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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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器用な採集者

この一連の発見で重要なのは,ゴーラム洞窟のネアンデルタール人たちが,大型哺乳類の奇襲を専門とする狩人ではなく,目の前にある豊富な資源を使いこなせる器用な採集者だった事実が示されたことだ。おそらく彼らの食生活はこれまで確認されているものよりも広範囲にわたり,果実,地下茎,地虫なども食べていたに違いないが,そうしたものは痕跡を残さずに消えてしまったのだろう。いずれにしても,大型哺乳類が食料の摂取率に占める割合はごくわずかだったはずである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.205
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)
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愚鈍な獣か

ネアンデルタール人は愚鈍な獣であり,地球という惑星でなんとか25万年余をやり過ごしたにすぎない——そう考える人たちにとって,ゴーラム洞窟は実に驚くべき新発見に満ちていた。まずわかったのは,ネアンデルタール人が食べた哺乳類の骨の80パーセント以上がウサギのものだったことだ。見つかったウサギはイベリア半島に固有の種で,洞窟外の砂丘は巣穴をつくるのに理想的な場所だったので,かなりの数が生息していたと考えられる。したがって,ウサギを捕まえるのは難しい仕事ではなかったに違いない。また鳥の化石も豊富で,145種類もの鳥類が発見されている。この数はヨーロッパに生息する繁殖鳥のなんと約4分の1に相当するが,アフリカの「冬の別荘」とヨーロッパの「夏の邸宅」を行き来する渡り鳥にとって,ジブラルタル海峡が拠点のひとつになっていることを思えば,不思議なことではないだろう。もちろん,ネアンデルタール人はそうした渡り鳥も食料にしていた。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.204-205
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

遺伝子混合は

まとめると,私たちがもっているネアンデルタール人と現生人類についての考古学的,遺伝学的知識と,世界各地へまばらに広がった人類集団の生態学的背景を考え合わせるならば,双方のあいだに重大な遺伝子混合はなかったようだ。たとえ実際に交配したことがあったとしても,現在入手できる証拠からは,ネアンデルタール人が私たちの遺伝子プールに重要な貢献をしなかったことが推測できる。またいずれにせよ,ネアンデルタール人がまだ多くいた時代のヨーロッパへ進出した人類は,その遺伝子の痕跡を現代のヨーロッパ人にほとんど残すことができなかった。そうであれば,現生人類(もしかしたら早期現生人類も?)とネアンデルタール人のなかに交配したものがあった場合でも,その後ネアンデルタール人が絶滅し,先駆的な現生人類もほぼ姿を消したため,手がかりが失われてしまったという可能性もある。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.193
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

確信は

人類の起源が問題となって以来,遺伝学をはじめ,これまでにさまざまな技術の進歩や新しい化石の発見があったが,個人的な見解を述べれば,それでもまだ私は第二次出アフリカ説が主張する人類の置き換えがそのとおりに起こったと確信することはできない。だからといって,私が多地域進化説の極端な論理を支持しているとは思わないでほしい。そうではなく,5万〜3万年前にユーラシアなどの旧世界で営まれた人類間の交流は,ある集団が他の集団に置き換わるという単純な構図ではなかったと考えているのだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.170
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

飛び道具

技術の進歩としてもてはやされるものに,現生人類による飛び道具の製作がある。だがそのような技術は,更新世中期のヨーロッパにいた屈強な動物たちに対しては,ほとんど役に立たなかったことだろう。そうした動物を倒すにの必要だったのは,体力,したたかさ,協力関係,そして獲物に接近することだった。ネアンデルタール人が接近をいとわなかったのは,彼らが現代のロデオ騎手に匹敵するけがを繰り返し負っていた痕跡からも明らかだ。ネアンデルタール人が肌の触れ合う距離で獲物を相手にしたのも珍しいことではなかっただろう。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.162
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

勝者による敗者の物語

歴史とは概して,勝者によって書かれた敗者の物語であり,同じことは先史時代についても言える。さまざまに変化をとげた先史時代の人類のなかで,今日まで生き抜いた唯一の種だという理由で,私たちはためらうことなく歴史の物語を独占してきた。生き残った者として,私たちは自らを勝者の役に祭り上げ,その他大勢を敗者に貶めてきたのではないだろうか。自分たちの存在が偶然のたまものだと受け止めるには謙虚さが必要だが,これまでの私たちは,その代わりに自己中心的な視点をもって,直径の祖先である「先史時代の征服者たち」の優位性を根拠もなく強調してきた。何ひとつ証拠が残っていないにもかかわらず,東南アジアに分け入った現生人類が,孤島のジャングルに身をひそめて難を逃れた運のいい少数派を除くすべての人類を滅ぼしたと思われているのも,そのためである。これから先,シベリア,中央アジア,ヨーロッパへと話が展開するにつれ,さらに多くの欠陥だらけの表現が先史時代の人類に用いられるのを目にすることだろう——なかでも「北国の愚鈍な野蛮人」と蔑まれてきたのは,ネアンデルタール人であった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.147-148
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

