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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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失われた遺伝性

第1節で述べたように,80〜90%は遺伝によって決まるとされる身長でさえも,遺伝子の関与の割合は少ないか,あるいはあまりに多数の遺伝子を想定しなくてはなりません。マーはこの状態を2008年に「失われた遺伝性」と呼び,以後,この言葉は広く用いられるようになりました。
 プローミンは失われた遺伝性を解決する方法を整理しました。1つは前述した不安やおそれの感情における候補遺伝子からのアプローチ。2番目はゲノム全体を見渡した全ゲノムシーケンスやDNAマイクロアレイや全ゲノム関連解析。いずれも特定の性状や疾患などについて,特定されていない遺伝子やスニップを広範に把握する方法です。3番目にエピスタシス(ある遺伝子の発現が別の遺伝子によって調節されたり影響を受けること。遺伝子ー遺伝子相互作用とも言われます)と遺伝子ー環境相互作用,そしてエピジェネティックスです。

土屋廣幸 (2015). 性格はどのようにして決まるのか:遺伝子,環境,エピジェネティックス 新曜社 pp.103
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180個で10%

全ゲノム関連解析の結果,成人の身長を決める遺伝子が180個発見されたのですが,これらの遺伝子全部でも,身長への影響は10%でしかないことが明らかになりました(2010年の報告)。現在では数千個の遺伝子を調べても,身長のバラツキの45%しか説明しないとされています。
 でも,もしそうだとするなら,あんまりだという気がします。遺伝によって身長が決まると言いながら,身長を決める遺伝子は数千個以上あるというのなら,個人の身長を説明しようにも説明のしようがありません。また,もしかして将来,身長を高くする薬を発明するとしても,これではいったい,身長を決定するどの要素を目標にして薬を開発するといいのか,目標の立てようがないでしょう。

土屋廣幸 (2015). 性格はどのようにして決まるのか:遺伝子,環境,エピジェネティックス 新曜社 pp.98

遺伝子と環境

これらの例から考えると,不利な遺伝子を持っていても,虐待を受けたり,ストレスの多い環境におかれなければ,これらの遺伝子の作用はおこらないので,遺伝子と環境は相互に作用していると考えられます。このことは子育てや教育学にも有用な知識となりますし,不利な遺伝子を持っていることが病的な状態につながる場合でも,薬剤による治療の可能性が考えられます。実際,遺伝子の発現を抑制したり高めたりする治療として,薬剤によるエピジェネティックな治療の可能性が検討されています。

土屋廣幸 (2015). 性格はどのようにして決まるのか:遺伝子,環境,エピジェネティックス 新曜社 pp.22-23

チンパンジーと同じ原理

だがもっとも大きい問題は,二種類の暴力——戦闘と襲撃——の区別をしないことにある。これはチンパンジーの研究で,きわめて重要であることが明らかになった。大量の死者を出すのは騒々しい交戦ではなく,卑劣な襲撃のほうなのだ。男たちの一団が夜明け前,敵対する集落に忍び込み,排尿のために最初に小屋から外に出てきた男に向けて矢を放つ。物音を聞いて出てきた他の男たちにも次々と矢が放たれる。さらに彼らは槍で小屋の壁を突き刺したり,入口や煙突めがけて矢を放ったり,小屋に火をつけたりする。村人がまだ目覚めたばかりで防御態勢をとれないうちに多くの人びとが殺され,男たちはあっという間に森の中に姿を消してしまう。
 こうした奇襲攻撃では,村の住民が1人残らず殺されてしまうこともあれば,殺されるのは男だけで,女は連れ去られることもある。敵を大量に殺すもう1つの有効な方法に,待ち伏せ攻撃がある。森の中の狩猟ルート沿いに身を隠し,敵の男たちが通りかかるとすばやく襲って殺すというやり方だ。さらにもう1つ,裏切りという戦略もある。敵と和解したふりをして宴会に招き,あらかじめ決めておいた合図で,無防備になった客を襲うのだ。うっかり単独で縄張りに入ってきた者に対しては,見つけたらその場で殺す,というチンパンジーと同じ原理が適用される。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.102

