忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

論文は多いほうが

ついでに言えば,論文数は少ないよりも多い方がいい。あなたを評価する人たちのなかには数字を気にするタイプもいて,そういう人たちに対して,いくつかの点でプラスに作用するからだ。彼らは論文数に注目するだけではない。論文がどれくらい引用されているかを調べるために,データベース(ウェブ・オブ・サイエンスなど)にもあたっているだろう。あなたの論文数が2倍になれば,その「客観的尺度」から数字好きの人たちが受ける衝撃も,およそ2倍にふくれあがる。こうした考えを下品だと思う読者もいるかもしれない。わたしもそうだ。だが,あなたの未来を左右する人たちのなかには,まず間違いなく数字を気にするタイプがいるはずで,そうした人たちを喜ばせることには何の不都合もないのである。

ピーター・J・ファイベルマン 西尾義人(訳) (2015). 博士号だけでは不十分! 白楊社 pp.156
PR

ルイセンコ学説

ルイセンコは大学という基盤を持たず,また,時間やお金のかかる複雑な実験もしなかったが,スターリンに手っとりばやい解決策を提供して権力と影響力を急速に拡大し,やがてソヴィエトの生物学の頂点に立った。アメリカやヨーロッパの著名な科学者が彼の春化処理の方法に興味を持ってやってくると,ルイセンコは温かく対応したが,その影で,彼の乱暴な手法や成果に異を唱える人や,メンデルやダーウィンを支持する人は反逆者と見なされ,銃殺されたり,終身刑で強制収容所へ送られたりした。1948年,ソヴィエトでは遺伝学は「ブルジョアの偽科学」として公式に禁止され,その状況は1964年まで続くことになる。
 しかし,ルイセンコの修正ラマルキズムには,ちょっとした問題があった。実のところ,そのすべては大嘘だったのだ。彼の実験で成功を収めたものはひとつもなかった。穀物の収穫量は増えず,木も育たなかった。しかし失敗は隠蔽され,事実を曖昧にするための実験が続けられた。そのせいで,数百万人の農民が餓死した。科学者の不在が長く続き,品種改良が進まなかったため,戦後のソヴィエトは恥を忍んでアメリカから食糧を輸入せざるを得なくなったのだ。一方,アメリカでは,伝統的なメンデルの遺伝学による品種改良が成功し,トウモロコシの収穫高は3倍になった。結局,ソヴィエト連邦は,軍隊やテクノロジーの遅れによってではなく,農業に関する遺伝学と生物学のしくじりによって崩壊したのである。

ティム・スペクター 野中香方子(訳) (2014). 双子の遺伝子:「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける ダイヤモンド社 pp.30-31

優生学

ゴールトンは「優生学」という言葉を作った。優生学は,知能など人類の属性を改善するのに,品種改良技術を使うことを意味した。優生学者の見解が米知識人のあいだで一般化した時代——大ざっぱに言って1980年から1920年——があった。それは,米国に無制限に多数の移民が流れ込んだ時代でもある。セオドア・ローズベルトやオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアは優生学の動きに関心を抱いた。ホームズはある最高裁判決で,政府による不妊化を支持,「3世代にわたる低能はもうたくさん」と重大な表現をした。あるカーネギー系慈善団体は,ロングアイランドの「優生学記録オフィス」に資金を提供。有力な教育者でテストの先駆者のエドワード・L・ソーンダイクも,優生学を支持している。優生学は,新移民が十分に有能なのを見せつけられて困っているエピスコパシーの一角と,社会科学の一角のあいだで,珍しく生じた小さな接点だった。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.33

運に支配される

もう1つ重要なことは,研究という営みは運に支配される部分が多いということである。運が悪いと(30代の)ヒラノ青年のように,何年も空振り続きのことがある。成果が出ない時も,それに耐えて努力する強靭な意志がない人は,研究者にはならないほうがハッピーな人生を送ることができると思うからである。
 ヒラノ教授は博士課程に学生を受け入れる時は,慎重を期した。教授は博士課程の学生と,一生付き合うことになる。定職がない研究者と長く付き合うのは辛い。だからいかに優秀な学生であっても,自分の側から勧誘することは控えたのである。
 一方,博士課程に進もうと考える学生は,学部生のうちに,指導を受けるべき教員に関して十分な情報を手に入れておくことが大事である。
 指導教員に選ぶべきは,
 “新しくて面白そうなテーマを研究している教員,学内外で評判がいい(人柄がいい)教員,学生の面倒見がいい教員,学生に過度に干渉しない教員”である。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.119

