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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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本当に偶発か

あなたが,ワイオミング州の岩の上にすわって,地面の穴をみているとしよう。10,20,30分は,何もたいしたことは起こらないが,そのとき突然(流れが激しくひと息に起こって)湯が,空中に30メートル以上噴出したとしよう。数秒のうちに噴出はおわり,そのあとは何も(明らかに前と同じように)おこらない。1時間待つが,やはり何もたいしたことは起こらない。これがあなたの経験だ。つまり,1時間半の退屈の中でほんの数秒続いた1回きりの驚くべき爆発だ。あなたは「たしかに,これは,ユニークで反復不可能な出来事だ!」と考えたくなるかもしれない。
 それでは,この有名な間欠泉はなぜオールドフェイスフル[信頼に足る古老]という名で呼ばれているのだろうか。実際,この間欠泉は,平均して65分に1回ずつの噴出を年々歳々繰り返しているのだ。「カンブリア紀大爆発」の「形態」(その「突然の」開始と「突然の」終了)は,「ラディカルな偶発事件」という主題にとって<まったく>何の証拠にもならない。しかし,グールドは,それが証拠になると考えているようだ。彼は,私たちが生命テープをリプレイしたら,次にもう1つの「カンブリア紀」大爆発を得ることはできないと考えているようだ。しかし,もしそれが本当だとしても,証拠のひとかけでも示したことには未だならない。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.404
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おおざっぱに読む

クワイン(Quine)は,かつて,自分の作品についての見当違いの批評に対して「彼はおおざっぱに読んでいる」と言った。私たちは,皆,これをやりがちだ。とりわけ,自分の領域外の仕事によるメッセージを自分の分野に持ち込んで,簡単な用語に解釈しようとするときは,特にそうだ。私たちはおおざっぱな読みで,自分が見つけたいものを読みとってしまいがちだ。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.352

人はすべて穏やかな意味での還元主義者

だが乱用される言葉の定石どおり,「還元主義」には何も定まった意味はない。その中心的なイメージは,1つの学問は別の学問に「還元される」,たとえば化学は物理学に,生物学は化学に,社会科学は生物学に還元される,と主張する者のイメージである。問題は,そうした主張にはどんな主張にも,穏やかな解釈と馬鹿げた解釈の2つが存在することだ。穏やかな解釈によれば,化学と物理学,生物学と化学,そしてそう,社会科学と生物学でさえも<統合>することができる(し,統合するのが望ましい)のである。けっきょく,社会は人間によって構成されており,人間は哺乳動物としてすべての哺乳往物をカヴァーする生物学の原理に服さなければならない。また哺乳動物は,分子から構成されており,分子は化学の法則に従わなければならず,化学はまたそれの基礎となっている物理学の規則性に合致しなければならない。正気の科学者でこうした穏やかな解釈に異論を差し挟む人はいない。最高裁の居並ぶ判事も,どんな誰とも同様,重力の法則に縛られている。なぜなら,かれらもまた最終的には物理的物体の集合だからである。馬鹿げた方の解釈によれば,還元主義者は,下位の項のために,上位の科学の原理,理論,語彙,法則を,捨てるのだという。還元主義者の夢は,そういう馬鹿げた解釈に基づいて,「キーツとシェリーの分子的観点からの比較」とか,「供給サイド経済理論における酸素原子の役割」とか,「エントロピーの揺らぎから見たレンクイスト法廷の判決の説明」といった論文を書くことにあるのかもしれない。おそらく,馬鹿げた意味での還元主義者などどこにもいないのだろうし,人はすべて穏やかな意味での還元主義者であるはずなのだから,還元主義者と「非難」されても,あまりに漠然としていて答えるにも値しない。「しかしそれは実に還元主義的ですね」と誰かに言われたら,「それはまた風変わりで昔ふうの言葉ですね。いったい何を考えていたのですか」とでも答えておけば十分だ。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.114