人間に近いのは

人類が平和を愛するボノボのような祖先から進化したという考えには,2つの問題がある。1つは,ヒッピー・チンパンジーの物語に心を奪われて本質を見失う危険があることだ。ボノボは絶滅危惧種であり,コンゴ民主共和国の危険な地域の人の近づけない熱帯雨林に生息しているため,これまで知られていることの大部分は,捕獲され餌を十分に与えられた若いボノボの小集団を観察した結果にすぎない。もっと年長で数の多い,餌も不足しがちで行動の自由のある集団を系統的に調査すれば,得られる結果はもっと陰惨なものになるのではと考える霊長類学者は少なくない。野生のボノボは狩りをし,敵意をもって対決したり,ケンカして互いを傷つける(おそらく場合によっては相手を死にいたらせる)こともあることがわかっている。したがって,ボノボがナミチンパンジーより攻撃性が低いことは間違いないものの——相手を襲撃することはないし,群れ同士が平和裡に交流することもある——,だからといって,どんな場合も例外なく平和だというわけではない。
 2つ目はより重要な問題だ。ナミチンパンジー,ボノボそして人類の共通の祖先はボノボに似ていた可能性より,ナミチンパンジーに似ていた可能性のほうがはるかに高い。ボノボは行動だけでなく,身体構造も非常に変わった霊長類である。頭は子どものように小さく,体重も軽いためにオスとメスの性差が小さい。それ以外にも子どもっぽい特徴があり,そのためにナミチンパンジーだけでなく,ほかの大型類人猿(ゴリラやオランウータン)とも異なり,ヒトの祖先であるアウストラロピテクスとも違う。その独特の身体構造は,大型類人猿の系統樹に置いてみると,ボノボが幼形成熟(ネオテニー)によって一般的な類人猿の進化の経路から離れたことが示唆される。ネオテニーとは,ある生物の成長プログラムが,成熟した個体に幼体の特徴(ボノボの場合には頭蓋と脳の特徴)が残るように修正されるプロセスのことだ。ネオテニーは種の家畜化(たとえばイヌがオオカミから分岐するなど)にともなって見られることが多く,自然選択が動物の攻撃性を減少させる際の経路となる。ランガムは,ボノボの進化における主要な原動力は,オスの攻撃性の減少が選択されたことだと主張する。ボノボは大きな集団で食べ物を採り,単独で行動する狙われやすい個体はいないため,ボノボはかなりの変わり者であり,われわれ人間はナミチンパンジーのほうに近い動物から進化した可能性が高いと考えられる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.94-95

チンパンジーの殺し合い

チンパンジーが殺しあうことをグドールが最初に報告したとき,専門家の反応は懐疑的だった。きわめて珍しい現象で,病理的な兆候ではないか,あるいは観察しやすくするために霊長類学者が餌を与えたことの影響ではないか,と考えられたのだ。30年後の現在,殺しをともなう攻撃はチンパンジーの正常な行動レパートリーの1つであることに,もはや疑いの余地はない。霊長類学者の観察により,群れ同士の交戦で殺されたことが確認または推測された個体はおよそ50頭,群れの内部の争いでは25頭以上にのぼる。殺しが報告された群れは少なくとも9つあり,そのなかには餌付けされたことのない群れも含まれている。なかにはオスの3分の1以上が死んだ群れもあった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.92

別の山に登る

動物の知性や心の獲得過程は永い物語であろう。しかし,その物語に登場する知性に至る山は1つではなく,地球という星の中には別の山があった。人知れずその別の山を登っていたのがイカだったのではないだろうか。違う山を登るだけあり,彼らの姿形は本家の霊長類とはずいぶん異なる。しかし,そのなせる業はどこか似ている。大きな脳を基板に学習し,記憶し,ときに仲間と社会をつくり,それらをもとに生き延びる。彼らはまた別の知的世界をつくり出しているとはいえないだろうか。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.312

別の見方

永い生物学的歴史で考えた場合,知性がより洗練され,突出していったのは,魚類,爬虫類,両生類,鳥類,哺乳類の出現という脊椎動物の歴史に呼応し,霊長類の真猿類から類人猿に至る流れの中にこそ読み取ることができる。そして,その一連の道程を通じてぼくたちヒトの心が獲得された。これが知性や心についての大枠でのとらえ方かもしれない。そもそも,脊椎動物と無脊椎動物という家系の相違からしてその歩みは異なったもので,霊長類以外の面々,とりわけ無脊椎動物の一群に「霊長類」ということばを称号的に与えることなどナンセンスである。「海の霊長類」への違和感にはこのような見方が根ざしている。なるほど,これは首肯できる見方ではある。
 しかし,別の見方も可能ではないだろうか。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.309-310