流される

ビーチコーミングの能力に長けたカニクイザルは,私たちにもうひとつの教訓を与えてくれる。カニクイザルの仲間たちは,東南アジアの広い地域に散らばる数多くの島々に生息しているが,そのなかには,ニコバル諸島[アンダマン諸島の南]やフィリピン諸島など,大陸とつながったことのない島も含まれている。どうやらサルたちは,東南アジアにあるたくさんの大河から,意図せぬまま天然のいかだに乗って旅立ち,海流に漂いながら島と島とのあいだを移動したようなのだ(船乗りとしての腕前は,マングローブ林などの川辺や海岸の林を主な生息地とする習性に関わりがあるらしい)。サルたちは何度となく流され,そうした偶然の繰り返しによって,海の向こうの島々へと広がっていった。
 私の知る限りでは,カニクイザルが船をつくる方法を考えたと説く者は1人もいないし,自ら航海術を磨いたとも思えない。サルたちが遠い島々にたどり着くことができたのは,漂流する天然のいかだに頻繁に近づく機会を与えた習性と,偶然のめぐり合わせがたまたま重なったからにすぎない。それにもかかわらず,人類がそうした島々やオーストラリアに広がったとなると,その大移動にはどうしても船と航海術が必要だったということになってしまう。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.128-129
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

時期の一致

興味深いことに,現生人類が世界に拡散しはじめた時期(8万年前以降)と,ネアンデルタール人以外の人類が中東を放棄したと思われる時期はなぜか一致している。先述のとおり,気候は8万年前を過ぎたころからいくらか寒くはなったが,7万年前と4万7000〜4万2000年前の2度にわたる厳寒・乾燥期を除いては比較的暖かさを保っていた。また,サハラ砂漠東部,ネゲヴ砂漠[現在のイスラエル南部],アラビア半島に影響を及ぼした異常な多湿期も,8万年前以降は影をひそめたようだ。つまり,北東アフリカから東南アジアにかけて人類の地理的拡大が起きた時期は,以前よりも乾燥していたものの,とくに例外的と言えるような気候ではなかったのだ。温暖でも湿潤でもなかったし,寒さの厳しい乾いた時期もあるにはあったが,限られたものだった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.124
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

遺伝的多様性

遺伝学の研究から,もうひとつ明確に浮かび上がってくる事実がある。それは,アフリカ人の集団は遺伝的に最も多様であること,つまり,最も長い時間をかけて突然変異を蓄積してきたということだ。ある特定の突然変異は遺伝子マーカーという目印になるので,それを利用すれば,現在では離れた場所にいる集団も過去にはつながりがあったことがわかり,さらには,集団が分裂した年代も推定することができる。また総合的な研究結果からは,8万年以上前に蓄積された遺伝的多様性が現在のアフリカ人集団の中でしか見られないこともわかっている。アフリカ人集団には見られない突然変異が起きたのはそれ以降のことであり,そこから,世界各地への移動は8万年前以降に行われたと考えることができる。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.110
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

意味のないこと

動物の個体群が,条件さえ合えば近隣地域へと生息範囲をじわじわと広げていくことを,ここでもう一度思い出してほしい。シラコバトの例を挙げたときに,その鳥が何世代もかけてヨーロッパで拡散していく様子を説明したが,それは「大移動」と呼べるものではなかった。同じようなことは,約8万年前に北東アフリカの人類が拡散していくときにも起こったようだ。それは移住でもなければ,計画的な行動でもなく,ましてや緑豊かな牧草地を求めた集団脱出でもなかった。この点を強調するのは,北東アフリカからオーストラリアへと拡散していく人類の姿を,いまだに人類大移動のように描く者が多いからだ。人類がひとつの確固たるルートをたどったと考え,それを探すことは,化石記録の欠落を埋めるために19世紀の人々が躍起になって行ったミッシング・リンクの探索と同じくらい意味のないことである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.130
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

水不足の世界

ホモ・エレクトスから早期現生人類,およびそれ以降の人類への進化の大半は,水不足の世界,言い換えれば,水が環境における主要な制限要因だった地域で起きてきた。そのような環境では,広範囲に散らばった水源や,季節によって現れたり消えたりする豊かな緑を追求する能力を身につけることは,高い優先順位をもっていたことだろう。モザイク状の生息地があった当時,その中心には頑強なホモ・ハイデルベルゲンシスや,早期現生人類へと変化した彼らの子孫が暮らしていたが,進化が起きていたのはやはり周縁部でのことだった。そして,ますます広い地域で降雨と干ばつが繰り返され,季節性の草原との関係が深まっていくと,かつては周縁部と呼ばれていた土地で生き抜いた人類が運よく繁栄を勝ち取ることになるのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.108
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

突然の出現?

