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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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エピジェネティクス

こうした発見により,分子生物学のしくみは根本的な見直しを促されている。エピジェネティクスの作用によって何かの資質が次代に受け継がれるのは,ミバエだけに限った話ではない。植物でも動物でも菌類でも,そしてヒトにおいてさえも同じことが言える。たとえば,わたしの曾祖母が高脂肪な食生活をしていたら,わたしが肥満になる確率は高くなるのだろうか?答えはどうやら,あきらかに「イエス!」のようだ。
 ペンシルバニア大学の神経科学者,トレイシー・ベイルが行った実験では,妊娠しているマウスに非常に高脂肪のエサを与えたところ,予想通り,その子どもは誕生時からすでに体長・体重とも平均を上回り,インシュリンに対する反応度も低かった。これらは肥満と糖尿病の危険因子として知られる特徴だ。これらの幼いマウスは高脂肪のエサはもう与えられていないのに,成長して妊娠すると,やはり体重が重くインシュリンに反応しにくい子どもを生んだ。さらに2世代後でもやはり,平均より体重が重く平均より食事を多く食べるマウスが誕生した。ペイルが2008年に神経科学協会の会議で発表したように,「あなたは,あなたが食べたものだけでなく,あなたの祖母が食べたもので作られている」のだ。

エレーヌ・フォックス 森内薫(訳) (2014). 脳科学は人格を変えられるか? 文藝春秋 pp.188-189
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水泳の定義

「水泳の定義」は,19世紀のあるインストラクターによると「身体を浮かせた状態で進むことである。これが達成される限り,どのように——どのような方法やフォームで——行うかはほとんど問題にならない」
 非常にシンプルである。アイザック・ニュートンがこれをさらにシンプルにした。
 「すべての作用には,それと大きさが等しい反作用がある」。これは運動の第三法則であり,実際,水泳の第一法則である。水中で前に進もうとすれば,水を自分のほうに引き寄せるか,前に押さなければならない。するとその作用によって進むことができるのだ。スイミング用語でこの“引く”と“押す”動作は「キャッチ」と呼ばれる。腕と脚をもとの位置に戻す動きは「リカバリー」だ。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.81-82

分野をまたぐ

いまでは知識はきわめて多数の専門分野に分かれ,各専門分野がさらに多数の分野,下位分野に分かれているので,大学では何百もの科目を整然と分類しており,アル・ファーラービーの階層型に似た分類方法をとっている。学界での権威と予算配分という面で,たとえば自然科学は一段上に位置づけられており,社会科学は「ソフト」すぎるとされて,自然科学より下だとみられている。いまでは生物学にこの権威ある地位を奪われようとしている。社会科学の中では経済学が頂点に位置するとみられており,これは数学を駆使して,もっとも「ハード」で自然科学に近いからである(あるいは近いと主張しているからである)。しかし,この構造は自らの重みに耐えかねて崩壊しかねない状況にある。
 いまでは専門分野を超える知識を必要とする仕事が増えており,このため,宇宙生物学,生物物理学,環境工学,法会計学など,2分野にわたる専門知識が求められるようになってきた。なかにはニューロ心理薬理学のように,3分野にわたる専門知識が求められる仕事すらある。
 やがて,専門知識が求められる分野の数がどんどん増えていくのは明らかなように思える。知識がそのときの必要に応じて一時的で非階層型の形態へと組織化される結果,永久に続くとも思えた専門分野と階層構造すら消える可能性がある。そうなったとき,「知りうることの地図」は,いくつものパターンがたえず変化しながら点滅しているものになる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.275-276

自己批判と科学

自己批判は自然科学の核心部分である。科学と科学者は一般人が批判できないものではないし,そうなってはならない。科学も社会的な活動のひとつであり,科学者の多くが考えている以上に,社会全体の考え方や真実の見分け方,常識に左右される。また,科学に関する規制を科学者だけに任せることもできない。科学者も他の人びとと同様に,自己利益で動く面があるからだ。
 だが,科学を攻撃するいまの動きは,個々ばらばらのものではない。自然科学の影響力を弱め,自然科学に対する信頼感をなくし,真実の主要な基準という地位から引きずり降ろそうとする一貫した動きなのである。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.261

「禁止」される研究

科学研究の成果の公表を差し止めるのは大きな問題だ。だがそれ以上に問題なのは,知識のうちある分野について,研究そのものをはじめから禁止しようとする動きがあることだ。科学者からすら,そうした主張があらわれており,主張を裏付けるために,この世の終わりがくるとのシナリオすら描いている。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.259

