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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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DNAを調べると

 古い人類の化石からDNAを取り出して,現代人のものと比べ,化石人類の系統を探ることは可能なのだろうか。夢のようなこのアイディアを実現するには,まず長い時を越えて化石中にDNAが壊れずに残っていることが必要で,さらに分析の過程で周囲から外来のDNAが混ざらないよう極めて慎重な手続きをとる必要がある——最も危険性が高いのは分析者本人のDNAが混ざってしまうことだ——。そもそもDNAを取るためには貴重な化石を壊さなくてはならないので,これは簡単にできる話ではない。周到な準備のもと,こうした条件をクリアーして成し遂げられた最初の成功例は,1997年に報告された。ドイツとアメリカの研究グループが,1856年にドイツで発見されたネアンデルタール人の化石から,ミトコンドリアDNAを抽出することに成功したのである。研究チームの巧妙な分析手法はもとより,どうやらドイツの寒冷な気候がDNAの保存に有利に働いたようだ。これを現代人のDNAと比較した結果では,ネアンデルタール人と現代人が60万年も前に枝分かれしたことが示された。
 その後さらに別のネアンデルタール人化石でも成功例が報告され,彼らのミトコンドリアDNAが現代人とはずいぶん違うことがはっきりしてきた。このことは,ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が混血した可能性までは否定するものではないが,ヨーロッパのネアンデルタール人がホモ・サピエンスの祖先ではないことを明らかにした。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.48
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科学の仮説概念

 もちろん,真の科学においても,心理療法家の「自我」や「足跡」と同じような,仮説的な概念を見つけることができる。電子,ブラックホール,抗体,遺伝子。物理的に存在することが明らかになる以前から,これらはすべて,科学論文をはじめとした科学的なコミュニケーションのなかで使われていた概念だ。しかし,こうした概念に対応した物質が実存するだろうと考えられる理由について,科学者の間で合意があった。通常,綿密で系統立った研究から得られた観察データにもとづいているからこそ,科学者の間でこのような合意が成り立つのだ。そして,その存在をどうやって検出するのか,またほかの概念や理論で説明できる可能性をどうやって排除するのか,という方法論についても,科学者の間で合意がある。ところが精神疾患の原因が「子どもの頃の性的虐待」にあるという理論を信じる人たちの間には,そのような合意がなされていない。虐待が精神疾患を引き起こすメカニズムについても,そのほかの要因ではなく虐待が原因であると証明するための方法論においても,さらには「記憶」を掘り起こす方法やその治療効果を扱うための方法についても,研究者の間で合意がなされていない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.219
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

科学は解明するか

 ラインは「人間はその本質のなかに,自己理解に用いることができるどんなツールを有しているのか,今ほどその知識が必要とされているときはないだろう」と述べた。
 超心理学は発達した。それは死者との間を取りもつための研究ではなく,「人間の本質のなかに隠された,ESPに代表されるような人格の知られざる側面」を考える学問なのだ。ラインは今後の展望についての発表を,荘厳な言葉で締めくくった。
 「科学は時間と空間の観点で,コンピュータと分子の観点で,銀河と素粒子の観点で,未知なる世界の探求において大きな成功をおさめ,ようやく人間の心へと至り,これを解明できるようになったのである」
 しかしこの時点で,科学がラインらの成果をまだ受け入れていないことには言及しなかった。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.281-282

疑問

 地球の自転だけを考えても,赤道の周長は約4万キロメートルだから,日本の位置でも1日で3万キロくらいの移動量になる。これを24で割れば1250キロだから,これが時速だ。さらに60で割ると,1分間でも約20キロも移動している。タイムマシンで1分まえに行けるとしたら,20キロもずれてしまうだろう。まして,地球の公転や,太陽系の移動速度を計算すれば,ほんのちょっとタイムトラベルをするなら,無闇にすることは危険で,きちんと目的地を計算した方が良いのではないか。
 幽霊は壁を通り抜けることができるらしい。ならば,何故そこに留まっているのだろう?地球の運動に乗っていられるのは,それが物体だからである。物体ならば力学法則に従う。いつもは物体で,壁を通り抜けるときだけ物体でなくなるのだろうか。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.173-174

科学の基本姿勢

 自分の考えたものだから,利益や賞賛を独占したい,というふうには科学者は考えない。「できるだけ,大勢に使ってもらいたい」「みんなの役に立てば,それが嬉しい」というような公開性,共有性に,科学の真髄がある。社会の利益を常に優先することが科学の基本姿勢なのだ。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.138

