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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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ノイズをシグナルとして

ノイズをシグナルと間違えるという私たちの性質は,ときとして悲惨な結果をもたらす。日本は地震活動が活発な国であるのに,2011年の壊滅的な地震(東北地方太平洋沖地震)に備えていなかった。福島の原子炉はM8.6の地震には耐えられるように建てられていたが,M9.1には耐えられなかった。地震により発生した130フィート(約40メートル)という規模の津波が過去にもあったことは,考古学的な資料からうかがえたが,忘れられたか無視されたようだ。
 M9.1という地震は世界中のどこを見てもきわめてまれである。10年単位でも予測することはできなかっただろうが,日本の科学者や政府関係者は,その可能性を最初から否定してしまった。これも過剰適合の事例と言えるかもしれない。

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.184-185
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形而上学の実践

天気予報が形而上学の実践だと言ったら驚くかもしれないが,天気を予測するという考え自体が,予定説対自由意志という議論を呼び起こすものなのである。ロフトは言う。「すべては決められているのか,それとも私たちが自分自身で決めるのか。これは人類にとって基本的な命題だ。そして2つの考え方がある」
 「1つは聖アウグスティヌスとカルバン主義だ」。ロフトは予定説を唱えた2人をあげた。この考えのもとでは,人間に世界がどうなるかを予測する力はあるかもしれないが,それを変える力はない。すべては神の計画にしたがって進む。「これに反対するのが,イエズス会とトマス・アクィナスで,私たちには自由意志があるとした。問題は世界が予測可能なのか,それとも不可能なのか,ということだ」

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.124

説明のためのツール

占いは,科学とは別の方法で,世界を秩序あるものと見ようとしているのだと私は考える。たとえば,易は,宇宙,世界の理を明らかにするものだった。世界の秩序,法則が理である。人生もその理のひとつのあらわれなのだ。一見デタラメに見える人生も,世界の法則に支配されているのであり,それゆえ人生をあらかじめ知ることができ,またある程度はコントロールすることができると考えるのである。西洋占星術もほとんど同じである。そのことは,第1章で紹介したケプラーを思いだせばよくわかるだろう。彼が一方では科学的天文学者で,他方では占星術師でもあることができたのは,どちらも宇宙,世界の秩序を明らかにしようとするものであるからなのだ。西欧にかぎらず,科学がはじまる以前には,占いが自然,宇宙,世界の仕組みを解明し,説明するものだったのである。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.88-89

否定と肯定

科学的理論や仮説は,観察や実験によって検証される。1つでもその理論や仮説に反する事例があれば,たちどころに否定される。逆に,どんなにたくさん肯定的事例があっても,それで十分ということはない。科学の場合は,肯定より否定の方が簡単なのだ。
 それに対して占いは,反証例があっても,否定されない。テレビの星座占いコーナーでその日の運勢を見るひとは,当たらないことが多くても,見るのをやめはしないだろう。本格的な占いの場合は,占いによって出たものをどう解釈するかが重要であるから,当たらないときはその占い師の評判が悪くなり,客が来なくなるだけで,その占い自体が否定されるわけではない。逆に1度でも当たることがあると,本気になって信じてしまう。評判の高い占い師には,そういう的中例が神話伝説のようになって伝わっている。当たったことだけが記憶に残り,当たらなかった例は忘れられてしまう。占いでは,否定より肯定の方が簡単だ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.84-85

研究の良し悪し

研究の管理者が何をもって研究の「いい」,「悪い」を判断するかということも,きわめて高度な判断であり,しかもきわめて当てにならないもので,誰でもができるものではないと思います。もっともらしい顔をして,研究の良しあしを判断する人,特に技術に対する理解のない人が,それをすると腹が立つ理由です。

矢野宏 (1994). 誤差を科学する:どこまで測っても不正確!? 講談社 pp.63

社会の投影

科学者もまた,ふつうの人間です。科学者だけに科学者であるがゆえの「高潔な」人格を期待したり,特別の倫理観を期待したりすることもできますまい。まして現実の科学者がそうでないからといって,裏切られたと感じたり,失望したりするのは愚かなことだと思います。
 要するに,現代の科学は,その長所も欠点も,わたくしども自身のもっている価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚することから,わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は,今日のわたくしども人間存在の様態を映し出す鏡なのです。今日の科学者の考えていることは,わたくしどもの時代,わたくしどもの社会の考えていることの,ある拡大投影にほかならないのです。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.201

