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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「生物学」の記事一覧

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何を「突然」「瞬間」と見るか

 有名なアメリカの進化学者G・レッドヤード・ステビンスの考えがこの点で啓発的である。彼はおりたててとびとびの進化に関心をもっているわけではなく,ふつうに使われる地質学的タイムスケジュールに照らし合わせてみたときに進化的変化がどのようなスピードで起きているかを劇的に表現しようとしただけである。彼はまずマウスくらいの大きさの動物の一種を想像する。それから,自然淘汰によってごくごくわずかずつではあるが,体が大きくなることが有利になるとする。おそらくは,雌をめぐる競争で大きな雄がほんのわずかに多く利益を享受するといったことがあるのだろう。とにかくいつでも,平均的な大きさの雄は,平均よりほんの少し大きい雄に比べてわずかだけ分が悪い。ステビンスはこの仮想的な例で,より大きな個体が享受する利益を数学的に正確な値で見積もっている。彼は,人間の観察者にはとうてい測れないくらい小さな値を設定した。したがって,それによってもたらされる進化的変化の速度も結果として,ふつうの人間の生涯では気づかないほどゆっくりしたものである。かくして,進化をじかに研究している科学者に言わせれば,この動物は全然進化していないということになる。それにもかかわらず,ステビンスの仮定した数字よって与えられた速度で,それらはきわめてゆっくりと進化しているのだし,そのゆっくりした速度でも,やがてはゾウくらいの大きさにも達するだろう。では,それにはどれくらいかかるのだろうか?あきらかに人間の基準からすると長い時間だが,このさい人間の基準は関係ない。われわれは地質学的な時間について語っているのだ。ステビンスの計算では,この動物が40グラムの平均体重(マウス大)から600万グラムあまりの平均体重(ゾウ大)にまで進化するのに,約1万2000世代かかるだろうとされた。マウスの平均時間より長く,ゾウのそれよりは短い5年を1世代時間とすると,1万2000世代が経過するには6万年かかることになる。6万年は,化石記録の年代を推定する通常の地質学的方法では測れないほど短い。ステビンスが言うように,「10万年たらずで新しい種類の動物が起源するなら,古生物学者はこれを『突然』とか『瞬間』とみなす」のだ。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.386-387.


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粘土ののライフサイクル

 さらにもう少し想像を進めて,ある粘土の変異タイプが,流れを堰き止めることによって,自らが堆積される見込みを高めているとしよう。これは,その粘土に固有の疵の構造にもとづく偶然の結果である。このタイプの粘土が分布する流れではどこでも,浅く大きな淀んだ池が堰き止められてできて,本流は新しい流路にそらされる。流れのない池では,同じタイプの粘土がさらに多く沈殿する。このようなタイプの粘土の結晶の種子にたまたま「感染」したすべての流れでは,流れに沿って同じような浅い池が次々に増えていく。このとき,本流がそれてしまっているので,乾期になると浅い池は干上がってしまうことがよくあるだろう。粘土は太陽に乾かされ,ひび割れて,いちばん上の層は土ぼこりになって飛んで行く。この塵の粒子はどれも,流れを堰き止めた親の粘土に固有の疵の構造,つまり流れにダムをつくるという特性を与える構造を受け継いでいる。私の家のヤナギから運河に振りそそぐ遺伝情報に喩えれば,この塵はどうやって流れを堰き止めて,最終的により多くの塵をつくるかという「指令」を運んでいる,と言ってもよいだろう。塵は風に乗って遠く,広く運ばれて行くので,それまでこのようにダムを築く粘土の種子に「感染」していなかった別の流れに,いくつかの粘土粒子がたまたま着地する可能性は十分ある。いったん適当な種類の塵に感染すると,新しい流れはダムを築く粘土の結晶を育てはじめ,堆積,堰止め,干出,風食という全サイクルを再現する。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 p.254.

コウモリたちの会議

 ある別世界を想像することにしよう。そこでは,学識あるまったく目の見えないコウモリに似た生物が会議を開いており,ヒトといわれる動物の話を聞かされてめんくらっている。なにしろ,このヒトという動物は,新たに発見された,いまだに軍事開発の最高機密であるところの「光」と称される耳には聴こえない放射線を,周囲の事情を知る目的で実際に使うことができるというのだ。その他の点ではおよそみずぼらしいこのヒトは,ほとんど全面的に耳が聴こえない(なるほど,彼らは曲がりなりにも聴くことができるし,少々重苦しくやたらにゆっくり間延びしたようなうなり声を出すことさえできるが,彼らはそうした音を互いにコミュニケートするといった初歩的な目的のために使うのがせいぜいで,この音を使ってたいそう大きな物体すら探知できそうにない)。そのかわり,彼らは「光」線を利用するために「眼」という高度に特殊化した器官をもっている太陽がその光線の主要な発生源であり,驚くべきことにヒトは,太陽光線が物体に当たって,それからはね返ってくる複雑なエコーをとにもかくにも利用している。彼らは「レンズ」というまるで数学的に計算されたかのような形をした巧妙な装置をもっており,それによってこの音のしない線を曲げて,世界にある物体と「網膜」なる細胞の薄膜上の「像」との間に正確な一対一の対応を生みだしている。これらの網膜細胞は,いささか神秘的な方法で,光を(言うなれば)「聴こえる」ようにでき,その情報を脳に中継する。われらが数学者たちの示すところでは,高度に複雑な計算を正しくしさえすれば,ちょうどわれわれが超音波を使って通常やっているのと同じくらい効果的に,いやある点ではさらに効果的にも,こうした光線を使って世界を安全に動き回ることが論理的には可能だという!しかし,みすぼらしいヒトにこうした計算ができるなどとはいったい誰が考えたりしただろうか?


