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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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人体測定学

この時代の実証主義は,人類学の一領域として,人体測定学(anthropometry)と呼ばれる新しい型の研究をうながした。
 19世紀後半は,ヨーロッパの研究者が自国植民地のさまざまな人種の身体を次々と測定してまわった時代であった。広義の人類学は,国民国家成立による徴兵制実施に伴う身体検査,植民地再分配後の「原住民調査」,義務教育の実施に伴う学校保健など,歴史的要求に応えるかたちでデータを収集し,これを整備することで近代科学としての体裁を急速に整えていった。
 そのなかで一群の人類学者が注目したのは,毛髪,皮膚の色,気性とならんで頭蓋容量(脳の大きさ)と,ほぼこれを併行関係にある顔面角であった。『種の起源』の出版以前にもすでに,顔面角を比較して,黒人は白人よりオランウータンに近いと論じる人類学者がいたが,ダーウィン以降になると,顔面角の立ち上がりが進化の基準であるとする考えが当然のものと受けとられ,それぞれの人種の知能発達の程度を示す科学的根拠とみなされるようになった。それは「新しい骨相学」とも呼ばれた。そしてこのような頭蓋容量に着目して人種間の優劣を「科学的に実証」しようという態度は,後のナチスの思考様式のなかに流れ込んでいく。ナチス親衛隊長官ヒムラーは,膨大なユダヤ人の頭蓋を集めさせ,是が非でもその劣等性を確認しようとしたのである。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 21-22
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ゴルトンとピアソン

第2は,ゴルトンらの研究である。ゴルトンは,遺伝形質の次世代の出現は統計学的な分布法則に従う,と信じた。そのため彼は,人間についても生物と同様に大量の測定を敢行し,厳格な統計学的処理を行った。彼は,人間の身長や胸囲が正規分布を示すことを確認して強い印象を受け,人間の精神能力もこのような分布を示すだろうと考えた。彼のイギリス経験論的な学風はK・ピアソンに受け継がれ,数学的に洗練されていった。ピアソンは1907年に「確率——優生学の基礎」という講演を行ったが,聴衆の反応は鈍かった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 19

自然科学の地位

このように,19世紀後半から20世紀前半にかけて,西欧の価値体系のなかで自然科学は非常に高い地位にのぼりつめた。これこそ,社会ダーウィニズムが大流行した根本原因である。そのなかで優生学は,進化論と遺伝の原理を人間にも応用しようとする立場にあった。優生学は,新興の自然科学によって人間みずからがその自然的運命を改良しようとしたものであり,見方を変えれば,キリスト教的救済史観の世俗化でもあった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 16-17

「遺伝子が決める」

しかし,一方で遺伝子が働く仕組みは想像以上に複雑で,環境や条件に大きく左右されることがわかってきた。これがもう1つの流れである。とくにここ数年間は,DNAの塩基配列に変化がなくても遺伝子の働きが活性化あるいは不活性化される「エピジェネティクス」という仕組みが脚光を浴びている。これらは総じて「遺伝子が決める」といった極端な遺伝子決定論に対するアンチテーゼとして語られることもある。大事なのは,遺伝子が「ある」か「ない」かではなく,どのような条件のもとで働くかだ——そうした視点で考えてみると,一人ひとりが生まれつき持っている遺伝素因より,生まれた後でいかに制御するかが重要ということになる。

行方史郎 (2015). IQは金で買えるのか:世界遺伝子研究最前線 朝日新聞出版 pp.9

自発的行為

なぜ科学は,依存症という現象をとらえるのに,これほど苦労しているのだろう。それは,端的に言うと,他の動物の脳とは違って,ヒトの脳は,自らの身体に命令を下し,ほぼ無数の自発的な(そのため予測不能な)行動をとらせるからだ。病気モデルの擁護者,そして巨大な医療関連産業の思い込みに反し,依存的行動とは本質的に自発的な行為なのだ。依存者は脳の化学物質が混乱した結果,悪い選択を下すのかもしれない。しかし,たとえそうだとしても,それが自分の意志による「選択」であることに変わりはない。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 97

