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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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専門家対アマチュア

 邪馬台国ブームには,『まぼろしの邪馬台国』以来,「専門家」に対するアマチュアの反逆という側面があった。「専門家」の知識よりもアマチュアの直感こそが真実への道,ということで,その傾向は,近代科学批判とも容易に結びつきうるものである。
 また,その側面は本来は半権威主義に根ざすものだったはずだが,「専門家」を敵に回して互角に戦う(かに見える)アマチュアを支持するあまり,むしろその人物の方を権威に祭り上げるという転倒さえ生じた。

原田 実 (2009). 邪馬台国と超古代史 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.63-82
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驚くべき事実

 一般大衆は,1990年代に気候科学者を最も驚かせた新事実にほとんど気づいていなかった。最初のショックは,グリーンランドの氷の大地の中央からだった。アメリカとヨーロッパの新たな共同研究プログラムを実施するという当初の希望は挫折して,それぞれのチームが別々の穴の掘削にとりかかった。だが,両方のコアに見られる現象は基盤岩の状態のせいによる偶然ではなく実際の気候の影響を示すはずと考えられるように2つの穴を適度に離して掘るという決定により,競争は協力に変わった。2本のコアは,その大部分にわたって驚くほど正確に一致していた。コアの比較から,気候はほとんどの科学者が想像していたよりも急速に変化しうるということが説得力をもって示された。
 1960年代には何万年もかかると信じられ,1970年代には何千年もかかると信じられ,1980年代には何百万年もかかると信じられていた温度の上昇下降が,わずか数十年で起こりうるということがいまや発見されたのだ。最終氷期の間に,グリーンランドではときどき,50年足らずの期間で7度も温度が上昇していた。新ドリアス期に入ったときには,北大西洋全体の気候の壮大なシフトがわずか5層の雪の中に見られた。つまり5年間だ!証拠は疑わしいとして片づけることはもはやできなかった。少なくとも1つの解釈が手元にあったからだ。計算機モデルは,北大西洋循環が2つの状態の間を急激に変化する可能性を証明したのだ。同時に,ほかの大陸からのさまざなな種類の地質学的証拠により,新ドリアス期は北大西洋周辺だけでなく地球全体に気候変化をもたらしたことが示された。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.228-230

実験できないから

 1980年代末期までに,情報通の人々は気候変化の問題が最も簡単な2つの手段のいずれによっても解決できないと理解していた。科学者は,心配すべきことなどなにもないと証明してくれそうにない。そして,気候が正確にはどのように変化するかを証明して何をすべきかを教えてくれることもなさそうだった。もっと研究費を費やすことは,もはや十分な対応ではなかった(いままで十分に増やされたことがあったわけではないが)。科学者たちは,優れた研究で克服できそうな単純な無知によって制限されているわけではなかったからだ。医学の研究者なら1000人の患者にある薬を与えて別の1000人にほかの薬を与えることで薬の効果を突き止められるが,気候科学者には2つの地球の温室効果気体の濃度を変えて比較することなど不可能だった。彼らにできる最善の方法は,精巧な計算機モデルを作成してガスの濃度を表す数値を変えることだ。それでは,あらゆる人々の生活をどのように改革すべきかを文明世界に納得させるための説得力ある手段とはとても思えなかった。


スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.201-202

ランダムの中の法則

 大多数の科学者は,気候がカオス的システムの特徴をもっているという点には同意するものの,完全にランダムなものだとは思っていなかった。竜巻がある特定の日にテキサス州のある特定の町を襲うと予測することは,原則としておそらく不可能だろう(もちろん1匹の罪深い蝶のせいではなく,初期の無数のごく小さな影響の正味の結果だ)。それでも,竜巻の季節は予定通りにやってくる。このような種類の一貫性は,1980年代に構築された計算機シミュレーションで現れた。GCMを異なる初期条件から始めて多数実行してみると,それぞれの地域,それぞれの季節について計算される気象パターンにはランダムな変異が見られる。しかし,年平均の全地球平均の温度に関しては,どのモデル実行も同じような結果に集中する。そしてどのモデルも,次世紀については何らかの温暖化を示していた。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.151