拙速を重んじる

論文を量産するための秘訣は,“拙速”を重んじることである。100パーセント完璧な論文を仕上げようとすると,まるまる2週間掛かるが,98%であれば2日で終わる場合,2〜3日で書きあげて(できれば,信頼できる同僚にチェックしてもらった後)すみやかに投稿するのである。
 ヒラノ教授は留学時代に,A級教授の論文作成スタイルに驚いたことがある。この教授は,夏休みを利用してよその大学からやってきた研究仲間と協力して,2週間で2編の論文を書きあげたのである。“どうすれば,あんなに速く論文を書くことができるのか?”

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.105

HOWとWHAT

文系・理工系の違いだけではない。理工系のカルチャーも,千差万別である。数物(数学・物理)系と生物系はまったく違うし,数物系でも工学系と理学系,実験系と理論系の間にはかなりの違いがある。
 まず工学系の研究者(エンジニア)の特徴は,短期的視点で仕事をすることである。彼らは,自分が現役である間には解決されそうもない研究テーマには手を出さない。具体的に言えば,長くても5年先のことしか考えない。
 ある東大工学部教授は,“一流エンジニアは,与えられた問題を如何にうまく解くか,つまりHOWだけを考えればいい。君のようにWHATを考えるエンジニアは二流だ”と言い放って,ヒラノ助教授に衝撃を与えた。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.47

必要以上に厳しい

トムソン・ロイター社が,2013年に“日本の経済学者は,アメリカの経済学者に比べて論文数が少ない”というレポートを発表したとき,東大経済学部長を務めていた国友直人教授は,“日本の大学には,ほとんど論文を書かない教授が大勢いる”とコメントしている。実際,エンジニアのように論文を量産するのは,アメリカ帰りを中心とする一部の人だけのようである。
 なぜ彼らは論文を書かないのか。それは,経済学者は他人が書いた論文に対して“必要以上に”厳しい審査を行うため,論文の投稿を諦めてしまう研究者が多いからではなかろうか。
 1年かけて書いた論文を酷評された時のショックは,大学入試に失敗した時のショックに匹敵する。3回続けて拒絶査定を受けると,3浪したような気分になるらしい。3浪すると4回目にトライする気になれなくても不思議はない。
 彼らが論文を書かないもう1つの理由は,(日本には)レフェリー付きジャーナルが少ないことである。工学系の分野には,A級からC級までさまざまなジャーナルがあるが,経済系の論文は,ひとたび拒絶査定を受けると行き場がないので,“霊安室”送りになってしまうのである。
 どの分野でも審査は厳しいものだが,ヒラノ教授が知る範囲では,経済学者の厳しさは突出している。厳しい審査を受けた研究者は,審査員になった時に厳しい審査をする傾向がある。この結果,厳しい審査は自己増殖していくのである。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.44-45

論文数

数で競争するカルチャーは,“質は量についてくる”という工学部の言い伝えを反映したものである。作家の場合と同様,たくさん書く人の論文の中には,質がいいものが含まれているのである。
 1990年代はじめに有力国立大学を定年退職した某教授は,数百人の後輩が集まった最終講義の際に,それまでに発表した500編に及ぶ論文数を時系列的に表すグラフを指し示しながら,“論文の数で競争するのはバカげたことです。しかし,それをバカげていると言えるためには,たくさん書かなくてはならないのです”と発言して,後輩たちを卒倒させた。つまり“論文数が少ない諸君は,発言する資格がない”ということである。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.27-28

宝探し

学生時代のヒラノ青年は,研究者として成功するためには,才能が70パーセント,努力が20パーセント,運が10%だと思っていた。しかし年齢を重ねるに従って,運が占める割合が増大し,現役生活を終えた今では,才能が30%,努力が30%,そして運が40%だと思うようになった。友人の中には,90%は運だと言う人もいる。
 “研究”はギャンブルである。ギャンブルではイメージが悪いというなら,宝探しと言いかえよう。どこに埋まっているとも知れない宝石を掘り出す仕事,それが研究である。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.20