快楽と苦痛

科学者は長い間,人間行動の根源には,快楽を求めることと,苦痛を避けることがあると考えてきた。この2つはたいてい,どちらかがわずかに優位になっている。苦痛を避けることより快楽を求めることの方が少しだけ強い,あるいはその逆といった具合だ。競争のプレッシャーにさらされると,このバランスがさらにどちらか一方に傾くことがある。競争の開始前や,競争中の決定的瞬間に近づくまでは,快楽を求めることが多い。だが決定的瞬間が近づくと,得ることよりも失わないことに意識が向き始める。
 この快楽と苦痛についての学術的探求には長い歴史がある。多くの研究者が,さまざまな用語を使ってこの心理的状態を表そうとしてきた。1935年,心理学者のクルト・レヴィンは人間の動機づけには接近と回避の感情が関連していると主張した。1950年代中ごろには,ジョン・W・アトキンソンが動機づけの傾向を「成功志向」と「失敗回避」に分類し,成功の動機を持つ人は成功のチャンスを高めるためにリスクを選択する傾向が,失敗回避の動機を持つ人はこれらのリスクを選択しない傾向があるとした。1990年代後半には,ニューヨークの2人の研究者がこの概念を展開させた。そのうちの1人,ロチェスター大学のアンドリュー・エリオットは,接近・回避の概念をパフォーマンスや競争に適用した。一方コロンビア大学のE・トーリー・ヒギンズは「獲得型志向」と「防御型志向」という用語を使った。また,この2つの心理的衝動は根本的に異なるため,脳がそれを扱うには,2つの神経系が必要だと結論づけた。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.192-193

エントロピーとランダム

エントロピーは見方を変えればランダム性の尺度であり,エントロピーが大きいということは,系の中の区別がなくなって,秩序が破壊され,無秩序になっていることを意味するのである。
 「エントロピー増大の法則」は,熱力学において「エネルギー保存の法則」と並ぶ基本法則とされている。ニュートン力学の法則がすべて時間に関して対称的であるのに対して,この法則は時間的に1つの方向にしか向かわず,不可逆的である。分子の運動が可逆的なニュートン法則に従うのに,なぜそこから不可逆的なエントロピー増大の法則が導かれるかは1つのパラドックスであるが,それが個々の分子の運動がランダムであることから起こることに注意しよう。
 最初に多数の分子(でも何でもよい)が規則正しく並んでいたとして,それらが個々にばらばらに動き出せば,規則性がしだいに壊れてやがて一様にランダムな状態になってしまうであろうということなのである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.72-73

オジギソウの時計

オジギソウは夜になると葉を閉じ,昼間は葉を開く。ド・メランは,今が夜なのか昼なのかおじぎそうにわからないようにしたら,一体どうなるだろうと考えた。そこで1729年の夏の終わりごろに,彼はオジギソウを真っ暗な箱に入れ,オジギソウは日光がなくても正しい時刻に葉を閉じたり開いたりすることを発見した。彼の友人のアカデミー・フランセーズ会員が,当時フランスの最も権威ある学術団体だった王立科学アカデミーへ送った短い論文には,「つまりオジギソウは,見ないでも太陽の存在を感じとることができる」と書かれている。
 しかし,この結論はまちがっていた。ずっと後になって,オジギソウは太陽の存在を感じとるのではなく,内部に固有の時計をもっていることを,研究者たちが突きとめたのである。

レト・∪・シュナイダー 石浦章一・宮下悦子(訳) (2015). 狂気の科学:真面目な科学者たちの奇態な実験 東京化学同人 pp.6

突き抜けたりはしない

みなさんが私と似たりよったりの想像力の持ち主なら,この質問を読んだ瞬間,マンガでよく出てくる状況を思い浮かべたかもしれない。ゴーリーにホッケー・パックと同じ形の穴があいて,パックはそのまま飛んでいってしまう,という図を。だがそんな想像をしてしまうのは,物質が超高速度でどのように振舞うかに関するわれわれの直観が,まったくあてにならないからにすぎないのだ。

ランドール・マンロー 吉田三知世(訳) (2015). ホワット・イフ?:野球のボールを高速で投げたらどうなるか 早川書房 pp.146-147

逆推論のみ

公平を期すために言っておくが,逆推論の手法自体には,そこで研究が打ち止めにならないかぎり,何の問題もない。それどころか,この手法からは,有益な仮説を生み出す貴重な出発点が得られることが多い。そして,その仮説は,のちほど体系的な実験で試すことができる。あいにく,マスメディアの注意を惹く傾向にある研究は,逆推論のみに基づいた結論を売り物にしている。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.45

