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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

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ケーブルはどこを回っている?

 日本からのインターネットのケーブルは,太平洋からアメリカを経由してヨーロッパに回っており,日本海側にはつながっていませんでした。本来,日本海側からもヨーロッパにつながり,北半球をとりまく「ネックレス」ができていれば,どこか一箇所で何かトラブルが起きても,太平洋経由か日本海経由かどちらかは通信できるので,これは非常に重要です。
 南半球やアジアの国々についても同様のことがいえます。アジアのケーブルには,日本からシンガポールを経由してインドに行きインドから中東に行って,スエズ運河でヨーロッパに行く南回りの回線,およびアフリカに行く回線が物理的にはあります。これが日本を中心に見たときのアジアの生命線となっています。さらに,シンガポールから南下して,インドネシアを通ってオーストラリアに降りていくケーブルも,オセアニア地域,南半球にとっての命綱です。それから,太平洋を経由するケーブルに北回りと南回りがあり,これで日本は世界の中心になるわけです。
 このインフラを保ち,インターネットで有効に利用できることが基盤としての信頼性を作ることに他なりません。しかし,日本のインターネットのヨーロッパや中東アフリカ,インドとのトラフィックは,アメリカを回っているのが現状です。

村井 純 (2010). インターネット新世代 岩波書店 p.155
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周波数帯のおさらい

 短波(HF)は,3〜30メガヘルツの周波数のことで,お財布ケータイなどで使われています。微電力で使うと財布の中に入れておいてもちゃんと使えますが,大きな電力だと遠くに飛ぶ性質があります。したがって,短波ラジオなどとの混信に気をつける必要があります。
 次に,超短波(VHF)は,30〜300メガヘルツを示します。現在はFMラジオやアナログの地上波テレビ放送に使われています。2011年にアナログテレビ放送が終了すると,その「跡地」として新しいサービスでの利用を考えるのもこの周波数です。
 その次は極超短波(UHF)で,300〜3000メガヘルツ(3ギガヘルツ)です。デジタル通信で一番重宝されているのがこの周波数帯です。ほとんどの携帯電話,地上デジタルテレビ放送,無線LANなどがこの周波数を使います。世界で激しく伝播オークションが行われるのもこの周波数です。インターネット関連の技術が現在一番使いやすい周波数で,デジタル技術として普及も大きいため,利用コストは低く,権利価格が高くなっています。つまり地上の無線ビジネスとしては最も価値が高い周波数で,電波割り当ての政策的な議論の焦点はここにあるといっていいでしょう。
 マイクロ波(SHF)は,3〜30ギガヘルツのことで,一部の無線LANでも使っていますが,衛星通信など直進性を生かした利用が進んでいます。30ギガヘルツ以上のミリ波と呼ばれる周波数も,その直進性を生かした,障害物がない場合の通信のための周波数として期待されています。たとえば,高速道路で前後に走る自動車の間の通信,「車車間通信」などは,新しい技術が開発されれば,交通の安全管理にたいへん大きな貢献ができる分野として研究開発が進んでいます。

村井 純 (2010). インターネット新世代 岩波書店 pp.58-60

特殊例だけ注目される

 ここで私が思い出すのは,20世紀初頭の著名な心理学者,E.L.ソーンダイクの言葉だ。動物の知性については誰もが感心するのに,動物の愚行には誰も注意を払わない。犬は毎日と言っていいほど道に迷うではないか。ソーンダイクはそう不満をもらしたあと,このように続ける。「だが,もし犬がブルックリンからヨンカーズまで(およそ40キロ弱の道のりを)無事戻ってきたとなれば,すぐに世間はその話題でもちきりになる。ただニャーニャー鳴いているだけの猫はそこらじゅうにいるのに,そのことを気にとめたり,友だちに手紙で知らせたりする人は誰もいない。でも,猫が外に出たいときの合図としてドアのノブをひっかいたりすれば,それがまるで猫の知性の象徴みたいに本が書かれたりするのだ」。
 これと同じように,けがや病気で自分をまったく治そうとせずにいる動物のことや,実際には何の効果もない「調合薬」を使う動物のことには,誰も触れようとしない。また私たちは,伝統的な生活を営む人々が使う薬の有効性を理想化したり強調したりしがちだ。その一方で,こうした昔ながらの治療法の多くが役に立たないこと,中には病気よりもひどいものがあることを忘れている。