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.71-72.

一段階淘汰と累積淘汰

 一段階淘汰と累積淘汰の本質的な違いはこういうことである。一段階淘汰では,石でも何でも淘汰されたり選別されたりする実体は,一回で選り分けられ,そしてそれっきりである。他方,累積淘汰では,その実体は「繁殖(再生産)」する。別の言い方をすると,一回のふるい分け過程の結果がひきつづいて次のふるい分けに繰り込まれ,それがさらに別のふるい分けに……というふうに続いていく。その実体は継続して何「世代」にもわたる選別淘汰にさらされる。ある世代における淘汰の最終産物は次世代の淘汰の出発点であり,そういうことが何世代も続く。「繁殖」とか「世代」といった生物に結びつきのある言葉が借用されているのは当然である。それは生物が,累積淘汰にかかわっているものとして,われわれの知っている主要な例であるからだ。生物は,実際に累積淘汰にかかわっている唯一のものなのかもしれない。しかし,だからといって私は,さしあたり断定的にそう言うことで論点をはぐらかしたくはない。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.86.

進化に使える時間

 眼は化石にならないので,何もない状態から現在のわれわれのもっているような複雑さと完全さをそなえた眼が進化するのにどれくらいの時間がかかったのか,わからない。しかし,それに利用できる時間は数億年である。比較のために,人間がイヌを遺伝的に淘汰することによってはるかに短い期間で生みだしてきた変化を考えてみよう。数百年ないしはせいぜい数千年のうちに,われわれはオオカミからペキニーズ,ブルドッグ,チワワ,そしてセントバーナードまでつくってきた。悲しいかな,それらはしかしやっぱりイヌではないか。違う「種類」の動物になったりしていないではないか。なるほどそのとおりだ。そういう言葉遊びが慰めになるというのであれば,それをすべてイヌと呼んでもかまわない。しかし,それに要した時間についてちょっと考えてほしい。オオカミからこうしたイヌのあらゆる品種を進化させるのにかかった時間を,ふつうに歩くときの一歩で表してみよう。それと同じ尺度で,あきらかに直立歩行をしたもっとも初期の人類の化石であるルーシーや彼女の仲間にまで遡るためには,どれくらい歩かねばならないだろうか?ロンドンからバグダッドまでずっととぼとぼ歩かねばならない距離というのがその答えだ。オオカミからチワワまで進んだときの変化の総量について考え,それにロンドンとバグダッド間の歩数を乗じてみよう。そうすれば,自然界に実際に起こった進化において期待できる変化量について,ある直感的観念が得られるだろう。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.79-80.

コウモリであるとはどのようなことか?

 「コウモリであるとはどのようなことか?」という,哲学者トマス・ネーゲルの有名な論文がある。その論文はコウモリについて書かれているのではなく,われわれではない何かであるというのは「どのような」ことなのか,に想像をめぐらすという哲学的な問題について書かれている。なぜコウモリが哲学者に格好の話題なのかといえば,エコロケーションするコウモリの経験がどうみても異質のものであり,われわれ自身の経験とはたいへん異なっていると考えられているからである。とはいえ,コウモリの経験を共有したいとしても,洞窟へ行き,大声で叫ぶとか二本のスプーンを打ち合わせるとかして,そのエコーを聴くまでにどれくらいの時間が遅れるかを意識的に測ったうえで,洞窟の壁がどれくらい離れているかを計算してみるなどというのは,もうほとんど確実にはなはだしい誤解を招くもとなのだ。
 それがコウモリであるとはどのようなことかと関係ないのは,これから述べることが色をみるというのはどういうことなのかと関係ないのと同じである。すなわち,ある装置を使ってあなたの眼に入ってくる光の波長を測ってみて,波長が長ければあなたは赤を見ているのだし,短ければ紫とか青を見ている。われわれが赤と呼んでいる光が,青と呼んでいる光より長い波長をもっているのは,ただ物理的な事実にすぎない。波長が異なれば,われわれの網膜にある赤色感受性をもつ視細胞にスイッチが入ったり青色感受性をもつ視細胞にスイッチが入ったりする。しかし,色というものをわれわれが主観的に感じるさいに,波長の概念などはまるで関係ない。青とか赤を見るのが「どのようなことか」について考えても,どちらの光がより長い波長をもっているかはまったくわからない。(ふつうはそんなことはないが)もし波長が問題であるとするなら,われわれはそれを覚えておくとか,あるいは(いつも私がしていることだが)本で調べるかしなくてはならない。同じように,コウモリは,われわれがエコーと呼んでいるものを使って昆虫の位置を認識している。しかし,われわれが青とか赤を認識するときに波長で考えたりしてないのと同じく,コウモリは昆虫を認識するときにきっとエコーの遅れによって考えたりしてはいないはずである。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.67-68.