実際は縄張り争い

 さまざまな薬に対する反応が人によって違うように,さまざまな治療法に対する反応も人によって違う。だがおしなべて,いちばんありふれた精神障害の患者では,非薬物療法は少なくとも薬物療法と同じくらい効き目があることが実験データから示唆されている。しかし精神療法での成功は過小評価され,揶揄されることすらあるのに,薬物療法の有効性は,さまざまに誇張されて語られることが多い。精神療法の有効性とは,せいぜいそれによって患者に薬を服用させることができるようになる程度だとよく言われるが,これはまったく不当である。先にも書いたが,患者支援団体が製薬会社の支援により,うつ病患者の90パーセントに薬が効くという広告を出したことがあった。薬の研究から得られている平均値は実際は65パーセントほどであるから,ここでも数値が水増しされていると言える。うつ病患者の約25パーセントは本当の薬ではなくプラセボを投与されても症状が改善するため,このぶんを差し引かなくてはならないのである。さまざまな治療法についての研究の行われ方,結果の評価と受けとめられ方は,薬を処方できる精神科医と処方のできない心理士やソーシャルワーカーの間の縄張り争いを反映している。これだけは,私は自信をもって言える。

エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.280

還元主義的方法

 還元主義的な方法を用いると,より統合的現象の基礎にあるメカニズムを理解することによって現象自体の理解が進むが,そうした「下から上への」アプローチが科学を押し進める唯一でかつ,つねに最善の方法だと考えるのは間違いである。精神障害に関して生化学的アプローチを用いた研究が行われ,神経化学や薬の作用についておびただしい知見が蓄積している。だが,精神疾患に関して,どれほど理解が進んだかは怪しい。生化学的なバランスの崩れが本当に精神障害の原因であるかは明らかではないし,仮定された生化学的なバランスのくずれがあったとしても,それがどのようにして,それぞれの精神障害に特徴的な情動,認知,行動の諸症状を発現させるのかについても,いまだ,わかっていない。精神現象の次元と生化学現象の次元の隔たりはきわめて大きく,まだ橋渡しできていない。


エリオット・S・ヴァレンスタイン 功刀 浩(監訳)・中塚公子(訳) (2008). 精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の科学と虚構 みすず書房 pp.182

僕は科学者

 僕が科学者なのは確かだ。何かを発見すると興奮するしね。何かを作り出したから興奮してるわけじゃないんだ。すでにそこに存在しているものの中に,何か美しいものを見つけたから興奮するんだよ。僕は,生活のあらゆる面で科学的なものに心を動かされる。そして,僕のとる態度も,いろいろな点で,科学的なものに影響を受けてるんだ。どっちが荷車で,どっちが馬とも言えない。だって僕は,いろいろな面を足し合わせてできてる人間だからね。僕が科学に興味を持つのは,疑り深いからか,それとも,科学への興味が,僕を疑り深くさせるのか,なんて一概には言えないよ。とても無理だね。ただ,僕は真実が知りたいんだ。だから,物事をよく調べるのさ。何が起きてるのか,見て確かめるためにね。


レナード・ムロディナウ 安平文子(訳) (2003). ファインマンさん 最後の授業 メディアファクトリー p.221.

科学者がすること

 科学者は,さんざん人間がやってきた活動を,非常に誇張された形で繰り返すんだ。普通の人はやらないと思うけど,僕は,来る日も来る日も同じ問題について考える。そんなの,僕みたいなバカしかやらないさ!他にいるとすりゃ,ダーウィンとか,何か1つの疑問について悩み続けてるヤツくらいのもんだね。「動物の起源は?」とか,「種の関連性は何か?」とかさ。それを何年も研究して,何年も考え続けるんだよ!僕が日頃やってるのは,一般の人もやってることなんだけど,あまりにしつこいから変人みたいに見えるのさ!でも本当は,人間の潜在的な可能性を見つけようとしてるんだけどね。


レナード・ムロディナウ 安平文子(訳) (2003). ファインマンさん 最後の授業 メディアファクトリー p.68.

科学者の仕事

 僕たち科学者の仕事は,ありふれた普通のものの中の,ある特定の種類の事象について,うんざりするほどつきつめていく仕事なんだよ!人には想像力ってものがあるけど,長時間それを働かせたりはしない。独創性は誰にもあるけれど,科学者は,とことん独創性を駆使する。科学者が普通じゃないとしたら,それは徹底的にやるっていうところだね。1つの限られたテーマについて,何年にもわたって研究を重ねていくからね。


レナード・ムロディナウ 安平文子(訳) (2003). ファインマンさん 最後の授業 メディアファクトリー p.68.

