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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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進化のバースト

一方,時代も分野もまったく異なるところでは,チャールズ・ダーウィンが,新しい種の発生はいずれも漸進的なプロセスをたどるという仮説を出していた。要するに,現在の種から少しだけどこかが修正された子孫へとゆっくり変化していく過程を通じて,新しい種は生まれるというのである。そうした連続的な変化の証拠は,もちろん当時もなかったが,今日でもめったに得られない。ゆえにダーウィンも,それが「私の理論に対して出されるもっとも深刻な異論」と認めざるをえなかった。実際,何百万年という長きにわたって,化石記録に見られる種は進化的変化をほとんど示していないという時期がある。新しい種が現れるのは,たいてい数十万年のスパンであり,それは進化の全過程から見れば,ほんの一瞬の期間にすぎない。つまり進化はバーストを生じさせながら進んでおり,そのバーストが化石記録に保存されているということだ。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.350
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進化が起きていない結果

 人間が他の動物に比べてすぐれた自己コントロール能力をもっているといっても,誘惑の多い現代社会で生きるには十分でない。スーパーマーケットや冷蔵庫がない時代であれば,私たちに備わっている忍耐力で十分だった。動物を狩ったり,木の実を集めたりしていた時代には,それで事足りた。しかし私達の忍耐力は,今日の社会で必要とされるレベルに及ばない。
 先延ばしは,現代の人類に必要な進化がまだ起きていない結果として発生する現象と言える。現代人は完了するまでに何週間,何ヵ月,何年もの時間を要するプロジェクトに取り組むようになったが,人間のモチベーションのメカニズムはそういう長期の課題に対応することに適していないのである。「手の中にすでに捕まえてある1羽の鳥は,藪の中にいる2羽の鳥と同等の価値がある」というのは,英語の有名なことわざだ。森の中では,たしかにそうだろう。未来の不確実なご褒美より,目先の確実なご褒美のほうが値打ちがある。しかし,現代の都会では事情が違う。原始時代のジャングルとは違うので,「未来のご褒美」の現在における価値をそこまで割り引いて考える必要はない。逆に言えば,いまあわてて1羽の鳥を捕まえても,明日の2羽分の価値はない。ごくわずかな利息がついて,せいぜい手羽先が1本増える程度だろう。

ピアーズ・スティール 池村千秋(訳) (2012). 人はなぜ先延ばしをしてしまうのか 阪急コミュニケーションズ pp.84

潜在的な優生的態度

 私のこの発言を聞いて,私に遺伝差別論者とレッテルを貼る人もいることでしょう。そしてこのようなことを平然と論ずる私のことを,軽率で不穏当だと受けとめるかもしれません。しかし考えてみてください。実は,そのような発想こそが,事実上の人種差別や集団間格差を容認し,助長していることに気がつかねばなりません。なぜなら,「もし知能に遺伝的人種差があることがわかると差別に結びつくから,遺伝的差異はないことにしなければならない」と主張する人は,「実際に遺伝的差異があったら,自分はそれを理由に差別する」という優生的態度に潜在的にとどまっているからです。そしてその主張に固執するかぎり,問題の本質は解決されず,事実上の優生社会,差別社会が温存されつづけてしまうのです。
 もし将来的に人種その他の集団間に認知能力をはじめ,私たちの価値観に重要な位置を占める心理的・行動的形質に遺伝的差異が実際にみいだされてしまったとき,私たちは倫理的に対処する術を失います。むしろいかなる心理的,行動的形質に集団間の遺伝的差異があったとしても,それが特定の集団の人たちの尊厳を脅かしたり社会的差別の正当化に結びつかないような考え方と社会制度の構築が必要なのです。少なくともこの議論をタブー視し,価値命題にとっておさまりのよい事実命題を勝手に導き出して安穏としてはいられないのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.193-194

遺伝は遺伝しない

 ですから,「遺伝の影響があると親と同じ性質をもった子どもが生まれる」という先入観は捨てなければなりません。親の学歴が低くとも勉強のよくできる子どもが生まれる可能性も,親が有名な大学教授なのにとんでもなくできの悪い子どもが生まれる可能性も,どちらも「遺伝的」にありうるわけです(もちろん大学教授の中にもいくらでもヘンなのがいますので,そのヘンさ加減がそのまま「遺伝」している可能性もありますけど)。
 相加的遺伝の効果,非相加的遺伝の効果を合わせて考えてみると,親とおなじ遺伝的素質をもった子はむしろ非常に現れにくいことを意味します。むしろ常に古今東西一度も生まれたことのない新しい個体を生み出す仕組みが遺伝子たちにはある,というほうが本質的と言えるかもしれません。ですから逆説的に「遺伝は遺伝しない」とすらいうことができるのです。

安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.82-83

かけたらどうなる?