考え方を検証するプロセス

科学とは,事実を集めたものではない。科学とは,考え方を検証するプロセスである(混乱し,順序だっていないことも多いが)。科学の世界では,考え方は少なくとも原則的には検証可能でなければならない(間違いを立証できるものでなければならないという人もいるだろう)。検証にあたっては,観察を実験を行う。結果は再現性がなければならない。これらの基準を満たさない知識は,科学的ではない。
 それだけではない。科学の世界では,とりわけ説得力がある発見でも不完全な仮説でしかなく,その後に科学的に検証された発見があらわれれば,かならず見直され,改定され,否定されていく。
 このような性格から,科学は6つの基準のうち唯一,宗教や政治,民族や人種などに基づく狂信的な熱狂に反対する性格をもっている。迫害,テロ,異端審問,自爆攻撃などを生み出すのは,狂信的な信念である。そして科学は狂信的な信念を否定し,とくにしっかりと確立した科学研究の成果ですら,せいぜいのところ部分的で一時的な真実でしかないという認識を育む。
 この考え方,つまり科学的な知識は改善でき否定できるものでなければならず,改善されるか否定されていくべきものだという考え方のために,科学は一等地を抜くものになっている。この考え方のために,常識,一貫性,権威,啓示,時の試練などの他の基準とは違って,科学だけはみずから誤りを修正できる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.240-241

時間と時期

研究開発に関しては,時間と時期をめぐる戦いがもっと頻繁に起こっている。CEOは投資家から利益を速く増すよう求められて,研究開発費を削減するしかないと感じることが多い。研究から開発に予算を移し,研究部門に残した予算も基礎研究から応用研究へと移していく。その結果,とくに必要となった時期に技術革新が遅くなる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.102-103.

多様性からの収斂

科学技術の発達をそれぞれ独立した動きとしてとらえるのは間違っている。知識の面でも,経済的利益の面でも,ほんとうに大きな成果が得られるのは,2つ以上の飛躍的な前進が収斂するか,組み合わされたときだ。多様な研究が行われ,科学者が増え,多数の分野で科学技術が発達するほど,大きな成果を生み出す斬新な組み合せができる可能性が高くなる。今後何年かに,そうした収斂が多数あらわれるだろう。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.45

可能性を科学する

科学者が増え,知識工作機械の性能が高まり,瞬時の通信が用意になり,共同研究が広まり,利用できる知識基盤が拡大を続けているので,科学の境界が拡大しており,かつては二流のSF映画でしか話題にならなかった点が研究されるようになった。
 まともな科学者がいまでは,学界で悪評を恐れることなく,タイム・トラベルやサイボーグ,不老不死に近いほどの長寿,医療を変え,無限の非化学エネルギー源になる反重力装置など,まったく信じがたいと思われていた点について可能性を議論するようになっている。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.44

日本と海外

日本で査読を受けると,まず指摘されるのは研究方法論についてのような気がする。しかも,“本来の研究方法論”に比べてどこが足りないかというような指摘が多い。海外の雑誌では,「結果のこの部分がおもしろいので,それがよりよく表現されるためにはどのようなデータが必要か,それを示せるか」といった提案や示唆をもらえる。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.111

不可分

こうしてみると,科学的論文と政治的論文との間に対立のないことが分かる。一面では,いかなる科学的研究でも,それが他の人びとの知識を発達させるのに寄与する限り,つねに肯定的な政治的価値をもつ(反対に,知識の進歩を妨げがちな行為はすべて否定的な政治的価値をもつ)といえるし,また他面では,成功の可能性のある政治的企てはすべて,科学的確実性の基盤をもたなければならない,とためらうことなくいえるのである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.41

時間の節約

科学的手続きの重点は,それが他の人びとに決して時間を浪費させないという点にある。科学的仮説の跡を追って研究すること——それは,後でこの仮説に反駁せざるを得ないことを発見するためなのだが——もやはり,先行の提案に刺激されて何か有用な仕事をなしたというのと同じである。もしも私の論文の効用が労働者たちの間に反対情報的な別の経験を実現するように誰かを鼓舞する結果になれば(たとえ私の推測が無邪気なものであったにせよ),私は何らかの有用なことを達成したことになる。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.40-41

科学的論文と政治的論文

私が述べたことは,“科学的”論文と“政治的”論文との作為的な対置に関係があるのだ。不可欠な科学性の掟をすべて遵守しつつ,政治的論文を書くことができる。労働者集団における視覚的装置を介しての情報選択の経験をしたためた論文だってあり得よう。その論文が科学的であるためには,(1)それが私の体験を公然とかつ点検可能なように資料的裏づけを行っていること。(2)しかも,同じ結果を得るためであれ,あるいは私の結果が偶然的なものであって,実際には私の介入によるというよりも,私が考慮しなかった別の要因だったことを発見するためであれ,誰かが私の体験を追体験できること,この2点が条件となる。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.40

