,中型犬が社会化されていなかったことであり,市の職員の誘導ミスなどではありません。また,市側が求めるべきは,「イヌどうしが接触しないように」ではなく,「接触しても平気でいられるように社会化しておくように」です。さらに,咬んだイヌの飼い主が,「おまえのイヌが近づいたからわるい」と言っているのは,もってのほかです。それにしても,狂犬病の予防注射の会場でイヌが咬み殺されるというのは,前代未聞の事件です。

堀 明 (2011). 犬は「しつけ」でバカになる:動物行動学・認知科学から考える 光文社 pp.25-27

進化論を教えるとき

 2008年の10月に,およそ60人のアメリカの高等学校の教師たちのグループが,ジョージア州アトランタにあるエモリー大学の科学教育センターで会合をもった。彼らが持ち寄った戦慄すべき話のいくつかは,広く関心を寄せられる価値がある。1人の教師は,進化を勉強すると告げたとたん,生徒たちが「ワッと泣き出した」と報告した。もう1人の教師は,教室で進化について話を始めると,生徒たちが繰り返し,「ノー!」と叫び出す様を描写した。また別の教師は,生徒が,進化論は「理論にすぎない」のに,なぜ学習しなければならないのか理由を教えてほしいと要求したと報告した。さらにまた別の教師は,いかにして「教会が,私の授業を妨害するために質問する特殊な疑問を生徒に訓練してこさせる」かについて述べた。ケンタッキー州の創造博物館は,博物館という高度な施設を使って歴史否定論にひたすら専心する,財政的支援をふんだんに受けた組織である。子供たちは,鞍のついた恐竜模型に乗ることができるが,それはただの,ちょっとした遊びではない。そのメッセージは恐竜が最近まで生きており,人類と共存していたという,あからさまで,紛れようのないものである。この博物館は<アンザーズ・イン・ジェネシス>によって運営されているが,これは非課税組織である。納税者,この場合には米国の納税者は,科学的な嘘,誤った教育に,大がかりな規模で財政援助をしていることになる。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.596-597

不完全さの由来

 人体には,ある意味で不完全さと呼べるものがどっさりあるが,別の意味では,それらはむしろ,他の種類の動物から由来した私たちの祖先の長い歴史の結果として生じた,避けがたい妥協とみなすべきものである。不完全さは「製図板に戻る」という選択肢がないとき——すでに存在するものに事後的な改変をほどこすことによってしか改良が達成できないとき——には,避けがたいもものなのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.508

何のパーセンテージか

 遺伝子そのものを用い,それが指定するタンパク質よりもむしろ遺伝子を種間で直接に比較するという方法もある。そうした方法のなかでもっとも古く,もっとも効果的なものの1つは,DNAハイブリダイゼーションと呼ばれる。DNAハイブリダイゼーションは通常,「ヒトとチンパンジーは遺伝子の98%を共有している」といった線に沿った発言の背後にしばしばあるものである。ところで,ここに示されたような数字によって正確に何が意味されているかについては,若干の混乱がみられる。何の98%が同じなのか?正確な数字は,数える単位がどれほど大きいかに依存する。単純な1つの喩えが,そのことを,ある興味深いやり方で明らかにする。なぜ興味深いかといえば,この喩えと,実在のモノのあいだの相違は,類似に劣らず啓発的だからである。同じ本の二種類の版があって,両者を比較したいと思っていると仮定してみよう。ひょっとしたら,それはダニエル書かもしれない。そして私たちは,正典版と死海を見下ろす洞窟内からちょうど発見されたばかりの太古の巻物版とを比較したいと思っている。二種類の本の各章の何%が同じだろう?おそらく0%だろう。なぜなら,章全体のなかのどこかに1ヵ所でも不一致があるだけで,両者が同じではないと言えるからだ。その文の何パーセントが同じだろう?今度は一地のパーセンテージがずっと高くなるだろう。単語が同じパーセンテージは,と問えば,一致度はさらに高くなるだろう。なぜなら,単語は文よりも文字数が少ない——一致が破れる確率が小さくなる——からである。しかし単語の類似でさえも,単語の一文字でもちがっていれば崩れてしまう。したがって,もしあなたが二種類のテキストを横に並べて,一文字ずつ比べていけば,同じ文字のパーセンテージは同じ単語のパーセンテージよりもさらに高くなるだろう。それゆえ,「98%が共通」といった推計は,比較している単位を特定しないかぎり,なんの意味もない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.447-448