「ガイア」仮説の捉え方

 なるほど,熱帯多雨林の生物体が他の種のために貴重な奉仕を行っているという,なんとも優しげな意見もある。たしかに土壌細菌をすべて取り去ってしまえば,木々に対する影響,ひいては森林のほとんどの生命に対する影響は,悲惨なものとなるだろう。しかし,それが土壌細菌がそこにいる理由なのではない。土壌細菌が枯れ葉や死んだ動物や排出物を分解し,肥えた土をつくることが,森林全体の繁栄が続くために有用である,というのもたしかにそのとおり。しかし土壌細菌は土を肥やすためにそれをするのではない。土壌細菌は枯れ葉や死骸を自らの食料にしているのだ。土を肥やす活動を組み込んだ自らの遺伝子の利益のために。この私利をはかる活動にただ付随する結果として,土が植物にとって改善され,そのため植物を食べる草食動物や,草食動物を食べる肉食動物も恩恵をこうむるのだ。熱帯多雨林の群落に住む種が,そこに住む他の種のいる中で繁栄する理由は,それが祖先たちの生き延びてきた環境だからである。おそらく土壌細菌がそれほど存在しないところで繁栄する植物もあるだろうが,それは熱帯多雨林で見られる植物ではない。そのような植物は,砂漠に行けば見つかるだろう。
 これが,「ガイア」仮説の誘惑への正しい対処法である。「ガイア」という夢のような空想の中では,全世界はひとつの生命体であり,それぞれの種は全体の利益のためにわずかながらの貢献を行っていて,たとえば細菌はすべての生命のためを思って大気中の気体の含有量を改善するために働いているらしい。この手の悪質な詩的科学の中で,私が知っている最も極端な例は,ある著名な年配の「エコロジスト」の言葉だ(エコロジストにつけたかぎ括弧は,学問分野としてのまっとうな学者ではなく,環境保護運動の活動家であることを示している)。私にこの話を教えてくれたのはジョン・メイナード=スミス教授だが,その彼がイギリスのオープン・ユニヴァーシティが主催する会議に出席していた時のこと,話題が恐竜の集団絶滅のことになり,このカタストロフィーを引き起こしたのは彗星の衝突なのだろうか,という疑問が出された。髭を生やしたそのエコロジストは,少しの疑念ももっていなかった。「もちろんそうじゃない」彼は断固として言った。「ガイアはそんなことを許しませんよ!」

リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.293-295.


生命の本質は自己複製子

 最後に,簡単な宣言をもって締めくくりとしよう。それは利己的遺伝子/延長された表現型という生命観の全体についての要約である。それは,宇宙のどんな場所にいる生物にも適用される生命観だと,私は主張する。あらゆる生命の根本的な単位,原動力は自己複製子である。自己複製子とは,宇宙にあるどんなものであれ,それからその複製(コピー)がつくられるもののことだ。まず最初に,偶然によって,小さな粒子のランダムなひしめきあいによって,自己複製子が出現する。一度,自己複製子が存在するようになれば,それは自らの複製を果てしなくつくりだしていくことができる。しかしながら,どんな複製過程も完全ではなく,自己複製子たちの集団はおたがいに異なったいくつかの変異を含むようになる。そういった変異のあるものは自己複製の能力を失ってしまっているとする。すると,その仲間は,彼ら自身が消滅したときに,消滅してしまうことになる。また別の変異はまだ複製をつくることはできるが,ずっと効率が悪くなっている。だが,ほかの変異はたまたま,新しいやり方をもつようになっていて,自分の祖先や同時代のものよりもずっと効率よく自己複製できるとする。すると,集団のなかで優勢になるのは彼らの子孫である。やがて時間が経過するとともに,世界はもっとも強力で巧妙な自己複製子によって埋めつくされるようになるだろう。
 徐々に,よき自己複製子となるためのますます洗練されたやり方が発見されるだろう。自己複製子は,自らの固有の性質のおかげだけではなく,世界に対してそれがもたらす帰結のおかげによっても生き残る。そういった帰結はきわめて間接的なものでありうる。必要なのはただ,どんなにまわりくどく間接的なものであれ,最終的に自己複製子が自らを複製するさいの成功率にフィードバックし,影響を与えるような帰結であることだけだ。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸 由二・羽田節子・垂水雄二(訳) (1991). 利己的な遺伝子 紀伊国屋書店 pp.423