気象衛星

 気象「偵察」衛星のための衛星の使用は早くも1950年の機密報告書ですでに提案されており,地球規模の気象をモニターする公共衛星の第1号は国防総省のプログラムのもとでつくられ,運用が続けられた。これらのテクノロジーは徐々に公開の民生用プログラムに移されていった。計算機モデルの作成者たちが,実際の大気に関するはるかに優れたデータなしでは進歩が望めない状態に至ったとき,1969年に打ち上げられたニンバス3号がその答えとなった。この衛星の赤外線検出器は,昼夜問わず,海,砂漠,ツンドラの上のさまざまなレベルの大気と温度を一緒に測定することができた。またもや科学は,軍と民間の実用的な目的のために使われた資金から利益を得ていたのだ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.140

気象のモデル化

 特に影響力をもっていたのはカリフォルニア大学ロサンゼルス校のグループで,そこではイェール・ミンツがもう1人の東京大学卒業生,荒川昭夫を,数学的な仕事を担当する助手として採用していた。1965年,ミンツと荒川は,スマゴリンスキーと眞鍋のモデルのように,現実世界にいくらか似た特徴をもつモデルをつくり出した。もう1つの重要な取り組みが,1964年にコロラド州ボールダーの国立大気研究センター(NCAR)で開始された。そのリーダーを務めたのはウォーレン・ワシントンと,さらにもう1人の東大卒業生,笠原彰だった。国立科学財団から資金を供給され,複数の大学からなるコンソーシアム(共同体)によって運営されたNCARは,気候モデリングのための世界有数のセンターとなった。だが,先頭を走っていたのは眞鍋のモデルで,気象局のスマゴリンスキーの研究室(のちに地球流体力学研究所と改称されてプリンストン大学に移った)のものだった。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.138

分割できること

 科学のすばらしい点は,すべてを一度に理解する必要はないということだ。科学者は,たとえばビジネスや政治に関する決断を下さなければならない人とは違う。科学者はあるシステムを,理解できる見込みがあるような単純なものに分割することができる。とはいえそれは,その仕事に一生を捧げた場合の話だが。大勢の人々がそのような研究方法をとってきたわけで,眞鍋淑郎もその1人だ。「スーキ」という愛称で呼ばれる眞鍋は,第二次世界大戦直後の困難な時代に東京大学を卒業して気象学にキャリアを求めた青年たちの1人だった。野心があり独立心旺盛な彼らは,日本国内で世に出る機会がほとんどないまま,結局はアメリカに渡って業績をあげることになった。1958年,眞鍋はジョン・フォン・ノイマンが設立した計算機モデリンググループへの参加を要請された。このグループは1955年に現実的に見える局地的気象をモデルでつくり出すという画期的成果をあげ,その後フォン・ノイマンは野心的な目標をもつプロジェクトのために政府の資金を獲得していた。彼のチームは,流体力学とエネルギーに関する基本的な物理方程式から直接に気象を導く,前地球の3次元の大気の大循環モデルを組み立てようとしていた。この取り組みは,1948年にワシントンDCの米国気象局でジョゼフ・スマゴリンスキーの指揮のもとで開始されていた。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.136-167

努力が実を結ぶとき

 市民(この場合は科学者だが)のグループが,政府はある特定の問題に取り組むためにさらに多くのことをすべきだと判断したとき,そのグループは困難な課題に直面する。市民がさくことのできる努力の量は限られていて,官僚はお役所的なやり方で凝り固まっているからだ。何かを達成する——たとえば,政府の新たな計画をもたらす——ためには,人々は協調したはたらきかけを展開しなければならない。関心のある市民は数年間にわたって問題に取り組み,大衆に広く伝えるとともに,同じ意見をもつ官僚との協力関係を作りださなければならない。この官僚機構内部の協力者は,委員会をつくり,報告書の草稿を書き,政府と議会に妨げられることなく法律が制定されるよう取りはからわなければならない。変化に脅かされると感じる特別利益団体からの妨害があるだろうし,プロセス全体が疲弊して失敗に終わりやすい。一般的には,そのような努力が実を結ぶのは特別な機会を利用することができたときだけだ。たいていそれは,ニュースが一般大衆の不安を大いにかき立てて,それゆえに政治家の注意を引いた場合である。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.122-123

火星

 マリナーが火星に到着する前に,セーガンは大胆な予測をしていた。この赤い惑星の大気は,2種類の安定した気候状態のどちらにも定まりうるのではないかと提案したのだ。厳寒で乾燥したいまの時代のほかに,もう1つのより穏やかな状態があって,そこでは生命を維持することすらできるかもしれない。この予言は,塵がおさまったあとにマリナーが地球に送ってきた火星表面の鮮明な画像によって実証された。かつて一部の天文学者が想像した運河はどこにも見えなかったが,地質学者は,はるか昔に巨大な洪水が惑星の表面を引き裂いていたことを示すはっきりした印をたしかに目にした。セーガンと共同研究者による計算から,火星の気候システムのつりあいは,比較的ささいな変化によって1つの状態から別の状態,さらにまた別の状態へと切り替わるようなかたちのものだということが示唆された。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.113-114