 実際にどうなるのか。食塩と砂糖を使って,台所で実験してみた。協力してもらったのはチャコウラ2匹。
 テーブルの上に黒い髪を敷き,全長5センチほどのチャコウラを置く。上から姿が見えないくらい食塩をふりかける。1分で隊長は2.5センチに縮まり,体は塩を含んだ大量の粘液で覆われた。5分後,塩を洗い落とす。塩を含んだ粘液は体の周囲にびりつき,離れない。15分後,水を含んだスポンジに載せ,1日回復を待ったが,固まったまま。どうやら塩をかけた直後に絶命した模様だ。体内の水分の欠乏,それに食塩を含んだドロドロの粘液が呼吸孔をふさいだことが死因と思われる。
 やはり全長5センチほどのチャコウラを,黒い紙の上に載せ,姿が見えなくなるまで,砂糖をかける。1分後,砂糖からはい出す。尻尾の方が少し水分を奪われた模様だが,姿はほとんど変わらない。2分後には,平常の歩き方に戻った。
 小麦粉はどうなのだろう。数日後,テーブルにラップを張り,全長5センチほどのチャコウラにたっぷり小麦粉を盛ってみた。チャコウラは,粉の中であっちこっちに方角を変えながら,8分30秒後にはい出してきた。体の後部がやや細くなったものの,命に別状はなかった。

足立則夫 (2012). ナメクジの言い分 岩波書店 pp.66-67

ナメクジの事情

 成長段階で見ると,孵化したばかりの赤ちゃんナメクジは,卵を覆っている膜を栄養源として,その後,腐植土や腐りかけた植物を口にする。やがて近くにある植物の葉を食べるようになる。食欲旺盛なのは,成長の初期段階にあたる春と繁殖活動の直前にあたる晩秋である。彼らの世界では「天高くナメクジ肥ゆる春と晩秋」のことわざが通用する。野菜農家やベランダ園芸家がナメクジに特に悩まされるのは,孵化の時期である春と,繁殖活動前の晩秋。丹誠込めて育てた野菜や生花が見るも無残な穴だらけの姿になったら,「ナメクジ憎し」とせん滅作戦に出る気持ちは十二分に分かる。
 でも,しかしである。憎悪を燃えたぎらせる前に,彼らの事情にも目を向けてほしい。まずナメクジの短い一生を思いやる。次に,彼らがまともに生きるには,春や晩秋が大切な時期であることを理解する。その上で,孵化したばかりの赤ちゃんの写真を見る。三段階のプロセスを経れば,育てた花や野菜が少し食べられても,そう怒ることもなくなるのではないだろうか。人間以外の動物にも菜食主義者がいるんだな,ぐらいの受け止め方ができるようになれば,しめたものだ。

足立則夫 (2012). ナメクジの言い分 岩波書店 pp.59-60

ナメクジの食べ方

 我ら哺乳類,例えば人間が食パンのトーストを食べるとき,トーストは端から欠けて行く。ところがナメクジは決して端から食べない。ナメクジに与えたキャベツを取り出すと,内側に孔が開けられている。彼らの食べる様子を,穴があくほどじっと観察しても,さっぱり分からない。例の米ソの専門書をのぞくと,謎は解ける。秘密は彼らの口の構造にある。
 触覚の下に口はある。人間の唇にあたる唇弁に囲まれ,中央に開いた口腔の上側に顎板と呼ばれる顎がある。その下の奥に口球という丸みを帯びた舌がある。その表面に矢じりのような形をした軟骨性の小さな歯がびっしり生え,これで葉の面をこすってこそぎ落とすのだ。あるナメクジの歯はざっと2万7000枚もある。

