I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

科学で抹殺できない

嘘発見器は科学から生まれたものではないから,科学では抹殺できない。嘘発見器のすみかは研究室でもなければ法廷でもなく,新聞印刷用紙であり,映画であり,テレビであり,それからもちろん大衆紙やコミックやSFである。経済学のもっと仰々しいことばを借りれば,嘘発見器は需要に主導されている。80年以上にわたり,脈動するホースと収縮する膜からなるポリグラフは,需要に応える「科学」を提供してきた。いまようやくポリグラフの時代は幕をおろそうとしているように見えるが,それは科学が変わったからではなく——それなら何十年も前に起きていた——人々が別の科学を信じるようになったからである。現状は混沌としている。職場での嘘発見器の使用ははっきり退けられたが,法廷はポリグラフの検査結果を証拠採用するよう圧力をかけられているし,アメリカの政府機関の多くは新しい嘘発見技術を進んで取り入れようとしている。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.341-342

開かれた科学とノウハウの独占

「開かれた科学」は,客観的な知識が科学者の「無欲」から生まれるという考え方を前提としている。科学者は金銭よりも研究成果の公開を優先しなければならない。そのためには——近代科学の歴史の中でときどきそういった主張がされてきたのだが——実力のみに基づいて科学者を評価する機関が,研究をつづけるのにじゅうぶんな資金を提供して報いる必要がある。こうしたシステムのもとでは,評判が科学者にとって最大の財産になる。しかし,そうした知識のためになぜ社会が金を出さなければならない?君主制国家や私立大学なら,みずからの威信のためにスポンサーになるかもしれないが,これではアメリカが物理学のために金とバレエのために出す金で,どうしてここまで差があるかを説明できない。実際のところ,これほど差がある大きな理由は,開かれた科学が人びとに知識を提供できれば,いますぐは無理でも長い目で見ればだれかの役に立つと(しばしば科学者自身によって)説明されてきたからである。こういう事情があるため,以前から科学者たちは,いずれはスポンサーの利益になるような研究を選んできた。
 これに対し「ノウハウの独占」は,社会に有益なものを生み出すのが第一の使命であり,製品やサービスの形で知識から利益を得るのを目的としている。しかしながら,そのためには知識を秘密にして,市場価格を損なったり競争相手を利したりするのを避けなければならない場合が多い。中世のギルドやコカ・コーラやマンハッタン計画などはその典型例だろう。問題は,知識を秘密にするのがたやすくなく,特にそのノウハウの実用性を他人に証明するとなれば,なおさら秘密にしにくいことである。社会もまた,貴重な秘密が発明者とともに失われ,新しい知識につながらずに終わってしまうのではと懸念する。近代社会が特許制度を編み出したのはこうした事情からであり,これは期限つきで知識の独占利用を許すと同時に,発明者に公表の責任を負わせる制度である。この場合,発明者にとってはタイミングが重要になる。つまり,いつまで情報を秘密にし,いつ特許を出願するか決めなければならない。知識の独占によって利益を得ているために,知識を切り売りする者たちが「無欲」とは見なされにくいという問題もある。
 もちろん,知識を得るための方法が,いま説明したようなふたつのアプローチのどちらかにきれいに分けられることはまずない。近代の民主社会では,両者が渾然一体となっており,一方が決定的な主導権を握っているわけではない。開かれた科学をめざす発明者でも,その多くは研究成果を社会問題の解決に役立てたいと考えている——みずからの研究が正しいと認めてもらうためにも。ノウハウの独占を追求する者でも,その多くは評判を非常に気にかける——みずからの発見や技術の商品価値をあげるためにも。開かれた科学とノウハウの独占は,仇敵同士でありながら,どちらが欠けても立ちゆかないものなのである。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.125-126

「データを追加」と言われたら…

ネイチャーなどはとくに顕著だというが,雑誌の編集サイドが,こんなデータを2週間以内に提出できるなら載せてやる,と言ってくることがある。
 そんなとき,そんなデータ出せるか,と突っぱねられるか。
 ようやく掲載論文になるのだ。これを載せることができたら,周囲からの評価が変わる。教授になれるかもしれない。研究費が得られるかもしれない。名声が得られるかもしれない。このプレッシャーのもとで,「何らかの」方法で工面して載せようと思っても不思議ではない。
 「何らかの」方法のなかに,データの切り貼りや,別の実験で使ったデータの引用があったとしたら……。よい雑誌に載せることが目的化してしまうがゆえに,不正の誘惑にかられてしまうのではないか。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.179-180

