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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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地理的には重なるが

 イエイヌの遺伝子プールには,奇妙なことが起きている。純血種のペキニーズやダルメシアンのブリーダーは,1つの遺伝子プールから別の遺伝子プールへの交雑を妨げるために,ありとあらゆる手を尽くす。何世代にもわたる種付け犬の名簿が残されて降り,純血種ブリーダーにとって混血は,起こってはならない最悪の出来事である。犬の各品種は,あたかも彼ら自身の小さなアセンション島に幽閉され,他のあらゆる犬種から引き離されているかのようである。しかしこの場合,交雑を妨げているのは,青い海原ではなく人間のルールにほかならない。地理学的にはすべての犬種は分布が重なっているが,飼い主が交尾の機会を規制しているために,彼らにとっては孤島で暮らしているようなものである。もちろん,たまにルールは破られる。船に乗ったネズミがアセンション島に密入国するように,たとえば,ホイペットのメスがつながれた紐から逃げて,スパニエルと交尾するのである。しかしその結果生まれた雑種の子イヌは,どんなに可愛いイヌだろうと,純血ホイペットという札のついた島からは放逐される。この島は純粋なホイペットの島でありつづけるのだ。他の純血のホイペットたちが,ホイペットという札のついた仮想の島が汚されることのない存続を保証してくれる。1つ1つの純血種にあてられた人工的な「島」は数百もある。それぞれの島は,地理的にどこにあるかを言えないという意味で,仮想の島である。純血種のホイペットやポメラニアンは世界中の異なる多くの場所で見つかり,ある地理的な場所から別の場所への遺伝子の移送には自動車,船,飛行機が使われる。ペキニーズの遺伝子プールである仮想の遺伝的な島は,ボクサーの遺伝子プールである仮想の島やセントバーナードの遺伝子プールである仮想の島と,地理的には重なり合っているが,遺伝的には(雌が逃げ出した場合を除いて)重なっていない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.87-88
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どうしてまだチンパンジーが

 第二に,ここでは,現生のある動物を現生の他の動物とつなぐ連鎖について語っているということに注意してほしい。断じてウサギをヒョウに進化させているのではない。私たちが,ヘアピン動物まで進化を逆にたどり,そこからヒョウに向かって進化を進めていると言うことはできると思う。後の章で見るように,残念なことだが,現生の種は現生の種に進化するのではなく,あくまで他の種と共通の祖先をもつ,つまり親戚どうしなのだということを,繰り返し何度も説明する必要がある。これはまた,後でわかるように,「もし人類がチンパンジーから進化したのなら,どうしてまだチンパンジーがいるのですか?」という,いらいらするほど頻繁にだされる訴えに対する答えでもある。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.77

進化の証明

 進化はけっして「証明され」ていないという主張について言えば,証明というのは,科学者たちがこれまで,「それに信を置いてはいけない」とさんざん脅かされてきた手法なのだ。影響力のある哲学者たちは,科学において私たちは何一つ証明することはできないと語る。数学者は物事を証明できる——ある厳格な見方によれば,数学者は証明ができる唯一の人間である——が,科学者ができるのは,せいぜい頑張っても,一生懸命に試みたのだと指摘しながら反証に失敗するくらいのことだ。月は太陽より小さいといった異論の余地ない理論でさえ,たとえばピュタゴラスの定理を証明できるようなやり方で,ある種の哲学者を満足させるようには証明することができない。しかし膨大な量の証拠の蓄積があまりにも強力に支持しているので,それが「事実」の地位にあることを否定するのは,衒学者以外のすべての人間にとって,とてつもなく馬鹿馬鹿しく思える。同じことは進化についてもいえる。パリが北半球にあるのが事実であるのと同じ意味で進化は事実である。たとえ詭弁家どもが町を支配しているとしても,いくつかの理論はまっとうな疑問を差し挟む余地がないものであり,私たちはそれを事実と呼ぶ。1つの理論をよりエネルギーを注いで徹底すればするほど,もしその攻撃にたえて生き残ったとき,その理論は,常識がこころよく事実と呼ぶものに,いっそう緊密に近づいていくのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.56-57