不愉快

現在のわたくしどもでも,現在わたくしどもの共有する科学理論に対して致命的な反証となる「事実」をすでに数多く入手していながら,しかも,それに気づいていないことがあるかもしれない,ということは,想像してみるのにあまり愉快なことではありません。とりわけ現場の科学者の方々にはそうでしょう。しかし,この点はたいせつです。
 そこからわたくしどもはいろいろな教訓を学びとることができます。第1に,それではある「事実」が今もっている理論に対する致命的反証になっているということがいつ気づかれるのか,という問いを立ててみることによって明らかにされるような問題があります。それは,その「事実」を見るためのさまざまな理論上の前提が張り巡らす網の目の構造やその有機性に変化が生じた時だ,ということができます。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.189-190

酸素の発見

けれども「酸素の発見」とはいったいどういうことなのでしょう。例えば,何か還元反応が起こって,水溶液のなかにぶくぶくと泡が立ったとします。その現象そのものが,突然18世紀に出てきたわけではありますまい。そんな現象は,中世にも古代にも,ヨーロッパだけでなく,中国にもインドにも,いつでもどこでも起こっていたに違いありません。しかし,ではその現象を目撃した,その泡を発見した最初の人が「酸素の発見者」なのでしょうか。もしそうだったら,「酸素の発見者」は,ラヴォアジェやプリーストリはおろか,アリストテレスやプラトンでもなく,日本の無名の刀鍛冶だって,あるいは中国の錬丹術師でも,あるいは極端にいえば,もしかしたらネアンデルタール人だって「酸素の発見者」になり得るではありませんか。
 明らかにそれではおかしい。「酸素の発見」とは,酸素の気泡を目撃したこととはまったく違います。ある機能を果たしている気体として見たときに,初めて,それは酸素の発見になるのです。ある人が,視野のなかのある部分に「酸素を見る」こと,「ここに酸素があります」と言えることは,ある視覚刺激の束をその人が受け取ることとはまったく違うのです。そして,「ここに酸素があります」という「事実」は,明白に,そこに前提されている酸化=還元の理論によって,初めて「事実」たる資格を得るのです。このように考えてみれば,あの同時発見がなぜ起こるか,ということは多少わかりやすくなると思います。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.179-180

制限

人間の時間や空間についての尺度も,きわめて大きな束縛の1つだと思います。例えばわたくしどもは,だいたい10分の1秒程度の時間的な変化以上に細かい分解能力をもっていません。もしこれがもっと細かい分別能力をもっていたら,恐らくわたくしどもの知覚している世界はまるで変わったものになっているでしょう。当然,もっと粗っぽい分別能力をもっていたとしても,やはり受け取る世界は違っていると言えます。
 空間的な大きさが変化する場合でも,事態は変わりません。わたくしどもの身体が細菌程度の大きさであったとしたら,あるいは地球程度の大きさであったとしたら,この世界の様相はまるで違ったものになってしまうはずです。
 少しSF的な想像になりましたが,何が言いたいかはわかっていただけたのではないでしょうか。今わたくしどもが,天然自然の姿として認め,知っているものは,たまたま,わたくしどもが,今のわたくしども程度の大きさをもち,わたくしどもの感覚器官が,今の程度の分別能力をもっていることの結果としてのものなのであって,それらの条件が変われば,自らそれにつれて,外界の有様も変わる,ということは認めなければなりますまい。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.151

真理に近づく理由

少なくとも彼らは,キリスト教的偏見を捨て,宗教的迷妄から開放されてありのままの自然を見たから「自然科学的真理」に到達することができたのではなくて,この世界を創造主である神が合理的に造り上げたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ,「自然科学的真理」を得ることができたといえるのではないでしょうか。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.111

努力の理由

ケプラーは,惑星の運動がどうなっているのかを示す有名な3法則を発見しています。第1は楕円法則,第2は面積速度一定の法則といわれて,どちらも非常に重要な発見でしたが,第3法則は,惑星の公転周期,つまり太陽に対してもその軌道上にある1点を定めたとき,その点から出発して太陽の周囲を1回転して再びその点に戻ってくるまでに要する時間のことですが,この公転周期の2乗と,公転半径,つまり,ケプラーの場合は惑星の軌道は(第1法則によって)楕円ですから,通常この「半径」は,楕円の長い方の半径(長径)の半分と定義しますが,この公転半径の3乗との比が,どの惑星をとっても同じ値になる,というものです。
 ケプラーは,この第3法則を見つけるまでに,何年も何年もの間,毎日毎日,やっかいな繰り返すのですけれども,もし,ケプラーの意識のなかに,神はこの自然界を造るにあたって,簡単な整数関係で表現できるような秩序を,夜も昼も続けることはできなかったでしょう。逆にいえば,とうとう惑星の公転周期の2乗と公転半径の3乗との比が一定になるという結果に到達したとき,ケプラーはおどり上がって喜んだといわれています。彼の信念,彼の「偏見」は裏切られずに,みごとに報われたのです。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.109-110