実験がすべてではない

 ところが,そういう「理屈」よりも「実験」を重んじ,実際にやってみて自分の目で確かめることが「科学」だと信じている人が多い。実験で確かめられることこそが,科学に相応しいと思っている。この考え方は,全然間違っているというわけではないけれど,実験で観察されることは,すべて科学的に正しいというような間違った主張になりがちである。そうなると,正しくはないし,やはり科学的ではない。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.133

科学ですべてが…

 しかし,科学を目の敵のように言う人もいる。「科学ですべてが説明できるのか?そんなふうに思っているのは科学者の傲りだ」と。それは違う。科学者は,すべてが説明できることを願っているけれど,すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。どの範囲までがまあまあの精度で予測できるのかを知っているだけだ。しかし,科学で予測できないことが,ほかのもので予測できるわけではない。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.85

科学と非科学の境界

 では,科学と非科学の境界はどこにあるのだろう?
 実は,ここが科学の一番大事な部分,まさにキモといえるところなのである。
 答をごく簡単にいえば,科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。また,この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。
 ある現象が観察されたとしよう。最初にそれを観察した人間が,それをみんなに報告する。そして,ほかの人たちにもその現象を観察してもらうのである。その結果,同じ現象をみんなが確かめられたとき,はじめてその現象が科学的に「確からしいもの」だと見なされる。どんなに偉い科学者であっても,一人で主張しているうちは「正しい」わけではない。逆に,名もない素人が見つけたものでも,それを他者が認めれば科学的に注目され,もっと多数が確認すれば,科学的に正しいものとなる。
 このように,科学というのは民主主義に類似した仕組みで成り立っている。この成り立ちだけを広義に「科学」と呼んでも良いくらいだ。なにも,数学や物理などのいわゆる理系の対象には限らない。たとえば,人間科学,社会科学といった分野も現にある。そこでは,人間や社会を対象として,「他者による再現性」を基に,科学的な考察がなされているのである。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.75-76

因果関係

 実験による干渉は途方もなく重要なものである。なぜなら,それなしには,観察している相関関係がなんらかの因果的な意義をもつことをけっして確信することができないからだ。そのことはいわゆる「教会の時計の誤謬」で例証することができる。2つの隣接した教会の塔の時計が時を告げるのだが,セントA教会のほうがセントB教会よりもほんのわずか先に告げる。このことに気づいた火星人が,セントA教会のほうがセントB教会の鐘の原因ではないかと推測するかもしれない。私たちはもちろん,そうでないことをよく知っているが,実際のところ,この仮説の真偽を確かめる唯一のテストは,セントA教会の鐘を1時間に1度ではなく,実験としてランダムな時間に鳴らすことだろう。火星人の予想(この場合には,もちろん反証されてしまうだろう)は,セントB教会の鐘はやはり,セントA教会の鐘が鳴った直後に鳴るだろうというものである。観察された相関関係が本当に因果関係を示しているかどうかを決定できるのは,実験的な操作だけなのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.130-131

本質とは

 プラトンにとって,私たちが目にしていると思う「実在」は,私たちが囚われている洞窟の壁に,かがり火のゆらめきがつくりだす影にすぎない。他の古代ギリシアの思想家と同じように,プラトンは根本的には幾何学者であった。砂に書かれたあらゆる三角形は,三角形の真の本質の不完全な影にすぎない。本質的な三角形の線は,幅をもたず長さだけの純粋にユークリッド的な線である。線は無限に幅が狭く,平行な二本は交わらないものと定義される。本質的な三角形の角の和は,実際に,ぴったり二直角になり,それよりピコ秒[10の12乗分の1秒]角たりとも多くも少なくもない。砂に書かれた三角形ではそうは言えない。そうでなく,砂に書かれた三角形は,プラトンにとっては,理念的で,本質的な三角形の不安定な影でしかないのである。
 マイアによれば,生物学は,生物学独自の本質主義に悩まされている。生物学的本質主義は,バクやウサギ,センザンコウやヒトコブラクダを,あたかも三角形,菱形,放物線,あるいは十二面体であるかのように扱う。私たちの見るウサギは,あらゆる完全な幾何学の形態とともに,概念空間のどこかに漂っている完全なウサギの「イデア」,すなわち理念的で,本質的で,プラトン流のウサギの青白い影なのである。血肉をもつウサギは変異があるかもしれないが,それらの変異体はつねに,ウサギの理想的な本質から逸脱した欠陥品とみなされるのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.72