足立則夫 (2012). ナメクジの言い分 岩波書店 pp.43

ODの気持ち

 この年の秋に開かれた昆虫学会の大会で,私は,分散型幼虫のゴール間移動を発表した。しかし,私の考えを十分理解してもらえたとは思えなかった。1978年になっても,まだ日本の研究者の多くは,生物の持っている形質はその“種にとって有利”であるはずだという仮説にどっぷりとつかっており,社会生物学などどこ吹く風であった。その一方で,時代遅れの実証主義的規範を携えて,仮説メーカーを笑っていたのである。『アニマ』という雑誌に載った匿名の学会印象記には,「視点の新しい」講演は「ほとんどなかった」と書いてあった。
 またこの年に,私はこれまでの結果を論文にまとめた。この論文は翌年の秋に印刷になった。嬉しかったことには,A.F.G.ディクソン,ロバート・トリヴァース,ウィリアム・ハミルトンの3人が,感激したとの手紙をくれた。これは何ものにも増して私を勇気づけた。この時には,もう私はドクター・コースの5年目を終える年であった。O・D(オーバードクター)の何たるかを知っておられる方には,当時の私の気持ちはわかっていただけることと思う。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.172-173

時代

 第2に,私の時代は,疑いなく自由に想像を駆けめぐらせることが許される時代であった。問題状況をうまく説明できるような仮説を作ることは,必ずしもたやすいことではない。自分自身に自由に考えることを奨励しなかったとしたら,私には単刎型幼虫の問題は解けなかっただろう。
 もちろん,いまだに多くの大学の先生が,仮説作りをたしなめ,そして「偏見のない眼で事実を集め,それに基づいて物を言わねばならない」と声を大にしているのを私は知っている。彼らにとって,“お話”はだれにでもできるものなのだ。自らを頭脳労働者とみなしている人種が,考えることの価値を認めたがらないのだから奇妙である。だが,ポパーの『科学的発見の論理』,クーンの『科学革命の構造』が邦訳されたのが共に1971年であったことを考えると,これはある程度は仕方のないことかもしれない。私は良い時代に生まれたのだ。
 ちなみに,私が科学方法論に興味を持ったのも,分類学の危機と関連がある。一分類学者として私は,分類学に向けられた批判——その中には正当なものも見当はずれのものもあったが——に対して反論を試みようとした。そのために,科学論は必要であった。ポパーやクーンの著作に出会ったのは,この時だった。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.132-133

5240億匹!

 アブラムシは植物から汁液を吸う。それゆえ,何種類かのアブラムシは,悪名高い害虫である。彼らは好条件のもとでは,単為生殖かつ胎生で驚くべきスピードで増殖する。成虫には,翅のあるものとないものがあり,移住の必要がなければ翅のない無翅虫が主役である。無翅虫は,翅にまわすべき栄養を卵巣にまわし,このことが増殖率の高さに一役かっている。鉢植えの植物にアブラムシが“わく”のは,いつのまにやら飛来した有翅虫の子孫が無翅虫となり,あっという間に増殖するからである。ある計算によれば,1匹の雌が生んだ子供がすべて生き残ったとすると,1年後に5240億匹の子孫が生じていることになるという。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.21-22

分類学者

 分類学者とはどのような人種だろうか。(1)種わけ,(2)生物の系統関係の推定,(3)生物のカタログ作成。この3つが彼らの主な仕事である。
 この最後のカタログ作りという仕事が,分類学者をきわめて特色ある存在にしている。生物の名前を整理し,未記載種には名前を与え,情報の引き出しを容易にするようなカタログを作ること。これは,経験的知識の増加という観点からはさほどの意味はないかもしれない。しかし,実用上は非常に有用である。
 カタログ作りのために分類学者は,まず対象とする分類群に関する文献を徹底的に収集しなければならない。また,もちろん,できるだけ多くの材料を集め,形態を調べやすいような標本を作成する必要がある。これらの作業は時間とエネルギーがかかるけれども,逆に時間とエネルギーをかけさえすれば,まずまちがいなくある程度の成果が得られる。良くいえば堅実な,悪く言えば野心に乏しい研究なのだ。

