I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「科学・学問」の記事一覧

感情の三原則

ダーウィンは人間と動物に当てはまる感情の三原則を打ち立てた。1つ目は,感情は脳から生まれるということ。1872年当時,脳についてほとんど知られていなかったことを考えると,非常に卓越した正しい洞察と言える。2つ目は,感情の発現は自然な動作が基になっているということだ。笑うと口角が上がるのは,笑いが目を閉じるきっかけになり,目の周りの筋肉が収縮して,口角も引き上げるからだという。3つ目にダーウィンが信じていたのは,感情の発現は正反対の習慣に対する正反対の動作だということだ。ダーウィンはこの“正反対”と呼ばれる原則を説明するために,犬を選んだのだ。

グレゴリー・バーンズ 浅井みどり(訳) (2015). 犬の気持ちを科学する シンコーミュージック・エンタテイメント pp.157

仮説主導型の実験

典型的な仮説主導型実験のコツは単純だ。周知の科学的学説を調べ,まだ誰も実証していない些細な問題を見つける。証明する実験を行ない,総体としての学説を支持する。そして,発表するのだ。
 このタイプの実験は簡単に読めるし,結果は必ず発表される。大学での昇進と在職を確実にする履歴書も作れる。失敗のリスクが少ないので,調査会社にも人気だ。私の推定では,発表された研究のほぼ全てがこの領分に入っている。
 要は,仮説主導の実験はひどくつまらないということだ。ほとんどの場合,実験結果を読む必要さえない。基本的に最初の段階で分かっていることを,科学者が証明しているに過ぎないからだ。すでに周知の仮説があるということは,人々は既に科学的論点の面白さが分かっているということだ。実験結果はせいぜい,知識を追加的に増やす程度のものにしかならない。もちろん,周知の仮説が間違いだと分かれば,実に面白いことになるだろう。だが,そのような結果は誰も信じないので,発表するのはほぼ不可能に近い。

グレゴリー・バーンズ 浅井みどり(訳) (2015). 犬の気持ちを科学する シンコーミュージック・エンタテイメント pp.59

オンライン化の論文への影響

情報を得る手段が広がったからといって,好奇心まで広がるわけではない。現実はその反対だ。シカゴ大学の社会学者ジェイムズ・エヴァンスは,1945年から2005年に発表された3400万本の学術論文のデータベースを構築した。そして学術誌が紙媒体からオンラインに移行したことに伴って調査手法に変化がみられるかを調べるため,論文に含まれる引用を分析した。デジタル化された文章のほうが印刷されたものよりはるかに調査しやすいことを踏まえ,彼はこう予測した。研究者たちはインターネットを利用することで調査範囲を広げ,引用の種類も飛躍的に増えるはずである。ところが学術誌がオンライン化されてから,引用される論文の種類はむしろ減っていた。利用できる情報の幅は広がったにもかかわらず,「科学と学問は範囲を狭めた」のである。
 エヴァンスはこの結果について,グーグルのような検索エンジンには著名な論文をさらに広める効果があり,短期間に重要な論文とそうでないものが色分けされ,その評価の差が拡大するのだと説明する。さらに,印刷された学術誌や文献のページをめくっていれば「周辺領域の関連記事」になんとなく目が留まるものだが,研究者たちはハイパーリンクという手軽で効率的な機能によってそうした寄り道をしなくなっている。図書館よりもインターネットで調査したほうが無駄なくスムーズに,整然と作業を進めることができる。しかし,まさにそうした利便性のせいで,調査の範囲が狭められている。

イアン・レズリー 須川綾子(訳) (2016). 子どもは40000回質問する:あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力 光文社 pp.141-142