遺伝子が行うこと

 遺伝子もまた,直接自らの指で操り人形の糸を繰るのではなく,コンピューターのプログラム作成者のように間接的に自らの生存機械の行動を制御している。彼らにできることは,あらかじめ生存機械の体勢を組み立てることである。その後は,生存機械が独立して歩きはじめ,遺伝子はその中でただおとなしくしていることができる。彼らはなぜそんなにおとなしくしているのだろう?なぜたえず手綱を握って次々に指令を与えないのだろう?時間的ずれという問題があってそうできないのだ。・・・



遺伝子はタンパク質合成を制御することによって働く。これは,世界を操る強力な方法であるが,その速度はたいへん遅い。胚をつくるには,何か月もかけて忍耐強くタンパク質合成の糸を操らねばならない。一方,行動の特徴は速いことである。それは数カ月という時間単位ではなくて,数秒あるいは数分の一秒という時間単位で働く。この世に何がおこり,フクロウが頭上をサッと飛び去り,丈高い草むらがカサカサとなって獲物の居どころを知らせ,1000分の1秒単位で神経がピリリと興奮し,筋肉がおどり,そしてだれかの命が助かったり,失われたりする。遺伝子はこのような反応時間をもちあわせていない。遺伝子にできるのは,アンドロメダ星人と同様に,自らの利益のためにコンピューターを組立て,「予測」できるかぎりの不慮のできごとに対処するための規則と「忠告」を前もってプログラムして,あらかじめ最善の策を講じておくことだけである。しかし,チェスのゲームがそうであるように,生物はあまりに多くのさまざまなできごとにであう可能性があり,そのすべてを予測することはとうていできない。チェスのプログラム制作者の場合と同様に,遺伝子は自らの生存機械に生存術の各論ではなくて,生きるための一般戦略や一般方便を「教え」こまねばならないのだ。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸 由二・羽田節子・垂水雄二(訳) (1991). 利己的な遺伝子 紀伊国屋書店 pp.88-92.

遺伝的変異

 同じように,我々の種であるホモ・サピエンスは,遺伝的能力がはっきりと異なった亜種(人種)を内包していたかもしれない。もし,我々の種が数百万年前から存在し(多くの種はそうである),それぞれの人種が地理的に,この期間のほとんどを著しい遺伝的交換なしに隔離されていたとすれば,それぞれのグループ間に多数の遺伝的差異がゆっくり蓄積されていったに違いない。しかし,ホモ・サピエンスはせいぜい数十万年生存しているにすぎず,今日のすべての人種はおそらく,数十万年前に共通の祖先から分岐したにすぎない。我々はいくつかの目立った外見上の特徴を重大な違いであると主観的に判断してしまう。しかし,生物学者たちは最近---ずっと以前から推測されていたのだが---人種全体の遺伝的差異は驚くほど小さいと主張するようになった。ある遺伝子の頻度は人種によって異なるが,“人種遺伝子”---すなわち,ある人種には存在するが,残りのすべての人種には存在しない---なるものを見出していない。レヴォンティン(1972年)は,血液の違いを暗号化している17の遺伝子の変異を研究し,変異のわずか6.3パーセントが人種に帰することができることを見出した。85.4パーセントもの変異は,地域集団内で起こる(残りの8.3パーセントは1つの人種内の地域集団間の差による)。レヴォンティンが(私信で)述べたのだが,もしホロコーストが起こり,ニューギニアの森林奥深くに住む小グループの種族だけが生き残ったとしても,50億の人口の無数のグループ内で現在表現されているすべての遺伝的変異は保存されることになるだろう。

スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 pp.234-235.


