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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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科学デモンストレーションの弊害

 デモンストレーションや教科書の記述,シミュレーションなどは,科学実験は進展する一連の出来事(すなわちひとつのプロセス)なのではなく,すでに立証されていることを具体的に示すだけという考えを助長し,科学について誤ったイメージを与えかねない---それはちょうど,実験という絵画作品を,マス目を番号順に塗りつぶしていけば名画が浮かび上がる「お絵描きパズル」にしてしまうようなものだ。そんなわけで,デモンストレーションは科学の美をだいなしにすることもある。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 pp.73-74.


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実験の美しさ

 現場の科学者たちは,実験室で行われていることの大半は単調で退屈だということを知っている。科学者たちは,装置類の調整をしたり,あれこれの準備をしたり,設計や修理をしたり,毎度のように起こる問題を解決したり,資金を得るために頭を下げてまわったり,することに多くの時間を費やしている。科学という営みのほとんどすべては,現時点でできることや得られている知識を,ほんの少しだけ拡張することなのだ。しかしときたま,新しい洞察にはっきりと形を与え,ものの見方を一変させるような出来事が起こる。それは,予測こそできなかったものの,起こるべくして起こった出来事だ。そんな出来事がわれわれを混乱の中から救い出し,重要なことがらをずばりと---直接的に,何の疑問も残さないほどはっきりと---指し示し,われわれの自然観を塗り替える。科学者はそんな瞬間のことを「美しい」と言うようである。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 pp.13-14.

実証の必要性

 科学の歴史,とりわけ医学の歴史の大半は,1つのパターンを示しているように見える---しかし,そう見えるだけの---個別の物語の表面的な魅惑から,徐々に乳離れしていく過程であった。人間の心は,ほしいままに物語をつくりあげるものであり,それ以上に,あたりかまわずにパターンを探し求めるものである。私たちは雲やトルティーヤのなかに人間の顔を見いだし,お茶の葉や星の運行に運勢を見る。しかし,それが見かけだけの幻影ではなく,真のパターンであることを証明するのはきわめて難しい。人間の心は,早合点し,ランダムでしかないところにパターンを見てしまう素朴な傾向を疑うように学習しなければならないのである。これこそ,統計学が必要な理由であり,いかなる薬または療法も,統計的に解析された実験によって実証されるまでは採用するべきではない理由である。そうした実験では,人間の心の,誤りやすいパターン探索の性癖が体系的に取り除かれる。個人的な物語は,いかなる一般的傾向についても,けっしてすぐれた証拠になりえない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.324.

よくある思考プロセス

 上品なリベラル派は,十分に大きな声で叫ぶすべての人間の言い分をできるかぎり聞き入れようとする最大限の努力を払って不可知論的な懐柔策をもちだすが,かえって,以下のようなよく見られるだらしのない思考を,滑稽なほど延々とつづけさせることになってしまう。それは,ほぼ次のように進む。あなたは否定を証明できない(ここまではまあいい)。科学は超越的なものの存在を反証する手立てをもたない(これは厳密に正しい)。したがって超越的なものへの信仰(あるいは不信)は,純粋に個人の好みの問題であり,したがって両者とも同等の敬意をもって遇されるべきものである!あなたがそういう類のことを言うとき,誤りはほとんど自明である。帰謬法について説明するまでもないだろう。バートランド・ラッセルから要点を借用すると,私たちは,「太陽のまわりを楕円軌道を描いて公転するティーポットがある」という理論についても,同じように不可知論的でなければならない。私たちはそれを反証することができない。しかしそのことは,ティーポットがあるという理論が,それがないという理論と同レベルの条件にあることを意味しないのだ。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.262.