マーリーン・ズック 藤原多伽夫(訳) (2009). 考える寄生体:戦略・進化・選択 東洋書林 p.282
(Marlene Zuk (2007). Riddled with Life: Friendly Worms, Ladybug Sex, and the Parasites That Make Us Who We Are. Orland: Houghton Mifflin Harcourt.)

直観や常識は科学的な結果とズレる

 この物語の教訓の一つは,直観と“常識”はこと科学問題となるとめったに十分ではありえないということだ。ウィルソンの直観は部分的には正しかったことが判明したが,フランクリンの直観もそうだった。しかしもっと真剣な教訓も引き出せるし,そのうちの一つは今日の多くの科学論争とも密接な関係がある。それはリスクの評価にかかわる。ウィルソンは雲がどれだけの電気を含んでいるかをだれも知らないし,尖った避雷針は一挙に多くの電気を引き寄せるから危険があると論じた。この議論は,原子力から遺伝子操作作物にいたるまで,すべてにつきまとう危険についての今日的な議論に,びっくりするほどよく似ている。ロング・アイランドにあるアメリカの新しい巨大加速器——相対論的重イオン衝突器(RHIC)がブラックホールを生み出し,全地球を飲み込むかもしれないなどという主張すらあるのだ。
 新しい加速器に関係している科学者は反論を提出し,そのような破局の危険性は実質的にゼロだと述べたが,私の見るところでは,これは論点を見逃している。だれもリスクが正確にゼロだと言うことはできないし,同様にだれも装置を建設しないリスクが正確にゼロであるとは言えないのだ。未来に待ち受ける未知の破局を回避する唯一の手段が,この装置によって発見されるとしたらどうだろう?
 危険は“無視できる”と主張する科学者はうぬぼれに耽っているのだが,危険は冒すに値しないと開き直っている政治家や圧力団体のメンバーたちも同じだ。人間は進歩するには危険を冒さねばならないというのは真実だが,そのリスクの評価およびそれが冒すに値するかどうかを判断するのは,避雷針の場合のようにしばしば不可能なのだ。

レン・フィッシャー 林 一(訳) (2009). 魂の重さは何グラム?—科学を揺るがした7つの実験— 新潮社 pp.121-122

科学は人間の活動

 科学は今ではもっと冷静な活動であり,このような個人攻撃が過去のものになったのは幸運だった,と考える方があるかもしれないが,それは間違いだろう。科学は今でも人間そのものの活動であり,人間的な感情は依然として大きな役割を演じている。私のもっとも大事にしている記憶の1つは,オーストラリアの研究所に著名な学者がやってきてセミナーを開いたときのものだ。研究所長は訪問者の理論に不賛成で,セミナーがはじまってから5分もすると,最前列にあった席から立ち上がり,大声で「ばかな!」と叫び,出て行ってしまった。後に残された哀れな訪問者は割り当て時間をしどろもどろでやりすごしたのだった。

レン・フィッシャー 林 一(訳) (2009). 魂の重さは何グラム?—科学を揺るがした7つの実験— 新潮社 p.87

科学者が確証しようとするとき

 科学者が,ある理論が間違っている可能性を探すのではなく,その理論を確証しようとするとき,そこには1つしか結果はありえない。ブルームの場合もそれで,彼はニュートンの理論を“証明”したと意気揚々と結論したが,実際のところ数多くの可変な因子を計算に導入しているため,彼の実験結果はどんな理論にも適合させられただろう。

