忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

それは形状のせい

 しかし,問題がひとつある。おこまでで見てきたように,コリオリ効果が測定できるほどになるのは,その対象となる現象の規模が大きく,時間も長い場合だけだ。一番ぜいたくなバスタブでも,コリオリ効果が作用するのに必要な大きさの数千分の1しかなく,水もあっという間に流れていってしまう。さらに,バスタブの水のランダムな動きのほうが,コリオリ効果よりも数千倍も強いことが数学的に証明できる。つまり,ランダムな渦がコリオリ効果を完全にしのぐのだ。あなたの家のバスタブで,水がいつも同じ向きに流れるとしたら,それは地球の自転の効果というより,排水口の細かな形状のせいだろう。

フィリップ・プレイト 工藤巌・熊谷玲美・斎藤隆央・寺薗淳也(訳) (2009). イケナイ宇宙学:間違いだらけの天文常識 楽工社 pp.40-42
PR

それはコリオリではない

 物理学者を自称する人々は,家庭用の流し台を使って,異常なほど熱心に実験をおこなっている。彼らの研究によれば,ランダムな水流が消えて,コリオリ効果が観察できるようにするために,流し台を3週間以上動かさないでおく必要がある。それだけでなく,コリオリ効果が十分に作用するだけの時間をかせぐために,水は流し台から一滴ずつ流さなくてはならない。流し台で洗濯物を手洗いしたあと,そんなふうに水は流れることはないのに。
 同じことはトイレでも言える。この話にはいつも笑ってしまう。トイレは水が渦を巻くように設計されているのだ。なかなか取れにくい「頑固な汚れ」も,渦があれば取れやすくなる。便器内に水を流す排水管は角度をつけて取り付けてあるので,いつでも同じ向きの渦ができるのだ!私の家のトイレを床からはぎ取って,飛行機でオーストラリアに送っても,今と同じ渦を巻いて流れるだろう。

フィリップ・プレイト 工藤巌・熊谷玲美・斎藤隆央・寺薗淳也(訳) (2009). イケナイ宇宙学:間違いだらけの天文常識 楽工社 pp.42

株価予測トリック

 株価変動は,予測がむずかしいことで知られている。株の売買に熱くなると,あっという間に一文無しになりかねないため,ある株式ブローカーが,人間わざとは思えない能力を発揮して市況をつかんでみせたところ,彼の株価予測はひっぱりだこになった。これを単なる運や偶然のせいだと言えるだろうか。それとも何っか別の力が働いたのだろうか?
 じつを言うと,今回の場合,偶然などではなかった……もっとも,超常的な力や超自然の力が働いたわけではない。この男は株式ニューズレターを発行していたのだが,「私は最新のデータベースを使い,業界内部の事情通から情報提供を受け,高度な計量経済学モデルを駆使して株価予測をしています」と謳ったニューズレターを64000人に送っていたのだ。そのうち32000人分には,来週,ある銘柄の株価が上がると書き,残りの32000人分には下がると書いた。
 翌週の株価がどう動こうと,彼はニューズレターの第2弾を送る——ただし,彼の予測が「当たった」32000人余りの人たちだけに。そのうち16000人分で次の週の株価上昇を予測し,残りの16000人分では株価下落を予測する。実際の株価変動がどうだろうと,16000人にとっては,彼の株価予測が2週連続で当たったことになる。そのやり方を続けるのだ。この手を使って彼は,自分の株価予測は必ず当たる,という幻想を作りだすことができた。
 彼の目的は,ニューズレターの送り先を,6週連続で予測が(偶然)当たった1000人ほどに圧縮することだった。今後も「お告げ」のご利益にあずかろうと,この人たちなら喜んで,彼の要求通りに1000ドル払うはずだ。

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.268-269

偶然の一致に興奮しすぎ?