青木重幸 (1984). 兵隊を持ったアブラムシ どうぶつ社 pp.18-19

変異と遺伝的多型

 ある種の遺伝が「変異」か「遺伝的多型」かを決めるのは,世界的に数多く見られるか,人間の益になるかの2点にかかっている。「変異」は希少で害になるが,「遺伝的多型」はたいがいそのどちらでもない。頻度から言えば,赤毛の人はヨーロッパ北部ではよく見られるが(スコットランド北東部のアバディーン市では人口の6パーセント),世界的には希少だ。さらに追い打ちをかけるようだが,この数字は「赤毛の遺伝子」を持つ人を割増して数えている。赤毛といっても人によって千差万別だからだ。MC1R遺伝子には少なくとも30個の多型があり,その多くはアイルランドで発見された。このうちの6個から10個くらいの多型が多様に組み合わさって,赤褐色,真紅,オレンジ,赤みがかったブロンドなどの赤毛を作り出す。逆にアフリカ人はみな,同じ一種類のMC1R遺伝子をもっている。

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.233

男性も周期的なのだが

 女性だけでなく,男性のホルモンも周期的なパターンをとっていることが示されてきたのに,ホルモンと行動が関連する可能性を検討した研究のほとんどすべてが,女性に焦点をあてているというのは,いったいどういうことなのだろうか。たとえば,女性は月経前には操縦技術が落ちる可能性があるので,飛行機の操縦を許可すべきではないと言われてきた。しかし,一部の女性が,PMSのような操縦操作を妨げる何かを抱えているというのが,仮に真実であったとしても,少なくとも,我々は——その女性たちの場合——彼女たちが飛行機を操縦すべきでない日を予測できる。しかし,男性の場合,血液検査を毎日行なってホルモンレベルをチェックしない限り,男性の操縦能力がホルモン要因によって妨げられる可能性があるのはいつなのかわからないのである。それゆえ,論理的には,この領域で多大な研究努力が費やされるとしたら,その目的は男性についてもっと理解するというものであるはずだ!興味をそそるのは,男性のホルモン周期についての報告や男性の行動周期についての報告が行われるようになったことである。実際,貨物鉄道の男性運転手の勤務日を28日周期で決めたところ,事故の件数は「他のいかなる方策によるものよりも,劇的に少なくなった」という。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.168-169

ホルモン

 まず,重要なのは,性ホルモンに関する基本的で一般的な2つの原理を理解することだろう。第1の原理として,あるホルモンを「女性」,別のホルモンを「男性」と名づけることで,誤った二分類が生まれてしまった。多くの人は女性だけに女性ホルモン——エストロゲンとプロゲステロン——があり,男性だけに男性ホルモン——テストステロンなどのアンドロゲン——があると仮定している。これは誤った仮定で,男女は完全に異なるホルモンをもち,それゆえに身体的にも行動的にもその特徴が完全に違うという信念を増長させている。実際には,男性の身体にも女性の身体にも,「男性」ホルモンと「女性」ホルモンが両方とも存在するのである。実際,たとえば,男女とも身体にテストステロンがあるが,成人女性は成人男性に比べると,血液中のテストステロンが少なく,そして,血流からのホルモンによって影響を受ける受容体が男女で異なっているのである。そして,思春期に,男性ではテストステロンの効果が目につく——性器の発達,体毛の増加,声変わりなど——が,テストステロンはまた,女性の陰毛の発毛やクリトリスの成長を刺激してもいるのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.144-145