レン・フィッシャー 林 一(訳) (2009). 魂の重さは何グラム?—科学を揺るがした7つの実験— 新潮社 p.80

科学には努力が必要

 科学的知識の収集が特別だというのは,それが私たちの自然な直観から逸脱しているというだけではない。それに要する特別な種類のコミュニケーション——ある人間の心がどうはたらくかだけでなく,ほかの人間の心が伝えられた情報に対してどう反応するか——もそうである。科学の発展は,きわめて奇妙な形の社会的相互作用によってもたらされる。そこでは,私たちの動機づけシステムのいくつか(不確かさを減らしたいという欲求,ほかの人々を唸らせたいという願望,そして創意工夫に富んだ美の魅力)が,進化的背景に合ったものとはまったく異なる目的のために用いられる。言い換えると,科学の営みは,認知的にも社会的にも,きわめてありそうもないものであり,これこそが,科学が少数の人間によって,限られた数の地域において,そして人間の長い進化の歴史にあってはほんのごく最近になって発展した理由である。哲学者のロバート・マコーリーは,これと同じような論拠に立って,人間の心にとって宗教が「自然」であるのに対し,科学はまったく「不自然」だ,と結論している。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.417-418
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

偽のピークに登る危険性

 しかし,いいことばかりではありません。最大の問題点は,発見的探索によって得られた解には「正しい」最適解であるという保証がないことです。網羅的探索では解の探索空間の中をくまなく調べ尽くすので,それによって得られた最適解は文句なしに「正しい」最適解です。一方,発見的探索は探索空間の一部分をかいつまんで調べるだけですので,悪くすると「正しい」最適解を見つけそこない,大域的に見れば最高峰ではない丘(局所解といいます)に登ってそこで探索を早々と切り上げてしまう危険性があります。
 誤解しないでいただきたいのは,ここでいう「正しい」という表現は,得られた解が歴史的な真実であるかどうかではなく,探索空間の中の最高峰(大域的最適解)に到達できているかどうかにかかっています。たとえ発見的探索によって首尾よく「正しい」最高峰(すなわち大域的に最適な系統樹)に登ることができたとしても,その最高峰が歴史的に「正しい」系統樹(すなわち真実の系統発生史)であるかどうかは別問題ということです。
 実際には,歴史的に「正しい」かどうかの前に,探索地形の上で「正しい」最適系統樹に到達したかさえわからないという点が,発見的探索の抱える根本的問題と認識されています。
 発見的探索は別名「山登り(hill-climbing)法」とも呼ばれています。最高峰を目指して探索を繰り返す行為を登山にたとえた,実に的確なネーミングです。実際,発見的探索が大域的最適解を導けるかどうかは,与えられたデータのもとで,系統樹の探索空間の“地形”がどのようになっているのかに大きく依存します。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.202-203

典型的な科学とは

 いわゆる「自然科学」ということばを耳にしたとき,私たちは“白衣を着て実験室内で試験管を振っている”ステレオタイプな科学者をつい連想します。もちろん,そういう典型的な自然科学は実際にあります。実験系の物理学や化学や生物学のラボ(実験室)ではおそらく大方のイメージ通りの科学者が実在しているはずです。
 そのような典型科学は,次に挙げるいくつかの基準を設けることにより,科学的知識を獲得しようとします。
 第1に,「観察可能」であること——ある現象に関する仮説なり理論をテストするためには,それが直接的に観察できなければならないという基準。
 第2に,「実現可能」であること——ある化学反応(炎色反応のような)や物理現象(重力のような)に代表される自然界の過程に関しては,実験することによってはじめて科学的な知見が得られるという基準。
 第3に,「反復可能」であること——ある自然現象に関する知見が正しいものであれば,同じ実験結果はいつでもどこでも誰がやっても確実に得られるという基準。
 第4に,「予測可能」であること——自然現象に関するある主張から導かれる予測を現実のデータに照らしてみることにより,その主張の正しさがテストできるという基準。
 第5に,「一般化可能」であること——現象に関する普遍的な法則性(万有引力の法則のように)として定式化できるという基準。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.38-39

