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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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科学的著作ではない

 『環境危機をあおってはいけない』の中でロンボルグは,いまではもうおなじみの主張を繰り返している——レイチェル・カーソンはDDTについて間違っていた,地球温暖化は深刻な問題ではない,森林がうまく対処してくれる,と。一般に,生活はほぼすべての人にとってずっと良くなっており,「将来について思い煩う必要はない」という。それなら,環境保護論者たちは何のために騒いでいるのだろうか?
 ロンボルグの本は,統計の御用の典型的な例だと批判されている。2002年に『サイエンティフィック・アメリカン』で4人の指導的な科学者が,ロンボルグの計算は4つの点で「誤解を招く」ものだと述べた。デンマークではこの本をめぐって論争が起き,ロンボルグは科学的に不誠実だと攻撃された。ついにはデンマークの科学・技術・革新省が裁定に乗り出し,ロンボルグを科学的に不誠実だとは言えないとした。なぜなら,『環境危機をあおってはいけない』が科学的著作だと証明されていないからだという!

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.242
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複雑なダンス

 科学者が沈黙する1つの理由は,科学の中で行なわれている個人とグループの間の複雑なダンスにある。科学者は大きな発見をして得られる賞賛と威信に強く動機づけられている。しかしそれと同時に,科学者は自分自身が脚光を浴びるのをしばしばためらう。その理由には2つの面がある。まず,現代科学の成果はほぼ例外なくチームワークによって生まれるということがある。この点については後でまた触れる。そしてもう1つ,たとえ1人の人間の天才あるいは創造性から生じていても,知識が科学の一部になるのはそれが専門家たちの意見の一致を反映している場合だということがある。現代の世界において科学が飛躍的に前進するのは,数十人,あるいは数百人の研究者の集合的な努力の結果であることが普通だ。現在のIPCCは数千人の研究をまとめ上げようとしている。前に出て同僚たちを代表して話す科学者は,すべての栄誉を独り占めにしようとしていると非難されるリスクを犯すことになる。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.251

ピアレビュー

 科学雑誌はすべての論文をピアレビューにかける。普通は3人の専門家にコメントを依頼する。査読の意見が大きく割れた場合,編集者はさらに査読者を追加でき,自分の判断も加えることができる。論文執者が査読者の指摘した誤りを修正し,問題点を手直しするというプロセスは2,3回繰り返されることが多い。それでも合格しなければ,その論文は掲載拒否となり,執筆者はまた1から書き直すか,それほど評価の高くない別の雑誌に投稿を試みるかする。カンファレンスはあまり厳格でないことが多く,カンファレンスに発表された論文が一般に真剣に受け止められないのはそのためだ。査読方式をとっている雑誌に発表されない限り,学問の世界で昇進や終身在職権の検討材料にはならない(ときとして産業界は,自らカンファレンスを主催して論文集を発行するというもっともらしい便法を利用する)。また,査読者は本当の専門家でなければならない。その研究に使われた方法と論文の主張していることを判断できるだけの知識が必要だ。そして査読者は,審査される論文の執筆者と——個人的であろうと職業上であろうと——近い関係にあってはならない。こうした基準に合う査読者を見つけるために,編集者はかなりの時間を費やす。これはすべて無償で行なわれ,科学者たちは共同体の制度の一部として論文の審査を行なっている。誰もがほかの人たちの論文を審査することが期待されているが,それは彼らの論文もまた,ほかの人たちによって審査されるという了解があるからだ。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.51

悪い科学,弱い科学

 「悪い科学」は見れば分かる,と科学者たちは自信を持っている。それは明らかに欺瞞に満ちた科学だ。データが捏造されたり,ごまかされたり,操作されたりしている。都合のいいデータだけを採用して一部のデータを故意に放っておくとか,データをとったり分析したりした手順が読者に理解できないようになっているとかいうのは「悪い科学」だ。それは検証不可能な主張だったり,あまりにも少ないサンプルに基づく主張だったり,得られた証拠から引き出せない主張だったりする。また,ある立場を支持する者が不十分なデータや一貫しないデータに基づいて結論に飛びついている場合も,「悪い」科学か,少なくとも「弱い」科学だ(第4章で見たように,アメリカ科学振興協会(AAAS)のシャーウッド・ローランドは総裁演説で,ディキシー・リー・レイ,フレッド・サイツ,フレッド・シンガーが「悪い科学」に基づいてオゾン層破壊を疑ったことを明らかにした。彼らは明らかに間違った主張をし,広く手に入る公表された証拠を無視していた)。しかし,こうした科学の基準は原理的には明白かもしれないが,実際の場面でいつ適用すべきかということは,その時々で判断するしかない。そのために科学者はピアレビューを使う。ピアレビューというものは魅力的な話題になるはずもないが,これを理解するのはきわめて重要だ。なぜなら,これこそ科学を科学たらしめているものだからだ。それで初めて,科学は単なる意見の一形式ではなくなる。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.49-50