ローカル・ルールによる支配

 この件全体から引き出される結論に耳を傾けてみよう。個体発生には全体的な計画は存在しないし,青写真も,建築家の図面もなければ,建築家もいない。胚の発生,そして究極的には成体の発生は,局所的な基盤で他の細胞と相互作用する細胞に実装されたローカル・ルールによって達成される。細胞の内部で起こっていることも,同じように,分子,ことに細胞内および細胞膜内にあって,他の同じような分子と相互作用するタンパク質分子に適用されるローカル・ルールによって,支配されている。またしても,ルールはすべて局所的(ローカル),どこまでも局所的である。受精卵のDNAの文字の配列を読んで,その動物が成長してどうなるかを予測することは誰にもできない。それを知る唯一の方法は,その卵を自然なやり方で育て,何になっていくかを見ることだ。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.360

あなたご自身が

 進化懐疑論者 ホールデン教授,たとえ,あなたのおっしゃるように進化には何十億年もの時間が使えたとしても,たった1個の細胞から,骨,筋肉,神経,何十年にもわたって止まることなく血液を送り出す心臓,何マイルにもおよぶ血管や腎臓の細尿管,そして考え,しゃべり,感情をもつことができる脳に組織された何兆もの細胞をもつ複雑な人体にまでたどりつくことができるというのを。私はどうしても信じることができないのです。
 JBS しかしマダム,あなたご自身がおやりになったことです。それもたった9か月しかかからなかったのですよ。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.313

人間の執着

 私たちが時間をさかのぼって現生のホモ・サピエンスの祖先をたどっていくと,現在生きている人々との違いが十分に大きくなって,別の種名,たとえばホモ・エルガスターという名を当てるに値するような時がやってくるにちがいない。しかし,この道程のあらゆる一歩で,おそらく各個体は,同じ種とみなしてもいいほどに自分の両親および子供と似ているだろう。そこからさらに進んで,ホモ・エルガスターの祖先をさかのぼっていけば,「主流の」エルガスターと十分に異なっていて別の種名,たとえばホモ・ハビリスという名を当てるに値する個体に到達する時がやってくるに違いない。ここでいよいよ,この議論の核心が現れる。さらに時代をさかのぼっていくと,どこかの地点で,現生のホモ・サピエンスと十分に異なっているために,別の属名,たとえばアウストラロピテクスという名を当てるに値する個体に出会い始めるにちがいない。厄介なのは,「現生のホモ・サピエンスと十分に異なる」というのは,ここではホモ・ハビリスと指定されている「最初のホモ属と十分に異なる」とは,まったく別の問題だということである。最初に生まれてくるホモ・ハビリスの代表個体を考えてみてほしい。彼女の両親はアウストラロピテクスである。彼女は両親とは異なる属に所属していたのだろうか?そんな馬鹿な!たしかに,馬鹿げている。しかし,まちがっているのは現実ではなく,どんなものでも名前を付けたカテゴリーに押し込めたいという人間の執着のほうである。現実には,ホモ・ハビリスの最初の代表個体といえるような生き物は存在しない。どんな種,属,目,鋼,あるいは門についても,最初の代表個体など存在しない。これまで地上に生まれたあらゆる生き物は,その両親およびその子供とまさしく同じ種に所属するものとして,分類されたことだろう——そのあたりに分類をおこなう動物学者がいたとすればだが——。そう,現代からの後知恵でもって,そしてリンクの大部分が失われているという事実の恩恵——そう,まさにこの逆説的な意味での恩恵——のおかげで,明確な個別の種,属,科,目,鋼,そして門に分類することが可能になったのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.295-296