二股はかけられない

 科学は「スペア臓器」のための幹細胞クローニングが間違っているかどうかを言うことはできない。しかし,幹細胞クローニングが,組織培養のような久しく認められてきたものと道徳的にどこが異なるかを説明せよという難題を突きつけることはできる。組織培養は,数十年にわたってガン研究を支える大黒柱となってきた。有名なヒーラ(HeLa)細胞系列は,1951年に亡くなったヘンリエッタ・ラックスという女性の細胞に由来するもので(HeLaは,彼女の姓と名の頭の二文字ずつをとってつなげたもの),現在では世界中の研究室で育てられている。カリフォルニア大学のある典型的な研究室では,1日あたり48リットルのヒーラ細胞が増殖させられているが,これはこの大学の研究者たちに日常的に供給するためのものである。世界全体で1日あたりのヒーラ細胞の生産量は数トンにおよぶに違いない---すべてがヘンリエッタ・ラックスの巨大な1つのクローンをなしている。この大量生産が始まってから半世紀がたつが,これに異議を唱えた人は誰もいないように思われる。今日,幹細胞研究を中止せよと煽り立てている人々は,彼らがヒーラ細胞の大量培養に異議を唱えない理由を説明しなければならない。二股をかけることはできないのだ。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.66.

方法が重要

科学者を本当に特別なものにしているのは,彼らの知識よりはむしろ,知識を得るための方法なのであり,それは誰でも有効に使うことができる方法なのである。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.54.

懐疑論者の二重規範

 ドナルド・グリフィンは,1940年に開かれた動物学者たちを驚かせたある会議で,同僚のロバート・ガランボスとともにコウモリのエコロケーションという新発見の事実をはじめて報告したとき,どんな反応が起こったかを語っている。それによると,ある高名な科学者がとても信じられないと言わんばかりに憤慨して,

 ガランボスの肩をつかんで揺さぶりながら,そんなとんでもない発表はとうてい本気にできないと,不満を述べた。レーダーやソナーは,軍事技術としてまだ開発中の機密事項であったし,コウモリがたとえかけ離れてはいるにせよ電子技術の最新の勝利と似たことをしているという考えは,大部分の人々に納得されなかったどころか,感情的な反発を招いたのだ。

 この高名なる懐疑論者に同情するのはたやすい。彼がそれを信じたくなかったのはどこかしらとても人間的である。しかもそれこそ,人間とはまさしくそういうものなのだということを語ってもいる。われわれが信じがたいと思うのは,われわれ人間の感覚がコウモリの感じていることを感じられないからなのは,はっきりしている。われわれは,人工的な機械を使ったり紙上で数学的な計算をしたりというようなレベルの話としてしかそれを理解できないので,小さな動物が頭のなかでそんなことをしてのけるとは,とても想像できないと思っている。しかるに,視覚の原理を説明するために必要になるはずの数学計算だってまったく同じように複雑でむずかしいけれども,小さな動物がものを見ることができるということについては,かつて誰ひとりとしてそれを信じがたいとは思いもしていない。われわれの懐疑主義にこうした二重規準(ダブル・スタンダード)がみられる理由は,ごく単純に,われわれが,見ることはできてもエコロケーションはできないからである。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.70-71.

2分の1の確率

 出生率の専門家として著名なロバート・ウィンストンは,自分がもし,不徳なやぶ医者だったら次のような広告を新聞に載せると語っている。それは,次の子どもはぜひとも男子を,と望む人々を対象としたものである(この根底にある性差別は私のものではなく,古代であれば世界中で,また今日でも多くの場所で明らかに存在するものであろう)。「あなたの赤ちゃんを男の子にします。私の特許秘策に対して500ポンドをお支払いください。失敗すれば全額返済いたします」。返金保証は,生み分け方法への信頼を確立するためのものである。当然のことなgら,男の子は約50%の確率で生まれるから,この計略はけっこうな稼ぎとなるだろう。もし,女の子が生まれた場合,たとえば,250ポンドの賠償金を申し出てもいい。返金保証に加えてでも,である。それでも,長い目で見れば,彼はかなりの利益をあげることになるのだ。
 私は,1991年の王立協会クリスマス講義の1つで,同じような実演を行なった。私の前の聴衆の中には霊的能力の持ち主がいらっしゃる,その人は精神の力だけで物事に影響を与えることができるのです,と切り出して,その人物をこれからあぶり出してみましょう,といった。「まず最初に,その霊能者が,講堂の左半分におられるか,右半分におられるかを調べてみましょう」。そしてアシスタントにコインをトスしてもらうことにした。この間,聴衆全員を立たせ,講堂の左にいる人にはコインが表が出るように「念じて」もらった。右にいる人は,裏が出るように念じるのである。どちらか一方が外れるのは当然であり,その人たちには座ってもらう。つぎに,残った人を2つに分けた。一方は表を,他方は裏を「念じる」。再び敗者が座った。このようにして二等分を繰り返すうち,7,8回のトスの後,必然的に,1人が立ったまま残った。私はいった。「われわれの霊能者に盛大なる拍手を」。しかし立て続けに8回コインに影響を与えることができたからといって,彼が霊能者にちがいない,と言えるだろうか。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.198-199.