この新しい議論において,ある研究チームは「5万年前に現生人類が突如として現れた」と主張している。「生き残りに有利な突然変異の副産物として,行動の完全な現代化と,現代人の地理的拡大が生じたと考えるのは,まったく理にかなっている」と言うのだ。だが私はこの考え方に納得がいかない——私たちの祖先を一挙に現代的にした突然変異の証拠が皆無だからだ。それよりも,現生人類のものと識別できる行動が徐々に現れたというほうが,より説得力がありはしないだろうか。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.104
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

生息範囲

同様に,かつてはアフリカ中に拡散していたカバも,水源さえ確保できれば大地溝帯の北の延長線上にである中東の地をすみかにしていただろう。ヒトコブラクダにいたっては,もともとアフリカの動物ではない。現生しているヒトコブラクダはすべて家畜化されているため自然分布域は定かではないが,考古学的証拠によると,少なくともアラビア砂漠は含まれるようだ。カフゼーで多数見つかったダチョウの卵殻もまた,アフリカとのつながりを裏づけるために引用されてきたが,ダチョウもかつては北アフリカ全土に広がっていた。中東には1914年まで生息しており,現存するサハラ砂漠西部の個体群は砂漠ステップで生き延びている。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.99-100
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

肉食?

どのように入手したかはさておき,ともかく初期人類が動物の死骸から肉や骨髄や脂肪を摂取していたことに疑いの余地はなさそうだ。だが,どれだけ肉に頼った食生活をしていたかとなると,それはまた別の問題になる。なぜなら,大型哺乳類の骨は条件さえ整っていれば化石として形をとどめるが,それ以外の食料候補である植物や虫の死骸は時の経過とともに腐敗し,姿を消しやすいからだ。解体場の遺跡からは石器と草食動物の骨が見つかる。それによって「肉を食べる人類」という偏ったイメージが大きく膨らんだのだろうし,また私たちの目が極端に石に向けられたことから,人類にとって重要な歴史区分が「石器時代」と名づけられるまでになった。
 新たな遺跡の発見により,肉食や石器製作以外で,太古の人類が環境をどのように利用していたのかが垣間見られることもある。たとえば,イスラエルにある78万年前のゲシャー・ベノット・ヤーコブ遺跡では,食用の木の実,くぼみのあるハンマー,物を打つための台という取り合わせのユニークな出土品が報告されている。また,この遺跡では木片や植物素材も豊富に見つかっており,どの程度人類が植物を活用し消費していたかについて,期待できそうな手がかりを与えてくれている。ここからもわかるように,先史時代の人類の食生活において獣肉の重要性が明らかに誇張されてきたのは,たんに木の葉や枝よりも骨の方が残りやすいからなのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.83-84
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

進出の仕方

アフリカの外に最初に進出した人類は何かという問題については,これまで数えきれないほどの議論がなされてきた。たとえば,アフリカからアジアへと最初に向かったのはホモ・エレクトスであるとする主張もあり,それは次のような筋書きで語られることが多い。「ホモ・エレクトスは,長い脚と大きな脳を獲得した初めての人類で,道具をつくり,肉を求め,草深いサバンナでさかんに狩りをした。このような特徴のおかげで,彼らはアフリカを出てアジアへ定着することができた」。だが,仮説というには頼りないこの憶測は,現在わかっている証拠から十分に裏づけられたものではない。これもまた,有利な証拠はほとんどないのに誤りを認めようとしないひとつの例と言えるだろうし,それに加えて,その背後にある理屈は生物種の地理的拡大に対する根深い誤解を示しているように思える。
 シラコバトの例をもう一度よく考えてみよう。シラコバトは100年をかけてヨーロッパを横断したが,各々が大がかりに移動したわけではなく,親鳥から子,孫というように時間をかけてじわじわと新しい土地へと広がっていった——個体レベルではなく世代レベルで拡散したのだ。これと同様に初期人類たちも,暮らしやすい場所ならどこへでも少しずつ広がっていったのだろう。それは仰々しい「大移動」ではなかったはずで,そこに脚の長さを関連づけようとする意味が私には理解できない。地理的な拡大を促すものがあったとすれば,それはたんに,繁殖による個体数の増加と生息地への適合ではなかったか。アフリカから広がった最初の人類は,その祖先伝来の地を離れるためにマラソンのオリンピックチャンピオンになるのを待つ必要はなかった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.75
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