学説は存在し続ける

 ひとつだけ確かなことがあるとすれば,いったん提唱された学説や仮説は,たとえ“真実”であろうが妄言であろうが,消しゴムで消すように歴史から消滅することはないということだ。それらは注目されるか否かにかかわりなく,科学史の年表の中にじっとそのまま存在し続ける。いちどは忘れ去られたとしても,何かの偶然で再発見されることもあるだろう。忘却された“良き学説”が幸運にも掘り出されればまだしも,“悪しき学説”に予期せず遭遇してしまったらわが身の不運をかこつしかない。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 p.165

壊滅的な地震の理由はない

 したがって壊滅的な地震は,事実上まったく理由なしに発生する。そのような地震がなぜ起こるかなら説明できる。地殻が臨界状態に調整されており,大変動の瀬戸際に立っているからだ。しかし,なぜ1811年のニューマドリッドの地震があんなに大きかったのかを説明するには,地震の発生後になって,どの岩石がどの順番で滑ったかという物語の形で語る以外に方法はない。初めに滑った岩石がたまたま,非常に大きな見えざる手に乗っていたということだ。この見えざる手は,断層帯全体にまで届いていたことになる。巨大地震は,どんなときにでも,どんな断層帯ででも起こりうる。コロンビア大学の地震の専門家クリストファー・ショルツは,次のような独創的な言葉を記した。「地震は,起こりはじめたときには,自分がどれほど大きくなっていくか知らない。地震に分からないのなら,我々にも分からないだろう」。

マーク・ブキャナン 水谷 淳(訳) (2009). 歴史は「べき乗則」で動く:種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 早川書房 p.117

地震の前兆現象は信頼できない

 地球物理学者は1世紀以上にわたって,これと同じような,大地震の直前に起こる特別な状況を示す徴候を探しつづけてきた。大地震の少し前に必ず起こる特定可能な出来事があれば,それを地震の前兆として使えるかもしれない。考え方としては,地震は「自分がパンチを繰り出すことを前もって電報で知らせていて」,我々が必要なのはその電報をいかに読むかを知ることだ,というものである。この理にかなった方法には1つだけ問題点がある。それは,まだ誰も信頼できる前兆を発見できていないことだ。研究者のなかには,大地震の直前に地中を進む奇妙な電流をとらえたり,地下水位の突然の変化に気づいたりした者もいる。あるいは,イヌやウシが奇妙な行動をとるのを見つけたり,首をかしげるような天気の変化を目撃したり,不思議な光を見て驚いたりした者もいる。これらの出来事が起こった可能性は,どれも大きい。しかしこうした現象が,すべての,あるいはほんとすべての大地震の前に起こってくれなければ,信頼できる前兆現象とは言えない。ゲラーの1997年の総説には700以上の論文が引用されており,その多くで何らかの前兆現象が特定されたという主張がなされている。しかしゲラーは残念ながら,その1つたりとも信頼できるものはないと結論づけている。

マーク・ブキャナン 水谷 淳(訳) (2009). 歴史は「べき乗則」で動く:種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 pp.49-50

カオスとバタフライ効果

 科学者でない人々は,バタフライ効果を,カオスという概念を端的に表したものととらえているようだ。しかしバタフライ効果としてよく知られている話は,残念ながら少々誤解を招くものである。風船の中の分子の運動がカオス的だったとしても,なかで特に変わったことは起きないはずだ。あなたは,中で嵐が巻き起こっている風船を見たことがあるだろうか?風船の中の蝶がいくら羽ばたいても,それが影響を及ぼすことはない。カオスだけでは,なぜ蝶が嵐を起こしうるのかを説明できないのだ。確かにカオスは,なぜ小さな原因が未来の詳細(各分子の位置)を変化させるのかを説明することはできる。しかし,なぜ小さな原因が最終的に大激変につながりうるのかを説明するには,何か別のものが必要なのだ。カオスは,単純な予測不可能性についてなら説明できるが,「激変性」について説明することはできない。