心と発見

 私たちはなぜ自然選択を誤解するのか,そして,キリスト教原理主義が根付いている環境ではなぜ天地創造説がこれほど幅を利かせているのか?答えは,私たちの心が生来,天地創造説びいきであるからだ。結局のところ,天地創造説を生み出したのは人間の心であるのに対し,自然選択による進化は発見された事実なのである。創世記が書かれていなくても,別の創世の物語が紡ぎだされていたに違いない。インカ人もエジプト人もアステカ人も皆,神秘的な創世神話を持っていた。消滅した文明にはことごとく創世神話があったらしい。どの文化にも創世の物語があるのは,人間にもともと,世界をパターン,目的,因果関係と結びつけて理解したがる傾向があるからだ。わたしたちの自然な心の設計図は,それぞれに異なるさまざまな動物と植物が地球上の生命を造り上げていると理解しているのに,進化は1から10までそれと矛盾する。目的も方向性もないくせに極めて多様な生命体を生み出せるとする理論など,私たちはもともと信じるようにはできていない。挙げ句の果てに,人間は皆,バナナの親戚だと信じろと言われては,たまらないではないか。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.113
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

(引用者注:この前のページで,「人間の遺伝子の98%がチンパンジーと同じだが,50%はバナナと同じだ」という話が出ている)

直感に反するダーウィン説

 ダーウィン説とはどういうものか,考えてみよう。まず,世界は常に変化しているということを受け入れねばならない。地球上の生物は生き延びるために,その世界の変化に適応する必要がある。適応が起こるのは,生物の各世代が前の世代から少しばかりランダムに変異した遺伝子構造を受け継ぎ,この変異が個体間のわずかな差を生むからである。つまり,繁殖競争が行われている環境の圧力にうまく対処できる能力を備えた個体とそうでない個体が出てくるわけだ。自然選択が起こるのは,選ばれた個体のほうが生き延びて,子孫に有利な遺伝子を伝えられる可能性が高いためである。時が,——それも,長い長い時が流れるうちに,自然の手によるこの段階的な選択プロセスが積み重なって,大きな変化や多様性へとつながる。
 かいつまんで言えば,これがダーウィンの進化論だ。この星の多様性について実に多くのことを説明する,単純かつ的確で説得力のある理論である。しかし,リチャード・ドーキンス自身が嘆いたように,人間の脳はどうも進化を誤解するように設計されているらしい。彼の言うとおりだろう。進化はいまいましいほど直感に反しているのだ。たとえば,生物の多様性にはいつでも簡単にパターンを見いだすことができる。ところが,私たちに動物を集団として捉えさせるそのプロセスが,集団であるはずの動物たちをそれぞれ別個の生き物とみなせと命じるのだ。人間の寿命は比較的短く,膨大な時の流れは体験できないため,進化が進む様子を観察することはできない。しかも,素人の身では,生物が変化してきた過程を見て取れる歴史的記録をひもとく贅沢など許されない。科学者ではない私たちが頼れるのは,生き物に関する直感だけだ。それなのに,進化はその直感に逆らっている。人間のように複雑なものから細菌などの単純なものに至るまで,生きとし生けるものすべてが原点を同じくしていることなど,どうしてあり得る?設計者なしで,どうして複雑な設計が生まれよう?進化は何とも理解しがたいプロセスだと思えるのは,ほかでもない,進化が心の設計図に合致しないからである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.108-109
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

地球の皮膚

 土壌とはまさに地球の皮膚——地質学と生物学が出会う場所だ。数十センチ以内ということは,土壌が占めるのは地球の半径6380キロメートルのうち,1000万分の1をわずかに超えるにすぎない。一方,人間の皮膚は厚さ2ミリメートルほど,平均的な身長の人間の1000万分の1弱である。割合から言えば,地球の皮膚は人間の皮膚よりもはるかに薄く,壊れやすい層なのだ。身体を保護する役割を持つ人間の皮膚とは違い,土壌は岩石を砕く破壊力を持った覆いとして機能する。地球の誕生以来,土壌生成と侵食のバランスのおかげで,生命は風化した岩石の薄い殻を頼りに生きてこられたのだ。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.30

土の中の発見

 自分の測定をもとにダーウィンは,典型的なイングランドの丘の斜面10メートルにつき,1年に0.5キログラムの土壌が斜面の下へ動いていると算出した。そしてイングランド全土で,目に見えぬミミズの大群が土壌を再処理するにつれて,一面の泥がゆっくりと芝に覆われた丘の斜面を這い降りているのだと結論した。イングランドとスコットランドのミミズは,ひっくるめてほぼ5億トンの土を年間に移動させている。ミミズは数百万年かけて土地を作り変えることができる大きな地質学的な力だとダーウィンは考えた。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.14