 『数の本』の著者ウィリアム・ハーツトンは,偶然の一致に対して,人はあまりに興奮しすぎると考える。たとえば,ゴルファーが2人連続でホールインワンを出したという話を聞いても,ハーツトンは少しも感心したりはしなかった。だが,その2人のゴルファーは親戚ではないが,苗字が同じだった。これは驚くべきことではないのだろうか。
 いや,そんなことはない,とハーツトンは言う。「まず,ゴルファーの苗字が同じだったという小さな問題を片付けよう。トーナメントはウェールズで行なわれたが,2人の苗字であるエヴァンスという人はウェールズにはごまんといる」
 だが,2人のエヴァンス,リチャードとマークは立て続けに3番ホールでホールインワンを出した。こんなことが起こる確率はどれくらいなのだろう。
 ホールインワンを出す確率は,トップクラスのプロゴルファーで2780分の1,結構な腕前のアマチュアなら4万3000分の1くらいだろうとハーツトンは計算する。後者の場合,どのホールであれ,2人のゴルファーがティーショットで続けてホールインワンを出す確率は18億5000万分の1だと言う。
 これはもう十分に驚くべきことではないか?
 いや,そうでもない,とハーツトンは言う。「イギリスでは200万人のゴルファーが,平均して週に2回ラウンドしている。つまり,合計すると1年に2億ラウンド以上,36億ホールになる。そう考えれば,18億5000万回に1回の確率のショットだって,そうなさそうなことでもない」。実際,ハーツトンの計算が正しいなら,こういったことがイギリスのどこかで1年に1度くらいは起こるものと考えるべきなのだろう。
 このような話や統計から,2つのことがわかる,とハーツトンは言う。それは,私たちは正しく可能性を見極めるのが苦手だということと,楽観的な考え方に偏っていきがちだということである。「ホールインワンとか,ポーカーのロイヤルフラッシュとか,くじで大当たりするとかいった話を聞いてその気になると,私たちは運命の女神がほほえんでくれることを願いながら,無茶な願望を胸にゴルフのスゥイングの練習をしたり,勝つ見込みのない賭けに大事にとっておいたお金をつぎこんだりする。だが同時に,毎年50万人もの人がサッカーでけがをして病院送りとなり,毎日5人が車の運転中に死に,1日に90人がタバコのせいで命を落としてもいるのだ」

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.116-117

聖書の暗号解読も簡単に

 あるいは,聖書の暗号がいい例だろう。昔から伝わるいくつかの説によれば,神自身が語ったとされるヘブライ語の『旧約聖書』の「創世記」には暗号が含まれていて,それを解読すれば,人類への新たなメッセージが数多く現われるという。片田舎の廃れた修道会に属する学者にとって,本文中のスペースや句読点を飛ばして,文字だけを規則的に並ぶ文字列だと考え,暗号に隠されたパターンを見つけ出そうという試みは,長いこと名誉ある仕事とされてきた。聖書に含まれる文字のおびただしい数と,ヘブライ語では記述するさいに母音が記されないことを考えればまあ当然だが,調べているうちに偶然に一致する言葉のパターンがたびたび出てきて,そこに重要な意味があると考えられたのである。
 コンピュータサイエンスによって,この難解な手順がいっそうわけのわからないものになるどころか,文字列を分析するスピードと方法の種類が増し,暗号解読の作業全体ががらりと変わった。左から,右から,あるいは縦に,斜めにと単語を読み取ることができるようになったほか,等距離文字列法という手法を使って,本文中の文字を同じ文字数ずつ飛ばしながら順に拾うと単語が浮かびあがった。イスラエルの著名な数学者エリヤフ・リップス教授によるコンピュータを使った研究では,有名なラビの名前と出生地といった概念的に関連のある単語が隣りあって配置されているという驚くべき事実が見つかった。暗殺されたイスラエルのイツァーク・ラビン首相の名前が,死について記している箇所の隣に位置し,また縦に並んだ「ケネディ」の文字を,「暗殺するであろう暗殺者」という句が横切っていたのである。こうした発見は,何か予言めいたものを感じさせた。

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.41-42

情報が増えれば偶然も

 現代の世界は一見それほど迷信深くないように思えるが,じつは,魔法かと思うようなことが起こりやすい世界でもある。世の中は,あわただしくて困惑することが多く,その傾向はますます色濃くなっている。過去100年に起こったいくつかの大きな技術革命は,どれも人間が経験することの速度と範囲を大きく変えた。今では膨大な数の人があちこちに移動し,いっせいに情報を受け取り,広範囲にコンピュータを利用できるようになった。そのうえ,インターネットという疲れを知らない情報噴出機まで現れたのだ。
 情報が膨大にあれば,偶然の一致が起こる確率は大きくなる。統計学者の使う「大数の法則」によれば,サンプルが多ければ,まったく起こりそうもないことも起こる可能性が出てくるという。つまり,外国に行ったりインターネットに接続したりするたびに経験するものがサンプルとなり,膨大な数に増えていく。その中に関連性を見つけると,「なんて小さな世界なんだ!」と私たちは驚きの声をあげる。はっきりしているのは,インターネットの情報網が広がれば広がるほど,世界は小さくなるということだ。偶然の一致に遭遇する準備は整っているのである。