マークテスト

ここで1つ説明しておかねばならない。チンパンジーやオランウータンなどの類人猿では,おでこなどにつけられた染料を実験個体が鏡を見つつ手でさわればマークテストに合格,つまりは鏡像自己認識があると判断される。しかし,考えてみれば,これはヒトと体制が似ている動物だからこそできる所作だ。というのも,たとえばハンドウイルカには手がない。仮に,彼らは自分の体にマークがつけられていることを鏡により「発見」しても,マークにさわることはできない。そもそもさわる手を持っていないからだ。この場合は,マークをつけられたイルカが,マークがついていないときよりもより長く鏡を見ていたとか,マークを見るために体の向きを鏡の前で変えたとか,そういうことをマークテストの合格の判定に用いる。つまり,個々の動物の行動特性に合った判定の仕方をするのである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.238

鏡のインパクト

隔離飼育したアオリイカは,鏡を水槽の中に入れるとすぐにそれに気付いたが,やがて鏡の前で鏡面と自身の体を平行にして定位した。アオリイカは,その体側にわたる鰭をひらひらと動かすことで1つの場所にとどまることができる。ホバーリングと呼ばれる行動だ。体を鏡面に平行にして,じっと水中の同じ箇所にとどまり続けている。つまり,このイカは鏡の前で固まってしまったのだ。英語でいうところの“フリーズ”である。
 ここで,体を鏡面に対して平行にするということは,鏡面に向いている片方の目で鏡面に映る自分自身を見ることができるということである。実際に,このイカは,じっと同じ姿勢を保持して片方の目で盗み見るようにして自身の鏡像を見続けていたのである。なんだか,張りつめたような空気が流れている気がした。こんな行動をこのイカが示すのは初めてのことで,隔離期間中も集団飼育の個体と特段に変わることなく,狭いとはいっても水槽の中をごく普通に泳いでいた。明らかに,長い隔離期間のあとに鏡を見たことにより引き起こされた特異な行動である。
 鏡を示した翌日に,いつものように餌をやろうとして隔離水槽の蓋を開けたぼくは一瞬息をのんだ。件の隔離個体のイカは水槽底に横たわり死亡していたのだ。隔離期間を通じてこのイカが衰弱していたわけではない。毎日,ごく普通に餌を食べ,鏡提示当日もいつも通り餌を食べ,遊泳していた。つまり,この個体はきわめて正常であったのだ。死亡個体をすぐさま解剖してみると,成熟したオスであり,胃の中に大量の海水が入り込み大きく膨れていたことを除いて,特段の所見はなかった。隔離個体のフリーズとその死は,衝撃的な結果であった。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.226

真相は

繰り返し,繰り返し鏡面に近づいてさわる行動。それは,アオリイカが鏡に映る自身の像の動きとそれを見ている自分自身の動きとを何度も何度も照らし合わせて確認する自己指向性行動の現れともとらえることができるように思う。仮にそうであれば,それはアオリイカが鏡像を自分だと認識していることを強く示唆するものとなる。さて,真相はどうであろうか。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.222

イカのなかでも

改めて考えると,鏡像自己認識を探るというのは,イカが自分と他者とを見わけることができているのかと問いかけでもある。なぜそのような問いかけをするかといえば,イカが自分をわかっているかもしれないというそれ自体の興味に加え,もしもイカが自分のことを認識できているならば,それは彼らがもつ社会(あるいは,もつかもしれない社会)について何かしら物語ると考えられるからだ。つまり,自己を認識し他者を認識できるという能力は,複雑で発達した社会をつくる上での強力な土台となり,それ自体が彼らの社会のもつ特性のいくつかを雄弁に語ることができる,イカの社会を知る重要な手がかりになる,と考えられるからだ。
 この考え方にしたがえば,鏡像認識をもつと想定されるのは社会性が発達しているイカにおいてだ。それは,鏡像自己認識と社会性とに強い相互関係を想定していることからすれば自明のことでもある。この点からすれば,先に登場したヨーロッパコウイカが属するコウイカ目の仲間は,単独で底生性,まれにごくわずかの個体で群れをつくることがあるということから「半社会性」と区分されているので,鏡像自己認識を調べる対象としてはあまりふさわしくはない。むしろ,ここでは「社会性」と区別されるイカをこそ対象とすべきである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.214