マーク・ブキャナン 水谷 淳(訳) (2009). 歴史は「べき乗則」で動く:種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 p.34

操作的定義

 操作的定義の極端な例としてよく登場するのが,「知能とは知能テストで測定されるものである」という知能の定義である。心理学を初めて学ぶとき,この定義は非常に驚くべきものに感じられる。論理が逆転してみえるからである。つまり,知能を定義してからでないと,知能テストは作れないのではないだろうか。全くそのとおりであるが,「知能」という概念が整理され,知能研究者によってある程度の合意が得られれば,最終的な定義は測定方法によるのがもっとも望ましいのである。それによって,同じ概念が異なった意味で用いられることが回避できるからである。たとえば,数学的能力にすぐれた子供には,特殊な早期教育のチャンスを与えて,才能を開花させたほうがいいという意見があるとする。このときもっとも問題となるのは,「数学的能力にすぐれた子供」の定義である。これをきちんと定義するもっともよい方法は,たくさんの子供に対して全く同一の数学のテストを実施して,たとえば成績上位5%の範囲を「数学的能力に優れた子供」と定義することである。これが操作的定義である。このように,測定方法によって測定対象を定義するということは,極めて有用である。操作的定義は概念の公共性を保証するため,科学の多くの分野で用いられる。たとえば「1メートル」の定義は「メートル原器」という物差しによって定義されている。新行動主義者たちは,もともと物理学分野で提唱されていたこの「操作主義」を積極的に心理学に導入し,心理学で使用される諸概念を洗練させようとしたのである。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.136-137

自然とデザインの見分け

ラシュモア山の例を考えてみてほしい。あなたがラシュモア山のことを一度も耳にしたことがなく,4人の大統領の顔が壁面に刻まれたこの山を偶然に見つけたと仮定しよう。そうした形が偶然によって生じる可能性が極端に小さいことにもとづいて,あなたは,この構造がデザインされたものであることに微塵の疑いも抱かないだろう。しかし,今度は,宇宙人たちがその指導者をたたえるために刻んだラシュモア山の変形版を,偶然に発見したと考えてみよう。あなたはその山を見るまで,宇宙人が実際にどのような外見をしているのか,あるいは彼らが指導者の体のどの部分をモニュメントとして展示したがるかといったことについて,まったく何の手がかりももっていないとする。さらに,その宇宙人が住む惑星の自然地形がどのような形をしているかについても,何の手がかりももっていないと考えてほしい。このような3つの条件のもとで,あなたは宇宙人の自然の刻んだラシュモア山と彼らの自然地形とを,本当に確信をもって見分けることができるだろうか。人類や地球の自然の地形をまだ見たことのない宇宙人にラシュモア山の写真を見せて,同じ質問をすることもできるだろう。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.91-92

