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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「発達心理学」の記事一覧

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新生児はすべて聞き取れる

 新生児はフランス語のu,スペイン語のn,英語のthなど,地球上のすべての言葉にある音を聞き分けることができる。ある音が内耳の蝸牛の有毛細胞を刺激すると,音は電気の波動に変わり,これが脳の聴覚野に伝わる。リレー選手がバトンを手渡すように,耳から皮質までの各ニューロンが次々に電気の波動を伝えていく。ある音が何度も繰り返されると,ヘッブがいったようにこれらの神経をつなぐシナプスの結合が強化される。結果として,thを聞くたびにこのニューロンの経路が反応し,やがてその反応が聴覚野のあるニューロンの集積を刺激して,「thという音を聞いた」という主観的な意識になる。こうしてある細胞ネットワークが,新生児がいつも耳にしている特定の言語の,特定の音に反応するようになる。
 もちろん聴覚野のスペースは限られている。ヘッブのいうプロセスによって回路ができあがれば,その回路は決まった音専用になる。いままでのところ,神経科学者はヘッブのいうプロセスが逆転したという事例を知らない。たとえばフィンランド語で育った者がフィンランド語特有の音を聞き分ける能力を失ったという事例は見つかっていない。成人の脳にも可塑性があるという認識が高まってきたので,12歳を超えたら外国語を勉強しても訛なしに話せるようにはならない,という考え方は覆されたが,特別の介入がないかぎり,聴覚野は小見合った郊外住宅の開発のようなものだ。ぎっしりと家が建っていてもう空き地はないから,新しい音にあてる余分の領域はない。


ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.124-125
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)
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嘘がつけるようになった

 さらに,子どもの嘘について評価するときに忘れてならないのは,道徳的な問題はさておき,一定の段階に到達したということである。道徳という概念,すなわち正邪の概念は,「心の理論」を超えたあらゆる思考にからんでおり,多くの子どもはまだ習得していない。子どもは「悪いこと」を理解するための認知的スキルよりも先に,嘘をつくための認知的スキルを獲得する。彼らの多くにとって,嘘をつくことは,「心の理論」の発達をうながす活動である「ごっこ遊び」と非常によく似ている。嘘をつくことは「ごっこ遊び」とはちがって非難されるのだと,彼らはすぐに学ぶ。だが,すでに見たように,彼らはまた,嘘をつくことはいけないことだが,それが必要とされる場合もあるのだとも学ぶ。
 それどころか,ある種の発達障害を抱えている子どもにとっては,嘘をつけないのはその障害の症状のひとつだとみなされる。典型的な例は,言葉の遅れがあったり他人の感情を認識して対応することが困難だったりする,自閉症の場合である。
 自閉症の子をもつ親は,うちの子はぜんぜん嘘がつけませんということが多い。完全なる正直というのはすばらしいことのように思えるかもしれないが,じつは自閉症の子どもにとっては,それが対人関係を困難にする重大要素となっている。たとえば,「ふり」をする遊びを必要とするゲームができないのだ。自閉症の子どもは,他人には他人の考えや感情があるのだと理解する「心の理論」が欠けていると考えられている。嘘をつくためには,2つの異なる見方が同時に存在しうることを理解しなければならない。事実(たとえば,「ぼくがランプを壊した」)と,まちがった見方(たとえば,「だれかがランプを壊した」)だ。自閉症の子どもは間違った見方を理解できないばかりでなく,他人の見方が自分の見方とちがうのだということを理解できないかもしれない。複数の見方があることを理解できないことから,自分の心にある考え(「ぼくがランプを壊した」)はすべての人にとって明白なのだと,彼らには感じられる。
 これはじつに皮肉な状況だ。自閉症の子どもが嘘をつかないのは,障害がもたらす症状とみなされている。その結果,もともとは正直そのものだった自閉症の子どもが,うまく嘘をつけるようになると,それは症状が改善したからだと考えられる。正直は善であり嘘は悪であるという考えは,ここでも否定されているのだ。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.83-84