チャンピオンデータ

加工しなくても,ウソはつける。何十回も何百回も実験を行って,たまたま自分のたてた仮説にピッタンコの写真がとれた。そういう写真を「チャンピオンデータ」と呼ぶ。いわば「奇跡の1枚」みたいなものだ。何百回に1回だけ,といったように,非常に頻度が低いデータだ。
 しかし,たまたま出たチャンピオンデータだけを貼り合わせると,あたかもその仮説が証明されたかにみえてしまう。たとえて言うならば,非常に写りのよい,たまたま撮影できた「奇跡の1枚」を使ってお見合い写真を作るようなものだ。決してウソではないが,普段の姿からはかけ離れている。
 このチャンピオンデータだけをつなぎ合わせた論文が結構多いのではないか,という声を聞く。これは画像の切り貼りほど露骨ではないので,発覚しにくい。論文を再現しようと思ってもなかなか再現できない,といったことで,次第に論文が引用されなくなり,歴史の闇に消えていく可能性は高い。
 しかし,その論文を再現する手間が無駄になり,その論文を他の論文が引用することで誤った研究が行われてしまう可能性があり,害は大きい。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.171-172

なぜいけないのか

なぜ研究不正はいけないのか。あまりに当たり前過ぎて,改めて問われると戸惑うかも知れないが,ここをはっきりしないといけない。
 研究不正がいけないのは,人びとに損害を与えるからだ。
 ウソの研究成果が発表されれば,そのウソを引用して,別の研究成果が生まれる。その研究成果がさらに別の研究成果を生み出す。ウソから生まれた研究は全てウソになる。
 ウソの研究は役に立たない。いや,それならまだましだ。ときに害を与える。 
 ウソの研究と,それを引用した研究にかかった費用が無駄になる。
 ウソの研究で作られた製品は役に立たない。
 ウソの研究をもとに研究を行った時間が無駄になる。ウソの研究に基づいた研究計画が無駄になる。
 ウソの研究に期待した人たちががっかりする。
 ウソの研究で地位を得た人に邪魔された人の活躍の場がなくなる。
 ウソの研究を調査する人たちの時間が失われる。
 ウソの研究は人びとの健康や財産を脅かす。
 だからウソはだめなのだ。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.161

競争と確実な成果

配分額及び採択件数ともに内科系臨床医学が1位。外科系臨床医学がそれに続き,基礎医学も上位に入るなど,バイオに関係する研究分野が上位に位置する(日本学術振興会より)。科研費もバイオ重視なのだ。
 こうなると,研究費を獲得するために研究者の多くが,生命現象の解明という純粋科学的興味ではなく,産業や医療に役立ちますよ,と応用を口にするようになる。もはや悠長なことは言っていられず,競争に追いまくられ,国の戦略に沿った研究をせざるをえなくなる。しかも,予算をもらっている間に確実に成果を出さなければならない。すると往々にして,世界をあっと言わせるかもしれないが,失敗する可能性も高いであろう研究は避けられることになる。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.128

ブラック研究室

確かに,多くの教授はそんなに理不尽ではない。大学院生からの苦情や悩みの相談を快く聴く。ただ,そんなよい教授に出会えるかは確率の問題でしかない。学生を奴隷のごとくつかう理不尽な教授が主催する研究室に偶然入ってしまうことだってありうる。というか,そんなむちゃくちゃな,いわばブラック研究室であることなど,そうかんたんには明かさない。
 むしろ,熱意があって,活気にあふれている研究室だ。業績もバンバン出る,というだろう。そうやっていい面だけ表に出して,大学院生を誘い,学位や場所を盾に無理難題を押しつけ働かせる。
 さすがにそんなことをしていれば,悪評は広がっていくものだが,そこはうまく隠すのが,ブラック研究室のずるいところだ。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.103-104