先入観

コペルニクスの『天球の回転について』を読んでいて気づくことは,彼の頭のなかにはつねに,この世界を支配しているのが神(もちろんこの場合はキリスト教的な神ですが)である,という基本図式が存在していたことです。その基本図式から外れたことを,何1つコペルニクスは考えたことがないのです。この世界を神が造ったこと,そのとき神は整然とした秩序をこの世界に与えたこと,そうした美しい神の秩序は,自然のなかの至るところに読みとることができること,こうした基本図式こそ,コペルニクスの「先入観」であり「偏見」でありました。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.104

裸がお好き

ボルツマンという天才的な物理学者が,たいへんおもしろいことを言っています。「科学者は裸がお好き」というのです。この場合の「裸」というのは,いろいろな余計なものを取り去ってしまった,ありのままの,裸のデータ,ということなのですが,人間は,自らのなかのあらゆる先入観や偏見を捨てたり,ただひたすら眼をしっかり見開いていれば(穴をちゃんと開けていれば),かならず,ありのままの,裸の,正しい外界からの情報をみて取ることができるのだし,科学者こそ,そうした態度を強く維持しなければならない,という信念を,これほどたくみに表現した言葉もありますまい。
 このように外界の認識に際して,自らのもつ偏見や先入観をすべて捨てることがたいせつなのだ,という信念は,今日のわたくしどもの間にも広く拡がっています。例えば,正統的なマルクシズムが強くその信念を主張しています。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.88

バケツ

もちろんそのときにも触れましたが,昔の法則が新しい法則に書き換えられる際には,前者が後者によってそっくりそのまま「包み込ま」れるような形をとることは,むしろ稀なことかもしれません。科学の「進歩」ということはまた,過去の旧い法則や理論が,まちがった,正しくないものとして捨てられ,新しいより正しい,より真理に近い法則や理論によって置き換えられることをも言う,と考えられています。では,先のような認識論的な立場から見て,そのような事態はどう説明されるのでしょうか。
 もし人間が穴の開いたバケツであって,そのバケツには,外から情報が流れ込んで溜まるだけであり,その溜まって行く過程の中で,すでにくわしくご紹介したあの機能と演繹のサイクルが繰り返されていくのなら,どこに,「まちがった」法則や理論が得られてくる余地があるのかが,うまく説明される必要があるでしょう。なぜなら,だれが,どこで,いつ観察しても外界(つまり自然)は変わらない(客観的な)世界である限り,流れ込んでくるデータはいつでも「同じ」であり,「同じ」データからはいつでも同じ法則が帰納されてよいのではないでしょうか。
 この問いに対する,常識的な考え方の立場からの答えの一部はすでに述べたことのなかにあります。つまり,かつてそういうまちがった,正しくない法則が帰納されたのは,データが不足していた,という解釈です。
 

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.85-86

対応

その第1は,仮設を全面的に書き換えてしまうことです。例えば「Xの足の数は決まっていない」というような仮設——それが仮設として何らかの意味をもっているかどうかは今問わないとして——に書き換えてしまう,という方法であるわけです。
 第2の選択は,アド・ホックな書き換えとでもいうべきものです。アド・ホックということばはラテン語ですが,日本語にぴったりのことばがない(実は,英語やその他のヨーロッパ語にも適当な語がないので,このラテン語がそのまま使われているのですが)ため,こんな呪文のような片仮名を使わせていただきます。この語の元々の意味は,「このために」ということなのです。つまり,「ある特定のこれだけのために」という意味ですが,うんと意訳をしてしまうと,アド・ホックな方法というのは,こそくな方法と言い換えられるかもしれません。全面的に書き換えるのではなく,「特定のこの」例,つまり「X3の足の数は3本ではない」という観察例だけを何とかつぎはぎ的に処理しようとする方法と考えていただいてよいと思われるからです。例えば「Xの足の数は一般的に3本であるが,ごく稀な例外として2本のこともある」というように仮設を書き換えるのがそれに当たります。
 このように書き換えると,論理的には,新しくつぎの予言を導出することができなくなります。新しく書き換えられた仮設からは,もはや「X4の足の数は3本であろう」という予言は演繹できないからです。実はここに,統計という問題をめぐるやっかいな論点があります。例えば,この書き換えられた仮説をもっと厳密めかして書いてみます。「Xは99パーセントは3本の足をもつが,1パーセントは2本の足をもつ」と。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.59-60