我々は犬から学んだ

 ところが,カリフォルニア大学ロサンゼルス校のロバート・K・ウェインのチームが犬のDNA変化を調べたところ,13万5千年前にはべつの個体群としてオオカミから分離していたはずだとわかった。1万4千年前より昔に,犬が人間といっしょに暮らしていたことが化石から明らかにならないのは,おそらく,それ以前の人間はオオカミ,あるいは犬に進化しかけているオオカミと仲間だったからだろう。たしかに,遺跡を見ると,10万年前より昔の人骨の付近にオオカミの骨がたくさんある。ウェイン博士の説が正しいなら,オオカミと人間が仲間になったのはホモサピエンスが直立猿人から進化したばかりのころだ。人間とオオカミが初めていっしょに暮らすようになったころ,人間には財産と呼べるものは粗末な道具がごくわずかしかなく,少人数の集団で放浪の生活をしていた。おそらく,社会の構造はチンパンジーの群れとたいして変わらなかっただろう。言葉すらもっていなかったかもしれない。
 つまりオオカミと人間は,最初に友達になったときには,今日の犬と人間よりも立場がもっと対等だったということになる。基本的には補いあう技術をもつ,ふたつのことなる種が協力したといえる。これは前代未聞,空前絶後の大事件だ。
 オーストラリアの考古学者のチームはあらゆる証拠を調べて,原始人はオオカミと仲間だった時代に,オオカミのように行動して考えることを学んだと確信している。オオカミは集団で狩りをし,人間はしていなかった。オオカミには複雑な社会構造があり,人間にはなかった。オオカミには同性の非血縁者のあいだで誠実な友情があり,人間にはなかった。これは,今日のほかのどの霊長類の種にも同性の非血縁者のあいだで友情が見られないことから判断できる(チンパンジーは親子関係が中心だ)。オオカミはなわばり意識がきわめて強く,人間は—これまた,今日のほかのどの霊長類にもないことから判断すると—おそらくなわばり意識は弱かった。
 原始人は,ほんとうの意味で現世人類になるころには,オオカミのこういった点をすべて学んでいた。ほかの霊長類といかにちがうかを考えると,私たちがいかに犬に似ているかがわかる。ほかの霊長類がしなくて私たちがすることには,犬がしていることがたくさんある。オーストラリアの研究チームは,犬のほうこそ,私たちにいろいろ教えてくれたのだと考えている。
 研究チームは理由をさらに広げる。オオカミと,次に登場した犬が,見張りと護衛の役目を果たし,人間が個人で小さな獲物を狩るのではなく,集団で大きな獲物を狩ることができるようになったおかげで,原始人は生き残るうえではるかに有利になった。オオカミが原始人にしたことを考えあわせると,原始人が生き残り,ネアンデルタール人が絶滅した大きな原因は,おそらく犬だろう。ネアンデルタール人は犬を飼っていなかった。
 犬は,人間が子どもを残せるほど長生きするのを手助けしただけではない。犬のおかげで,人間はほかのすべての霊長類から抜きん出るようになった。オーストラリア博物館の主席調査科学者ポール・テイコンは,人間が友情を発達させたことから,「人びとの集団のあいだで知識の交換が進み,生存するうえできわめて有利になった」と述べている。文化進化はすべて協力を土台とし,人間は,かかわりのない人と協力する方法を犬から学んだ。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.398-400.

オウムの言語

 さいわい,動物は私たちがわかっている以上に賢いという意見は,かなり尊重されるようになった。それというのも,主要な研究チームのひとつ,アイリーン・ペッパーバーグ博士と25歳のヨウム(アフリカハイイロオウム),アレックスのおかげだ。アレックスは今では,4歳から6歳のふつうの子どもの認識レベルに達している。
 アレックスの成果がまさに画期的なのは,それまで,鳥に何かを教えることなどだれにもできなかったからだ。試した人がいなかったわけではない。鳥の研究者は膨大な時間をかけて,色などの概念を教えようとしてきたが,一歩でも理解に近づいた鳥は一羽もいなかった。なじみのあるものの名称でさえおぼえられなかった。これがサルにできることは,だれもが認めていた。サルのカンジには2歳6か月の子どもに相当する「受容言語」(受容言語とは理解できる言葉で,これに対して「表出言語」は,話したり,書いたりできる言葉だ)があると言われている。カンジのようなサルに,ほんとうに言語能力があるのかどうか,専門家がたとえ疑問視していても,サルが大量の言葉をおぼえられるのは明らかだった。ところが鳥には,ほんとうに,三歩歩くと忘れてしまう脳みそしかないように見えた。
 だから,ペッパーバーグ博士の成功は大きな衝撃だった。アレックスは,これまでどんな鳥でも,なしえなかった色や形などのカテゴリーをおぼえた。しかも簡単に。さらに,一度おぼえたら,それまで見たことのないまったく新しいものでも,「どんな色?」と「どんな形?」とたずねられると自然に答えられた。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.319-320.