平均値と範囲

平均値を取り扱う難しさは,どの集団にもある「ばらつき」が無視されがちな点にある。現生人類の例で言えば,たしかに平均的な脳容積は1300〜1500ccかもしれないが,実際の範囲は950〜1800ccに及ぶ。ホモ・エレクトスの脳の大きさは800〜1030ccだから,「平均値」としては私たちのものよりは小さめだが,「範囲」としては重なりがある。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.66
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

脳の大きさ

今日,脳の大きさと知性の高低を直接結びつける者はいない。ただそれでも,時の経過とともに見られる脳の大型化は,進化の度合をはかる代替の尺度として利用されてきた。私たちの平均的な脳容積は1300〜1500ccで,ホモ・ハビリスのざっと2倍である。もちろん体も大きいが,それを考慮に入れて見積もったとしても,私たちの脳が比率としてずっと大きいのは間違いがない。ホモ・エレクトスは,ひとつの指標とされる1000ccという脳容積の壁を初めて突き破った。そこに身長の高さと直立歩行を加えれば,どこからどう見ても立派な人間だ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.65
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

ナックルウォーク

樹木が茂ったサバンナへと向かったヒトとは対照的に,チンパンジーとゴリラは森の奥深くにとどまった。そこでは,林冠と地面を行き来する効果的な手段を見つける必要があったので,チンパンジーらは四つ足で木の幹を垂直方向に移動することにしたが,そのような形の木登りに骨格を適応させたため,日本の後肢をまっすぐ伸ばす歩き方を永遠に失ってしまった。木のあいだを移動するのに,チンパンジーとゴリラは幹を登る縦の動きを地面を移動する横の動きに変え,文字どおり地面を水平に登る——こぶしを地面につけて歩く「ナックルウォーク」である。つまりナックルウォークは進歩であって,チンパンジーの祖先の歩き方でもなければ,初期人類の祖先の歩き方でもなかったというわけだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.56-57
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

いつ二足歩行が始まったか

景観は現在の地球に近づき,森林に覆われた温暖な世界は遠ざかっていった。アフリカは今より緑が多かったものの,熱帯雨林は縮小し,森も分散しはじめていた。第二の年代の前半に登場したラミダスは,先人の伝統を引き継ぐかのように,森林が多くを占めるモザイク状の環境で暮らし続けた。これが意味するのは,初期人類は森の中で生活しているときに,すでに地上を歩いていたということだ。人類が森を捨て,開けたサバンナに進出した瞬間に二足歩行がはじまったという古い考えはもはや用をなさない。二足歩行は,どうやら樹上で始まったようなのだ。
 この驚くべき結論は,オランウータンの歩き方を観察することによって導き出された。オランウータンには,ゴリラやチンパンジーにはないヒトとの共通点がある——まっすぐに立つ場合,チンパンジーとゴリラは後肢のひざが曲がるのに対し,オランウータンとヒトは,ひざをまっすぐ保ったまま立つのである。このような特徴は,枝の上を歩くオランウータンにいくつかの利点を与えた。たとえば折れやすい細枝を歩くときは,必要ならば重心を移動させながら思い切って後肢で立つことができ,安全のために手でしっかり別の枝をつかむこともできる。そうすれば片腕が自由に動かせるので,さもなければ手の届かなかった果実が得られるのだ。また,この方法で樹上を歩けば,木のあいだを渡るときにいったん地上に降りる必要がなくなる。
 これは,大型類人猿の共通祖先が身につけていた基本的な形のロコモーション[移動様式]と考えられ,東南アジアの熱帯雨林で今も同じような生活を続けるオランウータンに受け継がれてきた(その代償として,オランウータンは縮小した熱帯雨林に囚われてしまうことになったのだが)。おそらくオランウータンは,現在まで生き残った唯一のコンサバティブ類人猿であり,他のコンサバティブはどれも絶滅したか,生き方を変えてしまったのだろう。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.55-56
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

読み替え

新しい化石人類,初期人類,人類が科学論文に発表されるたび,私たちの進化の道筋はますます複雑で,わかりにくいものになっていくように思える。研究に用いることができるのは,ほんのわずかな,通常は不完全な標本ばかりで,その関係性を考える際には,必然的に多くの憶測が含まれることになるからだ。これはまるで,1万ピースのジグソーパズルの全体図を,たった100ピースから把握した気になるようなもので,結果的に行き着くところが,さまざまな化石をどうにか関連づけて現生人類までつなげた,雑多な進化の系統樹だということも少なくない。そうした解釈はやがて有力メディアによって独自に読み替えられ,あたかも疑いのない事実のように,雑誌やテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられる。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.41
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

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