インターセックス

 あらゆる人間を2つの性別に分類したことでもたらされたものの1つに,女性であることを決めるとされるXX染色体と,男性であることを決めるとされるXY染色体のいずれももたなくても,そして,典型的な男性あるいは典型的な女性のものと同じ外性器や内性器をもたなくても,2つの伝統的な性別カテゴリーの一方にあてはまると間違えて仮定されてきた人々が1.7%いるということがあげられる。この2つの性別カテゴリーのどちらにもうまく入らない人たちはインターセックスと呼ばれる。こうした人たちは,最近まで,西洋文明においては見えない存在であり,そのために,多くの社会的心理的な問題を抱えることになった。インターセックスの存在は,心理学的性差の分野に革命をもたらす可能性を秘めている。というのは,心理学的「性差」についての研究は,そのほとんどすべてが,典型的な女性と典型的な男性のみを研究対象にしているという誤った仮定に基づいて行われてきたからだ。こうした研究を行っている研究者は,参加者の性別を決めるために,染色体分析や身体検査をすることはけっしてない。そして,性別を「どちらかに◯をしてください……男性,女性」で分類するようなとき,インターセックスの人たちの多くは,自分がインターセックスであることに気づきさえしていないので,生まれたときに「割りあてられた」性別を答えてきただろう。これはとりわけ重要だ。というのは,報告されている心理学的性差はたいてい大変小さい。もし過去に戻って,あらゆる性差研究からインターセックスの参加者を取り除けるとしたらどうなるだろう。インターセックスの人たちはかなり多様である。彼/彼女らの反応や回答は,ある領域における典型的な男女間に存在する本当の差異を覆い隠しているかもしれないし,別の領域では小さな差異を大きく誇張して見せているかもしれないし,ある領域では実際には存在しない差異を存在するかのような誤解を与えてしまっているかもしれない。しかし,インターセックスの人たちは,染色体上も,生理学的側面でも,ホルモンという面でも,非常に多様であるため,そして,つい最近までほとんどの人が男と女のどちらかに割りあてられて,それに応じて育てられたので,彼/彼女らを研究に含めたことで性差研究の分野がどのように変わったのかを知る方法はどこにもないのである。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.17-18

一卵性は…

 ブラックモアは初期の研究で,超常現象を語る場合かならずといっていいほど取り上げられる問題に挑戦した——一卵性の双子はなぜおたがいに霊感が働くように見えるのか,という問題である。超能力の支持者は,その不思議な絆をテレパシーだと思いたがる。かたや懐疑派は,一卵性双生児は同じ環境で育ち,遺伝子型も同じという共通点があるので考えることも似てくる。それでたがいの心が読めるかのように見えるのだと主張する。
 この問題に決着をつけるため,ブラックモアは6組の双子と6組の兄弟姉妹を集め,2部構成の実験をおこなった。実験の第1部は,ずばりテレパシーのテストだった。双子ないし兄弟ペアの片方にテレパシーの「送り手」役を,もう片方に「受け手」役を頼んだ。送り手には自分が無作為に選んだ内容(1から10までの数字,物体,写真など)を,受け手へ念力で送ってもらった。だが結果的に,双子ペアにも兄弟姉妹ペアにも,テレパシーが働いた形跡はみられなかった。
 実験の第2部で,ブラックモアは送り手に1部とはちがう作業を頼んだ。最初に頭に浮かんだ数字を送ること,好きな絵を描くこと,4枚の写真の中から送りたい写真を1枚選ぶことをである。すると,結果が突然変化した。「双子は共通点が多いのでテレパシーが働く」説の予言どおり,双子の答えが急に一致しはじめたのだ。たとえば,1から10までのあいだで数字を思い浮かべるように頼んだところ,双子の2割が,同じ数字を答えたのに対し,兄弟組で答えが一致したのは5パーセントのみだった。絵のほうでも,内容が一致したのは双子が21パーセント,兄弟は8パーセントだった。つまりこの実験によると,双子にテレパシーが働くように見えるのは,双子同士の考え方や行動が非常に似ているためで,超能力ではないのだ。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2012). 超常現象の科学:なぜ人は幽霊が見えるのか 文藝春秋 pp.81-82

21グラム

 マクドゥーガルの発見が1907年に『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたとき,みずからも医師であるオーガスタス・P・クラークが,舞台に登場した。彼は,人が死ぬ瞬間には肺が血液を冷やせなくなるため体温が急激に上昇する。その結果生じた発汗がマクドゥーガルの言う21グラムの体重減少につながったことは,容易に想像がつくと指摘した。クラークはまた,犬には汗腺がない(そのためいつも口をハアハアさせて放熱する)ので,死の瞬間に体重が変化しなかったのも当然であるとした。そんなわけでマクドゥーガルの発見は,「事実でないのはほぼ確実」というレッテルとともに,科学界の下手物の1つとして片付けられることになった。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2012). 超常現象の科学:なぜ人は幽霊が見えるのか 文藝春秋 pp.65