キツネの家畜化実験#2

 気性と外見の関係で私が気に入っている例に,ドミトリー・ベリヤエフがロシアでおこなったギンギツネの繁殖実験がある。ベリヤエフ博士は遺伝子学者で,私たちが家畜に見る形質は自然淘汰で決定されたと考えている。犬が今のようになったのは,その行動が生存と繁殖の手助けとなったからだ。。
 博士は仮説を調べるために,ギンギツネを使って自然淘汰の研究に着手した。数世代のあいだに,野生のキツネを犬のような家畜に変えることができるのか,たしかめたかったのだ。そこで,各世代の中で,いちばん「手なずけやすい」もの—人間との接触を我慢しようとするキツネ—だけに子どもをつくらせた。
 この計画が開始されたのは1959年で,85年に博士が世を去ると,べつの研究者グループがあとを引きついだ。都合40年におよぶ,30世代以上をかけた,キツネの飼いならしの品種改良がおこなわれたのだ。今日では,キツネは,犬ほどではないが,とてもよく飼いならされている。研究者によると,キツネは幼いときには人間の注意を引こうとして競い,あわれっぽい声で泣いたり,しっぽを振ったりする。ベリヤエフ博士が考えていたとおり,家畜に変身しているのだ。
 おもしろいことに,キツネは性格にともなって外見が変化した。最初に変化が見られたのは,毛の色だった。銀色から,ボーダーコリーのような黒と白になったのだ。写真で見ると,ボーダーコリーにそっくりだ。しっぽも巻くようになり,耳のたれたキツネが出てきた。たれ耳というのは,上出来だ。かのダーウィンによると,少なくとも家畜が見つかっている国で,耳のたれていない品種がひとつもない家畜はいないそうだ。それは事実ではないと思う。どこの国を見わたしても,耳のたれた馬の品種など考えられないからだ。とはいえ,そのほかの家畜は,どれもすべて,たしかに,耳のたれた品種が少なくともひとつかふたつはある。耳のたれた野生動物といえば,私が知っているのはゾウくらいだ。
 キツネの写真を見ると,骨も太くなっていると思う。これは,骨のきゃしゃな動物が神経質であることを考えると,予想がつく。ベリヤエフ博士はキツネがおだやかな性格になるように品種を改良していた。それで,おそらく,体が少しずつ大きくなり,骨が太くなっていったのだろう。
 飼いならされたキツネは,体と行動の変化にともなって,脳も変化していた。頭が小さくなり,血中のストレスホルモンの値が小さくなり,脳内のセロトニン値が高くなった。セロトニンは攻撃性を抑制する。もうひとつ,興味深い変化があった。雄の頭蓋骨が「雌性化」していたのだ。頭の形が野生のオスのキツネよりもメスのキツネに似ている。
 やがて,案の定,神経症の問題を抱えるキツネが出てきた。癲癇を起こし,奇妙な姿勢で頭を後ろにそらすようになったものもいた。わが子を食べてしまう母親さえいた。純粋な過剰選択は,かならず,問題をまねく。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.312-314.

もっとも複雑な脳をもつ動物がもっとも凶悪な行動をする

 動物の暴力が発生するわけはわからないが,研究文献に目を通してショックを受けるのは,もっとも複雑な脳をもつ動物が,もっとも凶悪な行動にもかかわっているという事実だ。動物と人間は複雑な脳をもった代償をはらっているのだろう。ひとつには,複雑な脳では,接続ミスが発生することが多く,ミスから凶悪行為が生まれるのかもしれない。もうひとつ考えられるのは,脳が複雑になるほど行動の幅が広がるので,複雑な脳をもつ動物は新しい行動を自由に発達させ,その行動はいいものだったり,悪いものだったり,その中間だったりすることだ。人間は大きな愛情を注ぎ,身を挺することもできるが,同時にきわめて冷酷にもなれる。たぶん,動物も同じだろう。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.204.

ラブラドールレトリーバーの問題点

 人間は恐怖心のあまりない犬をつくり出そうとして,大きな危険をおかしている。しまいには,とても危険な動物が登場しかねない。その一方で,これまでのところ,ラブラドールレトリーバーはこの問題からまぬかれている。ラブラドールは恐怖心があまりなく,しかも攻撃性が低い。自然界では見られない現象だ。これは繁殖家がどちらの情動も低いレベルを選択してきたからだろう。少なくとも,そういう選択をしていることを願う。ところが,ラブラドールの場合でも,あまり知られていないが,遺伝的な形質が原因の問題が出てきた。
 ひとつは,とてもおとなしい犬ができるように品種を改良していることが原因だ。そして,おとなしすぎて異常なラブラドールが出現しはじめている。上下の顎をつかむといった攻撃的なことをしても,反応を示さない。驚くべき犬も出てきて,車がバックファイヤーを起こしても,飛びはねもしなければ,誘導することになっている視覚障害者を連れて逃げもしない。こういう性格は,乱暴で何をするか予測がつかない子どもの相手にはおあつらえ向きといえる。
 ラブラドールは痛みの感覚も鈍い。とはいえ,これは昔からもっていた特性かもしれない。ニューファウンドランドの作業犬だったから,氷のような水中に飛び込んで魚網から魚をとってこなければならなかった。ラブラドールのそういう行動は今日でも見られる。幼犬は子ども用の浅いプールに飛びこんで,魚をつかまえようとしているように,がむしゃらに水をかく。
 おとなしすぎる犬をつくり出すことで生じた問題は,あらゆる意欲を奪ってしまうということだ。盲導犬訓練学校の女性と話したときに,注意散漫なために役に立たないラブラドールがいるという話を聞いた。訓練のできない犬をつくり出しているのではないかという心配が出はじめている。もっと困ったことに,癲癇をもつラブラドールが出てきた。どんなものでも脳の特性の過剰選択をすると,最後は癲癇が出る。これはスプリンガースパニエルに生じたことで,今では突然凶暴になる「スプリンガーレイジ」という病気をもっている。とても機敏に見えるように品種改良されてきて,最後には,一種の癲癇をもつようになり,突然,攻撃的になるようになった。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.172-173.