子どもを嘘つきにする大人の指示

 子どもが嘘へと導かれるもひとつの道筋は,大人が見本を示し,明白な指示をすることによるものだ。それがどのようにして起こるのかを理解するために,あんたが前述の作者の前で絵の評価を求められた子どもの親であると想像してみてほしい。目の前で,幼稚園児のわが子が何枚かの絵を評価するように指示される。絵の作者がその場に同席する場合もある。絵を描いた本人を目の前にして,わが子がその絵を気に入らないのが見てとれるとき,あなたはわが子に正直に感想を述べてほしいだろうか?それとも,礼儀をわきまえ,本心を隠してお世辞をいってほしいだろうか?
 わが子には正直かつ礼儀正しくふるまってほしいので,これはむずかしい問題だ。だが,この2つの美徳はしばしば衝突する。幼い子どもにとって,嘘をつくことが「求められる」状況の微妙なニュアンスを理解するのは容易ではない。就学前の子どもは,祖母が焼いたばかりのクッキーを食べてしまったのに,食べていないと嘘をついて怒られ,その後で,祖母からもらった手編みのセーターが気に入らないと正直に答えて,またしても怒られれば,どうしていいかわからなくなるだろう。そんな場合,たいていの子どもは両親の助けをかりて,「ささいな罪のない嘘」のつき方を習得するわけだが,これはつまり,他人を欺く方法を身につけたということだ。すなわち実際には,私たちが子どもに教えていることとはうらはらに,「怒られる嘘」とそれとは逆に「求められる嘘」があるのだ。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.79-80

子どもの嘘の発達

 子どもの嘘はとてもありふれているので,じつのところ,心理学者は子どもが年齢を重ねるにつれてどんな嘘をつくか,はっきりとしたパターンを発見した。言葉による嘘はたいていの子どもで3歳くらいにはじまるが,なかには2歳で早くも嘘をつく子もいる。両親がルールを定めていてそれを破ると罰を与えられるのだと理解し,それと連動して嘘をつくようになる,というのが典型的だ。たいていの場合,最初はそうした罰を逃れようとして反射的に嘘をつく。重要なのは,それらの嘘はごく単純で,それは使われる言葉からもわかる。3歳の子どもは自分が花瓶を壊したり,兄弟をぶったり,最後の1枚のクッキーを食べてしまった明白な証拠が目の前にあっても,「ぼく(わたし)じゃない」と主張するだろう。3歳児は自分のしわざではないふりをする能力はあるものの,それを信用できる言葉にすることはわからないし,そうするための洞察力もない。
 4,5歳になると,子どもの嘘には,もっと微妙なニュアンスがつくようになる。やみくもに「ぼく(わたし)じゃない」と主張するのではなく,もっと計算して「犬がやった」などというようになる(なぜ子どもがこの段階に進めるかについては,この章の後半で説明する)。また,この本の1章で検討したような社会的な嘘をつくようになるのは,4歳くらいからだ。幼稚園に入るころには,子どもどうしの交流がさかんになって,傷つきやすい自我に迎合したりそれを強化したりするために,嘘の必要性が増大する。ここでも,はじめのころの嘘は未熟だが,心理学的には大人が嘘をつくときと同じような働きをする。大人なら仕事での成功を自慢するだろうが,子どもはネス湖の恐竜をさがしに旅行へ行ったと自慢するだろう。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.74-75

こういう子どもの場合は…

 法心理学者のJ・リード・メロイが,反社会的人格を備えた子供を持つ母親のたいへん悲しい話を伝えている。この病気の初期に現れる本質的な病情である。
 「『(母親によると)1歳半で何かのスイッチが切れたかのようで,ひどいかんしゃくを起こすようになり,良心のかけらもなく,他人への共感をほとんど示しませんでした。生き物を見ればとにかく殺し,ひどく不機嫌で,悪意に満ちていました』。この母親は,感情的<かつ>捕食性の息子の行動に続けて以下のように証言している。家の中でものを燃やしたり,ナイフで脅したり,鏡台の前のカーペットや枕からピンの先が突き出すようにしておいたり,着るときにひっかき傷ができるように服にピンを隠したりした……。大きくなると,サディスティックな行為はさらに目立つようになった。あるとき裏庭に猫をつるし,帰宅した母親の反応を見ていたことがあった。おびえる母親を見てよろこび,おびえるようすをまねて見せたのを,母親は覚えている」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.176-177

