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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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道を外れるとき

 伝統的な科学観が大きく道を踏みはずすのは,科学の過程に焦点を置くあまり,科学者の動機や欲求といったものを考慮しないためである。科学者も一般の人々と特に異なるわけではない。研究室の入り口で白衣に身を固めても,彼らとて他の職業の人びとを駆り立てている情熱や希望,失敗といったものから免れることはできない。現代科学はれっきとした職業なのである。出世の足がかりは科学文献として公表された論文だ。成功するためには,研究者はできるだけ多くの(印刷された)論文を必要とし,政府の研究助成金を確保し,また,研究室を作り,多くの研究生を雇う源泉を作り出し,刊行物を増やし,テニュアー(終身在職権)を得るために努力し,褒賞を与える委員会の注目をひく論文を出さなければならない。そして,アメリカ科学アカデミー会員に選ばれ,いつの日にかストックホルムへの招待状を手に入れることを望むのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.30-31
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研究のあとに開発

 「研究っていうのは,だいたい社会における技術的発展の,そのまえの時代に終わっている。理論分野は特にそうだ。研究のあとに開発が進む。技術が発展しているときには,研究は止まっている。開発に資金と人力が集中してしまうからね」

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.190

ファラデーの心霊実験

 ファラデーは19世紀のすぐれた科学者の典型だった。1808年以来,つねにロンドンの王立研究所で科学を革新しつづけてきた。化学の分野では,塩素を液化してみせ,物質は気体から液体へと変化することを実証した。エンジン燃料の重要成分となるベンゼンの分離にも成功している。これらの業績に加え,1831年には,ダイナモと名づけた発電機と,電動モーターの原型を発明している。さらに簡単な電池を設計し,変圧器を作る実験もした。彼がいなければ,工業はこれほど急速には発展しなかっただろう。
 ファラデーの《タイムズ》紙への投書は,終えたばかりの実験に関するものだったが,それは発明とはなんの関係もない実験,テーブル・トーキングの実験だった。
 この実験用に,ファラデーは2枚の板を用意し,そのあいだにガラスのローラーをいくつか置いて,全体をゴムバンドでとめた。あいだにローラーがあるので,上の板を押すと,下の板の上でするすると動く。上の板に取りつけた器具が,どんな小さな動きも記録する仕組みになっていた。
 そのあとファラデーは参加者をテーブルのまわりに座らせ,上の板のふちに指をのせてもらった。参加者らが自分は身じろぎひとつしなかったと言い張ったにもかかわらず,板は動いていた。だが,そこに神秘はない。霊の力など働いていないのだ。。ファラデーはそう言い切った。
 器具が何度も記録していたとおり,板に触れている人々がそれを押して,ローラーの転がる方向に動かしていたのだ。この実験は,テーブル・トーキングの参加者がみずからの動きに気づいていない場合がよくあることを示していた。ファラデーの言うように,板は無意識の筋肉の震えに反応したのであり,「参加者が不注意に機械的圧力を加えたにすぎな」かった。

デボラ・ブラム 鈴木 恵(訳) (2010). 幽霊を捕まえようとした科学者たち 文藝春秋 pp.39-40

科学が示せること

 人の心に巣くう底深い恐怖を,どんな宗教も克服できなかった。自然科学もまた,それを克服することはできない。しかし,自然科学だけが,人間精神の不合理と幻想の恐怖と,資源の無限の浪費と敵対心の増強の結末を示すことができる。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.262

喩えを避ける唯一の方法

 今日,ガイア理論は生態学の世界では確立されており,そこから地球システム学(地球規模のシステム生物学のようなもの)などの学際的な分野が生まれたりしたが,ときには粗悪な科学,さらには「危険な」科学と見られることもある。その理由のひとつは,喩え(メタファー)をあからさまに使っていることかもしれない。地球は生きていると言われても,それを客観的に証明することはできない。喩えは物事の捉え方として便利なだけだ。ラヴロックも書いているように,科学者からは「軽蔑に値するもの,厳密ではない,したがって非科学的なもの」と見なされているのが喩えである。アリストテレスは,「喩えは詩的な道具だが,自然にかんするわれわれの知識を高めるものではない」と述べている。科学者はメディアを,大衆受けしそうな作り話(少なくとも科学者が賛同しないもの)ばかり注目すると厳しく非難する。だが,モデルのほうも常に作り話,実世界の喩えだ。出来事を順を追って説明する,想像力の産物である。喩えを避ける唯一の方法は,純粋な数学的抽象化の域から出ないことだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.353-354

