I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

論文数

数で競争するカルチャーは,“質は量についてくる”という工学部の言い伝えを反映したものである。作家の場合と同様,たくさん書く人の論文の中には,質がいいものが含まれているのである。
 1990年代はじめに有力国立大学を定年退職した某教授は,数百人の後輩が集まった最終講義の際に,それまでに発表した500編に及ぶ論文数を時系列的に表すグラフを指し示しながら,“論文の数で競争するのはバカげたことです。しかし,それをバカげていると言えるためには,たくさん書かなくてはならないのです”と発言して,後輩たちを卒倒させた。つまり“論文数が少ない諸君は,発言する資格がない”ということである。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.27-28

宝探し

学生時代のヒラノ青年は,研究者として成功するためには,才能が70パーセント,努力が20パーセント,運が10%だと思っていた。しかし年齢を重ねるに従って,運が占める割合が増大し,現役生活を終えた今では,才能が30%,努力が30%,そして運が40%だと思うようになった。友人の中には,90%は運だと言う人もいる。
 “研究”はギャンブルである。ギャンブルではイメージが悪いというなら,宝探しと言いかえよう。どこに埋まっているとも知れない宝石を掘り出す仕事,それが研究である。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.20

研究の不安

ぼくはときおり,自分の研究が本当に的を射たものとなっているのか不安に思うことがある。これはどのような研究分野に携わる人でも,多かれ少なけれ抱く感覚ではないかと思う。そもそも,サイエンスはまだ解明されていない自然現象を対象としているわけで,その時点での正解は誰も知らない。自分がその謎解きの最前線に立っているわけで,見た事柄についての判断,あるいはそもそもそれ以前に何を見るべきかという立案,そういった事柄はすべて自分で決めねばならない。「イカに心などあるのか?」「イカは本当にボディパターンで意思疎通などしているのか?」,「そもそもイカは社会的な動物なのか?」などなど,改めて思いをめぐらせると即答に窮する問いばかりを自分が設定していることに気づく。
 しかし,そういうときに,イカを実に魅力的なコミュニケーターとして語るモイニハンという人のことを思うと,ぼくの研究の方向性は間違っていないだろうと少し安堵する。つまり,ぼくにとって,モイニハンという人はある意味で自分の研究のよりどころとなっている存在なのだ。他者依存といわれるかもしれないが,サイエンスには客観性が求められるゆえに,自分以外の誰かが自分と同じ,あるいは似た考えをもっているとひとまず安心するのである。モイニハンという,正真正銘のエソロジストがイカは面白い存在であると声高に主張しているのを見ると,自身の研究への確信のようなものをぼくは都合良く感じるのだ。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.128-129

世界は不公平だ

リジェクトというのは,えてして,不公平で,悪意があって,説明が足りなかったりするものだ。エディターや査読者が,原稿を雑にしか読んでいないのがバレバレのこともある。しかし,エディターに文句を言うのは我慢しよう。エディターに怒りの手紙を書いて,査読者が怠惰で不適格だと非難した人の話も聞いたことがある。でも,エディターというのは,たいてい,査読者と友人だったりもするわけで,こうした手紙で事態が改善されることはまずない。怒りをぶちまける手紙を書くだけ書いて送らないという方法を薦める人もいるけれど,イライラがつのるだけだろう。「決まった執筆時間」をガス抜きに使うのはもったいなさすぎる。同じ時間を使うなら,論文の修正に使おう。世界は不公平だ(p < 0.001)。ということで,査読からは,生かせる部分を生かそう。論文を修正したら,別の雑誌に投稿すればよい。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.122-123