社会性と大きな脳から

ここで,この仮説をもう一度よく考えてみる。同種に属する他者とうまくやり合う,自分に都合がよくなるように交渉する,ときには相手を操作する,ということを行うためには,そもそも他者と自分とを厳然と区別できていなければならないだろう。「己を知らずして何事かなさん」である。ということは,「自分という存在」をわかっていることが前提となる。自分を自分であると認識する能力。つまりは自己認識である。
 こういった考えから,自己認識という能力は「発達した社会性」とそれを可能にする身体的な基盤の「大きな脳」という2つの要素がベースになる,と考えることができる。なるほど,ハンドウイルカもこういった2つの要素をもっている。ここで,鏡像自己認識が確認された6種の動物を改めて眺めてみると,いずれも大きな脳を持っており,その内容は個々に違うものの6種の動物とも発達した社会性をもっている。
 さて,本書の主人公のイカである。鏡像自己認識が確認された動物たちは互いにずいぶん異なるとはいえ,全員が脊椎動物というグループに属している。対して,イカは無脊椎動物。そこには越えがたい厳然とした出自の違いがある。しかし,よく考えてみてもらいたい。その脳の大きさにおいて,あるいは,その社会性の発達度合いにおいて,そして,その賢さにおいて,イカはさっと素通りされるような連中であったろうか。彼らは,無脊椎動物では例外的ともいえる「巨大脳」をもち,そのことを反映するかのように群れという集団にのいて,あるいは繁殖や摂餌といった場面において「発達した社会性」をうかがわせてくれた。つまり,鏡像自己認識の前提となる2つの要素をそのうちに備えているただならぬ連中なのである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.205-206

ゾウの鏡像自己認識

エモリー大学のフランス・ドゥ・ヴァールらは,アジアゾウでマークテストを行い,実験個体がこのテストにパスしたことを報告した。ゾウでも鏡像自己認識が認められたのである。ゾウというと,体が大きくてなんとなく温和でのんびりしたイメージであるが,実は彼らの記憶と学習に関する能力は高く,ゾウは知性的な動物として動物行動学者には認識されている。そういう意味では,ゾウの鏡像自己認識はあり得る結果であった。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.203

鏡像自己認識できるのか

哺乳類という意味では,ハンドウイルカはチンパンジーやオランウータンとも同じ仲間といえる。しかし,もう少し分類を細かくみれば,イルカと類人猿はずいぶんと違っている。ハンドウイルカは鯨類という分類群に属している。鯨類,つまりクジラの仲間である。クジラというと,あの潮を噴く大きなクジラを即座に思い浮かべるかもしれないが,実際にはイルカもクジラであり,クジラは歯があるハクジラと,歯がなくて髭でプランクトンを漉して食べるヒゲクジラの仲間に二分できる。イルカはハクジラの仲間で,体のサイズでわけると小型鯨類ということになる。いずれにしても,類人猿とは分類も系統も大きく異なるものである。そもそも,イルカは海という,類人猿から見ればまったくの別世界に暮らしている。そのイルカが,鏡に映る自分を自分だと認識できるというのだ。
 このことは何を意味するのか。鏡像自己認識という能力は,一部の類人猿だけがもつ特殊な能力ではなく,分類群を越えていろいろな動物に認めることができる能力,ということを意味しているのだ。実際に,ハンドウイルカに続きほかの動物でも鏡像自己認識が報告されるようになってきた。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.202-203

タコを研究対象とすること

ぼくが強く感じたもう1つは,本来はタコを食さない英国人であるヤングらがタコを対象としたという事実である。食さないどころか,英国ではタコはデビルフィッシュとして忌み嫌われている。確かに,よくよくみればタコは腕が8本もあり,そこに吸盤がつき,かつそれがにゅるにゅると動く。なんともグロテスクである。ぼくも含めて日本人はタコをたこ焼きとか寿司のネタという食べ物として見たり,漫画のコミカルなキャラクターとして見たりはしても,グロテスクとは見ないであろう。むしろある種の親近感さえ抱くのではないだろうか(実際に生きているタコに触るのはイヤだという人も多いだろうが)。
 そのように考えると,英国人がどんな研究内容であれタコをその対象とするのは異質なことであり,異例中の異例ということではなかったかと思う。とくに,ヤングらが実際に研究をしていたのは,今から半世紀も前のことである。今でこそイギリスにもSushi Barがあるが,その当時は魚介類を生で食べることさえイギリスではまれであったろう。そういう時代にタコはデビルフィッシュそのものだったと思う。それをあえて研究対象とするのは,勇気さえ必要だったのではないかと想像する。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.191-192