排除による定義

 「魚類」の陸上への進出というとき,この「魚類」が「爬虫類」と同じように,自然分類群を構成するものではないことを忘れてはならない。魚類は排除によって定義される。つまり魚類とは陸上に移動したものを除いたうべての脊椎動物のことなのである。脊椎動物の初期の進化はすべて水中で起こったため,現在も生き残っている脊椎動物の系統樹の枝の大部分がいまだに水中にいるのは驚くにあたらない。そこで私たちは,他の「魚」とごく遠い類縁関係しかないものでも,それを「魚」と呼んでいる。マスやマグロはサメよりも人間に近い親戚なのだが,どちらも「魚」と呼ばれている。また,肺魚とシーラカンスはマスやマグロ(そしてもちろんサメ)よりも人間に類縁が近いのだが,これもまた「魚」と呼ばれている。サメでさえも,ヤツメウナギやヌタウナギ[メクラウナギ](かつて繁栄した多様な分化をとげていた無顎類のなかで唯一生き残っている現生種たち)よりは人類に近い親戚なのだが,これらもまた,すべて魚と呼ばれている。祖先が一度もあえて陸上を目指したことのない脊椎動物はすべて,「魚」のような姿をし,魚のようにして泳ぐ(魚が背骨を左右に振って泳ぐのに対し,イルカ類は,背骨を上下に曲げることによって泳ぐ点で異なる)。そして,どれもみな魚のような味がするのではないかと,私は思っている。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.251-252

誤りチェック事項

 以下に,あなたがたとえばサルがミミズより「高等」だというときに,多かれ少なかれあなたがはっきりと混同して理解している可能性のある事柄のリストを掲げておく。

1 「サルはミミズから進化した」。これはまちがっていて,人類がチンパンジーから進化したのではないのと同じことである。サルとミミズは共通祖先をもつだけである。
2 「サルとミミズの共通祖先はサルよりもミミズに似ていた」。まあ,こちらのほうが可能性としてはより理屈にあっている。もし「原始的」という言葉を,「祖先に似ていること」と定義するのであれば,半ば正確な形で使うことさえできるし,現生動物のいくつかがこの意味で他の現世動物よりも原始的であるというのは,明らかな事実である。これが正確に意味しているのは,よく考えてみるならば,一対の種のうちより原始的なものは,共通祖先(すべての種は,十分な過去までさかのぼれば,例外なしに共通の祖先を共有する)と比べてよりわずかしか変化していないということである。もしどちらの種も他方に比べて劇的に変化していなければ,「原始的」という言葉は,両者を比較するのに使うべきではない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.244

なぜ?なぜ?

 こうした「ミッシング・リンク」がらみの異議申立てすべてのなかで,もっとも馬鹿馬鹿しいのが次の2つ(あるいは,無数にあるその変形版)である。1つめは,「もし人間がカエルや魚を経て,サルから生まれたものなら,なぜ,化石記録に『カエル猿』が含まれていないのか?」である。私はイスラム教徒の創造論者が喧嘩腰で,なぜワニ鴨がいないのだと質問するのを見たことがある。2つめは,「サルが人間の赤ん坊を産むのが見られれば,私は進化を信じよう」というものである。この2つめは,他のあらゆる異議申し立てと同じ誤りを犯しているが,それに加えて,大きな進化的変化が一晩で起こると考えているという誤りが付け加わっている。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.237

創造論という高級喜劇

 このような発見のパターンを説明しようとする創造論者たちの試みは,しばしば高級喜劇の域に達する。創造論者に言わせれば,主要な動物分類群の化石が発見される順序を理解するための鍵は,ノアの洪水にあるのだそうだ次に示すのは,賞を貰っている創造論者のウェブサイトから直接引用したものである。