時間がかかる

「自己流」は決して悪いことではない。研究テーマの見つけ方,研究計画の立て方,研究手法,他の研究者と共同研究するための交渉術や,論文の書き方などなど,試行錯誤して自分のやり方を身につけていくことで,優れた研究ができるようになる人もいる。たとえ指導者から教わったとしても,研究者は自分のやり方を身につけるので,研究者は多かれ少なかれ「自己流」なのではないだろうか。
 だが,「自己流」を完全に身につけるのには時間がかかる。試行錯誤に費やす時間,研究成果は出てこない。それを待てるかどうか。
 しっかりした「自己流」を身につけないまま,厳しく成果を要求されたらどうなるか。その行く先には,画像の切り貼りやコピペを当然と思う,誤った意味での「自己流」の研究者が生まれるのではないか。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.85-86

審査基準が様々

ある大学,専攻では,投稿論文を書けば「自立して研究活動を行える」とみなし,投稿査読論文をつなぎあわせたもので博士論文とするし,ある専攻では,しっかりとした博士論文を要求する。旧帝大などの古くから博士課程をもつ大学院では,厳しい要求をする傾向があるようだ。諸外国でも,投稿査読論文をはりあわせたような博士論文があると聞いた。医学の博士はかなり審査基準がゆるいことはよく知られている。
 だから,同じ博士号を持っている人でも,能力には差がある。現在の博士号は,「自立して研究活動を行える」という,最低限度の取得条件を示すだけであって,ある種自動車免許のようなものだ。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.79-80

単年度雇用の繰り返し

日本は諸外国に比べて研究補助者が少ない。だから,大学院生やポスドクが様々な作業を行わざるを得ず,研究時間が少なくなってしまう。研究者たちに研究そのものに専念してもらうためにも,研究補助者はとても重要な職なのだ。諸外国では,研究補助者を優遇し,1つのキャリアとしてしっかりとした地位を与えているという。日本の大学などにもかつて「技官」と呼ばれる職があった。いわば技術者,職人として,研究者の様々な要望に応え,敬意を集めていた。
 ところが,現代の日本の研究補助者には大きな問題がある。理研のテクニカルスタッフを経験した友人によると,テクニカルスタッフは単年度雇用の繰り返しで,不安定かつ立場は弱い。上司であるチームリーダーなどの意見に逆らえない。また,単純作業の繰り返しで,スキルアップも出来ない。どんなに貢献しても論文の筆頭著者になることはできない。口約束で論文書かせてやる,と言われても,反故にされてしまうこともあったという。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.58

女性研究者の昇進

男性研究者が,専業主婦の妻を持ち,子育てや家事一切を妻にまかせて研究に没頭するというケースはわりとよく目にする。ところが,逆のケース,つまり,女性研究者が夫に育児,家事をまかせて研究に没頭するケースは少ない。せいぜい,育児,家事を分担制にするだけだ。そして多くの場合,女性研究者の負担は重い。
 女性研究者の多くは,研究者として最も脂が乗っている時期に,子育てや家事に時間を割かなければならない。研究成果は同レベルの男性研究者に比べて低くなることが多い。研究者としての地位獲得も遅れがちになり,いまだに残る女性研究者への偏見もあり,能力にみあう活躍の場が得られない。だから,助教,講師,准教授,教授と地位があがるにつれ,女性の比率が下がる。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.47-48

当たり前?

ある研究室では,トイレに行くのにも上司の許可がいるという。あるいは日中に論文を読むことを禁止している研究室もある。
 監視カメラで研究者の行動を監視している研究室もある。私が知人からこの話を聞いて,あまりに驚いたので,ツイッターでそのことをつぶやいたら,「そんなの当たり前」という反応があって背筋が寒くなった。
 私の知人は大学院生時代,思った通りの研究成果が出なかったために,指導者から殴られたという。彼はそれが嫌で研究室をやめたそうだが,こんな話を聞いていると,バイオ研究はブラック企業そっくりではないか,と思ってしまう。