探偵や刑事のように

 私たちは,犯罪が起こったあとで現場にやってくる探偵(あるいは刑事)のようなものである。殺人犯の行為は,過去の彼方に消えてしまっている。探偵は,実際の犯行を自分の目で目撃できる望みはないのだ。いずれにせよ,ゴリラの着ぐるみ実験その他の実験は,自分の目を疑うことを教えてくれている。探偵が実際に手にしているのは,残された痕跡であり,そこには自分の目などより信じられるものがどっさりある。すなわち,足跡,指紋(そして現在ではDNAフィンガープリントも),血痕,手紙,日記などだ。世界が現在の状態に至るためには,あれが起きてああなったという歴史ではなく,これが起きてこうなったという歴史でなければならないというのが,世界の在り方なのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.65

(引用者注:ゴリラの着ぐるみ実験とは,ダニエル・J・シモンズらによるバスケットボールのパスの間にゴリラが登場する実験のことである selective attention test→ http://www.youtube.com/watch?v=vJG698U2Mvo)

沈黙しか

 カール・セーガンは,宇宙人に誘拐されたと主張する人々に対する当意即妙の返答において,ゴールドバッハの予想を皮肉たっぷりに使っている。

 私はときどき,地球外生命体と「コンタクト」したという人からの手紙を受け取る。彼らは私に「地球外生命体になにか質問するよう」求めてくる。そこで私は何年もかけて,ちょっとした質問のリストを準備できるようになった。思い出してほしいのだが,地球外生命体は文明がえらく進んでいるのだ。だから私は「フェルマーの最終定理の簡潔な証明を見せてくださいませんか」といった質問をする。あるいは,ゴールドバッハの予想だったりすることもあるが……私は答えをもらったためしがない。一方で,もし「正しいおこないをしなければいけないのでしょうか」といった質問をすれば,ほとんどいつも答えが返ってきた。漠然とした事柄,とくに月並みな道徳的判断がかかわるような問いに対しては,こうした宇宙人は極端なほど嬉々として反応してくる。しかし特殊な,彼らがほとんどの人類が知っている以上の何かを本当に知っているかどうか確かめるチャンスのあるような事柄については,沈黙しか返ってこないのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.59-60

科学は感情的

 科学者にも感情はある。一般にはほとんど認識されていないが,科学は実に情熱的で感情的だ。こう言うと,科学者でない人々はたいていびっくりするのだが,正直なところ,考えや評判を批判された場合,不当な言いがかりだと本当に傷つくものである。と言うわけで,誰でもいいから,感情などないと言ってみるがいい。感情がなければ,誰も自分を人間とは思えないはずだ。一方,感情があるならば,それを理性で完全に抑えることは不可能なのだから,超自然現象を信じる可能性はある。私が言いたいのはそこだ。超自然現象信奉にどこまで振り回されるかは,人それぞれに異なる。たいていの人は超自然的な考え方を抑制できるのだが,結局のところ,超自然現象をどこかで信じつつ判断し行動するのは,人間の精神構造では当たり前のことなのである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.127
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

なぜ否定できないか

 科学がそれほど目覚しい功績を挙げているなら,科学的観点からして当然な超自然現象を否定する見解を,たいていの人が無視するのはなぜだろう?超自然現象信奉には根拠がないという科学者の言葉に,一般大衆が耳を傾けないのはなぜか?ここで,超自然現象信奉には総じてふたつの形があるという事実に注目していただこう。宗教的な超自然現象信奉(神,天使,悪魔,生まれ変わり,天国,地獄など)と非宗教的な超自然現象信奉(テレパシー,透視能力,ESP)である。宗教はおしなべて超自然現象信奉を基盤としているが,超自然現象信奉のほうは宗教に根差しているとは限らない。宗教と科学と超自然現象の相違に関連しては実に強硬なロビー活動や議論も展開されていることを考えると,これは重大な違いである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.86-87
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

自然分類

 我々の使うコトバは,我々の心身機能という自然の何らかの反映である。従って,コトバを使ういかなる分類も,何らかの形で自然の秩序を反映しているに違いない。故に,すべての分類はある意味では自然分類である。そこで何が最も自然かと言えば,最も沢山の人々に受け入れられる分類体系が,最もよい自然分類体系ということになる。このようにして沢山の人々に受け入れられた分類体系は,ある時代と地域の人々の思想・文化そのものとなる。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.214