成功例

 環境問題に関する規制は科学に基づくものであるべきだとすれば,オゾンの問題は成功例ということになる。複雑な仕組みを解明するには時間がかかったが,米国政府や科学に関する国際的な機関の支援を得て,科学者はそれを達成した。科学に基づいて規制がかけられ,研究の進展に応じて調整が加えられた。しかし,それと並行して,科学に挑戦する試みも絶えなかった。産業界の人間やその他の懐疑論者はオゾン層の破壊が現実だということを疑い,もし実際に起きているとしても重大なことではない,火山が原因だ,などと主張した。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.243

オゾン層の観測

 観測衛星は,19世紀の地質学者が岩石を,生物学者がチョウを集めたのと同じような仕方で単にデータを「収集」するのではない。衛星は信号を検知して処理する。観測にかかわる電子技術とコンピュータ・ソフトウェアは非常に複雑で,ときには誤りも生じるため,「悪い」データをスクリーニングして取り除くことも手続きの中に含まれている。今回はそこに問題があった。観測データを処理するソフトウェアには,特定のレベル——180ドブソン単位——より低い値はオゾン濃度として現実的でなく,おそらく悪いデータであると見なし,フラグを立てるコードが含まれていた。成層圏でそこまで低い濃度は観測されたことがなく,既存の理論に基づくモデルでも生じ得ないことから,これは合理的な選択のように思われた。南極のオゾン濃度データの一部が180以下になったとき,それはエラーとみなされてしまった。計測器の科学チームは10月の南極上空にエラーが集中している地図を持っていたが,計器の故障だろうと考えて無視していた。彼らは装置を信用しすぎないという健全な態度のせいで,重大なデータを見逃してしまったのだった。
 データを再度チェックしたストラースキーは,オゾンの減少した領域が南極全体を覆っているのを発見した。「オゾンホール」の誕生だ。それは計器の故障ではなく,実際に起きている現象だった。衛星によって検出されていたのに,予想を超えていたのだった。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.233-234

よくあるパターン

 詳細な報告の多くは,非常に専門的な雑誌(たいていのジャーナリストや議会スタッフが日常的に読んでいないもの)か,政府の報告書に発表された。スウェーデンの研究結果は,無理もないこととはいえ,ほとんどはスゥェーデン語で発表された。こうした専門的な部分での困難は,DDTの被害にもついてまわった。大部分は政府の報告書に書かれていたが,レイチェル・カーソンはそれをまとめて『沈黙の春』を書き上げた。経口避妊薬の危険性も同じことで,ほかの点では健康な若い女性に原因のよくわからない血栓ができる症例が,最初は眼科学の専門的な雑誌に掲載されたのだった。これは科学の特徴的なパターンだ。ある現象の証拠が最初は専門家向けの雑誌や報告書にばらばらに掲載されていて,やがて誰かが散らばった点を結びつけ始める。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.141-142

別の悪影響

 産業革命の時代のイングランドでは粒子状物質による汚染がひどく,死者も出ていた。1952年のロンドンの「グレート・スモッグ」はよく知られている。そこで汚染を緩和するために徹底した対策をとり,もっと高い煙突を使って汚染物質を拡散させるとともに,火力発電所には集塵装置(スクラバー)を設置した。ところが,その後の科学研究によって,大気汚染の原因になっていた塵が酸を中和する働きもしていたことが明らかになった。その塵を取り除いたことで,残った汚染物質の酸性度が高くなってしまった。また,粒子状物質はかなり早く地上に戻る傾向があった。そのため,高層煙突によって近隣の汚染は減少したが,広域の汚染は増加した。地元の煤煙が広域的な酸性雨に変化したのだ。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.140