バビロニア人系とギリシア人系

 ファインマンは常々,哲学者にはバビロニア人系とギリシャ人系の2つのタイプがあると言っていた。古代文明の中の対立する2つの哲学を引き合いに出しているのだ。バビロニア人は,数や数式の理解,幾何学などに最初に大きく踏み込み,まさに西洋文明のさきがけとなった。一方,後期のギリシャ人---特に,タレス,ピタゴラス,ユークリッド---は,数学の祖と評価されている。バビロニア人は,計算のやり方が正しいかどうかだけにこだわり(つまり,これが真の物理学的な姿勢というにふさわしいのだが),その計算の結果が正確かとか,もっと高度の論理体系にも適応するかにまではこだわらなかった。一方,タレスや弟子のギリシャ人は,定理や証明という考え方の発案者だ。そして,何らかの主張が事実だとされるには,はっきりと系統だった原理や仮定に基づいたシステムで,正確な論理的結果が出なくてはならないと考えていた。早い話が,バビロニア人はものごとの現象に焦点を合わせ,ギリシャ人は根本的な道理に焦点を合わせていたのだ。


レナード・ムロディナウ 安平文子(訳) (2003). ファインマンさん 最後の授業 メディアファクトリー p.42-43.

止まった時計の話

 僕は13か14歳の頃,ある少女に出会い,心から愛するようになりました。結婚するのにそれからまた13年もかかっていますが,お察しの通りそれは現在の妻ではありません。とにかく彼女は結核にかかって数年のあいだ病身でした。彼女が病気になったとき,僕は文字盤のかわりに大きな数字がくるくる変わっていく時計をプレゼントしたのですが,これを彼女はことのほか気にいっていました。プレゼントしたのは病気になった当初のことで,彼女はそれから4年,5年,いや6年間,だんだん病勢がつのっていくあいだも,離さず病床のそばに置いていたものです。そして結局は帰らぬ人になってしまいました。亡くなったのは夜の9時22分のことでしたが,例の時計はその時間を指したまま,もう永久に動きませんでした。ここで僕が幸いにも気がついた他の状況を,お話しすべきでしょう。第1に5年のうちには,さすがの時計も少しガタがきてバネもゆるみ,ときに僕が修理してやらなくてはならないことがありました。第2に,死亡証明書に死亡時刻を書きこむため,看護婦が時間を確認しようとしたとき,部屋の中が薄暗かったので,もっと数字をよく見ようとして時計をもちあげ,こころもち上向けにしてから元にもどしたのです。それに気づかなかったら,さしもの僕もいささか説明に困る立場になっていたかもしれません。そういうわけでこうした逸話を考えるとき,すべての条件を覚えているよう注意する必要があるのです。気がつかなかった条件すら,あるいは現象の神秘を解明してくれるかもしれません。
 要はただの1回や2回のできごとくらいでは,何の証明にもならないということです。こういうことに関しては,すべてを慎重に調べなくてはなりません。でないとあらゆるたぐいのでたらめを信じ込み,自分の住む世界のことはさっぱり理解できない連中の,仲間入りをすることになってしまいます。もちろんこの世界を理解している者などは誰一人いませんが,他の人より少しは理解が進んでいる人もいるのです。

R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.112-114.

科学の価値

 いったい科学には何か価値があるのでしょうか?
 何かができる力は価値あるものと,僕は考えます。結果の善し悪しはその使い方によるのであって,力それ自体は価値のあるものです。
 一度ハワイで仏教のお寺を見に連れていってもらったとき,そこの住職が「これから私のお話しすることを聞かれた方は,それを一生お忘れにならないでしょう」と前置きして次のようなことを言いました。「人はそれぞれが天国に入る門の鍵を与えられています。ただしその鍵は,地獄の門もまた開けることができるのです」と。
 科学もまさにそのとおりです。科学はある意味で天国の門を開く鍵ですが,その同じ鍵で地獄の門も開けられるのです。おまけにその鍵には,どっちの門のためのものなのかの説明は一切ついていません。いっそのこと,この鍵を捨ててしまって,天国の門を開く機会をふいにしたののか?それともこの鍵を使い最善の方法は何か,という問題に取り組むべきか?無論これは大変深刻な問題です。けれども僕らは天国の門を開く鍵の価値を,決して否定するわけにはいきません。

R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.7-8.