二元論と創発

神経科学が宗教的信念に挑戦を突きつけていると感じる者たちが採用してきたもう1つの防衛的理論は,「二元論」である。つまり,この世界には精神的と物理的という2つの異なる種類の実体あるいは属性が存在し,それらがとくに人間において相互作用を起こしているという主張である。二元論者は,神経科学者が発見した密接な相関性を,精神が単なる脳の活動にすぎないことを証するものととらえずに,精神が脳と相互作用している,もしくは脳を道具として用いていることの証拠と考える。17世紀にルネ・デカルトが提唱したのも,同様の二元論哲学である。これは学問的に最も注目された議論の1つであるが,現代でもこの見解を受け継ぐ論者が,哲学の世界にも,より広い分野においても,大勢いる。
 こうした二元論が意味をなすためには,物理的なものと非物理的なものが因果的な相互作用をどう引き起こせるのかを説明しなければならない。また,二元論がそれよりもシンプルなものに思われる物理主義よりも優れていることも説明しなければならない。後者によれば,精神は脳の属性的機能なのである。
 あらゆる精神的体験が,何らかの意味で物理的なものであるとしても,だからといってその意味が何であるかがただちに明らかになるわけではない。なぜこの特別なわずかな物質(我々の知る限り,動物生体の脳内の神経細胞の複雑なネットワークのみである)は意識という属性を持ち,他の物質(岩石,野菜,さらにはコンピュータ)はそれを持たないのだろうか。この問題に関心を抱く哲学者や神学者は,近年,「創発(emergence)」「付随性(supervenience)」「非還元的物理主義」といった概念について論じてきた。いずれも,精神的実在が物理的なものに依拠しつつもなお自律的であるのはどのようにしたら可能であるかを論じようとするものである。精神が「創発」的ないし「付随」的であるとは精神の自律性を示唆する言い方であるが,精神が脳とは独立に存在できると言っているのではない。そうではなく,精神が神経学的レベルに体系的に還元できないような特性や規則性を示すという意味において,自律的であるというのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.166-168

例外が奇跡に変わる時

たとえヒュームの結論に賛同しないとしても,彼の方法の経験主義的な精神を受け容れる人は,自分自身の感覚的証拠こそが最高法廷であると考えるに違いない。物理科学や自然法則について,あるいは奇跡について他人の証言の内容について,あなたが何をどう信じようと,あなた自身の経験がそれらのすべてを凌駕するだろう。もしあなた自身が一度も奇跡を見たことがないのならば,おそらくその事実こそが,奇跡の実現可能性を信じるための最大の障害となるだろう。
 しかし逆に,あなた自身が聖アガタの傷が癒える瞬間を目撃したのであれば,あるいは溶岩流にベールを向けるや説明のつかないかたちで流れの向きが変わるのを目撃したのであれば,あなたはまさしく自分が尋常ならざるものを目撃したことを認め,ヒュームが何と言おうと,それを奇跡と見なすのではないか。
 しかしそのときでさえ,自然の通常のあり方に逆らうような出来事を観察することと,あなたが超自然的あるいは神的な出来事を目撃したと信じることとの間には,ギャップがあるはずだ。より科学的な態度を取るならば,そうした出来事を「奇跡」ではなく「説明のつかない例外的事態」として扱うべきだろう。それはちょうど,実験室での実験が理論どおりの結果を生み出さなかったときのようなものだ。そうした例外的事態は自然界の作用に関する新発見につながるかもしれないし,説明のつかない頑固な例外のままであり続けるかもしれない。しかし,それを宗教的に受け取る必要はない。説明のつかない顕著な現象を明確に宗教的な文脈において体験して初めて,例外は奇跡に変わるのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.82-83

量子力学と神

量子力学は近代科学の中核部を占めながら,物理的実在をきわめて奇妙な非決定論的なものとして描いているのだから,哲学思想家や宗教思想家の気を引いてきたのも当然である。観測者が必然的にプロセスに関与し,決定論が否定される,新しい,いっそう全体論的な自然哲学の誕生の予感は,伝統的宗教からより最近の「ニューエイジ」思想までの多彩な世界観の提唱者たちの心に訴えるものをもっている。
 量子力学のうちに,神が行為できる「隙間」のいっそう永続的な源泉を見出そうとする神学者もいるが,これは必ずしも歓迎されていないようだ。そのようなことを試みても,神がなぜある場合には行動し,別の場合には行動しないのかという懐疑論者の問いに対し,いくらかでもましな答えを出せるわけではない。まして,思うままに自然法則を覆すあるいは停止することができると信じ続けている信者たちが,こうした神学に満足することはないだろう。彼らに言わせれば,神は自然法則の造り手であってその奴隷ではないのだから,量子系のあれこれの状態をいじくりまわす必要などないのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.76