パズルではなくミステリー

偉大な科学者や発明家も,問題に対してパズルではなくミステリーとして向き合っている。確かなことよりも不確かなことに魅了されるのだ。物理学者のフリーマン・ダイソンは,科学は事実の集合ではなく「ミステリーを探求する終わりのない旅」であると表現する。アメリカの発明家で音響機器の開拓者として知られるレイ・ドルビーは,この原則がイノベーションにも当てはまることを力説している。「発明家であるためには,不確実性とともに生き,暗闇で手探りをしながら,本当に答えなどあるのかという不安と闘う境遇を受け入れなければならない」。アルベルト・アインシュタインもきっと同じ思いだったのではないだろうか。「われわれの経験で何よりも美しいのはミステリアスなことだ」と彼は述べている。「それが真の芸術と科学の源である」
 私たちはミステリーよりもパズルを重視する文化のなかで生きている。学校はもちろん,大学でさえ科学とは明快な答えのある疑問の集合であると考えている。ダイソンならば自分の知らないことについて綿密に,そして粘り強く探求することと定義するだろうが,一般的にはそうは考えられていない。政治家はともすれば教育政策をパズルとみなし,インプット(教育)に対してしかるべきアウトプット(雇用)が創出されることを目標にする。それどころか,彼らは社会のあらゆる複雑な問題を,まるで単純な答えのあるパズルであるかのように提示する。メディアは人生をパズルの連続に変え,番組を見たり,本や商品を購入したりすることで解決されるものに仕立てる(「問題Xを抱えている?ならばYが必要です」)。ビジネスの場でも問題をパズルの枠組みに当てはめることが好まれる。そのほうが,パワーポイントのスライドで簡潔な箇条書きにして提示するのに適しているからだ。また,評価もしやすくなる。そしてグーグルは,すべての疑問には明快な答えがあるという大きな錯覚を後押ししている。

イアン・レズリー 須川綾子(訳) (2016). 子どもは40000回質問する:あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力 光文社 pp.102-103

まちがった計測

それだけではない。まちがったものを計測するのは,何も計測しないより悪いことが多い。なぜなら,計測したものに囚われるようになるからだ。どれだけ多くの人が楽しんだかを計測し,それがプログラム(あるいは本,講演,セミナー)の成功の指標になるとすれば,当然ながら参加者をより楽しく,より心地よくさせようということになる。端的に言って,プログラムが楽しいかどうかを計測していたら,参加者はより楽しくはなるだろうが,態度や行動が変化することは期待できない。

ジェフリー・フェファー 村井章子(訳) (2016). 悪いヤツほど出世する 日本経済新聞社 pp.51

アラビア医学の整理

ギリシャの四体液説では傷の膿は自然の望ましい清浄化過程であり,医者はそれを人為的に支援するか,あるいは生じさせてやるべきだという考えだった。
 アヴィセンナは化膿なき治療をすすめ,不必要な機械的,化学的刺激を避け,強いぶどう酒を用いた温湿布によって化膿を予防した。さらに驚いたことには彼らはロバや水牛の馬具からペニシリウムというカビを取って,これを加工し炎症を起こしたときの手当てに用いた。今日の抗生剤である。今日でもベドウィンの間で普通に見られることは患者の咽喉の中にパンのカビの緑色の粉を吹き込むという。抗生剤の炎症抑制作用の応用に他ならないではないか。
 アラビア医学はガレノスの重複の多い論述を見事に整理して1つのシステムに組み立てている。アヴィセンナの養生法,物理療法,薬物療法における貢献ははなはだ大きく,精神医学に対する寄与も大きい。西方ラテン世界では医学がほとんど壊滅状態になっていた時代に古典ギリシャ以来うけつがれた医学を保全した功績はきわめて大きい。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.29-30

アラビアで保たれた

第一期はギリシャの医学,科学文献がアレキサンドリア,ペルシャ,シリアからアラビアへはいった。アラビアの学問の基礎は文献翻訳であった。10世紀には注釈,改訂にうつり,初期は実葉目的を主としていたが,次第に医学,数学,天文学,地理学などから哲学,自然科学にまで及んだ。アラビア人は自己固有の知能を啓発し,批判し,改造し拡張して完全に自己のものとした。中世ヨーロッパが低い文化の中に沈んでいるとき,学問上のギリシャ精神をとらえ,保持したのである。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.23