地層に見られる化石の配列は次のことを示している。
(1)無脊椎動物(動きののろい海生生物)は,真っ先に消滅し,それについで,もう少し動きの活発な魚類が洪水の汚泥に押しつぶされるだろう。
(2)両生類(海に近い)が次に,水位の上昇にともなって消滅するだろう。
(3)爬虫類(動きののろい陸上動物)が次に死ぬ。
(4)哺乳類は水位の上昇から逃げることができ,より大型で,逃げ足の速い動物が最後まで生き残れた。
(5)人類は知恵を働かすだろう——丸太にしがみつくといったことをして,洪水から逃れる。
 このような経緯は,地層にさまざまな化石が発見される順序を,申し分なく満足がゆくように説明してくれる。それは動物たちが進化した順序ではなく,ノアの洪水のときに水没していった順序なのである。

 この驚くべき説明に異論を唱えるべき他のあらゆる理由をさしおいても指摘しておきたいのだが,哺乳類が平均して爬虫類よりも水位の上昇からうまく逃げることができるという統計的傾向がいったいどこに存在するというのか。それどころか,進化論にもとづいて予想されるように,地質学的な記録における下の地層には,文字通り哺乳類はまったく存在しないのだ。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.174-175

野生化したイヌは

 コッピンジャーは,逃げ出した家畜が何世代かを経て野生化するとき,ふつうは,祖先の野生動物によく似た姿に戻っていくと指摘する。したがって,野生化したイヌはオオカミにかなり似たものになると予想してもいいだろう。しかしそういうことは起こらない。その代わりに,野犬のままにしておかれたイヌは第三世界のいたるところに見られる人間集落の周辺をうろつく「村イヌ」——野良犬——となる。この事実を考えると,人間の育種家が最終的に働きかけることになったイヌは,もはやオオカミではなくなっていたはずだというコッピンジャーの説は当を得ているように思われる。彼らはすでに自分たち自身でイヌ——村イヌ,野良犬,ひょっとしたらディンゴ——に変わってしまっていたのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.137

「群淘汰」誤謬

 ヒトラーがダーウィンからヒントを得たというよく言われるデマは,部分的には,ヒトラーもダーウィンもともに,何百年にもわたってすべての人が知っていたこと,すなわち望みの性質を備えた動物を育種できるということに感銘を受けたという事実から来ている。ヒトラーはこの常識を,ヒトという種に差し向けたいと願っていた。ダーウィンはそうではなかった。ダーウィンのひらめきは,もっとはるかに興味深く,独創的な方向に彼を導いたダーウィンの偉大な洞察は,選抜実行者がまったく必要ないというものだった。自然が——単純に生き残れるかどうか,あるいは繁殖成功度の差によって——育種家の役割を果たすことができる。ヒトラーの「社会的ダーウィニズム」——人種間の闘争という彼の信念——についていえば,実際には非常に半ダーウィン主義的なものである。ダーウィンにとっては,生存闘争は一つの種の内部における個体間の闘争であり,種間,人種間,あるいはその他の集団間の闘争ではなかった。ダーウィンの偉大な本の「生存闘争において有利なraceの存続」という,不適切で不幸な副題に惑わされないでほしい。本文そのものから,ダーウィンがraceを「共通の由来または起源によって結びつけられた人間,動物,あるいは植物の集団」(『オックスフォード英語大辞典』定義6-I)という意味で使っていないことは,きわめて明白である。むしろ彼は,この辞典の定義6-IIの「なんらかの共通の特徴を1つあるいは複数もつ人間,動物,あるいは事物の集団,あるいはクラス」に近いものを意図していた。6-IIの意味の実例は,「(どの地理的変種に属するかどうかにかかわらず)青い眼をもつすべての個体」といったものである。ダーウィンには使えなかった現代遺伝学の専門的な術語で,彼の副題の「race」の意味を表現するとすれば,「ある特定の対立遺伝子をもつすべての個体」となるだろう。ダーウィン主義的な生存闘争を個体集団のあいだの闘争と考える誤解——いわゆる「群淘汰」誤謬——は,残念ながら,ヒトラーの人種差別主義に限られたものではない。それは,ダーウィン主義に関する素人の誤解にたえず顔を出し,もっとよくわかっているべき職業的な生物学者のあいだにさえ出てくる。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.127(脚注)