実験できない

 惑星は,科学者がさまざまな圧力や放射を与えてその反応を比較できるような実験室の物体ではない。私たちには1つの地球しかなく,それが気象科学をむずかしくしている。たしかに,過去の天気が現在とくらべてどれだけ違うかを調べれば多くのことを学べる。だが,これは限定された範囲の比較なのだ——違う品種のネコだが,それでもやはりネコだ。ありがたいことに,わが太陽系は完全に違う種が含まれている。根本的に異なる大気をもつ惑星だ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.111

シミュレーション

 1961年,ある偶然の出来事によってこの問題に新たな光が投げかけられた。科学における幸運は,適切な時と場所に居合わせた適切な知性の持ち主に訪れるものだが,それがエドワード(エド)・ローレンツだった。彼はマサチューセッツ工科大学に在籍して,気象学と数学を結びつけようとしている新しいタイプの研究者の1人だった。ローレンツは単純な計算機モデルを考案して,天気パターンの見事な模擬物をつくり出していた。ある日彼は,計算をさらに長く実行するために,ある特定のところからやり直すことにした。計算機は数値を少数第6位まで出したが,プリントアウトの量を節約するためローレンツは数値を切り捨てて,少数第3位までしか印刷しなかった。彼はこの数値を入力して計算機に戻したのだ。シミュレートされた時間で1か月ほどあとから,天気パターンがもとの結果からそれていった。少数第4位の違いが何千回もの算術演算の中で増幅して,計算全体に広がり,まったく新たな結果をもたらしたのだ。
 ローレンツは驚いた。彼のシステムは現実の気象を表すと思われていたからだ。少数第4位の切り捨てによる誤差は,温度または風速を1分ごとに変化させうる数多くのささいな要因のいずれとくらべても,ちっぽけなものだった。ローレンツは,このような違いは数週間後の天気に関するわずかに異なる解につながるだけだろうと推定していた。ところが,まるで偶然のように嵐が予報に現れたり消えたりしたのだ。
 ローレンツはこのことを頭の隅に追いやったりせず,独創的な深い分析に取りかかった。1963年,彼は毎日の天気を予報するために使われうる方程式のタイプに関する検討結果を発表した。「どの解も不安定だということが判明した」と彼は結論を下した。したがって,「正確な超長期的予測は存在しないものと思われる」という。数日,あるいは最大で数週間を超えると,初期条件の微細な差異が計算を支配してしまう。ある計算で1週間後の嵐が予測されても,次に計算すると快晴になるかもしれない。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.81-82

時代とともに

 人間のテクノロジーは地球物理学的な意味をもつ力で,地球全体に影響をあたえることが可能なのだろうか?まさかそいんなはずはない,と1940年当時の大半の人々は考えた。きっとそうだ,と1965年当時の大半の人々は考えた。このどんでん返しの原因は,地球温暖化について科学者が知っていることに何らかの変化があったからではない。人間が及ぼす影響に対する一般大衆の懸念が高まったのは,テクノロジーと大気の間にもっと目に見えるつながりが存在していたからだ。その1つは,大気汚染の危険に対する認識が増したことだ。1930年代,市民は工場から立ちのぼる煙を見て喜んでいた。汚れた空は仕事があることを意味していたからだ。だが1950年代になると,工業化した国々で経済が急成長して平均寿命が延びるにつれて,歴史的な転換が始まった。貧困についての悩みが慢性的な健康状態についての悩みに変わっていったのだ。医師は,大気汚染が一部の人々に致命的な危険をもたらすことに気づきつつあった。それと同時に,石炭を燃やしている工場から出る煙に加えて,急増する自動車の排気ガスが登場した。1953年に多数のロンドン市民を窒息死させた「殺人スモッグ」は,私たちが空気中にまき散らしているものが実際に数日間で数千人の人々を殺すことが可能だという事実を証明した。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.54-55