スモール・サイエンス

この本が扱うスモール・サイエンス(小さな科学)は,途方もない道具屋莫大な予算を必要としないから「スモール」なのであって,取るに足りないからではない。なかには紙とペンを手にして懇談会や地元のショッピングモールで記録を取るだけのものもある。研究助手の集団を必要とせず,自分を研究対象にして有益な観察を行うこともできる。さらなる道具を求めるとしたら,ストップウォッチを買うと良い。この研究は自己資金で行うことが可能で,助成金の申請書に記入すること,そしてこの上なく縮小されていく研究資金を巡る長年にわたる気の滅入る競争を幸いにも回避できる。これは素晴らしいことだ。そのような研究は科学的権威を欠くため,助成金の管理者や政治家たちが資金援助の熱意をかき立てられるとは思えない。

ロバート・R・プロヴァイン 赤松眞紀(訳) (2013). あくびはどうして伝染するのか:人間のおかしな行動を科学する 青土社 pp.15

縦断的手法を

因果関係をより性格に説明したいなら,複数回にわたって異なる時期にデータを収集すれば,1つの変数がその後の結果にあたえた影響をもっと明確に分離できる。これは縦断的手法と呼ばれ,実行するには時間と経費がもっと必要だが,単純な相関関係から誤った結論を導いてしまうおそれは小さくなる。この方法なら,たとえばある時期にコンサルティング会社の指導を受けた企業の業績がそれ以降に向上したかどうかがわかる。先ごろ,メリーランド大学のベンジャミン・シュナイダーのグループがこの縦断的手法を用いて社員の満足度と企業パフォーマンスの関係を調査し,原因と結果を確かめようとした。データは数年にわたるものなので,満足度と業績の変化が観察できた。はたして結果は?資本利益率と1株あたり利益で見た財務実績が社員の満足にあたえた影響は,その逆よりも大きかった。どうやら勝ち組であることが社員の満足度を高める大きな要因になるのであって,社員が満足していても,企業パフォーマンスにそこまでの影響はあたえないようだ。シュナイダーらは,どのように壁を破って原因と結果を解明できたのだろう?長期にわたってデータを収集したのだ。1時点のデータで因果関係を推測するのははるかに楽だが,手に入るのは妄想なのである。

フィル・ローゼンツワイグ 桃井緑美子(訳) (2008). なぜビジネス書は間違うのか:ハロー効果という妄想 日経BP社 pp.125

データの利便性

まず,正しく因果関係を証明するためには,データを収集する段階から,因果関係を証明することを念頭に置いたデザインにしなければならないのですが,日本の統計にはそもそもその認識が欠如しているものが多いという問題があります。
 さらに,研究者が利用できるデータが限られている,という別の問題も存在します。たとえば,全国学力・学習状況調査は,文部科学省やその関連機関に所属する研究者など,限られた人以外はアクセスできません。
 なぜなら,全国学力・学習状況調査は統計法で定められた「統計」ではないからです。「統計」であれば,研究者はアクセス可能なのですが,実際は「意見・意識など,事実に該当しない項目を調査する世論調査など」(総務省のウェブサイトより)という扱いになっており,研究者はこのデータを学術研究に用いることができないのです。

中室牧子 (2015). 「学力」の経済学 ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.137

自分が不得手なものを研究する

カール・ユングは,人は自分が不得手とするものを研究すると言ったそうだ。この警句は実に頻繁に私に当てはまる。自分が自制のお手本だなどと言うのはお笑い草だ——それにはほど遠いが,タバコを吸いたいという渇望との闘いでは勝利を収めた。

ウォルター・ミシェル 柴田裕之(訳) (2015). マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 早川書房 pp.152

一般法則と個別事例

一般法則の話を個別の話に当てはめているのに,個別の話だけで論じようとして混同してしまう人も,因果関係の議論の際によく見かける。実在世界と言語世界の混乱であり,科学の仕組みとヒュームの問題を知らないためである。また,ヒュームの問題により,たとえ要素還元主義やメカニズムを追求する場合であっても,原因と考える出来事と結果と考える出来事との間で,データに基づいて推論を行わねばならないことも分かる。
 ヒュームの問題は250年ほど前に指摘された。20世紀にはラッセルがヒュームを広く紹介した。ところが,日本ではいまだに,ヒュームの問題が踏まえられていないことが多く,この弊害は非常に大きいと思う。原因という出来事と結果という出来事は実在世界に属する。しかし因果関係は言語世界に属する。因果を日常生活や科学に生かすためには,このことを頭にたたき込み,言語世界の因果関係を描き出す語彙を持つ必要がある。そうでないと因果関係は描けないし,描かれた因果関係も理解できない。従って妥当な判断もできない。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.101-102