ニュートンとライプニッツ

よく知られた例を挙げよう。アイザック・ニュートンは,なぜ太陽系の惑星は,次第に速度を落として太陽に引き込まれてしまわずに,自らの軌道内に留まり続けているのか,また,なぜ太陽系外の恒星は引力によって互いにくっついてしまわないのかといった疑問に対し,それは神が時々プロセスに介入し,恒星や惑星を正しい位置に留め置いているからに違いないという仮説をもって答えた。
 ニュートンのライバルにして批判者であるドイツ人のG.W.ライプニッツは,この仮説を神学的な視点から攻撃した。彼は1715年の書簡にこう書いている。ニュートンの神は,そもそも最初の段階できちんと機能する宇宙を創造する展望を持たなかったものだから,「時々自分の時計のねじを巻きなおす」「時折掃除をする」「さらには時計屋がやるように修理する」はめに陥っているかのようだ。「自分の作った仕掛けの修理や調整に追われる者ほど,ヘボ職人であると言わねばなるまい」。ライプニッツ自身は,宇宙に対する神の関与を完璧で完結した洞察を有するものと考えるのを好んだ。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.69

記憶の共有

人間の知覚能力には限界があるが,17世紀初頭の望遠鏡や顕微鏡の発明や,それ以降のさらに精密な装置の発明は,観測や測定の及ぶ範囲やその精度を桁違いに増大させた。だが,理性の使用抜きには,実験は構築できないし,観察が意味をなすこともない。実在の本性についての理論的仮説と,その証明・反駁に求められる実験的証拠が何であるかに関する推論とが,科学的知識の必要条件となる。
 そして最後に,専門的科学者は,自らの証言を他者に受け入れてもらうために,自らの知識の源泉がどこにあるかを明示し,自らの推論の道筋について説明しなければならない。そして論文,書物,専門誌,および今日では電子データベースにおける科学的結論を公表することで,我々は集団的でかつ文書の裏づけをもった記憶を共有することができるようになる。この記憶は個人個人の記憶に頼っていたのでは得られない広がりをもつものである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.29-30

糸を織物にする

近代科学の全プロジェクトは,個人レベルで相対的に細かいものでしかない知識の糸を織り上げて,弾力性のある織物にする試みと要約できるだろう。かくして一人の個人が感覚を通じて経験したものは,多くの他者がそれを証言し,裏づけ,反復して,初めて受け入れられるものとなる。事物の属性の単純な観察は,注意深く設計された実験によって補強される必要がある。この実験を通じて,異なる状況下における異なる振る舞いを正確にテストするのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.29

対立の代理

ある意味で,我々はここで再び混沌たる歴史的複雑性の領域に向かう。たしかにそれは,キャストを入れ替えればすべてのつじつまが合うというような単純な問題ではない。だが,話のポイントは,ここで真に対立しているのは知識の生産と普及をめぐる政治のあり方だということである。科学VS.宗教の対立は,個人VS.国家,世俗的リベラリズムVS.保守的伝統主義など,近代政治の古典的対立を代理するもののように思われるのだ。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.14

すべて経験したのか

だが,いかにあなたがこうした知識をたくさん身につけたとしても,あなたはそれを観察によって発見したわけではない。あなたはそれを他人から教えられたのである。両親,理科の先生,テレビ番組,インターネットの百科事典などを通じてそれを学んだのだ。プロの天文学者といえども,いまここに書き並べたどの言明であれ,その真偽を自分自身の経験的観察を通じてチェックしたことは,一般的に言って,ないだろう。
 なぜそうなのか。天文学者が怠慢であるとか無能であるとかということではない。そうではなくて,これは,科学の共同体が積み上げてきた権威ある観察と理論的推理を,天文学者が利用できる仕組みがあるということなのである。科学の共同体は幾世紀もかけてこれらの言明を根本的な物理学的真理として確定してきたのである。
 ポイントはこうだ。科学的知識が自然界の観察に基づき,また観察によって検証されるというのはたしかに真実ではあるものの,しかし,あなたの感覚器官を正しい方向に向けさえすればいいというものではない。むしろそこにはおそろしいほどたくさんの要素がからんでいるのだ。たとえ科学者であろうと,一人の個人が自らの観察を通じてじかに得た知識は全知識量のうち一小部分にすぎない。また,自分自身の観察でさえ,幾世紀もかけて蓄積され,発展してきたデータと理論の体型がすでにある中で,その複雑な枠組みを文脈としてようやく意味をなすものなのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.9-10

確証バイアス

20世紀のはじめにオーストリア人哲学者のサー・カール・ポパーが書いたところによれば,本来,科学的な理論とは決して実証できるものではない。ある理論の妥当性を調べる唯一の方法は,それがまちがっていると証明することである。このプロセスをポパーは反証と呼んだ。この考え方は認知科学の分野に広がっていき,科学理論だけでなく日常生活においても反証の下手な人は非常に多いことがわかった。ことの大小を問わず何かの理論を実証しようとするときに,人はその理論に反する証拠を探そうとはせずに,どうしても自分が正しいことを証明するデータを探してしまう。「確証バイアス」として知られる傾向である。