研究の不安

ぼくはときおり,自分の研究が本当に的を射たものとなっているのか不安に思うことがある。これはどのような研究分野に携わる人でも,多かれ少なけれ抱く感覚ではないかと思う。そもそも,サイエンスはまだ解明されていない自然現象を対象としているわけで,その時点での正解は誰も知らない。自分がその謎解きの最前線に立っているわけで,見た事柄についての判断,あるいはそもそもそれ以前に何を見るべきかという立案,そういった事柄はすべて自分で決めねばならない。「イカに心などあるのか?」「イカは本当にボディパターンで意思疎通などしているのか?」,「そもそもイカは社会的な動物なのか?」などなど,改めて思いをめぐらせると即答に窮する問いばかりを自分が設定していることに気づく。
 しかし,そういうときに,イカを実に魅力的なコミュニケーターとして語るモイニハンという人のことを思うと,ぼくの研究の方向性は間違っていないだろうと少し安堵する。つまり,ぼくにとって,モイニハンという人はある意味で自分の研究のよりどころとなっている存在なのだ。他者依存といわれるかもしれないが,サイエンスには客観性が求められるゆえに,自分以外の誰かが自分と同じ,あるいは似た考えをもっているとひとまず安心するのである。モイニハンという,正真正銘のエソロジストがイカは面白い存在であると声高に主張しているのを見ると,自身の研究への確信のようなものをぼくは都合良く感じるのだ。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.128-129

世界は不公平だ

リジェクトというのは,えてして,不公平で,悪意があって,説明が足りなかったりするものだ。エディターや査読者が,原稿を雑にしか読んでいないのがバレバレのこともある。しかし,エディターに文句を言うのは我慢しよう。エディターに怒りの手紙を書いて,査読者が怠惰で不適格だと非難した人の話も聞いたことがある。でも,エディターというのは,たいてい,査読者と友人だったりもするわけで,こうした手紙で事態が改善されることはまずない。怒りをぶちまける手紙を書くだけ書いて送らないという方法を薦める人もいるけれど,イライラがつのるだけだろう。「決まった執筆時間」をガス抜きに使うのはもったいなさすぎる。同じ時間を使うなら,論文の修正に使おう。世界は不公平だ(p < 0.001)。ということで,査読からは,生かせる部分を生かそう。論文を修正したら,別の雑誌に投稿すればよい。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.122-123

二元論と創発

神経科学が宗教的信念に挑戦を突きつけていると感じる者たちが採用してきたもう1つの防衛的理論は,「二元論」である。つまり,この世界には精神的と物理的という2つの異なる種類の実体あるいは属性が存在し,それらがとくに人間において相互作用を起こしているという主張である。二元論者は,神経科学者が発見した密接な相関性を,精神が単なる脳の活動にすぎないことを証するものととらえずに,精神が脳と相互作用している,もしくは脳を道具として用いていることの証拠と考える。17世紀にルネ・デカルトが提唱したのも,同様の二元論哲学である。これは学問的に最も注目された議論の1つであるが,現代でもこの見解を受け継ぐ論者が,哲学の世界にも,より広い分野においても,大勢いる。
 こうした二元論が意味をなすためには,物理的なものと非物理的なものが因果的な相互作用をどう引き起こせるのかを説明しなければならない。また,二元論がそれよりもシンプルなものに思われる物理主義よりも優れていることも説明しなければならない。後者によれば,精神は脳の属性的機能なのである。
 あらゆる精神的体験が,何らかの意味で物理的なものであるとしても,だからといってその意味が何であるかがただちに明らかになるわけではない。なぜこの特別なわずかな物質(我々の知る限り,動物生体の脳内の神経細胞の複雑なネットワークのみである)は意識という属性を持ち,他の物質(岩石,野菜,さらにはコンピュータ)はそれを持たないのだろうか。この問題に関心を抱く哲学者や神学者は,近年,「創発(emergence)」「付随性(supervenience)」「非還元的物理主義」といった概念について論じてきた。いずれも,精神的実在が物理的なものに依拠しつつもなお自律的であるのはどのようにしたら可能であるかを論じようとするものである。精神が「創発」的ないし「付随」的であるとは精神の自律性を示唆する言い方であるが,精神が脳とは独立に存在できると言っているのではない。そうではなく,精神が神経学的レベルに体系的に還元できないような特性や規則性を示すという意味において,自律的であるというのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.166-168