異分野

 コミュニケーションをさらに困難にしたのは,異なる分野には異なる種類の人間が引き寄せられているという事実だった。統計重視のオフィスに行けば,よく整理された棚や引き出しがすらりと並び,そのなかには数字が整然と記された書類が積み重ねられているはずだ。のちの時代ならば,書棚の中身がコンピュータのプリントアウトになっているだろう。プログラムづくりに費やした無数の時間の成果だ。気候学者はどういう種類の人間かというと,おそらく少年時代は自宅に自分だけの測候所を作り,毎年毎年,日々の風速や降水量を細かく記録していたはずだ。海洋学者のオフィスに行けば,七つの海の岸辺で見つけた珍品がごちゃごちゃと山積みになっているだろう。ある経験豊富な研究者が船上で波にさらわれて間一髪で溺死を逃れたときの話など,冒険譚を聞かせてもらえるかもしれない。海洋学者は「潮の香りのする」タイプになりがちだ。快適な我が家から遠く離れた長い航海も慣れっこで,歯に衣着せぬ性格でときには自己中心的にふるまったりする。
 これらの違いは,使用するデータの種類といった実に基本的な事柄の多様性と一致していた。たとえば気候の専門家は,世界中の何千もの測候所から技術者が標準化されたデータを報告してくるWMOのネットワークに頼った。海洋学者は個人で観測機器を組み立てて,わずかな調査船のうちの一石の船側から海に下ろしていた。気候学者の天気は100万個の数値をもとに作成されたもので,海洋学者の天気——横なぐりのみぞれか,執拗な暖かい貿易風——とはまったく異なっていた。技術的な相違すら存在した。ある気候の専門家も1961年に次のように述べている。「たとえば気象学,海洋学,地理学,水文学[地球上の水の生成・循環・性質・分布などを研究する地学の一部門],地質学および雪氷学,植物生態学および植生史学など,あまりにも多数の分野——これらはほんの一部だ——がかかわっているという事実により……十分に確立された共通の定義や方法を用いて研究することが不可能となっている」

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.46-47

新規開拓

 20世紀半ばまでは,2つ以上の分野において重大な仕事を成し遂げる科学者は少なかった。必要な知識はあまりにも深くなり,技術はあまりにも難解になっていた。別の分野の知識に精通しようとすると,そちらにエネルギーが割かれて,キャリアが危うくなってしまう。「ある分野の学位をもった状態で新たな分野に足を踏み入れるのは,ルイスとクラークが(ネイティブアメリカンの)マンダン族の野営地に入り込むのと似ていないこともない[ルイスとクラークはルイス=クラーク探検隊のリーダー。同探検隊はルイジアナ購入地の調査のためにジェファソン大統領によって派遣され,1804〜06年に実施された]」と述べたジャック・エディーは太陽物理学者で,気候変化の研究に取り組んでいた「そこではよそものになる……手持ちの学位はなんの意味ももたず,無名の存在だ。すべてをゼロから学ばなければならない」

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.46

気象学

 気象学は特に優遇された。空軍は当然のことながら風に関心があり,とりわけ気前よく支援していたが,その他の軍機関および民間機関も,いずれ天気予報の精度を向上させるかもしれない研究を奨励した。毎日の予報のほかに,意図的に天気を変えることを夢見る専門家もいた。ヨウ化銀の煙によって雲に「種をまく」ことで雨を降らせる計画が1950年代に世間の注目を集め,官僚や政治家たちもこの件を気に留めた。アメリカ政府は,時宜を得た雨による農業の向上を期待して気象学のさまざまな研究に資金提供することを迫られた。天気を理解している国家は,干ばつまたはやむことのない雪——まさに「冷戦」!——によって敵を全滅させることも可能かもしれない。少数の科学者は,雲の種まきなどの手段による「気候学的戦争」は核爆弾すら上回る強大な力をもつようになりかねないと警告した。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.33

ジョン・ティンダル

 正しい推論を最初に明快に説明したのは,イギリスの科学者ジョン・ティンダルだった。ティンダルは大気がどのようにして地球の温度を制御するのかあれこれ考えたが,当時の科学者の大半が信じていた「すべての気体は赤外放射に対して透明だ」という意見によって邪魔されていた。1859年,彼はこの意見を実験室で確かめることに決めた。大気の主成分である酸素と窒素は実際に透明だということが確認された。そこで実験をやめようとしたとき,石炭ガスを試して見ることを思いついた。これは,石炭を加熱することによって生産される人工的な気体で,主な成分はメタンで,照明のために使われていた。実験室にパイプで送り込まれていたので,ちょうど手近にあったのだ。ティンダルは,このガスが熱戦に対して木の板と同じくらい不透明だということを知った。こうして産業革命は,灯用ガスの炎というかたちでティンダルの実験室に侵入し,地球の熱収支に対する重要性を宣言したのだ。ティンダルはさらにほかの気体を試していき,CO2も同じように不透明だということを知った——現在では温室効果気体と呼ばれるものだ。