AがBを引き起こすと主張する学説が証拠によってしっかりと裏づけられるかどうかを判断するのに使える問い。


1. AとBの関係を探すその研究は,どれほど正確にAを定義し,計測しているか?Bをどのように定義し,計測しているか?それらの定義は合理的なものに見えるか?
2. 研究は,AとBのあいだに相関があることを示しているか?その相関はどれくらい強いか?
3. もしAとBについての研究のうち,両者のあいだの相関を示しているのは一部だけだとすれば,相関を示していない研究と比べて,どちらの研究がよりうまく組み立てられているか?どちらの研究がより大きな統計的有意性をもっているか?(一つの研究が否定的な結果を出しているというだけでは,AとBが無関係だということを意味しない----たとえば,その研究のサンプル数が非常に少なかったからかもしれない)。
4. もしいくつかの研究がAとBのあいだに強力な相関があることを示しているとして,その相関をAがBの原因であるという以外の形で説明することができるか?
5. AとBの関係を探究している研究は,Bを引き起こす可能性がある他の原因など,まぎらわしい変動要因をどう制御しているか?そうした他の原因としてどういうものがあり,それがAと比べてどれほど重要であるかを研究は調査しているか?
6. 研究は,Aが存在する状況と,Aが存在しない「対照群」とを比較しているか?もしそうしていれば,その対照群が調査対象を代表するものであることを,どうすれば確信できるか?
7. 研究は,AとBの関係が連続的なものであることを示しているか?つまりAがたくさんあればあるほど,後により多くBが見られるのか?
8. もし本当にAがBを引き起こすのであれば,ある場所ではAがよく見られるのにBが見られないことを,どう説明できるのか?(たとえば日本では,メディアで大量の暴力シーンが見られるのに,現実の暴力はアメリカに比べて非常に少ない)
9. もしAが本当にBを引き起こすのであれば,ときにAがより勢いを増していっているのにBが下火になっていくことを,どう説明できるのか?(アメリカではおそらくメディアの暴力シーンは長期的に少しずつ増大してきているはずだが,現実の暴力犯罪は,数年間にわたって,少なくとも2001年までは減少していた)
10.AとBの結びつきを研究している人物に,強いイデオロギー的な偏向があるように見えるか?
11.特定の研究者たちに資金提供をしているのは誰か?

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.14-15

可能性の判定

 異論の多いある考えに,正しい可能性があるかどうか,判定する公式はあるだろうか。いや,そんなものはないのではない。しかし,次のような点について自問してみるべきである。

・新しい考えの提唱者は,それが正しいことをどうすればわかると主張しているか?
・そのデータについて別の解釈はできないだろうか?
・その理論はどうすれば検証できるだろうか?

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.9-10

飛行機の墜落の要因

 現実の世界の飛行機は,映画のワンシーンのようには墜落しない。エンジンは火花を散らして爆発しない。方向舵が離陸の衝撃で突然折れることもなければ,機長がシートにどさりと身を投げ出して,「ああ,神様」と喘ぐこともない。民間のジェット旅客機は,トースターと同じくらい信頼に値する。墜落事故は多くの場合,小さなトラブルと,些細なエラー要因の蓄積の結果なのである。
 例えば墜落の典型的な原因は悪天候,しかも過酷である必要はなく,パイロットが通常よりストレスを感じる程度の天気だ。圧倒的に多いのが出発が遅れ,パイロットが焦っているとき。また,墜落事故の52パーセントが,機長が目を覚まして12時間以上経過した後,すなわち機長が疲れ,判断力も鈍っているときに発生している。さらに,墜落事故の44パーセントが機長と副操縦士が初めての顔合わせのとき,つまり,お互いに落ち着かない関係のときに置きている。
 そしてエラーが生じる。しかもひとつにとどまらない。典型的な事故の場合,人為的ミスが7つ続く。機長か副操縦士がミスをひとつ犯しても,それだけでは問題ではない。次に,どちらかがミスを重ねる。この時点ではまだ,ふたつのエラーは大きな失敗ではない。だが3つ目が加わり,さらに4つ,5つ,6つ,そして7つめのエラーが積み重なると,大惨事を招く。
 さらに言えば,これら7つの過失は,まず知識や飛行技術の問題ではない。パイロットが難しい操縦技術を求められ,それに失敗したわけではないのだ。墜落の原因となるエラーは,いつも必ずチームワークとコミュニケーションに関係がある。機長か副操縦士のどちらかが重要な点に気づくが,もう一方に伝えない。あるいは片方が間違いを犯し,もう片方がそれに気づかない。難しい状況を解決するには,複雑なステップを踏まなければならない。だが何らかの理由で,機長と副操縦士が協力せず,解決のステップが踏めない,などだ。

マルコム・グラッドウェル 勝間和代(訳) (2009). 天才!成功する人々の法則 講談社 pp.206-208.