手と口の連動

 この手と口は,発達初期に「対等」な関係で連動するのだろうか。それともなんらかの証拠から,発達上どちらかが主で,どちらかが従だと言えるのだろうか(さらに個体発生が系統発生を繰り返すとの説にならえば進化上においても)。いつは,その証拠らしきものはすでに見ている。幼い子供が言葉と身ぶりに食い違いを示すとき,一般には言葉よりも身ぶりの方が進んだ概念を表しているのである。発達のもっと早い段階で見ると,片言しゃべりの75パーセントがリズミカルな手の活動と同時発生しているのに対し,リズミカルな手の運動は約40パーセントが片言しゃべりと同時発生している。この数字は,口よりも手のほうが早く自立することを示している。そしてなにより重要なのは,赤ん坊が最初の言葉を発する前から意思伝達のための身ぶりを用いていることだ。指をさすのもこの早熟な身ぶりの1つだし,両手をバタバタさせて鳥を示す「アイコン」としての身ぶりさえ見受けられる。前に述べたようなミラーニューロンとアイコンとしての身ぶりとの関係を考えれば,発達の非常に早い段階からアイコンとしての身ぶりが用いられるということは,ミラーニューロンが言語の発達と言語の進化にとってきわめて重要な脳細胞であるという仮説にもいっそうの信憑性が出てくると言えよう。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.111-112

模倣の影響の大きさ

 模倣は人間の行動形成にとても強い影響を及ぼす。私たちは全員それを肝に銘じておくべきだ——とくに,まだ幼い子供がいる身なら。私の知るかぎり,人はたいてい自分の子供に正しいことを言う。かんしゃくを起こしてはいけない,つねに他人の身になって考えよ,等々。だが,はたして私たちは自分の言うことを実行しているだろうか?私はときに,自分の娘にしてはいけないと言っている行動をそっくり娘にしてみせていたりするのだ!そのような場合,私はふと怖くなる。私がしなさいと言っていることではなく,私が実際にしていることばかりを娘が取り入れてしまうのではないかと思うからだ。なにしろ子供の脳は,模倣を通じて他人から行動を取り入れることに非常に長けているのである(子どもが成長するにつれ,そうした模倣はしだいに複雑になり,前に述べたような乳幼児に見られる基本的な物真似とはまったく比較にならなくなる。さらに,このあと述べる少し大きくなった幼児の模倣行動に比べても,やはりずっと複雑である。こうした「高度」で複雑なかたちの模倣については,追って詳しく述べることにする)。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.83-84

赤ん坊の模倣

 1970年代,アメリカの心理学者アンドルー・メルツォフは発達心理学に一種の革命を起こした。生まれたばかりの赤ん坊がごく簡単な手ぶりや顔の表情を本能的に模倣することを実証したのである。メルツォフがテストした新生児の中で最も幼かったのは,生後わずか41分の赤ん坊だった。生まれてから絶えず記録をとっていたので,メルツォフがこの実験で演じてみせた身振りを赤ん坊が事前に見ていないことは確実だった。それでも赤ん坊は身ぶりを模倣できたのである。したがって,新生児の脳にはこうした初歩的な模倣行動をやらせることのできる生まれつきのメカニズムが存在しているに違いない,とメルツォフは結論した。この実験結果が革命的だったのは,それまで赤ん坊は生後2年目から模倣を学習するようになるとの見方が支配的だったためである。この考えはもともとジャン・ピアジェの研究から広まったもので,ピアジェといえば,発達心理学の分野で史上最も影響力のある人物と目される存在だった。要するに,ピアジェ派は赤ん坊が「模倣を学習する」と暗に言っていたわけだが,メルツォフのデータを解釈すれば,赤ん坊は逆に「模倣によって学習する」ことになるのだ。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.66-67