榎木英介 (2014). 嘘と絶望の生命科学 文藝春秋 pp.31-32

同じ伝統はない

このように考えると,多くの雑誌に毎年数万編も発表される論文のうち,時間の経過に耐え,後世に残るのは,天才の執筆したごく少数の論文に過ぎない。したがって,いくら捏造論文が蔓延っても,学問の進歩はこれによって基本的に影響を受けることはないであろう。
 事実,論文捏造事件についての米国の代表的な研究者の意見は,おおむね楽観的で,「査読制度で論文の捏造を見破ることは不可能である。しかし,現在の論文査読制度は,概してよく機能しており,これに代わる制度を考える必要はない」と要約される。
 つまり,「学問の進歩は,捏造論文によっては阻害されない。捏造論文は,ノーマルサイエンスを行なっている研究者たちを一時的に惑わすことがあっても,これはしょせん大海の漣に過ぎず,いずれ時間の経過とともに消えてゆく」という楽観論である。
 これは欧州中世の暗黒時代の,宗教による偏見と迫害に耐えて学問を進歩させた天才たちの伝統を背景とする,欧米の科学者たちの自信の表れであろう。
 ただし,わが国の研究者が,軽々しく彼らの楽観的な意見に同調してはならない。なぜなら,わが国では学問を効率的に導入した実績はあっても,生命を賭けて学問を進歩させた伝統などはないからである。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.181-182

短期雇用

この気の毒な事態にさらに追い打ちをかけたのが,長期大型プロジェクト遂行のために研究費から雇用した,多数の若い研究者の処遇問題である。政府は,大型プロジェクト終了までに,これらの若い研究者に新しい勤務先を紹介し就職させるよう,研究代表者に厳命し,もし世話をしきれない若い研究者がでたら,研究代表者が東京大学から支給される講座研究費を彼らの給与として充当せよ,と指示したのである。
 文部科学省(実態は財務省)からの巨額の研究費には,研究補助者を一時的に雇用する人件費(1人あたり年額600万円)が含まれている。近年の分子遺伝学の隆盛により,世界各国の研究者数は激増しており,わが国でもこの分野の研究を志望する若者が多い。このような若者は,幸運に巨大プロジェクトの研究補助者に採用されても,従来の大学の大学院生のようなゆとりのあるトレーニングを受けられる保証はなく,プロジェクトが終わればこのように使い捨てにされ,放り出されるのである。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.143

短期競争

政府の方針では,将来大いに発展させるべき研究分野のひとつに「生命科学」があげられている。しかし政府の「科学技術立国」の目標にかなう(とみなされる)のは,言うまでもなく,現在流行の学問分野,分子生物学,分子遺伝学なのであり,生命科学一般が政府の研究資金を獲得できるわけではない。くりかえすが,「競争的研究資金」の「競争」の勝者は,あらかじめ決まっている。
 このように現在,潤沢な(あるいは潤沢すぎる)研究費を得た分子生物学者たちは,元来は落ち着いて各々の独自の研究課題の推敲に邁進すればよいはずである。しかし現実の学問は甘いものではなく,真に独創的で,研究分野にブレークスルーをもたらすような研究は,長い年月をかけてやっと達成されるのである。
 しかし,研究資金を研究者に配分する新しい主人(政府)は,悠長にブレークスルーの成就を待ってくれない。ある研究期間に(インパクトファクターで皮相的に評価される)成果が出せなければ,その研究者は無能と判断され,研究資金獲得の道を絶たれる。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.88-89

科学と科学技術

「科学」と「科学技術」とでは意味するところがまったく異なる。前者は単に自然科学,人文科学などすべての分野の科学の総称に過ぎないが,後者は技術を生み出す土台としての科学,もっとはっきり言えば社会の発展に直接貢献し得る科学を意味する。旧科学技術庁職員の目的は,大学から「科学」の分野をできる限りそぎ落とし,「科学技術」を研究の中心に据えることであったに違いない。
 あとで詳しく議論するように,革新的な技術は,政府がいくらこれを奨励しても生まれてくるものではない。あらゆる分野の科学研究が形成する広い裾野から生まれてくるのである。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.86-87

焦っている

しかし大学の研究者は,このような切羽詰まった状況に追い込まれなくても,常にインパクトファクターの高い雑誌に論文を出し続けなければ,同年輩の競争者たちとの,よい地位への昇進を賭けての競争から脱落してしまう恐れを感じ,焦っているのである。
 この焦りからは,学問の本来の姿である,「研究の目標を高いところに置き,これに向かって着実に迫ってゆく」という研究姿勢は生まれようがない。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.80