原理主義

 「真実」によって何を意味するかということを何らかの抽象的な方法で定義するという話になれば,ひょっとしたら,科学者は原理主義者かもしれない。しかし,ほかの誰もがそうである。私が進化は事実であると言うとき,ニュージーランドが南半球にあると言うとき以上に原理主義者ではない。私たちは,証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり,もし,それを反証するような新しい証拠が出されれば,一晩で放棄することになるだろう。本物の原理主義者はそんなことを言ったりはしないものだ。
 原理主義を情熱と混同するのはあまりにも安易である。私は原理主義的な創造論者から進化を擁護するときには十分情熱的に見えるかもしれないが,それは,私のなかに,それに対抗する原理主義があるからではない。それは,進化を支持する証拠が圧倒的に強力だからであって,私は進化に異論を唱える人々がそれを理解できない---あるいはこちらのほうがもっとよくあるのだが,聖書と矛盾するからといって証拠を吟味することを拒否される---のには,激しく落胆させられる。哀れな原理主義者たちと,彼らの影響を受けた人々がどれほど多くのことを見損なったままで死ぬということほど悲劇的なことはあるまい!もちろん,私が熱くなるのはそう思えばこそだ。なぜそうならずにいられよう?しかし,私が進化というものに寄せる信念は原理主義的ではなく,信仰でもない。なぜなら,もししかるべき証拠が出現したとすれば,自分は心を変える,しかも喜んでそうするだろうということを知っているからだ。
 そういうことは実際に起こる。私は以前に,私が通っていたオックスフォード大学の動物学教室で,敬愛されていた長老のエピソードを披露したことがある。長年のあいだ彼は,ゴルジ器官(細胞内部にある顕微鏡で見える構造)というのは実在しない人為的なもので,幻想にほかならないと,熱烈に信じていた。毎月曜日の午後は教室全体で集まり,外部から招いた講師の研究発表を聞く習慣になっていた。ある月曜日,講師がアメリカの細胞生物学者だったとき,彼はゴルジ器官が実在のものであるという完璧に説得力のある証拠を提出した。講演のあと,かの長老はホールの前方に進み出てそのアメリカ人と握手し,興奮もあらわに,「いや先生,私は君に感謝したい。私はこの15年間ずっとまちがっていました」と言った。私たちは手が赤くなるまで拍手した。原理主義者は誰もそんなことは言わないだろう。実際には,すべての科学者がそんな態度を示すわけではないだろう。しかしすべての科学者は,それが理想であると口先では同意する---たとえば政治家であれば,そんなのは節操がないと言って批判するところだろうが。いま述べたこの出来事を思い出すと,いまでも熱いものが胸にこみ上げてくる。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.414-416.