科学とは

 ところでいったいぜんたい科学とは何かということになると,「科学」という言葉は普通,次の3つのことのどれか1つ,あるいはその混ざったものを意味しているようです。ここで僕らはあまり厳密でなくてもいいでしょう。あんまり厳密すぎるのは,必ずしもいいことではありませんから。さて科学の意味ですが,ある場合にはものごとを突きとめるための,特殊な方法のことを指していることもあります。またいままで突きとめたことを積み重ねた知識の集成を意味することもあり,何かを突きとめた結果できるようになる新しいこと,あるいはその新しいことの実行そのものを指していることもあるのです。この最後の分野はふつう科学技術と呼ばれていますが,タイム志の科学欄をみると,半分は新しく発見されたこと,あとの半分はどんな新しいことができるようになり,あるいは現在すでになされつつあるかが書いてあります。だから世間一般の科学の定義は,一部分,工学でもあるわけです。


R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.5

発明について

 技術とはすべて改良することができるし,また改良されなければならない。よい結果を得るためには,つねに明確で具体的な目標を設定しなければならないのだ。そして私は,発明家がまったく新しいものを発案することはもはや不可能だと思っている。発明品とは既存の要素をベースにして初めて得られるものだからだ。真の発明家は,決して探求の道で立ち止まることはない。どんな場面においてもつねに考えているものである。


エレナ・ジョリー 山本知子(訳) (2008). カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男 朝日新聞出版 p.219

攻撃目標を誤るな

 残念なことに,批判者のいくたりかは,科学の最悪の部分(軍事主義,性差別主義など)を攻撃するあまり,科学の最良の部分までもを攻撃する。最良の部分とは,世界を合理的に理解しようとする姿勢と,経験的な証拠と論理性を重んじるという広い意味での科学の方法である。ポストモダニズムが本気で攻撃しているのは合理的な姿勢そのものではないだろうと考えるのは素朴にすぎよう。しかも,この合理性という側面は手頃な攻撃目標なのだ。合理性を攻撃しさえすれば,昔からのもの(たとえば宗教原理主義)にせよニューサイエンスにせよ,迷信を信奉するすべての人たちを味方につけることができるからだ。ここに,科学と技術のいい加減な混同を加味すれば,あまり進歩的とはいえないが,かなりの人気を博す社会運動ができあがる。

アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.267.

科学の4つの意味

このような攻撃を分析するために,「科学」という言葉の少なくとも4つの異なった意味を区別する必要がある。世界の合理的な理解を目指した知的行為としての科学。受け入れられている理論的・実験的結論の集まりとしての科学。独自の流儀,制度,より広い社会とのつながりをもった社会的集団を括る存在としての科学。そして,応用科学や(科学と混同されることの多い)科学技術。これらの内の1つの意味での「科学」についての正当な批判が,別の意味での科学を攻撃する議論と受け取られることがあまりに多い。社会的な制度としての科学が政治的,経済的,軍事的な権力と結びついており,科学者がしばしば社会的に有害な役割を果たすことは否定できない。科学技術は,いろいろな結果を---ときには悲惨な結果を---もたらし,また,もっとも熱烈な技術信奉者がいつも約束する奇跡的な問題解決を生みだすのは稀だというのも本当である。最後に,知識の集まりとしての科学は,常に間違いを犯しうるものであり,科学者の間違いが様々な社会的,政治的,哲学的,宗教的な偏見からくることもある。上の4つのいずれかの意味での科学への合理的な批判はよいことだと思う。特に,(少なくとも多いに納得できる)知識の集まりとしての科学への正当な批判は,一般に,次のような標準的な型を取る。まず最初に,よい科学の満たすべき基準に照らしたとき,問題にしている研究には欠陥があることを通常の科学的な議論によって示す。それが終わった後,そしてそのときのみ,その科学者たちが何らかの社会的な偏見(それは無意識のものかもしれない)をもっていたがために,よい科学の基準を破ることになってしまったことを説明しようとするのだ。最初から2つ目のタイプの批判を行いたくなるかもしれないが,それをすると批判の力はほとんど失われてしまう。


アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.268-269.


カオス理論の誤解

 カオス理論を,「些細な原因が大きな結果を生むことがある」という皆が持っている知恵と一緒にしてしまうことから来る混乱もよく見られる。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら」という話や,釘が1本足りなかったために大帝国が滅びたというような部類の話である。カオス理論が歴史や社会に「応用された」という話もよく耳にする。しかし,人間の社会というのは莫大な数の変数が絡み合った複雑きわまりない系で,それについていかなる意味のある方程式を書くことも(少なくとも今のところは)できない。そのような系でカオスを持ちだしてきたところで,クレオパトラの花についての古くからの知恵とさほど変わるところはないのだ。


アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.194.