予測三兄弟

 科学的予測の3分野——天気,病気,景気——は兄弟のようだ。出身が同じで,一緒に育ち,同じ連中とつるんでいた。それぞれ独自の個性がある。一番上の天気予想は,ほかの兄弟が仰ぎ見る存在だ。なぜなら星に一番近いし,物理学を知っている。末っ子の病気予測はかつて問題児だったが,大人になる準備をするうちにとても楽観的になっている(学校の卒業アルバムでは,癌の治療法を発見する可能性が非常に高いとみんなに認められている)。景気予想はナルシストで,自分自身の魅力と効率のとりこになって,鏡の前で悦に入ることに日々を費やす。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.287

流行に左右される

 もう1つの問題は,科学者もほかの人と同じように,流行や一時的な人気に左右されるということだ。スティーヴン・ウルフラムが言うように,1980年代には,天気予報だけでなく,「あらゆる種類の機械システム,電気的システム,流体システムなどで」カオスの兆候が見つかり,「そうしたカオスは,自然界の重要なランダム的現象の原因に違いないという確信が広まっていった」。しかし,方程式の一部には初期条件に対する鋭敏性があるものの,「一般的に研究されているそうした方程式で,流体の現実的な説明と密接な関係があるものはない」。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.187

資金を得るには

 科学は,その現場にいるほとんどの人からは,倫理的にも政治的にも,中立と見なされている。科学的なプロセスは,合理的かつ客観的であることを目指していて,主観的な価値判断を控える。しかし,多くの人が,儲かる職業よりも科学者となることを選ぶのは,物質の性質を調べたり,病気を治したり,環境を守ったりすることで,さらに多くの幸福のために貢献したいと思うからだ。聖職者のように,より高い使命に応えていると感じているのである。量子力学が生まれ,そして特に,原子爆弾などの装置では質量をエネルギーに変換できることが発見されたのは,決定論の水を濁らせただけでなく,科学者の手を汚してしまった。世界を破壊する力がある場合に,客観的になるのは難しいことだ。原子爆弾が投下された後,アインシュタインは「彼らがこうすると知っていたら,靴屋にでもなったのに」と言った。物理学者の中には職業を変えた人もいたが,原子爆弾の発明によって,高エネルギー物理学者の採用が増えたのも真実だ。科学プロジェクトの資金を最も確実に得る方法はいまだに,ガリレオの望遠鏡と同じで,その軍事的な応用を示すことだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.122

混沌に対する砦

 秩序やパターンを探し求めるのは人間の基本的な性質のようだ。宗教と同じく,科学もまた世界を体系づけて理解するという,混沌に対する一種の砦なのである。ケプラーが『宇宙の神秘』や『世界の調和』の執筆にいそしんでいるころ,彼自身の生活は完璧な混乱に陥っていた。子供のうち何人かが訳のわからぬ病気で亡くなり,移り住む先々の国は宗教戦争に巻き込まれていて,出世の道はあまり頼りにならぬ皇帝の手にあり,教会に楯突いたために大学での教職は得られず,駄目押しのように,70歳を超えた母親が町の人々に魔女呼ばわりされていた。
 ケプラーの母親の件を見れば,秩序を求める私たちの願望には暗い負の部分があることがわかる。子供が訳もなく死んだり,村が疫病で絶滅したり,凶作で町全体が飢えに襲われたりしたとき,人が誰かに罪を着せたがるのは別に驚くべきことでもない。ヨーロッパ中の多くの女性同様,ケプラーの母親もそうした犠牲者の一人だった。彼女は一見したところ風変わりな理屈っぽい女性で,民間医療に興味を抱いていた。私たちならたぶん彼女のような人間のことを風変わり(オッド)と呼ぶところだが,奇数(オッド・ナンバー)が神聖で偶数(イーブン・ナンバー)が争いと結びつけられるピュタゴラス的な世界においては,彼女は偶数組に入れられるだろう。隣人との揉め事の噂に尾ひれがついて魔女呼ばわりに発展した。彼女に着せられた罪は,薬を飲ませたり殴打したりして7人を傷つけ,3人を死に至らしめ,深夜に誰かのウシにまたがっていた(このことが魔女の証拠であるというのがこの地方の言い伝えだった)ことだった。彼女は裁判が始まるまで1年以上を牢獄で過ごした。最終的に拷問と火刑を免れたのは,ひとえに息子——彼自身にも宗教的権威との意見の相違という障害があるにはあったのだが——が介入したおかげだった。当時は女性がこうした刑に処せられるのはそれほど珍しいことではなく,現実にケプラーの母親を育てたおばはそうした最後を迎えていた。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.80-81