追いつめられた研究者の様子

この異常事態を引き起こした原因を,さらによく読者に理解していただくため,追いつめられた大学研究者の立場をより具体的に説明しよう。
 (1)幸運にも研究費の配分にあずかった研究者(特に,研究履歴の短い若い研究者)は,「成果をただちにあげねばならない」という重圧を感ずる。
 (2)政府の会計年度は,毎年4月1日に始まり翌年の3月末日に終わる。しかしすでに述べたように,実際の研究費が大学に交付され,研究が可能になるのは,6月である。つまりこの年度の最初の2か月は研究の空白期間になる。
 (3)研究者の研究成果の報告は,筆者の経験では研究費交付年度の11月ごろである。つまり,研究者が研究成果をあげるための期間は半年に過ぎない。
 (4)もし研究者が研究費交付の初年度内に学術誌に論文を発表し,研究能力の高さを示そうと思えば,研究機関はさらに短くなる。なぜなら論文を学術誌に投稿し受理され,実際に出版されるまでには,1か月単位で時間がかかるからである。
 (5)実際には個々の研究プロジェクトは数年間継続するので,研究者はこの期間内に,なるべくインパクトファクターの高い(たとえば『ネイチャー』誌のような)学術誌に論文を発表しようとする。
 論文が出せないか,あるいはインパクトファクターの低い学術誌にしか発表できなければ,その研究者は能力に乏しいと見なされ,その将来は暗いものになる。わが国特有の,浅薄な「インパクトファクター偏重」の弊害である。
 (6)権威ある学術誌に論文が受理されるには,論文の内容がインパクトに富む必要がある。この目的のためには,たとえ研究者の守るべき倫理から「多少」外れても,論文原図の切り貼りが有効である。すでに説明したように,インパクトファクターの高い雑誌でも,査読者は玉石混交になりがちで,見た目に綺麗な原図が揃っていれば,彼らに与える印象は格段に良くなる。
 ここで「多少」という言葉を用いたのは,この言葉の研究者自身による解釈が,「悪意,あるいは故意による論文の捏造」か,あるいは「悪意のない論文の改変」か,を分ける分岐点だからである。この分岐点の判断は個々の研究者の主観に依存するので,第三者による判定は著しく困難である。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.78-79

IF=流行ファクター

つまりこのインパクトファクターは,研究者の数を反映する「ポピュレーションファクター」あるいは「流行ファクター」にすぎず,個々の論文の学問的価値とは何の関係もないのである。
 このように,インパクトファクターの実態は浅薄極まるものであるにもかかわらず,わが国では軽薄にも,この値を過度に尊重し,多くの大学,研究機関で,職員の採用,あるいは昇任に,候補者が過去に発表した全論文のインパクトファクターの合計値を,人事決定の最優先事項として用いるようになった。
 さらにわが国では,不合理極まりないことに,『ネイチャー』掲載論文の共著者に名を連ねれば,ほんの一部の実験の手伝いをした未熟な研究者であっても,インパクトファクター「30」が加算され,昇任人事で圧倒的優位に立つのである。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.37

流行り

すでに説明したように,筆者は神経・筋肉研究分野の「古典的」生理学が,「遺伝子研究」に学問の主流の地位を譲る変動期にめぐり合わせた。当時筆者が最も苦々しく思ったのは,この『ネイチャー』誌の態度であった。
 筆者はこの雑誌に時々論文を発表していたが,ある時,投稿した論文を「筋肉研究者は数が少なく,したがってこれに関する論文は大多数の読者に注目されないので掲載できない」との理由で,論文審査なしに編集者によって却下されたのである。
 筆者の国外の友人たちも,みな,同じ目にあい,「『ネイチャー』は筋肉の論文をもはや受け付けないそうだ」との噂がひろまり,彼らは『ネイチャー』を論文発表の際,考慮の外に置くようになった。
 ノーベル生理学・医学賞受賞者のハクスレー氏は,筆者と30年にわたり親交があったが,やはり同じ理由で,論文掲載を拒否され,筆者の自宅を訪問された際,「Nature is no longer useful!」(『ネイチャー』誌はもう役に立たない!)と憤懣を述べられた。
 このように,一般に絶大な権威と信用があると見なされている『ネイチャー』誌の正体は,現在流行の,したがって研究者数も圧倒的に多い学問分野の論文を恣意的に優先して掲載することによって購読者数を増やし,利益を増大させる商業誌,つまりビジネスに過ぎないのである。

杉 晴夫 (2014). 論文捏造はなぜ起きたのか? 光文社 pp.35-36

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