ダーウィンの研究

 チャールズ・ダーウィンの最後にしてもっとも知られざる著書は,特に物議をかもすようなものではなかった。1882年に死去する1年前に刊行されたこの本は,ミミズがいかにして泥と朽ち葉を土壌に変化させるかを主題とするものだった。この最後の著作にダーウィンが記録したことは,一生かけてつまらない観察をしたと思われかねないものだ。それともダーウィンは,この世界の根幹に関わる何かを発見したのだろうか——晩年を費やしても後世に伝えねばならないと思う何かを。耄碌して書いた珍妙な著作として片づける批判的な者もあったが,ダーウィンのミミズに関する本は,私たちの足元の大地がミミズの体を通じていかに循環しているか,ミミズがイギリスの田園をいかに形成しているかを探るものだった。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.10

分類するもの

 分類学者は生物個体や種を分類しているのであって,DNAなどの分子を分類しているわけではないから,DNAによる分類体系が,自然言語に代表される類似に関する直観(これは主として形態の類似に関する直観である)と矛盾すると,自然分類体系としては具合が悪いことになる。
 私のようにDNAの相同性や分岐による分類は,体長による分類とさしてレベルが違わない人為分類だと思っているものにとっては,分類と分岐は原理的には全く関係がないと思えるけれども,極端な歴史主義の呪縛から自由でない人々は,何としても分岐を分類の基準にしなければならないと信じている。
 ところが何度も言うように形態は分岐とは直接関係がない。そこで,形態の中に分岐パタンを反映する形態と,そうでない形態があると勝手に決めて,後者を無視し,前者だけで分類をすれば,歴史主義的な形態分類ができるという話になってきてしまったのである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.120-121

インチキ臭い

 ところで,アフリカ人と中国人が事実として,長い期間交叉を起こさずに独立に進化(形態変化)したとしよう。あるとき出合ってみたら,交叉が不可能だったとしよう(もちろん,現実はそうではないが)。交叉が不可能になった要因を特定することはさしあたって不可能だから,この場合は分岐をもって交叉不能の原因であるかのように思い込むことができるわけである。すなわち分岐は種を作る。もちろん実際には,実は分岐が起こっていないのだと,言う他はないのである。すると分岐が起こっていなくとも形態が変化するわけだから,形態変化の原因は分岐では決してあり得ない事になる。
 結果として分岐が起きた(交叉が生じなかった)時の,二系列の形態の差異の原因は分岐であると言い,結果として分岐が生じなかった(交叉が起きた)時の,二系列の形態の差異の原因は分岐でない,と言うのはどう考えてもインチキくさい。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.116-117

ウイルスは生物に入るか

 もう少し明示的な名を使ってみよう。たとえば,自己複製するものは生物である。子供のできない人は生物ではなくなるのではないかという疑問は,言い方を少し変えれば解消するとして(自己複製されたものが生物である),困るのはウイルスである。
 ウイルスはDNAまたはRNAを含む微小なタンパク質の袋で,自力では自己複製ができず,必ず,他の原核生物や真核生物の中に入り込んで,これらの代謝機能を利用して自己複製する。トリヴィアルな言い方をすれば,ウイルスは他の細胞に寄生することによってのみ生きている。もちろん,このような言い方が成立するためには,ウイルスは生物であるという前提が必要になる。
 ところがよく知られているようにウイルスは単独でいる時には代謝をしていない。別の言い方をすればエネルギーの出入りがない。エネルギーの出入りがない点では,そこいらへんにころがっている本や椅子と同じである。単独でいる時のウイルスは単なる高分子に過ぎない。場合によっては結晶になってしまう。我々のナイーブな感覚では結晶になるようなものは鉱物であって生物ではない。
 だから,たとえばウイルスがカブトムシぐらいの大きさがあれば,ウイルスは生物であるとする言説は成立しない。ウイルスが生物であるとする説がもっともらしくみえるのは,ウイルスが見えないからである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.28-29

ホモ・ディクティアス

 私たちは別の見方を提案する。ホモ・ディクティアス(ラテン語で「人間」を意味するhomoと,ギリシア語で「網」を意味するdictyからの造語),すなわち「ネットワーク人」は人間の本質に関する一つの見方であり,利他精神と処罰感情,欲求と反感がどこから生まれるかを解き明かそうとするものだ。こうした視点をとれば,人間の動機を純粋な利己主義から切り離すことができる。私たちは他人とつながっているがゆえに,また他人を思いやるよう進化してきたがゆえに,行動を選択するにあたって他人の幸せを考慮するのだ。そのうえ,ネットワークへの帰属を重視するこうした視点をとることによって,人間の欲求についての理解に,重要な要素を正式に含めることができる。すなわち,周囲の人びとの欲求である。これまで見てきたように,健康にかかわる行動から音楽の好み,投票の仕方に至るまで,すべてにこの見方が当てはまる。私たちは,自分とつながりのある他人の欲するものを欲するのだ。