引用者注:筆者はあえて「仮説」ではなく「仮設」という言葉を用いている。

確証と反証の非対称性

ですから,1つの観察データが,仮設の確証に働く場合と,仮設の反証に働く場合とを比べると,同じ1つのデータでありながら,発揮する力に非常に大きな差が見られることになります。
 このような事態のことを,「確証と反証の非対称性」というわけですが,これは昔から気づかれていました。そして,もっとやさしく「否定の力は肯定の力より強い」などと言われてきました。いずれにせよ,「確証」と「反証」とでは,同じ1つのデータの働き方に決定的な差がある,ということは一般に認められています。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.58

引用者注:筆者はあえて「仮説」ではなく「仮設」という言葉を用いている。

奇妙なこと

それと同時に,もう1つ明らかになってきた要点は,「科学者」=「白衣の聖職者」という図式が現実に崩壊しつつあるということです。科学者でも人間なのですから,科学者と名がつきさえすれば,その人はつねに真理だけを追い求め,ひたすら人類全体の幸福のみを目指して行動する倫理的にも高潔な人士である,というわけにはいかないのは,当たり前すぎるほど当たり前のことですのに,その当たり前のことが,科学者を問題にする限り,永らく当たり前ではなかったのは,考えてみれば,ずいぶん奇妙なことに相違ありませんでした。

村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.20

物理学者だけです

須藤 心理学や社会学は,科学とは普通呼ばないですよね。こんな言い方をするとたぶん怒られるでしょうけど。
伊勢田 物理学者は,でしょう?
須藤 うーん,たぶんほとんどの自然科学者はそう感じているんじゃないかな。
伊勢田 いや,少なくとも生物学者は,実験心理学が科学ではないなどとは言わないと思いますよ。臨床心理とか理論社会学とかはまた別ですけど。生物学者がそんなことを言っているのは聞いたことがないです。物理学者だけです。

須藤靖・伊勢田哲治 (2013). 科学を語るとはどういうことか:科学者,哲学者にモノ申す 河出書房新社 pp.114

面白い研究ができなくなった

たとえば,当時すでにあった相対性理論も,公理化はできるんだけれども,絶対データから論理的に導き出せないんです。他の分野で論理実証主義的な考え方が影響を与えた社会学や心理学の運動に「行動主義」というのもあるのですが,これは人間の心理などについて,心の中は見えないから外面的に見えるものだけで議論しようという考え方です。とにかくインプットとアウトプットだけで判断するということですね。20世紀の中頃に,とりわけ心理学とか社会学のある分野では主流を占めたやり方で,そういう意味では,哲学が大きな影響を与えていたと言えるでしょう。
 ただその結果,何が起きたかというと,およそ面白い研究ができなくなってしまったんです。これがいきすぎることによって,研究としての心理学が実に貧困になってしまう。それに対する反動として認知科学が出てきました。認知科学は,心のモデル化をしますが,これは,インプット・アウトプットを見ているだけでは絶対できないことなんですよ。先にモデルを作って,モデルと整合するデータがあるかは言えるけれども,データから論理的にモデルを導き出すというようなやり方はできない。

須藤靖・伊勢田哲治 (2013). 科学を語るとはどういうことか:科学者,哲学者にモノ申す 河出書房新社 pp.48-49

科学哲学の祖先

今,我々が科学哲学と呼んでいるものの直接の祖先は1920年代から30年代のウィーン学団です。もちろん,科学についての哲学的な思考は昔からありますが,このウィーン学団というのは,明らかに科学改革運動なんです。当時,今でいうところの記号論理学というのが,ようやく成立したところでした。そこで,「科学の言語をぜんぶ記号論理学に還元するべきではないか」と言い始めたんですね。これを論理実証主義といいますが,論理学にもとづき,データを超えたことを言わない。これらを科学の本来のエートスだろうとしたんです。データから論理的に導ける話だけをするのが科学だという考え方です。
 その結果,何が起きたかというと,これを突き詰めるとそれまで我々が理解していた科学理論は何ひとつ残らなかった。

須藤靖・伊勢田哲治 (2013). 科学を語るとはどういうことか:科学者,哲学者にモノ申す 河出書房新社 pp.48

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