突き放す勇気

 時には突き放す勇気が必要な時もあるだろう。自立するということは,自分で考え自分で決めるということそのものである。子どもの本音を理解しないままに「好きにしたらいい」と言うことは,「こうしなさい」と言い聞かせ,親の敷いたレールを走らせることと大差ない。
 一方で,ろくに話も聞かないで,子どものことを一番わかっているのは親の私だと言わんばかりに,「あそこはダメよ」「お前にはココが向いているんじゃないか」と否定・断定することも,避けなければならないことだ。親の一方的な決め付けや判断によるアドバイスは,子どもの心を閉ざしてしまいかねない。それよりも,自分を見守ってくれている,ちゃんと私の,僕のことを理解してくれているという存在になることこそが,子どもの親に対する期待ではないかと思う。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス p.169

「子どもの人生だから」

 こうした中で,「子どもの好きなようにすればいい」という親は,本当に子どもの自主性を重んじた,物わかりのよい,理解ある親と言ってもいいのだろうか。本当は子どものことがよくわからず,また将来どうすればいいのか親自身も描けないがゆえに,「子どもの人生だから」と都合のいいことを言っているだけではないだろうか。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス p.168

手話言語の発達過程

 子供が手話を獲得する過程からも,手話の自然さがとてもよく分かる。赤ん坊の頃から手話にふれると,音声言語だけに接している子よりも,速く,しかもたやすく言葉を学ぶと言われている。事実,手話を学んだ子供が何か手話で話すようになるのは,口話を学んだ子供が単語を声に出すよりも1,2ヵ月早い。ただし,さらに詳細に分析すると,初期の手話単語は完全な単語と呼べるものではない。多少の違いがあるのだ。また,口語を喋る子も,はじめは話すよりも,ずっと頻繁にジェスチャーをするものだ。一方,二語文を話すようになると,口語を話す子供は発声を重視するように切り替わり,手話の子供は手話単語を組み合わせて使うようになる。この時点から,言語発達の過程は,音声言語でも手話言語でも基本的に全く同じになる。
 手話を使う聾の両親に育てられた聾児には,「手話」でバブバブと喃語を言う段階がある。手や指を繰り返して動かす動作がこれにあたる。ちょうど,話し言葉を聞かされる健常な赤ちゃんが,「が,が,が」といった声を発するようなものだ。喃語は,「音声言語」に先立つ重要なものと一般に考えられている。しかし,この目をみはるべき結果は,喃語が,音声言語と手話のどちらにおいても「言語」の先駆けとして重要であることをはっきりと示している。また,手話に接したことのない健常児でも,喃語のようなジェスチャーをすることがある。これはジェスチャーが声を発することと同じくらい幼児期に重要であることを示唆している。その後に学ぶ言語が音声言語か手話かに関わらず,名前のある物体や行為の同定における参照の基礎となるのは初期のジェスチャーなのだ。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.184-185

脳の可塑性

 脳の可塑性もまた,知的能力の発達のために活躍してくれる。生後すぐ養子になり,恵まれた環境で育てられている子供たちは,不遇な環境で育てられている子供たちに比べて,IQテストで良い成績をとることが,多数の研究によってわかっている。もっと遅くに養子縁組された場合でも,環境の影響はとても重要だ。最初にIQテストでとても控えめな点数しかとれなくても,5歳の時点で恵まれた家庭に養子に入った子供たちは,成績が向上していく。養子縁組から数年後にテストした場合でも,養子先の家庭の社会経済的階層が高ければ高いほど,IQテストの結果は良い。遺伝子が胚の発育を導き,脳の発達に影響を与えるにしても,知的発達という面においてはすべてが幼児期にすんでしまうというわけではない。それゆえ,成績不良の子供たちを助けるための補習プログラムが重要なのだ!