ニコラス・A・クリスタキス,ジェイムズ・H・ファウラー 鬼澤忍(訳) (2010). つながり:社会的ネットワークの驚くべき力 講談社 pp.278-279
(Christakis, N. A. & Fowler, J. H. (2009). Connected: The Surprising Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives. New York: Little, Brown and Company.)

月と体

 ついでながらこの話は,潮汐にかんするある一般的な誤解を解消してくれる。人間は直接潮汐の影響を受けると考えている人がいる。私がよく聞く話は,人間は,大部分は水でできていて,水は潮汐力に反応するというものだ。しかし,この考えはちょっと変だ。何しろ,空気や固体地球も同じように潮汐の影響を受ける。しかしもっと重要なことには,人間の体は小さすぎて,潮汐から目立った影響を受けることはない。地球に潮汐があるのは,直径が1万数千キロメートルと非常に大きいからだ。これだけの直径があるおかげで,月からの引力の差が生じるのだ。身長2メートルの人でも,頭と足の間の重力差は,わずか0.000004パーセントにすぎない。地球全体に働く潮汐力は,これの何百万倍以上もある。だから言うまでもなく,人間の身体に作用する潮汐力ははるかに小さく,測定不可能なのだ。実際には,起立した姿勢では身体が自然に縮むので,潮汐力の影響は完全にはわからなくなってしまっている。あなたの身体では,潮汐で伸びるよりも,重力で縮むほうが大きいのだ。広大な湖でも潮汐の影響はほとんどない。たとえば,五大湖の場合,潮汐による水位の変化はわずか4,5センチメートルだ。もっと小さい湖なら,変化はさらに小さくなるだろう。

フィリップ・プレイト 工藤巌・熊谷玲美・斎藤隆央・寺薗淳也(訳) (2009). イケナイ宇宙学:間違いだらけの天文常識 楽工社 pp.102-103

野口英世の場合

 アメリカの医学研究の創始者のひとり,サイモン・フレクスナーの支持を受け,世界的な名声を得た野口英世の場合をとりあげてみよう。赤痢菌を初めて分離したフレクスナーは,ニューヨークのロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)の創設に貢献した。彼の指導の下に,この研究所はウイルス病に関する研究で世界の中心となった。
 フレクスナーは1899年に日本を訪れた時,医学研究での成功に燃えるような情熱を抱いていたこの野心的な和解日本人研究者に会った。その後,野口はアメリカにフレクスナーをたずね,彼の下で科学のスーパースターになったのである。フレクスナーの足跡をたどりながら,数多くの病気の原因となる微生物を分離し続けた彼は,梅毒,黄熱病,小児まひ,狂犬病,トラコーマの病原体を培養したと報告し,約200篇(当時としては驚くべき数だった)の論文を発表した。
 野口は1928年に亡くなったが,数々の業績により,医学研究者として国際的な名声を得た。研究所の同僚で,優秀な病理学者のシアボールド・スミスは「最も偉大とは言えないまでも,野口はパスツールやコッホ以来の微生物学における偉大な人物のひとりとして脚光を浴びるであろう」とはっきり述べていた。
 パスツールやコッホの研究は時の試練に耐えたが,野口の研究はそうではなかった。種々の病原体を培養したという野口の主張は,当初こそ丁重に議論されたが,その後はひっそりと,長く暗い忘れ去られた研究の回廊へと追いやられてしまった。彼は,畏敬していた厳格な師,フレクスナーのために,顕著な業績を規則的に生み出す必要に迫られていたのだろう。彼の仕事の多くが誤りであったことの理由が何であろうと,生存中には,彼の研究に対してほとんど異議が唱えられることはなかった。フレクスナーの弟子として,また,最も権威ある研究所の花形として,彼はまさにエリートであった。それによって,欠陥を見つけだす審査から免れたのだ。
 彼の死から50年後,彼の業績の総括的な評価が行われたが,ほとんどの研究がその価値を失っていた。この特異な事例を調査したある科学評論家は,「研究者がいかに優秀であっても,科学上の報告に対しては充分な検討がなされなければならないと言えるかもしれない」と語っている。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.150-151