科学的であること

 僕は,2004年12月のスマトラ島沖地震の際に起きた出来事について質問する。あのとき,迫りくる津波を事前に察知して野生動物とともに高台へ避難した先住民族がいたが,報告を受けた科学者はその理由をなかなか説明できなかった。この出来事は人間に第六感があることを証明してはいないだろうか。そう尋ねながら,僕は否定の言葉を浴びせられるのを覚悟する。
 「ぜひその件について証拠を調べてみたい。興味深い話かもしれない。もしそれが事実なら,さらに調査を重ねて本当の理由を特定しなければならない」
 ドーキンスの度量の大きさは驚きだ。彼は厳密なやり方で科学的研究が行われることだけを求めている。この考えには,誰も異論を唱えることはできないだろう。
 「津波が迫ったとき,野生動物は丘をめざすという証拠,第六感の確たる証拠を発見した者は名声を手にするだろう。素晴らしいことだと思う」ドーキンスは言う。
 僕の耳は確かか?あのリチャード・ドーキンスが,超能力の証拠が見つかったら素晴らしいと言った。これはものすごいスクープだ。
 いずれにしても,自分なりの実験が終わった今,僕は証拠を評価しなければならない。実験前に立てた仮説はこうだった。ドーキンスは理性的にあらざるものはすべて退け,心霊主義的な意見はどんなものも即座に叩きつぶす。だが実験の結果は,その仮説を支持していない。ドーキンスは予想よりずっとオープンな心の持ち主で,どうみても威嚇的でも攻撃的でもない。彼がサイキックに望んでいるのは,その能力の証拠を示すことだけ。彼らにそれができれば,目に見えない力を信じることは理性的だと公言することが許される。彼らの特殊な能力は人生のガイドとして役立ちうると主張することも許される。証拠さえあれば,ドーキンスは必ずや「改宗」するだろう。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.235-236

本当に深刻なときはどこに?

 大半の人はサイキックにそれほど力があると考えているわけでもありません,とワイズマン(リチャード・ワイズマン)は言う。わけがわからない。何やら突然,懐疑的なのはワイズマンではなく,サイキックを必要とする人のほうだという話になっている。僕はコーヒーを飲み,教授の解説を待つ。
 「なぜサイキックに会いに行くのかと聞かれて,彼らがサイキックだからと答える人はほとんどいない。たいていは『助けてくれそうだから』と答える。これは便益性の問題です。シルヴィアなら,素敵な恋人を見つける手助けをしてくれるだろう。そう思うだけのことです」
 ワイズマンは勢いづき,身を乗り出して続ける。「でも興味深いことに,本当に深刻な問題が起きたとき,人はサイキックのところへ駆け込んだりしません。子供が誘拐されたら,まず警察に連絡する。その後でなら,サイキックに相談することもあるかもしれない。人がサイキックの有効性をどの程度のものと考えているか,よくわかりますね。病気になった場合も同じです。医者に診てもらわず,心霊治療だけを頼りにする人はゼロに近い」