究極のボーイング747作戦

 ありえなさ(非蓋然性)からの論証は1番の大物である。伝統的な装いの目的論的論証は,神の存在を支持するために用いられる論法として現在もっともよく知られているものであり,驚くほど数多くの有神論者が,それを完全かつ申し分なく説得力のあるものとみなしている。実際それは非常に強力で,反論の余地ない論証ではないかと私は思う---しかしそれは,有神論者の意図とはまったく正反対の方向においてである。ありえなさからの論証は,正しく展開されれば,神が存在しないことの証明に近づいていく。この,ほとんど確実に神が存在しないことの統計学的な実証法を,私は<究極のボーイング747作戦>と呼ぶことにする。
 この名は,フレッド・ホイルが言ったという。ボーイング747とガラクタ置き場をめぐる楽しいイメージから採ったものだ。ホイルが自分自身でそう書いたのかどうか確信はないが,彼の親密な同僚であるチャンドラ・ウィックラマシンジによってホイルが考えたことだとされており,おそらく本当なのだろう。ホイルは,地球上に生命が起源する確率は,台風がガラクタ置き場を吹き荒らした結果,運良くボーイング747が組み上がる確率よりも小さいと言った。ほかの人間たちが,それ以後の複雑な生物体の進化を表すのにこの一見もっともらしい比喩を借用してきた。素材となる一群のパーツをでたらめにかき混ぜて,完璧に機能するウマ,甲虫,あるいはダチョウが組み立てられる確率は,確かに747ができる確率といい勝負であろう。これは,一言で言えば,創造論者のお気に入りの論法であり,自然淘汰のイロハを理解していない人間だけがおこなうことのできる主張である。そういう人々は,自然淘汰を偶然だのみの理論だと考えているが,ところが,この理論は言葉の正しい意味での偶然とは,正反対のものにほかならない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.169-170.


天空のティーポット

 この誤りについて説明するもう1つの方法として,立証責任という観点からのものがあり,この手の説明の仕方は,バートランド・ラッセルによる天空のティーポットのたとえ話で,申し分なく例証されている。

 正統派の人々の多くは,教条主義者が一般に認められているドグマを証明するよりも,懐疑論者がそれを反証するのが務めであるかのごとく語る。もちろん,これはまちがいである。もし私が,地球と火星のあいだに楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在するという説を唱え,用心深く,そのティーポットはあまりにも小さいのでもっと強力な望遠鏡をもってしても見ることができないと付け加えておきさえすれば,私の主張に誰も反証を加えることはできないだろう。しかしもし私がさらにつづけて,自分の主張は反証できないのだから,人間の理性がそれを疑うのは許されざる偏見であると言うならば,当然のことながら私はナンセンスなことを言っていると考えられてしかるべきである。しかし,もし,そのようなティーポットの存在が大昔の本に断言されており,日曜日ごとに神聖な真理として教えられ,学校で子供の心に吹きこまれていれば,その存在を信じることをためらうのは,異端の印となり,疑いをもつ人間は,文明の時代には精神分析医の,昔なら宗教裁判官の注意を引くはめにおちいっただろう。

 こんなことを言って時間を無駄にすることはないだろう。なぜなら,これまで私が知るかぎり,誰もティーポットを崇拝したりしていないからだ。しかし,もし問い詰められれば,私たちは,軌道を回るティーポットなど絶対に存在しないという強い信念を公言することをためらわないだろう。けれども厳密に言えば,私たちはみなティーポット不可知論者でなければならない。天空のティーポットが存在しないことを,確実に証明することはできないのだ。なのに,実際問題として,私たちはティーポット不可知論を捨て無ティーポット論をとるのである。



リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.81-82.

実力主義へのこだわり

 過去に優れた業績があったからといって,現在の研究が優れていると判断されるようなことがあってはいけない。過去の業績はアイデアの実質的な妥当性とは全く無関係なのだから。名声をもとに科学界のヒエラルヒーがつくられるようなことがあってもいけない。
 科学界のエートスのすばらしさは,実力主義への断固としたこだわりにある。マートンが科学的規範について書いた著名な論文にはこうある。「ある主張が科学のリストに載るか否かは,その主張をしている人の個人的,社会的属性に影響されない。彼の人種,国籍,宗教,社会経済階級,個人的資質は無関係である」。
 科学の世界では,主張している人が誰であるかに関係なく,ほかのどんな理論よりもデータをうまく説明できるというアイデアに内在する価値ゆえに業績として認められる。
 これは幻想にすぎないかもしれないが,とても大切な幻想だ。

ジェームズ・スロウィッキー 小高尚子(訳) (2006). 「みんなの意見」は案外正しい 角川書店 p.189.