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.57-58

単純な因果で考えない

 読者の方々はこういったテーマに関して,くれぐれも原因—結果という直線的な因果律で考えないでほしい。おなかの子どもに影響を与えるものは,残存農薬の影響や環境ホルモンといったレベルの問題から,日常的なものとして,タバコ,酒,薬,シンナー(!)等々たくさんあるのであるから。それにしても10代,シンナーの影響+ドメスティックバイオレンスといっためちゃくちゃな胎児環境の中で,玉のような子どもが生まれることもあればその逆もある。心の臨床の最前線にいると,赤ちゃんや子どもというのは少なくとも生命的にはけっこう丈夫にできているのだなあというのが,筆者の実感であるのだが。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.27-28.

自分の記憶の衰えを知ったとき

 すべて良好というわけではないという最初の兆候は,未来に向かう記憶形式,すなわち展望記憶の衰えであることが多い。展望記憶とは,自分が何をしようとしていたかを思い出す能力である。これは健常者ですら問題の多い想起形式である。心のなかで「……を忘れないこと」とつぶやくことは,かならず忘れることを保証する暗号みたいなものである。もっと深刻な状態になると,計画の実行を遅滞なく思い出すことができなくなるばかりか,何をしようとしていたかを思い出すことすらできなくなる。それらは日常生活に悪影響を与えるだけでなく,衰退や低下のわかりやすい指標でもある。患者自身にとって,とくにはじめのうちは,記憶の喪失は耐えがたい。初期のアルツハイマー病の患者は,自分はもはや健康で正常な人が完全によく知っていることを知らないのだ,ということにひとたび気づくと,かすかな不安から完全なパニックに至るまでのあらゆる段階を経験する。「最終的には自分が忘れてしまったということもすべて忘れてしまうから,惜しいと思うこともないだろう」などという慰めは何の気休めにもならない。なぜなら,それは自分が人として存在するのをやめてしまうことを意味するからだ。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 p.312

レミニセンスは頑健な現象

 ほかの何十もの研究でも,小さな差異はあるが,ほぼ同じパターンが見られた。ルービンとシュルキンとは,数多くの実験結果を集計し,「回想隆起」は40歳の被験者ではまだ見られず,50歳からゆっくりはじまって60歳ではっきりとわかるようになることを確証した。
 レミニセンス効果は頑強な現象であり,病的な状態にあっても完全にはなくならない。フロムホルトとラーセンによる実験では,30人の健常な老人と30人のアルツハイマー症の患者たち(全員が71歳から89歳)に,自分にとって最重要の出来事を15分で回想してもらった。アルツハイマー患者は健常者グループよりも列挙する思い出の数が少なかった(8対18)が,年齢時軸上におけるそれらの思い出の分布状況は,健常な被験者と変わらなかった。アルツハイマー患者も青年期の思い出が一番多いのである。
 レミニセンス効果は,まったく違った種類の調査においても思いがけず現れた。社会学者カール・マンハイムは,世代観についての1928年の論文で,17歳から25歳くらいのあいだに得た経験は政治的世代の形成にとってきわめて重大であると述べている。その理論にもとづいて,社会学者のシューマンとスコットは世代間の違いの量的な研究を行った。18歳以上のアメリカ人1400人以上を対象に無作為の調査を行い,「国家的に,あるいは国際的に重要な出来事」を1つか2つ挙げてもらった。回答者はそれらの出来事に直接かかわっていなくてもよく,自分が生まれる前に起きた出来事を挙げてもよかった。答えはじつに多様で幅広かったが,シューマンとスコットは,挙げられる頻度の高い順に5つの事件を取り出した。年代順にいうと,大恐慌,第二次世界大戦,ケネディ大統領の暗殺,ベトナム戦争,70年代のハイジャックと人質事件である。これらの事件を挙げた人びとの年齢を図表に表してみると,はっきりしたパターンがあることがわかった。人びとが「国家的に,あるいは国際的に重要な出来事」だと考えている事柄は,彼らが20代のころに経験したことが突出して多かった。65歳(1985年当時)の人びとにとっては第二次世界大戦であり,45歳の人にとってはケネディ大統領の死だった。冗談めかしていえば----世界を揺るがす出来事は20歳のときに起きる。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.256-257