イスラム世界へ

西ローマ帝国の滅亡による古代文化の崩壊とヨーロッパ全体の混乱,キリスト教の台頭によって,古代ヘレニズムがすでに高い完成度にまで達していた領域のほとんどすべてを壊滅させることによって医学をはじめとする古代文化を人類から遠ざけた。ギリシャ・ローマの医学は行方知れずになった。そして500−600年の間ヒポクラテス以来の伝統はヨーロッパ社会から消えてしまった。ギリシャ精神はキリスト教徒にとって断罪すべきものと思えたので,自らそれを直接知ろうとする道を放棄してしまった。このため古代ギリシャ・ローマ医学は没落し,病理診断は軽視され,薬剤療法が偏重されて民間医療,神秘医療が盛んになった。エラシストラートス一派の瀉血反対論もあったのであるが,ガレノスの堅固な論理と時代の水準を抜いた科学的方法によって構築された不可侵の殿堂ともいえる教義は宗教的な面を持った目的論がイスラム文明とイスラム医学の世界にスムーズに受け入れられて,さらに中世キリスト教会の認知によって権威づけられ,中世,近世を通して瀉血は治療法として全盛期を迎えた。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.19-20

瀉血と浣腸

ガレノスは壮大な一貫性と数学的論理をもって,いわば幾何学的方法に従って自己完結的な学問体系を構築したのである。四体液説にとらわれたガレノスはヒポクラテス主義をかかげながら,治療においては,それから離れた。不調の体液から生じる「邪悪物質」を排出する能力は自然治癒力の大きな要素の1つなのだが,瀉血は当然それを補う意味を持っていた。起源の古い瀉血はエラシストラートスらによって斥けられたがガレノス以来上り坂になる。しかし実際には十四歳以下の小児には瀉血を禁じ,老齢者にはやむを得ない場合のみ行った。過渡の瀉血で全身衰弱,浮腫,麻痺,精神障害を起こすため注意し,体力,年齢,疾病,気候を考慮した。持続発熱のある場合には体力があるもののみに限定し,季節は春秋を好んだ。
 浣腸もまた同じ趣旨でガレノスが好んで用いた。ヒポクラテスのコス派と異なりガレノスは薬剤も多用した。対抗療法理論により手の込んだ方式を作った。解毒薬「テリアカ」は中世以降次第に万能薬となり,唐時代の本草書には「底野迦」の名がみられるし,本邦最古の医書「医心方」にも記載されているほどである。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.16-17

瀉血支持論

ガレノスは生命精気が脳にいって霊的精気となり全身に送られるという精気システムを構築しこれにヒポクラテスの体液病理説を取り入れて過剰な血液と腐敗体液の排除が主要目的で瀉血,緩下剤,吐剤,利尿剤,発汗剤を用いた。瀉血についてのエラシストラートスに対する討論はすさまじいもので,医学の真実の道はヒポクラテスの発見した道であり,ヒポクラテスの方法論に反対する方法学派は徹底的に批判した。彼の強烈な瀉血支持論が19世紀までその命脈を保たせたのかもしれない。

藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.14-15

分析と統合

優れた科学には,分析と統合の相互作用が伴う。基礎研究が本当に基礎的かどうかを知るには,それが何の基礎なのかを知る必要がある。現代の物理学が開花したのはその理論が優れているからではなく(μ中間子,波粒,超ひも理論,人間原理など,理論はとてもではないが直観でわかるものでなく,かなり議論の余地のあるところだ),物理学者たちが原子爆弾や最新の原子力発電所を建設したことによる。1940年代の医学研究では沈滞していた免疫学は,ポリオに対するソークワクチンとセービンワクチンによって開花した。基礎研究の発展はただその後に続いただけだった。
 19世紀には,鳥が飛ぶ仕組みについて物理学で大論争となった。その論争は1903年12月17日,ライト兄弟が自ら作った飛行機を飛ばした瞬間から12秒後に始まった。この偉業によって,すべての鳥は彼らのように飛ぶのに違いないと多くの人が結論づけた。
 これは実に,人工知能の試みによる理論である。仮に,基礎科学によって,二極のスイッチング回路をネットワークで結ぶだけで,言語が理解できたり,話ができたり,物体を知覚できたりするコンピュータを製造できたとしよう。とすれば,それは人間が,言語を理解するなどの偉業をいかに成し遂げているかを示すものであるはずだ。応用は多くの場合,基礎研究の方向を向いているのに対して,応用の方法を知らない基礎研究というのは,たいていは単なる自慰行為でしかない。
 優れた科学は必然的に応用と純粋科学の積極的な相互作用を伴うという原則は,純粋科学者と一流の応用家の両者にとってしっくりこない。私は今日までペンシルバニア大学心理学部の一匹狼としてやってきたが,純粋科学者が応用に対して疑いの目を向けていることを毎週のように思い知らされている。