人間は代わりにならない

 なかには,長い年月にわたる進化の過程で肉食動物がどんな役割を果たしていたにせよ,その抜けた穴は最後に登場した全能の生物,すなわち人間のハンターによって十分埋められると考えたがる人もいる。ある種のスポーツマンと狩猟鳥獣を扱う団体はひとつ覚えのようにこう言う。「殺すのはわたしたちに任せろ。そうすれば,群れのバランスは保ってやろう」。ライフルを構えたハンターが森で最後の捕食者になる可能性があるのなら,まず人間に大型動物と同等のはたらきができるかどうかを調べておいたほうがいい。
 確かなのは,今日人間が使う武器には,桁違いの殺傷力があるということだ。狩猟用の弓が射る矢は,秒速90メートルで飛ぶ。ライフルの弾の速度は音速の2倍から3倍だ。そのような銃弾と高性能の望遠鏡があれば,350キロ近いヘラジカを,400メートルの距離をあけて気づかれずに撃つことができる。極端な話,落とし穴と針金の罠をしかけておけば,寝ている間にゾウを殺すことさえできるのだ。
 猛獣ハンターの嗜好を調べてみると,アフリカでも北アメリカでも同じような,それほど驚きもしない結果が出る。戦利品は立派なほどいいのだ。より大きく見栄えがよく,強そうなオス,つまり遺伝子集団の最上の部分をハンターたちは狙う。逆に肉食動物は,効率と自分の安全を考えて,幼いものや年老いたもの,脚が不自由だったり弱っていたりする獲物を襲う。また,スポーツとしてのハンティングは,数週間という狩猟シーズンが終わると,次の解禁日まで10か月から11か月の間,ヘラジカは好きなように川辺をうろついていいということになる。その間にシカは若木を食べつくし,茂みをぬかるみに変えてしまうだろう。また,ハイイログマのような死肉も食べる動物——コロラドにまだ残っていればの話だが——にとっては,春先に子どもに食べさせるものを見つけにくくなる。ハンターが横行する秋にしか動物の死骸が残されないからだ。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.290-291

スライムの台頭

 公正を期して,もうひとつの,そして多数派の捕食者グループにも触れておこう。舞台は海のなかだ。最近の例をひとつ挙げれば,ノースカロライナ沖ではこの30年間でオオメジロザメ,イタチザメ,メジロザメ,シュモクザメが乱獲され,今残っているのはかつての1パーセントから3パーセントにすぎない。大型のサメが姿を消した結果,その獲物となっていた物断ちが桁違いに数を増やした。小型のサメやエイの仲間である。貝を好むウシバナトビエイは約4000万匹にまで増え,その大群が東部沿海の海底をさらうせいでハマグリやカキの水揚げが激減している。大型のサメが消えてエイがのさばるようになり,100年の伝統を誇るノースカロライナ州のホタテ漁は廃れた。
 そして,科学界から発せられた不吉な警告を受け,世界中の漁師たちがサメを迫害しないことに同意した……というのは嘘で,実は正反対だ。違法漁業が横行する外洋では,毎年7300万匹もの大型ザメが捕獲され,ヒレだけを目当てに生きたまま切り刻まれている。フカヒレスープとなってアジアのお金持ちの腹を満たすためだ。陸上の大型肉食獣の未来を美意識ゆえに案じる人はいても,海中の大型肉食魚の顕著な減少を,美意識ゆえに気にしたり心配したりする人はほとんどいない。海は急速にウニやクラゲ,藻やバクテリア——食物連鎖の最底辺にいる微生物——に占領されつつある。海洋生物学者ジェレミー・ジャクソンはそれを,「スライムの台頭」と呼んでいる。現在,網をあげればクラゲばかりということが増えており,いずれは海はクラゲでどろどろになってしまう,と彼は心配している。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.287-288