例外が奇跡に変わる時

たとえヒュームの結論に賛同しないとしても,彼の方法の経験主義的な精神を受け容れる人は,自分自身の感覚的証拠こそが最高法廷であると考えるに違いない。物理科学や自然法則について,あるいは奇跡について他人の証言の内容について,あなたが何をどう信じようと,あなた自身の経験がそれらのすべてを凌駕するだろう。もしあなた自身が一度も奇跡を見たことがないのならば,おそらくその事実こそが,奇跡の実現可能性を信じるための最大の障害となるだろう。
 しかし逆に,あなた自身が聖アガタの傷が癒える瞬間を目撃したのであれば,あるいは溶岩流にベールを向けるや説明のつかないかたちで流れの向きが変わるのを目撃したのであれば,あなたはまさしく自分が尋常ならざるものを目撃したことを認め,ヒュームが何と言おうと,それを奇跡と見なすのではないか。
 しかしそのときでさえ,自然の通常のあり方に逆らうような出来事を観察することと,あなたが超自然的あるいは神的な出来事を目撃したと信じることとの間には,ギャップがあるはずだ。より科学的な態度を取るならば,そうした出来事を「奇跡」ではなく「説明のつかない例外的事態」として扱うべきだろう。それはちょうど,実験室での実験が理論どおりの結果を生み出さなかったときのようなものだ。そうした例外的事態は自然界の作用に関する新発見につながるかもしれないし,説明のつかない頑固な例外のままであり続けるかもしれない。しかし,それを宗教的に受け取る必要はない。説明のつかない顕著な現象を明確に宗教的な文脈において体験して初めて,例外は奇跡に変わるのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.82-83

量子力学と神

量子力学は近代科学の中核部を占めながら,物理的実在をきわめて奇妙な非決定論的なものとして描いているのだから,哲学思想家や宗教思想家の気を引いてきたのも当然である。観測者が必然的にプロセスに関与し,決定論が否定される,新しい,いっそう全体論的な自然哲学の誕生の予感は,伝統的宗教からより最近の「ニューエイジ」思想までの多彩な世界観の提唱者たちの心に訴えるものをもっている。
 量子力学のうちに,神が行為できる「隙間」のいっそう永続的な源泉を見出そうとする神学者もいるが,これは必ずしも歓迎されていないようだ。そのようなことを試みても,神がなぜある場合には行動し,別の場合には行動しないのかという懐疑論者の問いに対し,いくらかでもましな答えを出せるわけではない。まして,思うままに自然法則を覆すあるいは停止することができると信じ続けている信者たちが,こうした神学に満足することはないだろう。彼らに言わせれば,神は自然法則の造り手であってその奴隷ではないのだから,量子系のあれこれの状態をいじくりまわす必要などないのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.76

ニュートンとライプニッツ

よく知られた例を挙げよう。アイザック・ニュートンは,なぜ太陽系の惑星は,次第に速度を落として太陽に引き込まれてしまわずに,自らの軌道内に留まり続けているのか,また,なぜ太陽系外の恒星は引力によって互いにくっついてしまわないのかといった疑問に対し,それは神が時々プロセスに介入し,恒星や惑星を正しい位置に留め置いているからに違いないという仮説をもって答えた。
 ニュートンのライバルにして批判者であるドイツ人のG.W.ライプニッツは,この仮説を神学的な視点から攻撃した。彼は1715年の書簡にこう書いている。ニュートンの神は,そもそも最初の段階できちんと機能する宇宙を創造する展望を持たなかったものだから,「時々自分の時計のねじを巻きなおす」「時折掃除をする」「さらには時計屋がやるように修理する」はめに陥っているかのようだ。「自分の作った仕掛けの修理や調整に追われる者ほど,ヘボ職人であると言わねばなるまい」。ライプニッツ自身は,宇宙に対する神の関与を完璧で完結した洞察を有するものと考えるのを好んだ。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.69