ポール・タフ 高山真由美(訳) (2013). 成功する子 失敗する子:何が「その後の人生」を決めるのか 英治出版 pp.211

科学で抹殺できない

嘘発見器は科学から生まれたものではないから,科学では抹殺できない。嘘発見器のすみかは研究室でもなければ法廷でもなく,新聞印刷用紙であり,映画であり,テレビであり,それからもちろん大衆紙やコミックやSFである。経済学のもっと仰々しいことばを借りれば,嘘発見器は需要に主導されている。80年以上にわたり,脈動するホースと収縮する膜からなるポリグラフは,需要に応える「科学」を提供してきた。いまようやくポリグラフの時代は幕をおろそうとしているように見えるが,それは科学が変わったからではなく——それなら何十年も前に起きていた——人々が別の科学を信じるようになったからである。現状は混沌としている。職場での嘘発見器の使用ははっきり退けられたが,法廷はポリグラフの検査結果を証拠採用するよう圧力をかけられているし,アメリカの政府機関の多くは新しい嘘発見技術を進んで取り入れようとしている。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.341-342

開かれた科学とノウハウの独占

「開かれた科学」は,客観的な知識が科学者の「無欲」から生まれるという考え方を前提としている。科学者は金銭よりも研究成果の公開を優先しなければならない。そのためには——近代科学の歴史の中でときどきそういった主張がされてきたのだが——実力のみに基づいて科学者を評価する機関が,研究をつづけるのにじゅうぶんな資金を提供して報いる必要がある。こうしたシステムのもとでは,評判が科学者にとって最大の財産になる。しかし,そうした知識のためになぜ社会が金を出さなければならない?君主制国家や私立大学なら,みずからの威信のためにスポンサーになるかもしれないが,これではアメリカが物理学のために金とバレエのために出す金で,どうしてここまで差があるかを説明できない。実際のところ,これほど差がある大きな理由は,開かれた科学が人びとに知識を提供できれば,いますぐは無理でも長い目で見ればだれかの役に立つと(しばしば科学者自身によって)説明されてきたからである。こういう事情があるため,以前から科学者たちは,いずれはスポンサーの利益になるような研究を選んできた。
 これに対し「ノウハウの独占」は,社会に有益なものを生み出すのが第一の使命であり,製品やサービスの形で知識から利益を得るのを目的としている。しかしながら,そのためには知識を秘密にして,市場価格を損なったり競争相手を利したりするのを避けなければならない場合が多い。中世のギルドやコカ・コーラやマンハッタン計画などはその典型例だろう。問題は,知識を秘密にするのがたやすくなく,特にそのノウハウの実用性を他人に証明するとなれば,なおさら秘密にしにくいことである。社会もまた,貴重な秘密が発明者とともに失われ,新しい知識につながらずに終わってしまうのではと懸念する。近代社会が特許制度を編み出したのはこうした事情からであり,これは期限つきで知識の独占利用を許すと同時に,発明者に公表の責任を負わせる制度である。この場合,発明者にとってはタイミングが重要になる。つまり,いつまで情報を秘密にし,いつ特許を出願するか決めなければならない。知識の独占によって利益を得ているために,知識を切り売りする者たちが「無欲」とは見なされにくいという問題もある。
 もちろん,知識を得るための方法が,いま説明したようなふたつのアプローチのどちらかにきれいに分けられることはまずない。近代の民主社会では,両者が渾然一体となっており,一方が決定的な主導権を握っているわけではない。開かれた科学をめざす発明者でも,その多くは研究成果を社会問題の解決に役立てたいと考えている——みずからの研究が正しいと認めてもらうためにも。ノウハウの独占を追求する者でも,その多くは評判を非常に気にかける——みずからの発見や技術の商品価値をあげるためにも。開かれた科学とノウハウの独占は,仇敵同士でありながら,どちらが欠けても立ちゆかないものなのである。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.125-126