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.39-40

月と太陽は同じ大きさ

 最も古くから知られ,最も興味をそそられる自然界における偶然の一致が,大昔から老若男女を問わず聡明な人間を悩ませ,創意に富んだ説を次々に生み出してきた。それは,地球から見ると太陽と月が同じ大きさだという現象である。今でこそ,ただの遠近感の問題だとわかっているが,それだって,単に頭のいい人が言ったことを信じているにすぎない。
 この現象の研究に最初に取りかかった人たちには,基礎となる確かな知識がほとんどなかった。。紀元前6世紀,ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは,太陽の直径を約30センチと推測した。これが正しいとすると,地球から太陽までの距離は40メートルほどということになる。だが,今ならインターネットでちょっと調べれば,ヘラクレイトスの推測がまちがっていることはすぐに確かめられるし,太陽の直径は138万3740キロ,月の直径は3475キロという正確な数値までわかる。太陽の直径は月の直径の400倍で,太陽と地球の距離も月と地球の距離の400倍。つまり,この相対的な距離によって太陽と月が同じ大きさに見えるのだ。

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.38

野暮というもの

 誰かのことを考えているときに電話が鳴って,出てみると相手は当人だった,という経験があなたにもおありだろう。そんなときは,わくわくするほどうれしくて,温かい気持ちにならないだろうか?こういうことが起こると,自分は人一倍直感が鋭いとか,何か霊的な能力が備わっているとか思いがちで,単に偶然と確立の法則が働いているだけだとは考えたがらない。私たちはこうした出来事を,物理的法則を超えた,偶然の一致以上の,ふつうと違うもの——つまり,超常現象だと考える。論理的に説明づけたってつまらないし,何の意味もないではないか。

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.23

科学は人間的な過程

 科学は抽象的な知識ではなく,人間による自然の理解である。また,心理に仕える者による自然の探求という理想化されたものではなく,希望やプライド,欲望といった通常の人間の感情や,さらには科学者の特性だと讃えられているさまざまな美徳によって支配されている人間的な過程である。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.312

様々な形態がある

 科学者の多くが研究に執心するのは研究が好きなのであって,出世のはしごを登り,科学のスターの座を目指すためではない。科学には単一の社会的組織が存在するのではなく,むしろ理想的で平等な仲間社会から,縦型に組織された論文生産工場まで幅広くさまざまの組織が存在している。一般化するにはまだ不十分ではあるが,明らかな1つのパターンとして捉えることができるのは,欺瞞はそのほとんどがアルサブティやバートのような一匹狼か,あるいはまた,論文生産工場におけるスタッフたちによるものだということである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.299

科学の2つの目的

 科学はその初期の時代から2つの目的のために人間が取り組んできた舞台であった。その1つは森羅万象を理解することであり,他の1つはそのための努力について評価を得ようということである。このことを理解することによってはじめて,科学者の動機や科学者のコミュニティの姿,科学の過程そのものが適切に理解できるのである。
 科学者のこの2つの目的は,多くの場合,相伴って機能するが,ある状況下においては衝突する。実験結果が期待どおりでなかったり,理論が広い支持を得られなかった場合には,科学者はいろいろな方法でデータの改良や,捏造など,さまざまな誘惑にかられるであろう。中には,自分の理論の正しさを頑固な仲間たちに説得しようとしてごまかしを行う場合もあるだろう。ニュートンは自分の万有引力の理論に対する批判者たちに反駁するため,細かな点に手を加えた。メンデルのエンドウ豆に関する統計は,いかなる理由にせよ,事実としてはあまりにもできすぎていた。また,ミリカンは電荷を説明するためデータを選択したのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.298

師弟関係の崩壊

 どのようにして,科学研究の場で師弟関係が堕落したのか。20世紀初頭,研究は多くの学者にとって天職であり,科学することに必要なものは,すぐれた頭脳と,科学機材店で調達するわずかな器具であった。ところが,科学の専門家,細分化が進むにつれ,また,研究用の実験室の設備費用が増大するにつれ,研究者としての道を歩もうとする若い学生は,学問上の師のみならず,大きな政府助成金を獲得できる財政的支援者を見つける必要が大きくなった。支援者は助成金が常に途絶えないようにし,自分の報酬に見合った仕事をするために,絶えずめざましい業績を生み出す方策を探らなければならない。確かに,研究室の責任者が自分の研究チームに学問的指導を与えている限り,このシステムに何ら問題はない。しかし,この単調で退屈な仕事に安易な出口はない。もし,研究室の責任者の注意がどこか他へそれたり,あるいは,自分の創造的エネルギーが低下してしまったとなれば,弟子の研究を自分の手柄にしてでも,現在手にしているものを守り続けたいという欲望に駆られることであろう。そして,自分にこう言い聞かせるのだ。「結局,私の名前を使わなければ,彼らが研究するための金は手に入らないのだ。しかも,私のすべての時間を助成金獲得のために使わなければ,私もまたベンチに引っ込まなければならなくなってしまう」。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.232-233