ヒヒの恐怖

 北米大陸をざっと見渡せば,中間捕食者が確かに解放されていることがわかる。ダコタ州のプレーリーの一画は,長く北米の「アヒルの養殖場」として知られてきたが,1980年代までにアカギツネがあひるの巣を一掃してしまった。イリノイ州の小さな森では,地面に巣をかける鳴鳥類がすべて,すさまじい勢いで消えつつあり,3倍に急増したアライグマとの関連が疑われている。大西洋沿岸の北から南まで,海岸でも林でもチドリが野良イヌやネコやカモメに追われていた。何千羽ものアジサシ,ハサミアジサシ,サギ,シラサギが,獰猛なアライグマやキツネのせいでコロニーごと消滅した。
 大西洋を越えた先では,さらにすさまじいことになっていた。なかでも,サハラ以南のアフリカではヒヒが大量に増殖し,目に余る略奪を繰り広げている。コートジボワールからケニアまで,ライオンやヒョウがいなくなった広い地域を,ばけものじみたヒヒの集団が占領しはじめた。いつでもどこでも行けるようになったヒヒたちは,アフリカ1の作物泥棒兼殺し屋となり,人間の女や子どもを襲って食料を奪い,家を壊して侵入し,膨大な数の家畜や野生動物を殺している。ウガンダの被害のひどい地域では,子どもたちは学校から戻ると,畑や作物がヒヒに荒らされないよう見張り番をしなければならない。ヒヒたちは次第に肉を好むようになり,野生のレイヨウを襲いはじめた。その体をばらばらに引きちぎって食べるのだ。ヒヒたちの饗宴が終わるころ,ほかのサルの群れは全滅し,森中の鳥の巣が空っぽになっている。彼らはハイエナの獲物まで奪い取る。ライオンの牙が消えたアフリカは,新たな猛獣をその王に選んだのだ。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.184-185

捕食者を締め出すと高くつく

 オオカミがいなくなったことがシカに与えた影響は,頭数よりも心理面においてのほうが大きかったようだ。捕食者のいないこの島で,シカは夏の牧草地にいる雄牛のように堂々と草をはんだ。キャンプを張って2日後,シカはマルタンたちの手から直接,餌を食べた。マルタンは語る。「それを見てわたしははっとした。肉食動物というものは,被食者を食べる存在としてではなく,被食者の行動を抑制する存在としてより大きなはたらきをしていることに気づいたのだ」。そして,捕食者から解放されたことによる被食者の行動の変化は,食物連鎖の基盤を揺るがすほどの影響をもたらす。
 「今,わたしたちに言えるのは」とマルタンは続ける。「捕食者を締め出すと高くつく,ということだ。森林野生動物も犠牲になる。オオカミを追い出すと,鳥や植物など多くのものを失うことになるだろう。なぜなら,オオカミが自然を管理しているからだ。驚くかもしれないが,わたしたちが調べたことをよく検討すれば,誰でも,過剰なシカがもたらした問題をオオカミは確かに解決するし,場所によってはそれが唯一の解決策なのだと悟るだろう」

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.162

シカが頂点の森

 そのような森はいくらでもある。メリーランド州のカトクティン山脈国立公園,ヴァージニア州のシェナンドーア国立公園,テネシー州のグレートスモーキー山脈国立公園,はるかコロラド州のロッキー山脈国立公園まで行ったとしても,シカやワピチの群れが何者にも邪魔されず,森の次世代を担う若木を食べているのに気づいただろう。あるいは,この分野の研究者を訪ねてみれば,彼らは陰鬱な顔で,急増するシカの群れと消えつつある生物との関係を語っただろう。消えていく生物には,ランから昆虫,ベイスギ(レッドシーダー),アメリカクロクマまでもが含まれる。大西洋や太平洋を越えた先の,北半球,南半球,西欧,アジア,ニュージーランド,日本へ行っても,シカが急激に増え,森林が荒廃していることに気づいたにちがいない。シカの仲間——オジロジカにオグロジカ,シトカジカ,ダマジカ,ノロ,アカシカ,ミュールジカ,ワピチ,ヘラジカ——が温帯地方全域で食物連鎖の頂点に立っているのだ。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.149-150

ラッコがいるかどうかで

 どこにでも,そのパターンが当てはまった。ラッコがパトロールしているアムチトカの礁にはケルプの森があり,海面へと伸びる葉の間には魚が泳ぎ,海底には色とりどりのカイメンやヒドロサンゴ,イガイ,フジツボが生息していた。一方,ラッコのいないシェミアやアッツの礁では,海底はピンクのサンゴモを敷きつめたようになっており,トゲだらけの巨大な緑色のウニがそこかしこに転がっていた。アムチトカがケルプのジャングルなら,シェミアやアッツはウニしかない不毛の地だ。どの点から見ても,木々が高くそびえる原生林から皆伐地に出てきたときのように,その差は明らかで劇的だった。そして結局はラッコがその違いをもたらしているのだ。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子(訳) (2010). 捕食者なき世界 文藝春秋 pp.97

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