研究の進歩

 動物が探索状態になるのを好むことは,自己刺激の研究からわかっている。研究では,動物に電極の調節をさせて,自分で電極のスイッチを入れたり切ったりできるようにする。電極を好奇心/関心/期待システムに埋め込むと,動物はスイッチを入れて,狂ったように走りまわったり,においをかいだりして,すっかり疲れはてるまでやめようとしない。
 こういった実験については大学で本を読んでいる人も多いので,研究の解釈がこの数年でがらりと変わっていることを指摘しておきたい。昔は,この回路は脳の「快楽中枢」と考えられていた。「報酬中枢」と呼ばれることもあった。探索回路にかかわる主要な神経伝達物質はドーパミンであるため,ドーパミンは「快楽」物質と考えられていた。私も大学でそう教わった。こういった実験について学んだときには,ESBで観察された動物はいつまでも続くオルガスムのようなものを経験しているにちがいないと考えた。
 快楽中枢は,ドーパミンが多数の薬物依存症にかかわっていることとも一致した。コカイン,ニコチンなどの刺激物はどれも脳内のドーパミン値を上昇させる。薬物を使うと気分がよくなるので人間は薬物依存におちいり,したがってドーパミンは脳内の快楽物質にちがいないと考えられた。
 ところが,現在では,まったくちがう考え方がなされている。コカインのような薬物が快感を与えるのは快楽中枢ではなく,脳内の探索システムを激しく刺激するからだという説で,その証拠は山ほどある。自己刺激をしているラットが刺激していたのは,好奇心/関心/期待回路だった。それが快く感じられるのだ。なにかに興奮して,起こっていることに大きな関心を抱き—「ハイになる」とよくいわれていた状態になる。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.130-131.

なぜ頭を下げるのか

 闘牛の牛が闘牛士に飛びかかる前に頭を低くする姿を見たことがあるだろう。ボーダーコリーは羊を集めるときに,まったく同じことをする。頭を肩までさげて羊をにらむ。こうするのは,網膜が私たちのものとちがうからだ。人間の網膜には中心窩がある。中心窩は目の後ろにある円形の部分で,ものがいちばんよく見えるところだ。平原に住むレイヨウやガゼルのような足の速い動物や家畜には,中心窩ではなく,網膜の後ろを水平に横切る「視覚線条」がある。動物が何かを見るために頭を低くするときには,おそらく像を視覚線条に集めているのだろう。視覚線条は動物が地平線を見渡すのに役立っているようだ。


テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.62-63

キツネの家畜化実験

 1950年代末に,人里離れたシベリアのノボシビルスクという町で,ドミートリイ・ベリャーエフは40年にわたって続く実験を開始した。遺伝学を修めていたベリャーエフは家畜化のプロセスを再現することに関心を寄せ,犬と非常に近いが家畜化はされていない種で,それをやってみることにした。選ばれたのはギンギツネである。実験はベリャーエフの死後も続き,15年後の1999年までに,研究グループは4万5000匹のキツネを繁殖させ,30世代以上にわたる交配の結果,100匹ほどの人なつっこいキツネを生み出していた。リュドミラ・トルットによれば,この「家畜化された少数精鋭(エリート)」のキツネは尻尾を振り,甘えるように鳴き,「積極的に人間との接触を確立しようと,くんくん鳴いて人の関心を引いたり,実験者に対してにおいを嗅いだりなめたりと,イヌのようなことをする」という。
 だが,この前例のない繁殖計画がもたらした結果は,凶暴性のある祖先から従順な動物が生まれたというだけではなかった。家畜化のプロセスは,同時にさまざまな特徴を生み出し,その多くは,イヌやウマやウシなど,他の種の家畜化においても見られるものだった。たとえば直立していた耳はだらりと垂れ,尾は巻き上がり,毛皮の色はただの一色からまだらへと変わり,色素の沈着している部分としていない部分が入り混じるようになった(白黒のボーダーコリーもその一例である)。変化はその他にも数多くあった。家畜化されたエリートキツネは頭が小さくなり,鼻先が短くなり,性的成熟に達するのが1ヶ月ほど早くなり,一度に生む子の数が増え,さらにホルモン生成や脳神経科学の面でも違いを示す。
 どうやってベリャーエフらはこれだけ多くの---身体構造,心理,行動の---変化を,たった40年で引き起こせたのだろう?頭の小さいキツネ,耳の垂れたキツネ,尾の巻き上がったキツネ,皮膚に色素が沈着していないキツネだけを繁殖させたのだろうか---違う。それなら早く性的成熟に達するキツネだけを繁殖させたのか---それも違う。それならキツネを独特の方法で訓練したとか,人間やイヌがそばにいるところで育てたのだろうか---それも違う。彼らがやったことはただ1つ,毎月1回キツネの子をテストするだけだった。「子ギツネが生後1ヶ月に達すると,実験者が自分の手から食物を差し出しながら,同時に子ギツネをなでて手なずけようとする・……テストは毎月,子ギツネが生後6ヶ月か7ヶ月になるまで続けられる」。そのたびにキツネの子は「馴れ度」を採点され,やがて高い得点を出したキツネだけが繁殖を許される。つまり,このたった1つの行動にもとづく選択だけで,先程述べたような数々の変化が生み出され,それとともに家畜化されたキツネができあがるのだ。


マーク・S・ブランバーグ 塩原通緒(訳) (2006). 本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源 早川書房 pp.296-299.