記憶の共有

人間の知覚能力には限界があるが,17世紀初頭の望遠鏡や顕微鏡の発明や,それ以降のさらに精密な装置の発明は,観測や測定の及ぶ範囲やその精度を桁違いに増大させた。だが,理性の使用抜きには,実験は構築できないし,観察が意味をなすこともない。実在の本性についての理論的仮説と,その証明・反駁に求められる実験的証拠が何であるかに関する推論とが,科学的知識の必要条件となる。
 そして最後に,専門的科学者は,自らの証言を他者に受け入れてもらうために,自らの知識の源泉がどこにあるかを明示し,自らの推論の道筋について説明しなければならない。そして論文,書物,専門誌,および今日では電子データベースにおける科学的結論を公表することで,我々は集団的でかつ文書の裏づけをもった記憶を共有することができるようになる。この記憶は個人個人の記憶に頼っていたのでは得られない広がりをもつものである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.29-30

糸を織物にする

近代科学の全プロジェクトは,個人レベルで相対的に細かいものでしかない知識の糸を織り上げて,弾力性のある織物にする試みと要約できるだろう。かくして一人の個人が感覚を通じて経験したものは,多くの他者がそれを証言し,裏づけ,反復して,初めて受け入れられるものとなる。事物の属性の単純な観察は,注意深く設計された実験によって補強される必要がある。この実験を通じて,異なる状況下における異なる振る舞いを正確にテストするのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.29

対立の代理

ある意味で,我々はここで再び混沌たる歴史的複雑性の領域に向かう。たしかにそれは,キャストを入れ替えればすべてのつじつまが合うというような単純な問題ではない。だが,話のポイントは,ここで真に対立しているのは知識の生産と普及をめぐる政治のあり方だということである。科学VS.宗教の対立は,個人VS.国家,世俗的リベラリズムVS.保守的伝統主義など,近代政治の古典的対立を代理するもののように思われるのだ。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.14

すべて経験したのか

だが,いかにあなたがこうした知識をたくさん身につけたとしても,あなたはそれを観察によって発見したわけではない。あなたはそれを他人から教えられたのである。両親,理科の先生,テレビ番組,インターネットの百科事典などを通じてそれを学んだのだ。プロの天文学者といえども,いまここに書き並べたどの言明であれ,その真偽を自分自身の経験的観察を通じてチェックしたことは,一般的に言って,ないだろう。
 なぜそうなのか。天文学者が怠慢であるとか無能であるとかということではない。そうではなくて,これは,科学の共同体が積み上げてきた権威ある観察と理論的推理を,天文学者が利用できる仕組みがあるということなのである。科学の共同体は幾世紀もかけてこれらの言明を根本的な物理学的真理として確定してきたのである。
 ポイントはこうだ。科学的知識が自然界の観察に基づき,また観察によって検証されるというのはたしかに真実ではあるものの,しかし,あなたの感覚器官を正しい方向に向けさえすればいいというものではない。むしろそこにはおそろしいほどたくさんの要素がからんでいるのだ。たとえ科学者であろうと,一人の個人が自らの観察を通じてじかに得た知識は全知識量のうち一小部分にすぎない。また,自分自身の観察でさえ,幾世紀もかけて蓄積され,発展してきたデータと理論の体型がすでにある中で,その複雑な枠組みを文脈としてようやく意味をなすものなのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.9-10

確証バイアス

20世紀のはじめにオーストリア人哲学者のサー・カール・ポパーが書いたところによれば,本来,科学的な理論とは決して実証できるものではない。ある理論の妥当性を調べる唯一の方法は,それがまちがっていると証明することである。このプロセスをポパーは反証と呼んだ。この考え方は認知科学の分野に広がっていき,科学理論だけでなく日常生活においても反証の下手な人は非常に多いことがわかった。ことの大小を問わず何かの理論を実証しようとするときに,人はその理論に反する証拠を探そうとはせずに,どうしても自分が正しいことを証明するデータを探してしまう。「確証バイアス」として知られる傾向である。

ポール・タフ 高山真由美(訳) (2013). 成功する子 失敗する子:何が「その後の人生」を決めるのか 英治出版 pp.211

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]