マーティン・セリグマン 宇野カオリ(訳) (2014). ポジティブ心理学の挑戦:“幸福”から“持続的幸福”へ ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.113-114

宝くじが当たった理由

また,科学で,宝くじが当たる確率を正確に示すことはできるが,誰に当たるかは予測できず,わからない。わからないからこそ,宝くじとして成立しているといえるだろう。
 しかし人間は,宝くじが当たったならば,なぜ「自分に」当たったのかと疑問を呈する。それは偶然であり,理由などないのだが,自分の人生が大きく変わったことの原因を求めてしまう。前に述べたように,もとをただせば,それが「科学する人間の心」の現れなのである。
 大事なことは,宗教や超常現象は「救い」になるのかもしれないが,衣食住や安全の提供には貢献しないということだ。データを集めて理論化し,議論して社会に応用していくといった,科学の民主的な取り組み以外に,文明を支える実用的な方法は,今のところ見出されていないのだ。

石井幹人 (2016). なぜ疑似科学が社会を動かすのか:ヒトはあやしげな理論に騙されたがる PHP研究所 pp. 143

超心理学の理論

超心理学の実験は,思い込みや誤りが入らないように厳密に企画され,客観的なデータが得られている。また,その結果は,統計的な分析によって,一定の再現性が得られている。こうした研究発表の場は,学会や論文誌のかたちで社会にオープンになっており,超心理学はオカルトである,と退けることもできない。
 また百年近い研究の積み重ねと,懐疑論者を交えた議論の蓄積もあり,他の心理学分野に比べて,こうした検討の歴史もかなり充実している。
 しかし一方で,超心理学には確固たる理論がない。一部,外向的な性格の者はESPを発揮しやすいとか,夢に似た意識状態のときにESPが起きやすいとか,周りの人々から受容される状況においてESP現象が出やすいなど,ESPと相関関係のある心理・社会的条件はいくつか判明している。ところがそれ以上の,因果関係を説明する物理的メカニズムや,次はこのような実験をすると究明が進むといった「ESP発揮のモデル」が提案できていない。

石井幹人 (2016). なぜ疑似科学が社会を動かすのか:ヒトはあやしげな理論に騙されたがる PHP研究所 pp. 127-128

良さを見るかあら探しか

ピア・レビューが,原則として,性善説の立場で審査をするのに対し,ソーシャル・メディア審査は,性悪説の立場から,いわば「あら探し」をする。したがって,ソーシャル・メディアが好んで取り上げるのは,話題となるような目立つ論文である。匿名という点ではどちらも同じであるが,ピア・レビューのコメントが公開されないのに対し,ソーシャル・メディア審査は,ネットへの公開を前提としている。
 この2つのレビューの間の最も大きな違いは,サイエンスとしてのメリットの評価である。ピア・レビュー(メリット・レビュー)が,常にサイエンスとしての意味や,将来への価値を評価し,編集者に論文の採択を提案するのに対し,ソーシャル・メディアは,サイエンスとしての価値よりも,問題の指摘,告発である。ソーシャル・メディアによる評価の限界はまさにこの点にある。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.225

現象重視から不正へ

医学に関わってきた一人として,私も確かにその通りだと思う。多くは,現象に始まり,現象に終わる。医師にとっては,抽象論よりも,具体的な問題,目の前の患者を治すことが大事である。医学部とは,数字のよくできる学生を入学させて,できなくして卒業させる学部として定義してもよいくらいだ。
 そこに,研究不正のつけこむ隙ができる。画像解析のような,主観の入りやすい現象から出発し,理論化,抽象化あるいは数式化することもないまま,結論にいたる。それでも,ゲノムが明らかになり,生命科学はずいぶん変わってきたと思う。ゲノムは,生命科学における,要素還元主義の柱となった。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.209