どこまで遺伝でどこまで環境?

 予想はつくかもしれないが,遺伝要因と環境要因の境界線は,複雑さの度合いが増すにつれてさらにあいまいになる。今度はフェニルケトン尿症(PKU)を考えてみよう。これは「遺伝病」の古典的な一例だが,単純な環境の調節で避けることができる。問題となる遺伝子は,アミノ酸フェニルアラニン(合成甘味料ニュートラスイートの主要成分)を分解する肝臓酵素,フェニルアラニン水酸化酵素(PAH)をコードする。PAH遺伝子の2つのコピーに欠損を抱えて生まれてきた子どもは,体内にフェニルアラニンが蓄積するため,結果として他のアミノ酸が脳に送られにくくなる。アミノ酸が不足して,最終的にはタンパク質が足りなくなるため,脳の正常な発達が妨げられ,精神遅滞が生じる。この一連の事象はあらかじめ定められた避けられない流れのように見えるが,決してそうではない。フェニルケトン尿症の幼児にフェニルアラニンを含む食物を摂らせなければ,簡単に防ぐことができる。さらに,いったん脳の発達が完了してしまえば,ふたたびフェニルアラニンを含む食物を摂りはじめても,なんら影響はない。こうした発見にもとづいて,分子生物学者のマイケル・モレンジは,食生活にフェニルアラニンが含まれていた場合にしかフェニルケトン尿症が発症しないなら,この典型的な遺伝病はむしろ環境病と呼ぶべきなのではないかと疑問を投げている。実際,その観点からすると,発症に必要な環境条件がそろわないために存在を知られていにだけで,フェニルケトン尿症のような病気がほかにどれだけあるのかという疑問がわいてくる。おそらくそうした病気のうちのいくつかは,いずれ私たちの子孫が新しく植民地化した惑星の根本的に異なる環境にさらされたときに発症するだろう。
 近年の研究を見ると,フェニルケトン尿症から学ぶべき点はさらに多い。たとえば,あるフェニルケトン尿症の女性は,乳幼児期に低フェニルアラニン食によって治療に成功し,おとなになった現在は通常の食生活を送っている。ただし,彼女はいまでもPAH遺伝子が欠損しているので,摂取したフェニルアラニンを分解できないため,もはや無害だとはいえ,このアミノ酸の血中濃度そのものはきわめて高い。無害と言ったが,それは彼女にとってという意味である。なぜならこの女性が妊娠すれば,フェニルケトン尿症ではない正常な胎児が,彼女の子宮のなかでフェニルケトン尿症の幼児と同程度のフェニルアラニン血中濃度にさらされるからである!つまり,遺伝子は違うのに,結果は同じとなって,過剰なフェニルアラニンによる精神遅滞が引き起こされるのだ。それぞれの場合で原因をどこに求めればいいのだろう?ダグラス・ウォルステンがこの難題をうまく言い表している。すなわち,フェニルケトン尿症は環境上の障害によって脳の発達を阻害する遺伝病なのか,それとも母体の遺伝子の欠損から生じる環境上の障害なのか?境界線はぼやけていく一方である。

マーク・S・ブランバーグ 塩原通緒(訳) (2006). 本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源 早川書房 pp.88-89.

ネコのDNAを送る

 このように激しい勢いで事態が進展していったため,遺伝子の本当の機能を冷静に振り返ろうとする多くの人の意見は,ほとんどかき消されてしまった。興奮が収まったいまになって都合よく冷静さを呼びかける人も(フランシス・コリンズなど)いるにはいるが,騒ぎが始まったばかりのときからそう主張していた人もたくさんいた。彼らは論理的で科学的な事実にもとづいて,当時の論調を支配していた単純すぎる考え方に疑問を投じる主張を掲げていた。そうした批判派の一人が,自らも分子革命において初期の中心的役割を果たした分子生物学者のガンサー・ステントだった。ステントは,カール・セーガンが半ば本気で言った,ネコのDNAを別の惑星のエイリアンに送ってやればネコそのものを送ってやるのと同じだという意見に強烈に反論し,それならエイリアンは「地球の生命について,単なるDNAと……タンパク質のアミノ酸配列との型通りの関係だけでなく……それ以上のことを相当よく知っていなければならないだろう」と断じた。たしかにエイリアンがネコのDNAを使ってアミノ酸とタンパク質を合成できるだろうと私たちが勝手に思ったとしても,彼らの手元には(せいぜい)タンパク質が乱雑に積み重なったものしか残らないだろう。

マーク・S・ブランバーグ 塩原通緒(訳) (2006). 本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源 早川書房 pp.72-73.

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