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.103-104

仮説生成と検証とは別

 しかし,だからといって,科学のすべてがそうした厳密な硬直した手続きで成り立っているわけではもちろんない。アイディア(仮説)を生み出す過程とアイディアを検証する仮定とは別ものであることに注意する必要がある。この区別は,科学哲学者が「発見のコンテキスト」と「正当化のコンテキスト」と呼び分けるものである。発見のコンテキストにおいては,日常生活と同様に,科学も「なんでもござれ」でよい。しかし,正当化のコンテキストにおいては,科学者はより慎重でなければならない。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.94
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

研究上の限界

 要するに,さまざまなテクノロジーはそれぞれ別種の調査に役立つものであり,どのテクノロジーもそれぞれ独自の要因によって制限を受けている。実施上の要因,管理上の要因,金銭上の要因,あるいは倫理上の要因なのである。サルを使った研究では,細胞単位での研究からアンサンブルでの研究には容易に移行できなかったし,逆に人間を使った研究では,本当に中途半端な状態にとらわれてきたのだ。数々の難問を前に,私たちが壁を打破してすべてをつなぎあわせるには推論しか主たる手段がなく,その推論にしろ,有益で必要なものではあるが決して完璧なツールではない。現存する種の中で最も私たちに近い親戚であるチンパンジーを研究するときでさえ,推論だけでは不十分だ。ましてやマカクは,進化の系統図の中でチンパンジーや人間よりも数段階は下にいる。残念ながら,このギャップを埋めるために私たちにできることはほとんどない。進化のプロセスは変えられないし,また,人間や大型ザルへの過剰に侵襲的な科学調査をさせない配慮について意見を変えるつもりも毛頭ない。この件に関して意見を変えるような社会なら,私はそこに住みたくない。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.227

顔面フィードバック仮説

 エドガー・アラン・ポーは有名な短編小説「盗まれた手紙」において,主人公の探偵オーギュスト・デュパンの台詞の中にこんな文章を入れている。「僕はある人がどれだけ賢いか,どれほど愚かか,どれほど善人か,どれほど悪人か,あるいはその人がいまなにを考えているかを知りたいとき,自分の表情をできるだけその人の表情とそっくりに作るんだ。そうすると,やがてその表情と釣り合うような,一致するような考えやら感情やらが,頭だか心だかに浮かんでくるから,それが見えるのを待っているのさ」。なんという驚くべき先見性!これは作家としても,自分の作った登場人物の内面に踏み入る最良の方法だったろう。しかし,ポーだけがそれを見抜いていたわけでもない。感情についての科学文献においても,顔の筋肉組織の変化によって感情的な経験が形成されるとする理論——現在で言う「顔面フィードバック仮説」——は長い歴史をもっている。チャールズ・ダーウィンとウィリアム・ジェームズは,それに類する記述を最初に残した人々の一員である(ポーの作品はこの2人の著作より数十年前のものではあるが)。ダーウィンはこう書いている。「感情を表に出すことによる自由な表現は,その感情を増幅する。一方,感情をできるだけ表に出さないよう抑制することで,その感情は和らげられる」。ジェームズに言わせれば,この現象は「最も厳密な意味で,私たちの内面が肉体の枠に結び合わされていること」を意味している。
 多数の実証的証拠が顔面フィードバック仮説を裏づけており,この仮説がまた,私たちのミラーニューロンについての調査と非常によく一致している。ただ見ているだけの別人の表情を,あたかも私たち自身が浮かべているかのようにミラーニューロンが発火することで,シミュレートされた顔面のフィードバックのメカニズムが実現する。このシミュレーション過程は,努力して意図的に他人の身になったふりをするものではない。苦もなく,自動的に,無意識のうちに行われる脳内ミラーリングである。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.150-152