スペンサー・R・ワート 増田耕一・熊井ひろ美(訳) (2005). 温暖化の<発見>とは何か みすず書房 pp.9-10

アポロ陰謀論

 アポロ陰謀論を信じている人々に共通の特徴なのだが,ごく初歩の宇宙開発の知識もまったく持ち合わせていない。そのため,何も矛盾がない話に,ありもしない矛盾を勝手に見つけて疑い出すことになる。
 いい例が「なぜアポロ11号以来,アメリカは月に行かないのか?」というものである。これはネット上の掲示板や質問箱などで,もう何年も質問と回答のループが繰り返されている疑問だ。この疑問,実は疑問そのものが間違っている。アポロ計画で月面着陸したのは11号だけではない。11号,12合,14号,15号,16号,17号の6回の着陸が行われた。つまりこの疑問に対する回答は「11号以降もアポロ計画は続いていた」である。この程度のこのは一般向けの図鑑にも書かれているし,ネットで検索すれば数十秒で手に入る知識である。しかし現状では,残念ながら「アポロ 月着陸」で検索するとたいてい陰謀論が引っかかってくる。

ASIOS・奥菜秀次・水野俊平 (2011). 検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定 文芸社 pp.240-241

ピックアップ

 多くの人の思い込みに反して,巨大な地震は決して珍しい現象ではない。国連開発計画の報告書に基づく1980年から2000年までの統計では,マグニチュード5.5以上の地震の1年での平均頻度は,高い順に中国2.1回,インドネシア1.62回,イラン1.43回,日本1.14回,アフガニスタン0.81回,トルコ0.76回,メキシコとインドがそれぞれ0.67回,パキスタン,ペルー,ギリシャがそれぞれ0.62回を数えている。以下,フィリピン,イタリア,コロンビア,米国,エクアドル,アルジェリア,コスタリカ,パプアニューギニア,ロシア……といった国々が続くのだが,要は地球全体で考えれば大規模な地震は毎年,何度も起きているのである。
 日本の気象庁も,津波や高波に備えて海外で1ヶ月以内に起きたマグニチュード7以上の地震に関する情報を公開しているが,そこには常に数件が掲示されている。私たちの印象に残っている事例が少ないのは,マスコミもしくは私たち自身の無関心によって忘れ去られた事例が多いからにすぎない。地震兵器の実在を主張する者は,地震兵器が発動した例として,過去の膨大な地震の事例から,好きなものをピックアップできるわけだ。

ASIOS・奥菜秀次・水野俊平 (2011). 検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定 文芸社 pp.93

引用者注:本書は2011年1月31日に発行されており,執筆時に東日本大震災は起きていない。だがおそらく,数年が経過すれば同じ状況となるであろう。

社会の豊かさ

 このように,実験心理学的な検討はそれまでの実験のやり方の不備を修正することを次つぎとくり返して,最終的な結論を導き出そうとする。ああでもない,こうでもないという議論を追っていく研究者は,ときに俯瞰的に事態を捉えることを忘れがちになるので幡多から見れば滑稽かもしれないが,没頭している本人には高揚感が抱ける幸福な時間なのである。余談であるが,一見するとすぐに役立ちそうにもないことに携われる研究者をどれだけ抱えられるかが,真に豊かな社会かどうかのバロメータであると,私は信じている。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.147-148

わかりやすく?

 では研究者による情報発信が成功しているかというと,疑問が残ります。何年も実験と思考を積み重ねてきた研究成果を数百字,あるいは数分で「わかりやすく話す」過程でかなりの情報が抜け落ちてしまうことは十分予想できることでしょう。自分の研究内容を数分で語ることができなければならない,またそのように大学院生を訓練する,というのは研究者の間では定番の教育方法ではありますが,これはあくまでも同業者に対するものです。一般の人に「わかりやすく」話すということは「わかった気にさせる」こととは全く別のことだと思います。やさしくわかりやすくという一次元の価値観で科学研究の情報発信のあり方が評価されるのならば,これは近いうちに知的活動とはかけ離れたものとなってゆくことは明らかでしょう。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.179-180

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