よい分類体系

 真の科学的分類群は,分類学者が比較形態学的な研究を重ねて,原型(すなわち,沢山の形態の間の変換規則の同一性)という仮説を構築することによってのみ導くことができる。そして,このようにして導かれた分類体系が,我々の自然言語を含む認知パタンと齟齬を来たさない時は,この体系は科学的分類体系であると同時に,よい自然分類の体系であると言うことができるのである。
 パタン分析主義者は,パタン分析によって導かれる分類体系は特定の進化モデルに依拠しない一般参照体系であると豪語しているが,科学の目的は一般参照体型を構築することにあるのではなく,何らかの仮説に基づいた体系を構築することにこそあるのだ。分類群を何らかの仮説に基づいて実定してこそ,分類学と言えるのである。一般参照体系によって析出される分類群が,共通要因の結果生じた分類群である確率が最も高い,というパタン分析主義者の言明は,その分類群の科学的正当性を全く保証しない。共通要因を仮構しないで導いた一般参照体系は研究作業の一プロセスにすぎない。重要なのは共通要因を仮構して,それに基づいて分類群を実定することである。一般参照体系は所詮ただの道具にすぎない。一般参照体系が最も合理的かつ科学的な分類体系であるという言明が唯一正しいのは,我々は決して分類群を分類群たらしめている共通要因を仮構することができない,という不可知論が正しい時だけである。不可知論を自らの理論の正しさの根拠にしている科学理論がまっとうなものであると考えることは,私にはできない。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.194-195

方法論的同一性

 伝統的な科学観からすれば,科学は真実を追求するものであるから,反表形学派の言い分はまことにもっともなように思えるだろう。ところが流行している科学の分野をみわたすと,ほぼ例外なく方法論的同一性を有していることがわかる。すなわち,一定の順序を踏みさえすれば誰にでもとれるデータ。データを解析するためのマニュアル。解析結果を解釈する体系。私にしかできない名人芸などは科学にとって無縁なものなのである。世間では科学者と独創的という2つの語は,なんとなく相性がよいように思われているらしいが,人並みの科学者として成功する秘訣は,何よりもまず非独創性なのである。もちろん,独創的な科学者もいるにはいるが,それは大科学者かおちこぼれのどちらかである。
 独創性を発揮して大科学者になるためには現在流行している方法論的同一性を別の方法論的同一性に変革しなければならない。事の定義からして,すべての科学者が独創的な大科学者になる事はできない。なぜなら,すべての科学者が別々の方法論的同一性を主張すると,そもそも,一般的な方法論的同一性が成立せず,その分野は科学と認められなくなってしまうだろうから。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.98-99

分類の概念

 ところで,ラマルクやキュヴィエによって進化とか機能とかの概念が与えられて以来,生物の類似性は単に見てくれだけのものではなく,何かかくれた根拠を持つとの考えが強くなった。そこで分類の理念は次の4つに分極する。
 (1)自然分類は形態の類似度を定める客観的な基準によって行えばよく,それ以上の深い根拠を求める必要はないとの表層主義。
 (2)自然分類は生物の進化(歴史)を根拠にして行うべきとの歴史主義。
 (3)自然分類は見てくれの類似性を発する根拠としての不変の構造によって行うべきとの構造主義。
 (4)どんな分類基準も所詮は人間の認知パタンや思考パタンから免れるものではなく,自然分類もまた,自然言語や類似性に関する人間の認知形式と整合的な人為分類の一種にすぎないとの規約主義。
 理念的な問題だけで言えば,(1),(2),(3)の立場は互いに背反して,しかもすべて(4)を許容しないが,(4)の立場は(1)や(2)や(3)を許容する。なぜならば(1),(2),(3)のやり方もまた,人が類似性を考える時のひとつの形式であると考えるからである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.85-86

非明示的な名

 しかし,ここでも注意しなければならないのは,生命という自然言語の名が,生命を解明しようとする生物学の方法を,すみずみまでしばっていることである。生命を一言で言い当てようとして提唱された,気や霊魂よりほんのわずかでも明示的なすべての名は,生命という自然言語の名により却下され続けている。
 たとえばDNAが含まれている物を生命体だと言ってみる。するとDNAが入っている試験管も生物になってしまう。仕方がないからDNAが機能する空間を有するものを生命体と言い換えてみる。するとなんだか納得できたような気分になってくる。なぜそうなるか,おわかりですか。機能という名は生命という名と同じくらい,非明示的な名だからである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.28

実体と分類基準

 ともあれ,原核生物も真核生物もそれらを二分する分類基準も決して自然言語の名ではない。原核生物とか真核生物とかいう自然言語の名があって,これらを厳密に分ける分類基準が発見されたのではない。合理的な(と信じられた)分類基準の発見と同時に,分類すべき実体も定まったのである。なぜこのようなことになるかというと,分類すべき実体(直接的には原核生物と真核生物)と分類基準(核膜,細胞内器官など)は肉眼では見えず同じ顕微鏡下の可視レベルにあるからである。自然言語に囚われずに分類できる場合,その分類はおおむねスムーズにゆくことが多い。もちろんこのことは,その分類が唯一の合理的な分類であることを意味するわけではない。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.26-27

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