発表バイアス

 発表バイアスとはどういうものかを説明するに先だち,それは必ずしも故意に詐欺を働いたということではないという点を力説しておかなければならない。なぜなら,ある結果を出さなければと,知らず知らずのうちにプレッシャーを受けているせいで発表バイアスがかかるような状況は,容易に想像できるからだ。鍼の臨床試験で,鍼には効果があるという肯定的な結果を出した中国人研究者がいるとしよう。鍼は中国にとって大きな威信の源だから,その研究者は胸を張って,すぐさまその結果を専門誌に発表するだろう。その研究のおかげで昇進するかもしれない。ところがその1年後に別の臨床試験を行ったところ,今度は,鍼には効果がないという,その研究者にとっては明らかに残念な結果になった。重要なのは,この第2の研究結果は,さまざまな理由から,発表されずに終わる可能性があるということだ。その研究者は,すぐに結果を発表しなければとまでは思わないかもしれない。また,その臨床試験は失敗だったのだと自分に言い聞かせようとするかもしれないし,こんな結果を出しては,同僚たちをがっかりさせてしまうと思うかもしれない。理由はどうであれ,最終的にその研究者は,第1の臨床試験で得られた肯定的な結果だけを発表し,第2の臨床試験で得られた否定的な結果は引き出しにしまい込んでしまう。これが発表バイアスだ。

サイモン・シン&エツァート・エルンスト 青木薫(訳) (2010). 代替医療のトリック 新潮社 p.100

ランダム化プラセボ対照二重盲検試験

 1 対照群と治療群とが比較されること。
 2 どちらの群にも,十分に多くの患者が含まれること。
 3 群への割り振りは,ランダムに行われること。
 4 対照群には偽薬を与えること。
 5 対照群と治療群とを同じ条件下に置くこと。
 6 患者には,自分がどちらの群に属しているかわからないようにすること(患者に目隠しをする)。
 7 医師が患者に施す治療が,本物か偽物か,医師も知らないようにすること(医師に目隠しをする)。

 以上の条件をすべて満たすものは,ランダム化プラセボ対照二重盲検試験と呼ばれ,医療に関して考えられるかぎりもっとも信頼できる臨床試験とみなされている。今日多くの国々で新しい治療法の認可に責任をもつ組織は,この方法で行われた研究結果にもとづいて判断を下すのが普通だ。

サイモン・シン&エツァート・エルンスト 青木薫(訳) (2010). 代替医療のトリック 新潮社 pp.92-93

最年少の論文掲載者

 実は,人間のエネルギー場なるものは作り話にすぎないということを示す証拠ならたくさんある。1996年にはコロラド在住のエミリー・ローザという科学者が,セラピューティック・タッチを調べるために,21名のヒーラーの能力を検証してみることにした。彼女が行った実験は,1枚のスクリーンに2つの穴を開けておき,ヒーラーに両手を入れてもらうという簡単なものだった。そうしておいて,ローザはコインを投げて左右を決め,ヒーラーの右または左の手のすぐ近くに自分の手を置いた。ヒーラーは,エミリー・ローザのエネルギー場を感じ取り,ローザの手がどちら側にあるかを答えなければならない。21人のヒーラーに対して,合計280回の試行が行われた。当初ヒーラーたちは,科学者の手がどちら側にあるかを感じることに自信をもっていた。偶然だけでも50パーセントの正答率になるはずだが,実際にやってみると,セラピューティック・タッチのヒーラーたちの正答率はたった44パーセントだった。この実験で示されたのは,エネルギー場はおそらくヒーラーたちの空想のなかにしか存在しないということだ。
 この実験を行ったとき,エミリーはわずか9歳の少女だった。もともとエミリーが通っている学校の「サイエンス・フェスティバル」のために計画された実験だったが,彼女はその2年後に,看護師である母親の助けを借りながら結果を論文にまとめ,名望ある『米国医学会誌』に発表した。エミリーはこれをもって,査読の手続きを踏む医学専門誌に研究論文を発表した,(本書の著者たちの知るかぎり)最年少の人物となった。当然,「セラピューティック・タッチを精査する」と題したエミリーの論文におもしろくない思いをした人たちもいた。この治療法の原理を打ち立てたドロレス・クリーガーは,「実験の計画および方法論に問題がある」としてエミリーの研究を批判した。しかし,実験はごくシンプルだし,彼女が引き出した結論はほとんど間違いようもないほど明快だ。さらに言えば,彼女の得た結論を覆すような実験を考えついた者は,今に至るまでひとりもいない。