科学的成果

どうしてそんなに時間がかかるのか?それは独創的研究をしなければならず,そのためには,そのテーマについて他の研究者たちが述べたことを知らなければならないし,しかもとりわけ大事なことは,他人がまだいわなかったことを“発見”しなければならないからだ。“発見”とはいっても,特に人文科学にあっては,原子の核分裂の発見のような画期的出来事だとか,相対性理論とか,癌腫を治す新薬とかを想像しないでいただきたい。ささやかでも発見は発見なのだし,また実際,古典テクストを読んだり理解したりする新しい方法とか,ある作家の伝記に新しい光を投ずる肉筆原稿の割り出しとか,先行の諸研究の再編・読み替えによって,ほかのいろいろなテクスト中に散在していたもろもろのアイデアを円熟させ体系づけるような研究とかも,やはりそれなりに“科学的”成果と見なされるのである。いずれにせよ,研究者が産み出す著作は,理論上,当該分野のほかの研究者たちが,そこに何か新しいことが語られているために無視すべかざるようなものでなければならない。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.4-5

反感

また,マスコミへの露出が多いことに対しても反感を持たれていた。アレックスはテレビ,雑誌や新聞で特集されることが多く,そのために激しい嫉妬が私に向けられた。昇進が認められなかった翌年の1997年に,私は1年間の研究休暇をもらえることになっていた。グッゲンハイム財団から研究費を得ることもできたので,それまでアレックスと研究してきた20年間の成果を本にまとめることにした。のちにハーバード大学出版局から出た『アレックス・スタディ』である。私は,本をまとめる時間がたっぷり取れることと,大学でのしがらみから開放されることで,研究休暇をとても楽しみにしていた。しかし,私がそのタイミングで研究休暇を取ろうとしたことを,大学は気に入らなかったようだ。なんと,研究休暇を取りやめて生物学入門の講義を担当するようにまた言われてしまったのだ。もちろん,それも断った。
 トルストイに言わせれば,不幸な職場はどれもその不幸の中身は違うのかも知れない。しかし,私に言わせれば,不幸のパターンは一緒だ。職場の人と規則と状況の組み合わせが悪いと,どう転んでもポジティブな結果は出ないものだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.204-205

科学者どうしのコミュニケーション

「ちょっと待て!」と私は思った。科学には,たしかに論争がつきものだ。しかし,これはあまりにもひどい。ダイアナも,自分の大学に提出した会議への参加報告書に「会議から導かれる結論は,科学者と動物のコミュニケーションが成立するかどうか以前に,科学者どうしのコミュニケーションが成立するかどうかということを問わなければならない,ということだ」と書いた。そのときになって,『サイエンス』と『ネイチャー』の編集者たちがなぜ私の原稿を見ずに突き返したのか理解できた。彼らは,このような毒々しい批判がいずれ噴出することを予想していて,それに巻き込まれたくなかったのだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.117-118

温度測定機関

予測の正確性を測るにはまず物差しがいる。気候学者の場合,その選択肢はほとんどない。世界中の土地や海に設置した温度計を読んで,地球の温度を推測している主な機関は4つある。NASA(GISSの気温記録を保有している),NOAA(アメリカ大洋大気庁。国立気象局を管理している),英国と日本の気象庁である。

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.435

気候学者と気象学者

気象予報者と気候学者の間では意見が対立することが多い。気象学者の多くは,あからさまに(あるいは暗黙のうちに)気候学に批判的な立場をとる。
 気象予報者は長年,予測精度を上げようと努力してきたにもかかわらず,今でも予報が外れれば怒りのメールを受け取る。24時間後の天気を予想するのは非常に難しいことなのだ。気候学者と同じような技術を駆使している気象予報者が,今から数十年後の気候を予測できると思うはずがない。
 両者の間にあるのは,コンセンサスの例と同じように,言葉の意味の問題だ。気候とは,地球が到達する長期的な均衡のことであり,天気は,そこからの短期的な逸脱を意味する。気候を予測する人は,北半球全体で平均雨量が多いか少ないかといったことには関心があるが,2062年11月22日にアメリカのタルサで雨が降るかどうかには関心がない。

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.426

完璧は不可能

私は信念に完璧な客観性,合理性,正確性を持たせることは不可能だと思っている。けれども,主観性,非合理性,そして間違いを少しでも減らす努力はできる。自分の信念にもとづいて予測をすることは,自分自身を試す一番の(そしておそらくは唯一の)方法である。もし真実にとって客観性が重要であり,予測が,個人の認識が真実にどこまで近づいたかを検証する一番よい方法であるなら,もっとも客観的な人はもっとも正確な予測をする人だということになる。客観性を実験結果に見いだすフィッシャーの統計的手法は,このような作業には向かない。

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.283-284

0か100か

私がここで問いかけたいのは,物事のなかに「絶対に確実である」あるいは「絶対に間違いである」と信じたほうがいいものがあるかどうか,ではない。ただ,そう主張することについて,よく考えてみてほしいのだ。あることについて0パーセントの確率だと思っている人が,100パーセントの確率だと思っている人と議論したところで,有益なものは何も生まれない。ヨーロッパで印刷機が発明されたころの宗教間の争いなど,多くの争いはこのような前提から生まれたのだろう。

ネイト・シルバー 川添節子(訳) (2013). シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」 日経BP社 pp.283

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