因果関係の証明

研究者たちは因果関係があると言うために,証明をして示さねばならないと思っている。しかし具体的な証明方法を知らない場合には,因果関係がないかのようになってしまう。因果関係が分からないでとどめればいいのに,因果関係がないのと同じにしてしまう。だが,観察されたデータから因果関係の有無を推論するのなら,因果関係がないことも証明する必要がある。そして,「因果関係がない」と証明することはしばしば困難を伴う。今は因果影響がないと思える1に近いリスク比でも,もっと対象者を増加させ観察を繰り返していたら,誤差の変動に隠されていた微妙な因が影響が見えてくるかもしれない。いずれにせよ,その後さらに,定量的に描かれた因果関係の影響の測定結果から判断を導く作業が待っている。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.100-101

要素還元主義の悪用

要素還元主義は悪用される。JT(日本たばこ産業)を含む世界のタバコ会社は長年にわたり,タバコ喫煙と肺がんとの因果関係に関して「メカニズムがまだ証明されていない」と,因果関係を認めてこなかった。1990年代には,タバコに含まれている物質ベンツピレンが作用して,がん抑制遺伝子の157,248,273のコドンに変異が生じることが示された。更にこの変異は,人の肺がん遺伝子の通常位置でも発見された。それまでのタバコ会社の主張の路線を維持するなら,ここでタバコの発がん性を認めるのが筋だろう。
 しかしここまで示しても,JTを含むタバコ会社の多くは主張を一向に変えないため,「メカニズムがまだ証明されていない」という要素還元主義やメカニズムへのこだわりが,単なる逃げ口上に過ぎないことも分かってきた。さらに,海外のタバコ会社はMutagenesisという国際的医学雑誌の編集委員と組んで,前述した研究を目立たない一意見に過ぎないと葬ろうとした。これがタバコ会社の内部文書の公開で明らかになり,Lancetという有名医学雑誌に発表された。因果関係を明らかにしてほしくないという強い気持ちが入ると,目に見えないゆえに強引な論理が押し通されてしまう。要素還元主義は,時間稼ぎにはもってこいである。その間に,「正常な使い方をして明瞭な害のある唯一の商品」(米CDC長官の発言)であるタバコを売りまくってしまえる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.52-53

科学は中立ではない

現代では,科学的観察は白紙の状態で行うのではなく仮説を元に行う。そもそも何ものにも影響されずに自然を観察することなどほとんど不可能である。この点は,科学ではきわめて重要である。観察とか証拠というものは,理論の影響から自由ではない。
 我々は何らかの目的を持って事柄を検証している。心の中で何らかのアイデア(観念)を伴って事柄を検証しているのである。科学的観察は常に理論負荷的であると言われ,観察事実は理論を前提としていて,その理論の影響からは逃れられない。こんなことを勉強すると,大学でよく耳にした「心を真っ白にしてデータを見なさい」とか「科学は中立だ」などという教授たちのセリフに対して,ひと言文句でも言いたくなる。

津田敏秀 (2011). 医学と仮説:原因と結果の科学を考える 岩波書店 pp.29-30

流行を牽引せよ

より危険が少ないのは,流行を追うのではなく,流行を牽引していくやり方だ。たとえば,ひとつの方法として,日頃から技術発展の動向に目を光らせておき,以前であれば時期尚早と棚上げされていた解決策として,そこで見つけた技術が使えないかと考えることが挙げられる。それに加えて,問題解決に必要な技術を自分で開発する手もあるだろう。もちろん,そのためには多大な労力が要求されるはずだ。だがその代わりに,ライバルたちと競争を繰り広げる必要はなくなる——わざわざ骨の折れる仕事をしようという者はめったにいないからだ。そのようにして,最先端の技術に疑いようのない親展をもたらせたなら,あなたは少なからぬ評価を受けることだろう。

ピーター・J・ファイベルマン 西尾義人(訳) (2015). 博士号だけでは不十分! 白楊社 pp.160-161

研究の多様性

研究者は広く浅くを目指すべきだとか,いろんなことに手を広げすぎて何の業績も残せない研究者になるべきだとか,そういうことを言うつもりは毛頭ない。だがそれでも,ひとつの関心だけでなく,ちょっとは違ったものに手を突っ込んでみれば,研究者として成功する可能性が高くなるのではないかとは思っている。たとえば,ある研究領域の人気がなくなったとき,すでに手を伸ばしていた他の領域の重要性が増すことがあるかもしれない。また,ある領域で学んだり発展させたりした優れたアイデアを,他の領域で応用できる場合もあるだろう。こうした応用は,その領域を発展させるための非常に効果的な手段になり得る。

ピーター・J・ファイベルマン 西尾義人(訳) (2015). 博士号だけでは不十分! 白楊社 pp.158

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