サイモン・シン&エツァート・エルンスト 青木薫(訳) (2010). 代替医療のトリック 新潮社 pp.284

押しで始まる津波もある

 地震のあとに,突然,津波がやってくる場合がある。前述の日本海中部地震による津波は,その場合だったのである。引きで始まる津波と,押しで始まる津波の発生率は,50対50と同じ割合である。同じ地震が起こした津波でも,場所によって引きで始まる場合と押しで始まる場合とがある。たとえば,インド洋大津波では,震源の東側では引きで始まり,西側では押しで始まった。

広瀬弘忠 (2009). どんな災害も免れる処方箋:疑似体験「知的ワクチン」の効能 pp.70

学者は成功不成功で判断すべきではない

 数年前カルテックでの私の研究室は,ジョン・シュワルツという物理学者の研究室のすぐそばにあった。当時彼はほとんど認められておらず,10年間嘲笑を受けながら,ストリング理論という疑わしい理論をほとんど独りで生かしつづけていた。この理論は,宇宙にはわれわれが見ている3次元よりもずっと多くの次元があると予言していた。ある日彼と共同研究者による技術的なブレークスルーがあり,ここでは理由を省くが,突然,その特別な次元が受け入れられるものになった。そしてそれ以来,ストリン切り論は物理学におけるもっともホットな話題になっている。
 今日ジョンは物理学の切れ者の長老の1人とみなされているが,もし彼が何年もの無名の時代のためにダメになっていたら,「世の敗北者の多くは,諦めたときに成功がどれほど間近にあるかを知らなかった人びとだ」というトマス・エジソンの言葉の証になってしまっていただろう。
 私が知るもう1人別の物理学者の場合も,ジョンの場合と非常によく似ている。彼はたまたまカリフォルニア大学バークレー校でジョンのPh.Dの指導教授だった。同世代のもっとも才能のある科学者の1人とみなされていたこの物理学者は,S-行列理論と呼ばれる研究領域のリーダーだった。ジョンのように,彼も頑固なまでに粘り強く,ほかの者が諦めたあともその理論に取り組みつづけた。ジョンとは違い,彼は成功しなかった。そして成功しないために彼は物理学者としての仕事に終止符を打った。多くの人間は彼を変人と見た。
 しかし私の考えでは,彼もジョンも——明日にでもブレークスルーが起きるといった見込みが少しもないまま——流行遅れの研究に取り組む勇気をもったすばらしい物理学者だった。物書きは本の売上げによってではなく何を書いたかで判断されるべきだが,ちょうどそれと同じで,物理学者は成功によってではなくその能力によってより正しく判断されるべきだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.318-319
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

教育レベルが上がるほど

 NSFは科学技術の現状をまとめた報告を定期的に出版している。2002年の報告書では,科学技術にかんする大衆の理解に1章をさいている。その一節では,疑似科学信奉の問題が広まりつつあると指摘されている。科学と称しているが,科学的な原理や証拠にもとづかない「科学もどき」に対する批判である。2001年に実施した世論調査で「超能力をもつ人々がいる」の信奉の程度を5段階で聞いたところ,全米の成人の60パーセントが「強くそう思う」か「そう思う」と答えたのである。ギャラップの世論調査でも,1990年,96年,2001年と,このパーセンテージは増加しており,こうした傾向は,合衆国の科学教育がみじめな状態であると判断する根拠にされている。  これは本当にみじめな状態なのだろうか。むしろ,興味深い事実を指摘しているのではないか。調査の回答者を教育レベルによって分けると,高校レベルまでの教育を受けていない人々で超能力を是認する人は46パーセントなのに対して,高校レベルい上の教育を受けている人々では62パーセントにはねあがる。新聞を毎日読むなどの情報に敏感な人々でも59パーセントが認めているのである。調査結果はなんと,超能力の信奉は教育の欠如では「説明がつかない」と示しているのだ。 ディーン・ラディン 竹内薫(監修) 石川幹人(訳) (2007). 量子の宇宙でからみあう心たち:超能力研究最前線 徳間書店 pp.80-81

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