虫媒

 花にとっては,虫媒(昆虫による受粉)は,風媒のあてずっぽうな無駄打ちの浪費に比べて,経済的には大きな前進といえる。たとえミツバチが無差別に花を訪れ,キンポウゲからヤグルマソウへ,ポピーからクサノオウへ自由気ままにふらふら移っていくとしても,毛におおわれた腹部にしがみついた花粉の粒が正しい標的——同じ種の別の花——に命中する確率は,風に乗せてまき散らした場合よりもはるかに大きい。それより少しましなのは,特定の色,たとえば青色を好むミツバチだろう。あるいは,いかなる固定された色の好みももっていないが,色に対する習慣性を形成する傾向をもち,したがって盛りの花の色を選ぶミツバチである。それよりもっといいのは,ただ1つだけの種を訪れる昆虫である。そして,ダーウィン/ウォレスの予言を思いつかせたマダガスカル島のランのような花がある。この花の蜜は,この種類の花に特殊化した特定の昆虫にしか利用できず,その昆虫は蜜の独占という利益を得ている。そうしたマダガスカル島のガは,究極の魔法の弾丸なのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.113

突然変異

 ときには,一個の大きな突然変異の導入から新しい犬種が始まることがある。突然変異は,非ランダムな自然淘汰による進化の素材を構成している遺伝子の,ランダムな変化である。自然状態では,大きな突然変異はめったに生き残らないが,研究しやすいので,研究室の遺伝学者には好まれる。バセット犬やダックスフントのような,非常に短い脚をもつ犬種は,軟骨形成不全症と呼ばれる,単一の遺伝子突然変異をともなう一段階の変化でその特徴を獲得した。これは,自然状態ではおそらく生き残れないと思われる大きな突然変異の古典的な例である。同様の突然変異は,人間の小人症のなかでもっとも数多く見られる疾患の原因になる。胴体はほぼふつうの大きさなのだが,腕と脚が短いのである。他の遺伝的な経路が,もとのプロポーションを保ったままだがミニチュアサイズの犬種をつくりだす。犬のブリーダーたちは,軟骨形成不全症のような少数の大きな突然変異と,多数の微細な突然変異の組み合わせを選抜していくことによって,大きさと形状の変化を達成する。変化を効果的に達成するためには,遺伝学を理解している必要もない。まったくなにも理解していなくとも,どれとどれを交配させるかを選んでいくだけで,あらゆる種類の望みの形質を育てることができる。これこそ,イヌのブリーダーや他の動物飼育家や植物栽培家全般が,遺伝学について誰かが何かを理解するより何世紀も前に達成していたことなのである。そして,ここには自然淘汰についての一つの教訓がある。なぜなら,自然は当然ながら,何についてであれ,まったく理解せず,気づきさえしていないからだ。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.89-90

遺伝子プールの彫刻

 さていよいよ,遺伝子プールに関して論じるきっかけとなった発言に戻ろう。もし人間のブリーダーを彫刻家とみなすのなら,彼らが鑿で刻んでいるのはイヌの肉体ではなく,遺伝子プールである。ブリーダーは,たとえば,将来のボクサーの鼻づら(吻)を短くすることが狙いだと公言するかもしれないので,対象はイヌの肉体のほうであるように見える。そして,そのような意図からもたらされる最終産物は,まるで祖先のイヌの顔に鑿が振るわれたかのように,短い鼻づらになるだろう。しかし,これまで見てきたように,どの一世代の典型的なボクサーも,その時代の遺伝子プールの抽出標本(サンプル)なのである。長年にわたって彫られ,削られてきたのは遺伝子プールなのだ。長い鼻づらのための遺伝子が遺伝子プールから削りとられ,短い鼻づらのための遺伝子に置き換えられたのである。ダックスフントからダルメシアン,ボクサーからボルゾイ,プードルからペキニーズ,グレートデンからチワワまで,あらゆる犬種は,文字通りの肉と骨ではなく,その遺伝子プールを彫られ,削られ,こねられ,成形されてきたのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.88

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