SDI構想の問題

 セーガンは兵器の専門ではなかったが,レーガンの提案が映画『スター・ウォーズ』と同じような空想的なものだということは十分わかっていた。理由は単純だ。どのような兵器システムも——実のところ,テクノロジーを用いるどんなシステムも——完璧ではなく,核兵器に対する不完全な防御は価値がないという以上に有害だからだ。これは算数の問題でしかない。たとえ戦略防衛が90パーセント有効でも,10パーセントの弾頭はくぐり抜けてくることになる。ソ連は8000発を超える弾頭とそれを運搬する約2000基の弾道ミサイルを保有していたから,その10パーセントでも1つの国を破壊するのに十分すぎるほどの能力がある。しかし,米国の防衛力にどれほどの効果があるかをソ連が確実に知ることはできないから,確信を得たいがためにさらに多くの兵器を製造する誘引をSDIは提供する。SDIは軍備拡張競争を激化されはしても,歯止めをかけることはない。逆に,SDIは実際に機能するかもしれないとソ連が考えた場合,事態はさらに悪くなる。なぜなら,システムが構築される前に「先手を打って」攻撃したくなるかもしれず,SDIがそもそも防ごうとした最終戦争の引き金になってしまうおそれがあるからだ。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.94

濁る水

 ときとして科学の水は,さらに研究を進めていくと濁ることがある。もっと複雑な状況やそれまで知られていなかった要因が掘り起こされるためだ。しかし,喫煙に関してはそうではなかった。1967年に新しい公衆衛生局長官が証拠を再検討したところ,結論はいっそう明確なものとなった。この報告書の冒頭には,2000件を超える研究が明確に指し示す3つの結果が書かれている。第1に,喫煙者は対応する非喫煙者に比べて短命で,病気がちであったこと。第2に,早く氏を迎えた喫煙者のかなりの割合が,もしタバコを吸っていなかったとすれば,もっと長く生きたはずであること。第3に,肺ガンによって早く死を迎えた人は,喫煙がなければ「実質的には誰も」それほど早く死ぬことはなかったはずであること。つまり,喫煙によって人々が死ぬ。それだけの単純な話だった。1964年以来,初期の報告書の結論に疑問を投げかけるような研究結果は得られていない。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.56

私の科学者たち

 20年以上もの間,彼らは自分が論争に加わったどの問題についても,独自の科学研究をほとんど行なっていなかった。かつては卓越した研究者だった彼らも,われわれの物語の主題に手を染めるようになったときには,ほとんど他人の研究と評判を攻撃するばかりになっていた。実際,どの問題についても,彼らは科学者たちが合意していることとは反対側に立っていた。喫煙は——直接的にも間接的にも——確かに死をもたらす。大気汚染は酸性雨の原因になる。火山はオゾンホールの原因ではない。海面が上昇し,氷河が融けているのは,化石燃料の燃焼によって生み出される温室効果ガスが大気に及ぼす影響が増大した結果だ。しかし,マスコミは何年もの間,彼らを専門家として扱い,政治家は彼らの言い分に耳を傾け,何も行動を起こさないことを正当化するために彼らの主張を利用した。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領[シニア]などはかつて,彼らを「私の科学者たち」と呼んだほどだ。現在の状況はいくらかましになっているが,彼らの意見や議論はいまでもインターネットやトークラジオ,さらには議員たちによって引用され続けている。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.29

ゴルトンの興味は

 現場指紋に無頓着であったのはむしろ,指紋法の父とでも言うべき,ゴルトンの方だった。「手の圧力がガラスや金属のつるつるした表面に潜在的なイメージを残すことは良く知られている」。ゴルトンが1892年の著作『指紋』において現場指紋に言及するのは,フランスのルネ・フォルジョ(Rene Forgeot, 1865-1916)による潜在指紋の浮かび上がらせ方を紹介しながらこのように述べた前後の,わずか1頁強のことにすぎない。指紋の遺伝については,丸々1章を割いて,20頁以上にわたって詳述されているのとは対照的である。翌年彼は『不鮮明な指紋の解読』と題した小冊子を刊行するが,そこにおいて検討されているのも,過去に採取された不鮮明な指紋の解読の仕方であって,犯罪現場などに偶然残された指紋が問題とされていたわけではなかった。指紋の分類法について論じた1895年の『指紋論』を最後に,指紋についての積極的な発言を行なわなくなったゴルトンは,結局のところ現場指紋の問題に一度も本格的に取り組むことはなかったのである。ゴルトンにとって指紋とはあくまで,犯罪記録を分類するための指標であるか,さもなければ種や遺伝の研究をするための手掛かりであり,後者の利用法に可能性が乏しいことが分かると,指紋の研究はゴルトンにとって「片手間(spare time)」に行なうべきものにすぎなくなってしまう。

橋本一径 (2010). 指紋論:心霊主義から生体認証まで 青土社 pp.141-142

検証不可能なもの

科学ってのは実証主義だろ、と先輩は言う。
「でもな、人間には実証できないものの方が多いかもしれない。例えば、見届けるのに千年の時間がかかるような実験があったとして、その実験結果は予測することしか出来ない。実証は無理だ」
亀にやって貰うしかないなと言って先輩は笑う。僕は、笑わずに聞く。
「十万年に一回起きる自然現象は、観測出来ないぜ。きっちり十万年目に、正確に、必ず同じように起きる現象であっても、そりゃ人類にとっては今のところたった一回二回のことなんだし、偶然ということになるだろう。一万年だって大差ないぜ。一万年に一度起きる現象だって、あるかもしれないだろ」