格差は資金差

大学,研究所というと,最先端の研究室が並んでいると,人々は思うであろう。しかし,現実には,何十人の研究員を抱え,設備の整った大研究室もあれば,店長一人といった零細店舗もある。東大のような大きな大学には,大都会のショッピングモールのようにきれいに飾った大きな店が多いが,地方大学は,地方都市の商店街のようだ。きらりと光る個性ある店舗があるものの,なかにはシャッターを閉じたような店もある。格差は,いたるところで広がりつつあるものだ。格差の最大の要因は資金の差である。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.193

h-インデックス

競争に勝つためには,よい研究をしなければならない。よい研究かどうかは,論文が掲載されたジャーナルから判断できると人々は信じている。よいジャーナルかどうかは論文の引用が指標になる。よい研究であれば,他の研究者が注目し引用するからである。かくして,引用数によって,ジャーナルごとにインパクト・ファクターなる指数が計算され,格づけに利用される。個々の論文の引用数も調べられている。さらに1人1人の格づけとして,引用数と論文数を同時に示す「h-インデックス」がある。h-インデックス50は,引用回数50位上の論文が50あるという意味である。科学者が数字を得意とするからと言っても,すべてが数字になり,それによって評価が決まるとなれば,ストレスとなるのは確かである。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.189

美しさへの動機づけ

研究をしている人は,誰でも,きれいな実験をしたいと願っている。疑いようのない,完璧な実験で,自分の考えを見事に証明できればと思っている。しかし,実際には,回りくどい証明になったり,間接的なデータしか集まらないことが多い。美しいデータを求めるのは,科学者であるからには,当然の願いである。しかし,それは時に改ざんへの誘惑ともなりうる。データをきれいに見せるたびに,ほんの少しお化粧をする。邪魔をしているバンドを消してしまう。矛盾するデータを隠しておく,そのような気持ちが,改ざんする人の心の奥にあるのではなかろうか。しかし,改ざんしたために,論文を撤回する羽目になったら,最もみにくい結果になる。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.188

何本の論文を書くか

研究者はどのくらいの論文を書くのであろうか。わが国の論文数の多い30大学について,研究者1人あたりの論文生産量を調査したデータがある。2002年から2011年までの10年間の研究者1人あたり論文数は,平均10.2報であった。研究者は,1年に1報の論文を書くことになる。一番多い大学は,東京工業大学の21報,平均の2倍である。ちなみに,東大は12.6報。トップグループではあるが,それほど多いわけではない。
 論文数は,分野によって異なる。社会科学,人文学分野は,論文よりも自分の考えを1つにまとめたモノグラフを尊ぶ傾向がある。化学合成や材料科学の分野では,何かを作り出すたびに,短い論文を書いて,もの作りのプライオリティをとる必要がある。東北大学のAI(事例42)は,2500以上の論文を書いている。
 数を頼むのではなく,インパクトがあり,質のよい論文を,丁寧に書くことを心がけよう。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.165

著者の多い論文

ノーベル賞のパロディ版であるイグ・ノーベル賞は,科学に対する風刺と皮肉,ユーモアにあふれ,毎年話題になる。1993年,第三回イグ・ノーベル文学賞を受賞したのは,ページ数の100倍の人数の著者がいる医学論文であった。著者数976名は,当時としては,からかいたくなるほど,異常な著者数であった。しかし,それから20年以上経った今,1000名を超すような論文が,毎年200報近く発表されている。
 最も著者数の多い論文は,2015年5月,物理学のフィジカル・レビュー・レター(Physical Review Letters)に発表されたヒッグス粒子の質量測定の論文である。なんと334研究室の5154名の著者が名を連ねている(ギネスブックに登録されたという話は聞かないが)。33ページの論文中,24ページが著者名と所属のリストである。生命科学の分野で著者が一番多い研究は,2004年に日本から発表された高コレステロール症患者の治験研究である。北海道から九州まで,研究に参加した医師2459名が論文の最後の4ページにわたって紹介されている。
 著者数が多くなるのは,大規模な共同実験のためである。たくさんの患者を対象にした臨床研究,大がかりな設備を使う物理学の国際共同実験などでは,研究に携わった人が多くなり,1000人,2000人,さらに5000人になるのであろう。このような研究では,著者の1人が1回引用しただけで,論文の引用回数は何千にもなる。論文引用という基準で評価するのは難しくなる。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.156-157

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