若者に反対するのはここでも同じ

 老人が若者の考えに反抗するのは常であり,科学においてもそれは同様である。「普通,いかなる専門分野においても,頑固な老人たちに支配されている大学や学識者の社会は,物事の常として,新しい考えに反応するのが遅い。なぜなら,ベーコンが言うように,過去の業績によって高い栄誉を得た高名な学者たちは,進歩の潮流に追いつけないことを認めたくないからである」と生物学者ハンス・シンサーは言う。同じような考えをより強烈に表現したのは,量子力学の創始者であるドイツの物理学者マックス・プランクである。彼は有名な一節の中で,科学における古い考えは,それに固執する人びとと共に滅びると言明した。「重要な科学的改革というものは,徐々にその支持を勝ちとったり,反対者の意見を変えさせることによって認められることは非常にまれなことである。つまり,サウロ(キリストの使徒パウロの最初の名前)はパウロにならないのである。実体はそういう古い世代が死に絶えてゆき,最初から新しい考えになじんだ新しい世代が増えてゆくのである」。知的な抵抗といえども,死という説得者の前には無力なのだ。しかし,あらゆる領域の中で,何ゆえ科学においてそのような例がみられるのであろう。
 科学は普遍的であるという主張にもかかわらず,社会的,専門的な立ち場が,しばしば新しい考えを受け入れることに影響を及ぼす。革命的な新しい概念の創案者が,自分の学問領域のエリート社会の中で低い地位にあったり,他の領域からの新参者であった場合,その考えは真剣な検討の対象とはまずなりえないであろう。それが真価においてではなく,その創案者の社会的業績によって判断されてしまうからだ。しかし,学問を進歩させる独創的な考えに貢献するのは,たいていその学問領域における確立された競技に洗脳されていない部外者か,もしくは他の学問領域から来た新参者である。この事実こそ,新しい考えに対する抵抗が科学史の上で常に問題となる原因なのだ。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.210-211

科学論文は反歴史的

 文学の形式に置き換えるなら,科学の論文はソネット(十四行詩)のように様式化されているといえる。もし,この厳格な記述形式に従わなければ,単純に,それは公刊されないだけのことだ。要するに,実験はその全過程が,哲学者の処方箋に従って行われたかのごとく報告されねばならない。科学論文を書く際には,客観性を保つために筆者はいっさいの感情的な要素を排除するよう要求されているのである。
 その結果,科学者は発見に伴う興奮,誤った出発点,希望や失望,あるいは実験の各段階で自らがたどった思考の道筋すら記述できない。極めて形式化された手段によってのみ(通常はその分野における研究の現状を記述することによって),科学者は研究に取り組んだ理由を暗に述べることができるのだ。さてその次は“材料と方法”の部分だが,ここでは世界中の誰もがその実験を繰り返せるように,実験に用いられた材料と方法が電文のように簡潔に記述される。実験“結果”の部分は定められた方法によって生み出された無味乾燥なまとめである。最後の“結論”では,データがいかに新しい理論の検証や反証を行っているか,あるいは発展させているか,そして,それが将来の研究にとってどんな意味をもつのかが示されている。
 科学論文は反歴史的なものである。なぜなら,原則的な科学論文の書き方は,歴史家の基本原則(誰が,何を,いつ,どうして)を初めから切り捨ててしまうことを求めているからである。科学の鉄則は,そういった個々の項目に対するいかなる記述をも削除することを要求する。客観性の名のもとに,あらゆる目的と動機は抑圧され,論理の名のもとに,理解に至る道筋は省かれなければならないのだ。つまり,科学論文の構成は神話を不滅にすべく企てられた虚構なのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.198-199