京極夏彦 (2012). 幽談 メディアファクトリー pp.189

病的科学

 1932年に分子膜の研究でノーベル賞を受賞した偉大な化学者,アーヴィング・ラングミュアは,1934年,デューク大学の心理学者J.B.ラインのESP(超感覚的知覚)研究の論文を読んだ。ラングミュアは,自身が呼ぶところの「病的科学——事実でないことがらの科学」に,ESPがあてはまることに興味をおぼえた。
 「ESPの実践者はウソつきではない」とラングミュアは論じた。「かれらはただ,自分自身をだましているだけだ」と。ラングミュアにとって,ESPはまぎれもなく病的科学の典型であった。
 ラングミュアは,病的科学の特徴として「証拠としてあげられたデータが,つねに検出可能な限界ぎりぎりの微量でしかない」ことを指摘した。これはどういう意味かというと,カクテルパーティのたとえ話を思い出してもらいたい。「検出可能な限界ぎりぎりの微量」とは,周囲が騒がしく相手がなにをいっているのかほとんど聞きとれない状態で聞きとった話を指す。そうした状況では,相手がいったことを簡単に誤解してしまう。
 「コインに思いをこめてトスすれば,オモテが出るかウラが出るかを左右できる」と主張する人間がいるとしよう。報告書に記されている成功率は,50パーセントでなく51パーセントであろうことは容易に想像がつく。
 そうした単なる偶然による平均値との差が,予想された範囲にすぎないことを合理的に納得するためには,気が遠くなるほど何回もコインを投げる実験をくりかえさなければならない。だが,そこでまた新たな問題が生ずる。実験に設計上の欠陥があるとすれば——コインのオモテとウラがわずかに非対称であったため,オモテのほうがでやすかったら——多数の実験をおこなった結果はまったくちがうものになる。実験をなにより重視する実験主義者が,51パーセントという成功率を測定したら,まず実験の不備を疑うだろう。実験手順のどこかに欠陥があったにちがいないと,必死になってミスをさがそうとするだろう。しかし,実験を軽視する人々は,51パーセントという実験結果をそのままうけいれ,実験の欠陥をさがそうとはしない。そして,「人は意志の力でコインの裏表を決定できる」という結論をだす。だからこそ,わずかな統計上の賽に基づいた科学的主張にはなんの重みもないのである。

ロバート・L・パーク 栗木さつき(訳) (2001). わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス 主婦の友社 pp.89-90

文明の段階2

 文明がその周囲の大規模な世界を操作する能力を考えることによって,文明の「タイプ」を立ててきた。これはなかなか難しい操作である。膨大なエネルギー資源を必要とするし,間違ったことになっても後戻りしにくい。どうしても重力がかかるし,例外なくすべてに作用する自然界の力として知られているのはそれだけなので,そのスイッチを切ることもできない。そこで,実用的には,世界の操作は大きい方ではなく小さい方に広げた方が,費用対効果はずっといいということがわかった。今度は,テクノロジー文明の分類を,小さな存在を制御する能力に従って,タイプI-,タイプII-というように,下に向けて行ない,タイプΩ-まで広げてみよう。これらの文明は,次のように区分される。

 タイプI- 身の丈程度の大きさの対象を扱える。構造物を築き,鉱石を掘り,個体を結合したり壊したりできる。
 タイプII- 遺伝子を操作し,生物を作り替えたり開発したりし,自身の部分を移植したり交換したりし,自分の遺伝子コードを読み取り,操作することができる。
 タイプIII- 分子と分子結合を操作し,新しい素材を創造できる。
 タイプIV- 個々の原子を操作して,原子規模のナノテクノロジーを創出し,複合的な形態の人工生命を創出できる。
 タイプV- 原子核を操作し,それを構成する核子を操作できる。
 タイプVI- 根本的な素粒子(クォークとレプトン)を操作し,素粒子の集団に組織だった複合性を創出できる。

 最終的には

 タイプΩ- 空間と時間の基本構造を操作できる。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.222-223
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

文明の段階

 1960年代,地球外知的生命体(ETI)を探索するというアイデアは,潜在的には天文学的観測の新技法がたくさん使えたものの,まだ新奇なものだった。ロシアの天文物理学者ニコライ・カルディシェフは,進んだETIを,そのテクノロジーの能力に応じて,タイプI,タイプII,タイプIIIの3つに分類することを唱えた。この文明の段階は,おおまかに言うと,次のように分かれる。