魚は原始的か

 「魚はそれほど重要ではない」という考えを助長し続けてきたのは,皮肉にも現代の生物学者が使ってきた用語にも関係している。たとえば生物学者はときとして,進化の歴史のなかでより古い起源を持つ動物に言及する際には,「より低次の」,あるいは「原始的な」などの表現を用い,より最近の進化の歴史のなかで登場した動物に言及するときには,「より高次の」,あるいは「現代の」などという言い方をしてきた。
 実際のところ,かくいう私もちょっと前にそう表現した。そのような表現方法が,魚の知覚に関して誤った印象を与える結果につながるとわかっていても,正直なところそうせずにはいられないと感じている。進化の早い段階で登場した動物ほど単純で,環境にうまく適応していないという誤った印象を与える点で,そのような表現は人を欺く。進化における成功の度合いは,その生物の登場の時期や複雑さによって測られるべきではなく,適応性,多様性,存続期間によってとらえられるべきであろう。現存する魚の種の大多数は,実際に若い。つまり,進化の歴史のなかで最近になって登場したということだ。そのような魚を指して「古い」,「原始的な」,「低次の」などということは,そもそもまちがっている。もちろんそれらの魚も,はるか昔に出現した祖先の子孫だという点にまちがいはないが,その事情は私たち人間についてもまったく変わらない。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.189-190

痛みを感じるのか

 何度も尋ねられたのは,「そうだとすると釣りは残酷な行為なのか?ほんとうに魚は痛みを感じているのか?」という問いだった。
 だが私たちは,この質問にはまだ答えられなかった。研究の焦点は,マスが痛みに特化した受容体を備えているかどうかに,またそれらをハチの毒や酢で刺激するとどのような反応がみられるかにだけ置かれていたからだ。
 つまり私たちはまだ,魚が痛みを知覚したり,それに苦しんだりすることを示したわけではなかった。したがってせいぜい「その可能性は考えられる」と返答できるにすぎなかった。しかし案の定,その返答で私たちの研究について報道しようとしてやってきた多くの記者を満足させられず,そんなことをいったつもりはないのに,新聞記者やインタビューの導入解説では,研究によって,釣りが魚に苦痛を引き起こすことが示されたと報じられてしまった。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.95-96

侵害受容

 皮膚の特殊な受容体が刺激を受けると,それは何かが皮膚にダメージを与えているという情報を身体に伝える。最初にやけどが検出され,その情報を伝達する信号が脊髄背角へと伝わり,そこで反射反応が引き起こされる。
 ここまでは,すべて無意識に生じる現象だ。つまりそれについて考えることなく,ただそうするのだ。そしてこの時点では,苦しみと認められるような経験は何も起きていない。信号は,脊髄に到達して反射反応を引き起こしたあと,脳に至る。そのときはじめて,私たちは痛みを感じはじめる。
 いまや私たちは,やけどによって引き起こされた不快な情動的感覚に気づき,脳は,たったいま自分がとった行動が痛みをもたらしたのだと告げる。脳細胞組織のダメージの形態によっては,何らかの痛みが感じられるまでに2秒ほどかかる場合があるが,ほとんどのケースでは痛みはそれよりも早く感じられる。
 このプロセスのうち無意識下で生じている部分は,侵害受容(nociception)と呼ばれているが,「noci」は損傷あるいは何らかのダメージを,また「ception」は知覚あるいは検知を意味する。すなわち「侵害受容」とは,文字通り損傷やダメージの検出を意味している。
 哺乳類や鳥類では,皮膚表面の侵害受容体が刺激されると,細胞組織へのダメージに関する情報の伝達に特化した神経線維のなかで,電気信号が発生しはじめる。そして信号が脊髄に達すると,反射反応が起こる。感覚受容体がどのように活性化されるのか,またそれがさまざまな種類のダメージにどう反応するのかについては,痛みの調査を行っている研究者によってすでに解明されており,侵害受容は比較的単純なプロセスだといえる。
 それに比べていまだによくわかっていないのは,それに続く,脳への信号の伝達と,意識的な痛みの検出のプロセス,つまり何がどれくらい強さで痛むのかを認知する過程についてだ。

ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.56-57

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