発癌性物質は人工ではない

 環境中の発癌性化学物質のすべてが人工のものではないと理解することが,決定的に重要である。すべて人工などと言うには程遠い。一つだけ例を挙げるなら,無数の植物が,昆虫やその他の捕食者に対する防御手段として発癌性物質を生産している。そのため,食物は言うまでもなく天然の発癌性物質に満ちている。発癌物質はコーヒー豆やニンジン,セロリ,ナッツに含まれ,その他にも非常に多くの農産物に含まれている。カリフォルニア大学バークレー校のガン研究の第一人者ブルース・エイムズは「一般人が口にする植物由来の殺虫剤のうち,99.99パーセントは天然のものである」と推定しており,テストした全化学物質(合成したものと天然もの)の半数が,実験室における動物実験で多量投与した場合癌を引き起こした。したがって,環境中の汚染物質によって引き起こされると考えられる2パーセントの癌のうち,合成化学物質が原因となっているのはわずかな部分だけである可能性が非常に高い。エイムズは,1パーセントよりずっと小さいと考えている。
 主要な保健機関は,環境中の微量の化学物質が大きな危険因子でないことに同意している。きわめて重要なのは生活様式である。喫煙,飲酒,食事,肥満,運動。これらはきわめて大きな影響を及ぼす。ほとんどの推定で,すべての癌のおよそ65パーセントの原因とされている。早くも1930年代に,研究者は,貧しい地域より裕福な地域で癌の発生率が高いことを発見した。これは,生活様式の違いから生じる今日まで続いている区分けである。「総計すると癌は裕福な国で最も多い。これは,主に,喫煙や西洋の生活様式と結びついた主要の発生率が高いことによる」とWHOは『世界癌報告』の中で指摘した。ここには明らかな逆説が存在する。裕福な社会に暮らしている者はものすごく幸運だが,癌の発症をいろいろな形で促す生活様式を支えているのがまさにその裕福さである。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.341-342
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

化学物質と癌

 ヒギンソンは,故意に人を欺いていることで環境保護主義者を非難しないように気をつけていた。ヒギンソンの仮説が誤解されたのは,欺いた結果というより,行き過ぎた熱意のせいだった。「世間は,癌が汚染あるいは通常の環境によるものであることを証明できればいいと強く思っている。『あらゆるものを暴露ゼロのレベルまで規制させて欲しい。そうすれば我々はもう癌にならない』と言うのは非常に簡単だろう。この考えは非常に魅力的であるため,この考えに反する大量の事実を圧倒することになる」。この「大量の事実」の中には「汚染された都市ときれいな都市のあいだのがんの発症パターンにほとんど違いがない」という知見もあったとヒギンソンは述べた。「非工業都市であるジュネーブの方がイングランド中央部の汚染された谷にあるバーミンガムより癌が多い理由を誰も説明できない」
 これは1979年のことだった。このあと「大量の事実」は着実に増え,今日,指導的立場にある癌研究者のあいだでは,環境中にある微量の合成化学物質(普通の人の血液検査で見つかるもの)が癌の主な原因ではないということで意見が一致している。「職場や地域社会,その他の環境における汚染物質への暴露は,癌による死亡の原因として比較的小さなパーセンテージを占めると考えられる」と米国癌協会は『2006年の癌の事実と数値』の中で述べている。この中で,職場関係の暴露(アルミニウム製錬所の労働者や過去の危険な労働環境下でアスベストを採掘した坑夫が該当する)は飛び抜けて最大の区分であり,すべての癌のおよそ4パーセントの原因となっている。米国癌協会の推定によると,すべての癌のうちの2パーセントだけが「人工の,および自然界に存在する」環境汚染物質(自然界に存在するラドンガスから工場の排気ガス,車の排ガスまでのあらゆるものを含む大きな区分)への暴露の結果である。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.340-341
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

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