 タイプI 惑星を造りかえたり惑星環境を変えたりすることができる。今の地球文明が用いているのと同じエネルギーを通信に用いることができる。
 タイプII 太陽系を造りかえることができる。今の太陽と同等のエネルギーを恒星間通信に用いることができる。
 タイプIII 銀河を造りかえることができる。我々の知っている法則を用いて観測可能な宇宙全体にわたって信号を送ることができる。今の天の川銀河と同等のエネルギーを,恒星間通信に用いることができる。 

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.215-216
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

衰え

 科学者がアイデアを出すのにいちばん脂がのっている時期にあり,新しい結果がどんどん出てくるとすると,その黄金期が終わるなどとは思いたがらず,終わることはありえないと思うことになるだろう。自分が中心的な役割を果たしている新しい急速な変化の時期が,旧理論の放棄から出てくる直接の結果である場合には,その思いは強められるものだ。逆に,科学者の想像力が衰えつつあれば,自分の能力の衰えをいちばん合理化し安心させてくれることは,その分野全体がもう成果があがらなくなりつつあり,新しい発見という収穫が着実に減りつつあり,いつかすべて枯渇してしまうかもしれないと思うことである。自分の人生のパターンが科学全体の歩みの鋳型であると想像することはたやすい。奇妙なことに,この傾向は,科学における創造的活動のレベルと相関している必要はない。実際,負の相関になっていることもある。かつて活動的だった研究者は,自分の力が衰えているという現実を,その分野が他の人々によって活発に推進されているときにこそ強く感じることがある。ある分野のかつての指導者には,この前進の方向全体に強く反対するという形でその前進に反応する傾向がある。彼らがかつて科学界の世論に逆らって進むことで重要な前進をなしたとしても,これまでと同じことを続けたいと思う傾向が必ずあって,それは証拠の力とはほとんど無関係である。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.193
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

飛躍

 複合的な構造物には,そこを越えると突然複合度が飛躍するようなしきいがあるらしい。人の集団を考えてみよう。1人の人間でも多くのことができる。そこにもう1人加われば,さらに関係ができる。しかし徐々に少しずつ人が増えると,複合的な相互関係の数は膨大になる。経済システム,交通システム,コンピュータ・ネットワーク,どれもすべて構成する部品の間にできるつながりの数が増えるとともに,それらの特性に突然飛躍が生じる。意識は,脳のような連結した論理ネットワークで非常に高度な複合性に達したときに飛躍的に発現する,最も特異な特性である。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.126
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

問題科学

 科学者だけが科学の将来の歩みを定めるわけではない。彼らの活動が高価になり,国家の技術や軍事に直接結びつかなくなれば,科学者を引き続き支えるかどうかは,社会が当面している他の大問題によって決まることになる。気候の問題があれば,気象学者や宇宙科学者の方が,素粒子物理学者や金属学者よりも,政府の資金提供部門から有利なはからいを受けることになる。将来,「問題科学(プロブレムサイエンス)」と呼ばれるようなもの——人類の生存と福利を危うくする環境,社会,医療などの大問題を解決するのに必要な研究——が発達して,注目の的になり,豊富な資源を割り振られることになるかもしれない。人類の歴史全体を通じて,戦争の脅威があり,また実際に戦争が存在したことが,科学や数学の特殊な領域に緊急性と注目をもたらした。将来はその緊急性の焦点が,我々の過去の行動の副産物や,自然界における気候や生態のやっかいな傾向の影響に向くかもしれない。非常に長い目で見れば,危険度の低い災害は,それに対してつねに防御していなければ,ほぼ確実に起きる。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.58
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

先行研究

 ところが,ここにも落とし穴がある。人類が誕生してから何万年も経過しているのに,あなたが職場で思いついた仮説を今まで誰も思いつかなかった,なんて言い切る自信はあるだろうか?
 僕はよく真夜中に,役所や公務員に関する仮説を思いついては「こんなアイディアを思いつくのは俺だけに違いない,一刻も早く,論文にして発表しなければ……」と思ったものだが,そのアイディアのほとんどは,他の誰かがすでに手をつけていた。
 何を言いたいかと言えば,研究のアイディアでは「本邦初」なんていうものは少ないということだ。珍しい!と思ったものでも,過去に誰かがやっていることの亜種であることが大半だ。つまり,研究や論文には先祖がいるということなのだ。その先祖のことを「先行研究」という。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.134

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