公転するティーポット

 哲学者のバートランド・ラッセルが出したティーポットの喩え話がある。ある人が,「地球と火星の間に楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在している」という説を唱えたとしよう。ところが,そのティーポットはあまりに小さいので最も強力な望遠鏡を使っても見ることができず,重力が小さいので地球や火星に及ぼす影響も検出することができない。そのため誰も反論することができない。さて,この場合,反証できないからと言ってそれが実在すると主張できるだろうか。むろん,それを主張する人が実証責任を負うべきことは誰でも分かる。ティーポットがあってもなくても何ら効果を及ぼさないから,勝手な主張をするなら自分で証明すべきなのだ。

池内了 (2008) 疑似科学入門 岩波書店 p.19

規範的科学と実証的科学の違い

 ここでちょっと立ち止まって,規範的科学と実証的科学の違いを説明しておくのがいいだろう。規範的科学(これはどう見ても自己矛盾をはらんだ表現だ)は規範にもとづく教えを説く。物事がどうあるべきかを研究する学問だ。一部の敬愛学者,たとえば効率的市場教の信徒たちは,人にとって合理的に行動するのが一番いい(数学的に「最適」である)わけだから,人間は合理的,人間の行動も合理的だと仮定して研究を行うべきだと信じている。その正反対にあるのが実証的科学だ。こちらは人が実際にどう行動しているかの観察にもとづいて形づくられる。経済学者は物理学者をうらやんでいるけれど,その物理学はもともと実証的科学だ。一方,経済学,とくにミクロ経済学や金融経済学は圧倒的に規範的である。規範的経済学は美意識に欠ける宗教みたいなものだ。

ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛(訳) (2008). まぐれ 投資家はなぜ,運を実力と勘違いするのか ダイヤモンド社 p.232.

生き残るアイデア

 それに私は,進化論の主張と条件付確率の数学でアイデアについて検討したことがある。あるアイデアがいろいろな時代を経て長い間生き残ったとしたら,そのアイデアは相対的により適応しているということだ。一方ノイズ,少なくともノイズの一部は,その間に取り除かれている。数学的には,進歩とは新しい情報の一部が過去の情報よりも優れているということであって,新しい情報の平均が古い情報に置き換わるということではない。つまり,疑わしいときはシステマティックに新しいアイデアを否定するのが一番いいやり方だ。明らかに,そして驚くべきことに,常にそうなのだ。なぜだろう?

ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛(訳) (2008). まぐれ 投資家はなぜ,運を実力と勘違いするのか ダイヤモンド社 pp.82-83.

科学とは証拠に向かう態度

 しかし科学はただの名前ではない。証拠に向かう態度なのである。科学者は自分の考えを検証する覚悟がなくてはならないし,科学者の考えは,検証によって,誤りだと証明されることがありうるものでなければならない。これは,中学の教科書に書いてあるほど単純で純粋な仮説検証の営みではない。科学者も人間であり,自分の考えにとらわれてしまい,時には,実験で確かめられなかったとき言い訳をすることもあるかもしれない。実験条件にまずいところがあった,さらに実験をする必要があるなどなど。自分の考えに疑問を投げかける証拠,それどころかそれを否定する証拠を前にしてもその考えにしがみつくという科学者の弱さを指摘することもできる。このような行動に焦点を合わせると,欠点を強調する科学像が描ける。相対主義的な批判者の中には,科学は,その内部に意見の不一致があるのだから,ほかのどの見方とも変わらず真理から遠いもう一つの視点に過ぎないと主張する。この混迷からの出口の一つは,科学を理想と認識しながら,個々の科学者はこの理想に及ばないかもしれないと認めることである。
 にもかかわらず,時がたち,利用できる証拠が増えるにつれて,科学は知識の体系を蓄積し,私たちは,その予測の正しさが確実に確認されるという考えに基づいてこの体系に大きな信頼を置く。科学のこのような進歩は,厳格で絶え間ない自己検討を要求する科学者の共同体,ある考えを,それが証拠によって裏付けられるかどうかを判定できる形で検証することを要求する共同体があって可能となる。どんな検証方法にも弱点があるから,もっとも厳しく検討されて持ちこたえた考えのみを科学が最終的に受け入れるための土台となるのは,複数の検証の積み重ねだ。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2007). 統計という名のウソ 白揚社 p.209-210.