事実と言説

 より卑近な例を挙げよう。象の群れが中で暴れているぞと声を限りに叫びながら講堂から駆け出してきた男に出くわしたとしよう。これを聞いてどう対処するか,特にこの主張の「原因」をどう評価するかは,実際に部屋の中で象の群れが暴れているか否かに大きく依存すべきことは明らかにみえる。いや,外的実在と介在物ぬきの直接的な接触ができない以上,正確には,われわれが他の人たちといっしょに(用心して)部屋を覗いたときに,象の群れが暴れているのが見えるか,その音が聞こえるか,あるいは,群れが部屋を出る前に引き起こしたのかもしれない損傷がみつかるか否かというべきだろう。そのような象の群れの証拠がみつかれば,観察されたこと全体のもっともありそうな説明は,実際に講堂で象の群れが暴れているのである(あるいは,いたのであり),先ほどの男はそれを見たか聞いて驚愕のあまり(この状況ではわれわれも彼と同じに感じて当然だろう)急いで部屋から逃げ出し,われわれが聞いた叫び声をあげた,ということである。そこで,われわれの反応は警察と動物園に電話をかけるということになる。他方,われわれの観察で講堂の中に象の証拠がみつからなければ,もっともありそうな説明は,実際は部屋の中に暴れている象の群れはいなかったのであって,この男は(内因的な,あるいは,薬物による)精神異常のために象がいると妄想し,その妄想が原因で部屋を急いで飛び出してきて,われわれが聞いた叫び声をあげた,ということになる。そこで,われわれは警察と精神病院に電話をかけることとなる。バーンズとブルアも,社会学者や哲学者向けの雑誌にどんなことを書いているにしても,実生活で同じことをするだろうことは請け合っていい。

アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.123.

ものを知覚するとは

 普通の物体であれ,科学研究の対象であれ,ものを知覚するということは,あるひとつの射映を把握するとともに,予期される多数の射映からなるひとつの地平を把握することなのである。これはリンゴのようなありふれたものを見る場合にも言える。一連の経験をする過程で,(リンゴを拾い上げて,皮を剥いて,かぶりつく,等々),いくつかの射映からなるひとつの地平がしだいに充実していく。そして最終的には,そのリンゴは木やガラスでできているとわかって驚くことになるかもしれない。われわれはそれを,すでに得た射映からなる地平を捨て去ることによってではなく,再構成するという経験によって知覚するのだ。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 p.237.


科学は美を破壊するか

 十八世紀と十九世紀初め,ロマン主義の詩人たちのあいだに生じたこの亀裂は,今もわれわれとともにある。一方の陣営にとって,研究や探索は美を破壊するものであるのに対し,他方の陣営にとって,それは美を深めるものなのだ。物理学者リチャード・ファインマンはかつて,芸術家である友人に,芸術家は花の美がわかるのに,科学者は花の一部だけを見て,冷たく生命のない物質にしてしまうと難じられたことがあった。もちろんファインマンはそうは思わなかった。そこで彼はこう反論した。科学者である自分は,花の美しさがわからないどころか,芸術家よりもいっそうよくわかる。たとえば自分は,花の細胞の中で起こっている美しくて複雑な反応を理解することができるし,生態系における美も,進化のプロセスに花が果たす役割の美しさも理解することができる。「科学の知識は」とファインマンは言った。「花を見て楽しくなる気持ちや,なぜだろうと思う気持ち,そして畏怖の念を強めてくれるものなのだ」。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 p.127.


科学は自動的ではない

 何世代もの児童生徒に植え付けられてきたステレオタイプに,「科学的方法とは型にはまった自動的な作業だ」というものがある。つまり科学研究とは,仮説を立てて検証し,また仮説を立てることだというのだ。これに対して,科学者がやっていることを漠然とではあるが多少正確に説明しているのが,「科学者は現象を見る」という言い方だろう。科学者はひとつの現象をさまざまな角度から吟味し,あれこれやってみては何が起こるかを見るのである。ニュートンは部屋を改装した実験室で,さまざまな位置に置いたプリズムやレンズを使い,光を見た。そうして彼は最終的に,白色光は純粋なのではなく,さまざまな色の光が混じり合ったものだという結論に達した。ニュートンは後年次のように書いている。「哲学をするうえで最高にしてもっとも安全な方法は,まず最初にものごとの性質を入念に調べ上げ,そうして明らかになった性質を実験によって確立し,その後,それらの性質を説明する仮説へと,いっそう時間をかけて進んでいくことであるように思われる」。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 pp.102-103.

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