「データを追加」と言われたら…

ネイチャーなどはとくに顕著だというが,雑誌の編集サイドが,こんなデータを2週間以内に提出できるなら載せてやる,と言ってくることがある。
 そんなとき,そんなデータ出せるか,と突っぱねられるか。
 ようやく掲載論文になるのだ。これを載せることができたら,周囲からの評価が変わる。教授になれるかもしれない。研究費が得られるかもしれない。名声が得られるかもしれない。このプレッシャーのもとで,「何らかの」方法で工面して載せようと思っても不思議ではない。
 「何らかの」方法のなかに,データの切り貼りや,別の実験で使ったデータの引用があったとしたら……。よい雑誌に載せることが目的化してしまうがゆえに,不正の誘惑にかられてしまうのではないか。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.179-180

チャンピオンデータ

加工しなくても,ウソはつける。何十回も何百回も実験を行って,たまたま自分のたてた仮説にピッタンコの写真がとれた。そういう写真を「チャンピオンデータ」と呼ぶ。いわば「奇跡の1枚」みたいなものだ。何百回に1回だけ,といったように,非常に頻度が低いデータだ。
 しかし,たまたま出たチャンピオンデータだけを貼り合わせると,あたかもその仮説が証明されたかにみえてしまう。たとえて言うならば,非常に写りのよい,たまたま撮影できた「奇跡の1枚」を使ってお見合い写真を作るようなものだ。決してウソではないが,普段の姿からはかけ離れている。
 このチャンピオンデータだけをつなぎ合わせた論文が結構多いのではないか,という声を聞く。これは画像の切り貼りほど露骨ではないので,発覚しにくい。論文を再現しようと思ってもなかなか再現できない,といったことで,次第に論文が引用されなくなり,歴史の闇に消えていく可能性は高い。
 しかし,その論文を再現する手間が無駄になり,その論文を他の論文が引用することで誤った研究が行われてしまう可能性があり,害は大きい。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.171-172

なぜいけないのか

なぜ研究不正はいけないのか。あまりに当たり前過ぎて,改めて問われると戸惑うかも知れないが,ここをはっきりしないといけない。
 研究不正がいけないのは,人びとに損害を与えるからだ。
 ウソの研究成果が発表されれば,そのウソを引用して,別の研究成果が生まれる。その研究成果がさらに別の研究成果を生み出す。ウソから生まれた研究は全てウソになる。
 ウソの研究は役に立たない。いや,それならまだましだ。ときに害を与える。 
 ウソの研究と,それを引用した研究にかかった費用が無駄になる。
 ウソの研究で作られた製品は役に立たない。
 ウソの研究をもとに研究を行った時間が無駄になる。ウソの研究に基づいた研究計画が無駄になる。
 ウソの研究に期待した人たちががっかりする。
 ウソの研究で地位を得た人に邪魔された人の活躍の場がなくなる。
 ウソの研究を調査する人たちの時間が失われる。
 ウソの研究は人びとの健康や財産を脅かす。
 だからウソはだめなのだ。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.161

競争と確実な成果

配分額及び採択件数ともに内科系臨床医学が1位。外科系臨床医学がそれに続き,基礎医学も上位に入るなど,バイオに関係する研究分野が上位に位置する(日本学術振興会より)。科研費もバイオ重視なのだ。
 こうなると,研究費を獲得するために研究者の多くが,生命現象の解明という純粋科学的興味ではなく,産業や医療に役立ちますよ,と応用を口にするようになる。もはや悠長なことは言っていられず,競争に追いまくられ,国の戦略に沿った研究をせざるをえなくなる。しかも,予算をもらっている間に確実に成果を出さなければならない。すると往々にして,世界をあっと言わせるかもしれないが,失敗する可能性も高いであろう研究は避けられることになる。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.128

ブラック研究室

確かに,多くの教授はそんなに理不尽ではない。大学院生からの苦情や悩みの相談を快く聴く。ただ,そんなよい教授に出会えるかは確率の問題でしかない。学生を奴隷のごとくつかう理不尽な教授が主催する研究室に偶然入ってしまうことだってありうる。というか,そんなむちゃくちゃな,いわばブラック研究室であることなど,そうかんたんには明かさない。
 むしろ,熱意があって,活気にあふれている研究室だ。業績もバンバン出る,というだろう。そうやっていい面だけ表に出して,大学院生を誘い,学位や場所を盾に無理難題を押しつけ働かせる。
 さすがにそんなことをしていれば,悪評は広がっていくものだが,そこはうまく隠すのが,ブラック研究室のずるいところだ。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.103-104

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS /  /