実験しやすさ

ヤング学派による一連の仕事を見るとき,ぼくは2つのことを強く感じる。1つは実験動物としてのタコが有するアドバンテージである。ある動物の行動について詳しく知ろうとしたとき,とくにその行動がどのようなメカニズムにより発現するのかという機能面を明らかにしようとするときには,動物にさまざまな操作をすることが一般的である。たとえば,学習と記憶が脳内のどこで制御されているのかを探るには,それと思しき脳内の部位を人為的に破壊して,その後も記憶が衰えないのか,あるいは記憶障害が現れるのかといったことを観察するのが常套手段となる。この場合,対象とする動物(つまり実験個体)が,そのような操作を施したあとも元気に生きていることが前提となる。操作により死んでしまってはもとも子もない。
 しかし,実験的操作にはしばしば身体に大きな影響を与え,ときに死に直結してしまう恐れのあるものもある。そこまでいかずとも,相当にストレスを与えるのではないかと危惧されるものも多い。とくに,行動制御のセンターである脳になんらかの操作を加えるというのは,心理学的な実験が多く行われている霊長類や齧歯類でも簡単なものではないであろう。ここにきて,タコは意外にこのような操作に強いということがヤング学派に大きな前進をもたらした。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.189-190

群れで生活

スルメイカとヤリイカに見られたように,一口にイカの群れといってもその規模や中身は大きく異なっている。そして,それは彼らの系統的な位置に対応しているように思われる。別のいい方をすれば,「イカにおける社会性はその系統に現れている」といえるのではないだろうか。複雑な環境に暮らすヤリイカは社会性が高く,それは彼らの示す統制のとれた群れ行動に現れている。一方のスルメイカは,群れという点ではヤリイカよりも構成員の数が多い大規模なものをつくる。しかし,それは外洋を回遊する上で機能する集合体で,必ずしも統制がとれている必要はなく,同じ目的地に向かうもの同士が集まってさえいればよい。
 もちろん,大勢の同種が集まっていることで,外敵に襲われた際に自身が犠牲になる確率が低くなるといった群れのもつメリットは享受することができるであろう。しかし,スルメイカの群れは,群れを構成するメンバー個々が互いを認識し合い,それゆrにある種の役割を分担し合えるような,先にアメリカアオリイカで見たようなより発達した機能をもつ群れではないのかもしれない。ひたすら水が広がっているだけの外洋環境では,そのような“小まわりのきく”群れは必要ないと思われるからだ。いうなれば,同じ外洋を回遊するマグロなどの魚群と同じような意味合いの群れをスルメイカはつくっているのかもしれない(もっとも,マグロに見る魚群がはたしてどのような機能をもつものなのか,その詳細は必ずしも解き明かされてはいないので,結論は将来の研究結果を待つべきだが)。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.92-93

バスケットボールくらい

さて,イカの眼はどうかというと立派なレンズ眼である。しかも,ぼくたちヒトと構造がきわめてよく似ている。彼らは,無脊椎動物に所属しつつもその仲間とは異なり,脊椎動物と同じレンズ眼を所有しているのだ。同門の貝の仲間が複眼はおろか眼点という名のきわめて原始的な構造の眼しか持っていないことと比べても,これはかなり特異なことだ。しかも,イカの眼は体のわりにはそのサイズが大きい。イカの体をヒトに置き換えてみれば,イカはバスケットボール大の眼をもっていることになる。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.60

飼育が難しい

そもそも「イカが泳いでいるところを見たことがありますか?」という質問をされて,「あるよ,何度も」と答えられるのは,経験を積んだダイバーかイカ学者だけである。世界的に見ても,生きたイカを水槽に,しかも長期にわたりキープし続けることができる場所は,ごくごく限られている。水族館でさえも,生きたイカを常時展示しているところは数えるほどだ。むろん,イカの養殖もまだ行われていない。漁業大国日本においても,である。
 海でたくさん獲れるイカを飼ってみようという試みは,当然のようにして過去に行われている。それは「飼うぞ!」といった肩肘張ったチャレンジではなく,海水を張った水槽にポンと放り込みさえすれば,魚や蟹のようにイカも当然,飼えるだろうという,およそ無意識的な発想にもとづく試行であったかもしれない。しかし,意に反して,イカを水槽に入れると半日もしないうちにポロリと死んでしまう。何度繰り返しても結果は同じである。海に踊るイカは,思いのほかに弱い存在だったのである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.35-36

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