自己欺瞞と欺瞞

 自己欺瞞と欺瞞との間には意思決定の上で大きな違いがある。自己欺瞞は無意識であるが,欺瞞は故意によるものだ。とはいえ,それぞれは,たとえて言えば,実験者自身にさえはっきりわからない動機を含んだ行動が,その中心部分の領域を占めるスペクトルの帯の両端に位置しているとするのがより正確であろう。科学者が研究室で行う測定にはたいてい判断という要因が入り込む。実験者はある外的な要因を埋め合わせるために,ストップウォッチをいくらか遅らせて押すかもしれず,“違った”答えが出た場合には,その答えを技術的な理由から否定するのだと自分自身に言い聞かせる。このようなことが繰り返された後,都合のよい“正しい答え”の割合が増し,統計的な有意性が得られることになるのだ。公表されるのは当然“受け入れられる”データだけである。つまり,実験者は自分の実験を立証するためにデータを選ぶが,それは意識的なごまかしと言えないまでも,部分的に操作されたものなのだ。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.169

ピア・レビュー

 ピア・レビューや審査制度は,追試とは異なったものであるが,公明正大で,偏見にとらわれないという点で普遍主義を具現したものである。もし科学において客観性という普遍主義の規範が厳しく守られるなら,ピア・レビューや審査制度は完全に機能することができる。そして普遍主義からの逸脱はこれら2つの機構に重大な欠陥を生じさせることになる。個人の偏見はピア・レビューや審査制度の効力を失わせる要因の1つである。別の要因は,審査員の間で首尾一貫した判定が行われない場合や,判断が真価によるのではなく,誰が審査したかに依拠する場合に起こるご都合主義である。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.139

論文の氾濫

 長い文献リストを必要とするようになったのは比較的最近のことである。論文の氾濫という今日の問題は,わずか20年前には考えられなかった。1958年,ジェームズ・D・ワトソン(のちにノーベル賞を受賞)はハーバード大学の准教授の申請を行った。しかし,この時,この若き生化学者の履歴書にはわずか19篇の論文しか記載されていなかった。フランシス・H・クリックとの論文はそのうちの1つであり,そこには生命を支配するDNAの分子構造についての歴史的な記述があった。今日では,准教授をめざす候補者の文献リストには,50ないしは100の論文が記載されているのが普通である。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.81

(引用者注:原書は1982年に刊行されている)

趣味から職業へ

 20世紀に入り,科学の発展が,個人の趣味から高級な職業へと進む過程をほぼ完了した。しかし,ガリレオはタスカニー大公によって上流社会の生活が保障されるよう援助を受けていたし,チャールズ・ダーウィンは,裕福なウェッジウッド一族に生まれ,科学によって生活の糧を得なければならないという心配はなかった。また,グレゴール・メンデルもブルノにあるアウグスチヌス会の修道院で経済的な心配もなく研究を続けられていたのである。20世紀の今日,装置の購入費や技術員の人件費がかさみ,科学は完全に個人的研究の枠外へと追いやられた。個人の収入の多寡とは全く無関係に,自然に対する好奇心を維持することができた伝統は,はるかかなたへ置き去りにされてしまった。現在,ほとんどすべての科学者は,職業としての科学に従事し,才能によって生活の糧を得るのである。政府の支援の下にあろうと,産業界の支援の下であろうと,彼らは明白な成果や短期的な成功に対して報奨を提供する職業構造の中で働いているのだ。今日,研究業績の評価を後世の科学者に委ねられる科学者はほとんどいない。そんなことをすれば,大学は終身在職権を拒否してしまうかもしれないからだ。成功が間近いか,既に成功している研究者でなければ,連邦政府からの研究助成金はたちまち底をついてしまうのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.57

レトリックの誘惑

 実験科学はパラドックスの上に成り立っている。その意図するところは,客観的に確かめうる事実を真理の基準に置くことだ。しかし,科学に知的な喜びを与えるのは,退屈な事実ではなく,事実を意味づけるアイデアや理論である。教科書が事実の重みこそ第一義だと強調する時,理論の展開におけるレトリックの要素が問題になる。現に,事実の発見は,その事実を説明する理論や法則の展開よりも報いられることが少なく,そこにレトリックの誘惑がしのび込むのである。混沌とした自然の実体から,その意味を理解しようとする時,科学者はしばしば事実をもてあそぶことで,理論が実際以上に強力なものであるように見せようとする誘惑にかられる。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.36-37

データのクッキング

 “科学における欺瞞”と言えば,多くの場合,大がかりなデータの捏造を意味すると考えられているが,これは極めてまれである。データの捏造を企てる者は,すでに得た結果を取り繕う小さなことから手をつけ成功するのである。このような一見して些細とも思えるデータ操作の例(例えば,結果をほんの少し気のきいた整ったものにしたり,“最も良い”データだけを選んで,都合の悪いデータは無視するといったこと)は,しばしば見られることであるが,データを“クッキング”することと,データを捏造することとの間には程度の差が存在するだけである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.31-32

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]