両極を避ける

 それでも科学がすべての問いに答えられるわけではない。科学によって(この時点では,すべての病気を説明できるわけではないが),人々がなぜ,どのように病気になるのかがわかる。しかし,若い女性がどれだけつつましく振舞うべきかはわからない。これは科学で判断できる主題ではない。科学の限界は私たちの文化では問題になる。それはまさに,私たちが科学に高い期待を抱いているからだ。私たちは,病気になったら,医師が判断を下し,悪いところを治療してくれると期待し,そうならないと苛立つ。社会的パターンを明らかにする研究や,リスクを評価する研究まで利用して,どう振舞うべきかを提示する。私たちの社会はデーター統計ーを,完全な答えでなくても少なくとも,さまざまな問いの答えを考えつくうえで重要な情報を与えてくれるものとして扱う。そうした問いには,必ずしも科学の守備範囲におさまらないものが数多く含まれる。
 統計と向き合うとき,極端な相対主義と極端な絶対主義の両極を避けなければならない。統計が社会の産物であること,そして,統計が,どのような手続きによって作り出されるかに左右されることを覚えておかなければならない。しかし,科学が,証拠を評価する術,数字の正確さを評価する術を与えてくれることも理解しなければならない。こうした点は,統計をめぐって意見の不一致が起こるときとくに大切になる。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2007). 統計という名のウソ 白揚社 pp.207-208.

二極化

 ここには大事な点がある。何が本当かをめぐる論争は,2つの根拠薄弱な立場に二極化しがちだ。一方の極には相対主義者がいる。現実とはわけのわからぬものであり,私たちは何も本当に知ることはできない,あらゆる視点を受け入れ,権威とされているどんなものにも疑念を抱くべきだと示唆するポストモダンの理論家たちだ。この立場の極端な変種は,超常現象があるという信念や陰謀説など,証拠が乏しい,あるいはまったくないさまざまな信念をすべて正当なものと認める。もう一方の極には,絶対主義者の領域がある。この人々は,事実は事実だと主張し,権威ある知識への異議申し立てに我慢できない。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2007). 統計という名のウソ 白揚社 p.205.

惑星の配列による引力低下

 1976年,イギリスの天文学者パトリック・ムーアはBBCラジオ第二で次のような予報を行った。午前9時47分きっかりに冥王星が木星の後ろを通過し,この惑星の配列によって木星の引力が弱まり,反対作用で地球の引力が抑制されるので,一時的に体重が軽くなるだろう,と。さらに,この天文学的現象を一般人が肌で感じる方法があるという。9時47分にジャンプしてみれば,不思議な浮遊感を覚えるはずだというのだ。
 午前9時47分になると,BBC第二には何百人もの聴取者から電話がかかりはじめ,口をそろえてその感覚を味わったと告げた。ある女性は11人の友人とテーブルを囲んでいたが,その場の全員はもとより,テーブルまでもが室内を浮遊しはじめたという。床から急に浮き上がったと思うと,いきなり天井に頭をぶつけたと文句を言う女性もいた。
 電話の発信者たちがほんとうに浮遊感を体験したのなら,きっと暗示にかかったにちがいない。なぜなら,引力は一日中まるっきり変わらなかったのだから。

アレックス・バーザ 小林浩子(訳) (2006). ウソの歴史博物館 文藝春秋 p.208.

科学的合理主義が「超能力」を生みだす

 奇妙なことのように思えるかもしれないが,考えてみれば当然だ。霊や神の存在を信じる者には,「動物磁気」や「超能力」などという仮説を導入する必然性がないのだ。不思議な現象はすべて霊や神が起こすのだから。しかし,唯物論者であるエリオットソンは,超常現象を目にして,それを超自然的な原因抜きで説明する必要に迫られた。そこで苦しまぎれに,それが人間の持つ能力であるという説明をひねり出したのだ。
 すなわち超能力という概念は,19世紀の唯物論の台頭,科学的合理主義の風潮の中で生まれたものなのである。地質学,生物学,天文学の発展により,聖書の絶対性が大きく揺らいでいた時代だったからこそ,エリオットソンの説は注目を集めることができたのだ。エリオットソンが1世紀早く生まれていたら,彼の理論は世間に受け入れられなかっただろう。2世紀早かったら,火あぶりにされていただろう。

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.267.


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