初期の記憶と自己意識の関係

 生後何年間かを覆っていたヴェールに関する最新の説明は,その原因を子どもの自己意識の足りなさに求める。「私」とか「自分」がないかぎり,経験が個人的な思い出として貯蔵されることはないというのである。心理学者マーク・ハウとメアリー・カリッジは,幼児は自分自身に関する大量の洞察を別個の「私」としてまず蓄積し,その後それを自伝的記憶のようなものに発展させることができると考える。「私」のない記憶は,主人公のいない自伝と同じで,考えられない。自己意識が子どもに現れはじめる最初の徴候は,1歳の誕生日以降にならないと観察されない。ごく低年齢の子どもも,鏡に映った自分の映像に反応する。それに向かって手を伸ばし,にこにこして,意味のない音声を発する。1歳の誕生日が近づくにつれて,鏡の性質をなんとなく理解し,鏡のなかに見える物体を振り返って見はじめる。しかし,鏡に映っているのが自分であることを理解するのは,生後18ヵ月ころになってからだ。そのころになってはじめて,知らないうちに鼻の頭に口紅を塗られたりすると,鏡のなかの自分の鼻に驚いて,手を伸ばすようになる。鏡に映った自分を一度も見たことのなかったベドウィン族の子どもを対象にしたテストも,鏡の経験はなんら違わないことを実証している。子どもが写真のなかの自分を指差しできるのは,やはり18ヵ月またはそれ以降である。子どもの発達が,たとえば精神障害や自閉症によって遅れると,必然的に自己意識も遅れる。子どもは,実年齢に関係なく,18ヵ月の精神レベルに達すると,「私」としての自分自身を理解するようになるのだ。
 自己意識が芽生えたことを示すもう1つの兆候は「ぼく・わたし」とか「ぼくを・わたしを」という語を使うことである。これらは子どもが身につける最初の代名詞であり,その後何ヵ月か経って「きみ・あなた」が出てくる。だが,これらの語の正しい用法は複雑である。「あそこ」だった場所が,そこに歩いていくと「ここ」に変わるのと同様に,「わたし」と「あなた」は話し手の観点によって変わり続ける。同じ2歳の子どもでも,その子が何かいうときには「わたし」だったものが,誰かがその子に何かいうときには「あなた」になる。「わたし」という人が世の中に大勢いるということも,同じように混乱のもとだ。これら代名詞を正しく使うには,自分と他人との違いがわかることが前提である。大多数の子どもは2歳近くなるまでにこの問題を解決し,以後はどんな場合でも「わたし」と「あなた」と「わたしを」の区別ができるようになる。
 1人の人間の経験を記憶に結びつける「わたし」がある場合にのみ,自伝的記憶は展開される。この記録は,一度開かれると,作者であり主人公である者の参加をどんどん受け入れる。ハウとカリッジの仮説とネルソンの仮説の共通点は,変化するのは記憶そのものではなく,記憶が並べられ,貯蔵される方法だという点である。どちらが先かという問題,すなわち自己認識が自伝的記憶を引き出すのか,その逆かという問題はそれほど重要ではない。それは明確な出発点のないプロセスであり,一方向に進むものではなく,どちらの方向が優勢かさえ決められない。確かなことは,多くの自伝的作品において,いちばん古い記憶はその人のアイデンティティ獲得と関係していることである。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.44-45.

最初の自伝的記憶の特徴

 この手の記憶の混乱はいちばん古い記憶にはよくあることで,その点でいえば,そのあとの記憶についても同様である。だが聞いた話と回想との混乱は,自伝的記憶の形成に必要だとネルソンが主張する,ある一要因に光を当てている。いちばん古い思い出と,しだいに減少する幼児期健忘は,言語能力の発達と合致する。語彙は急速に増大する。子どもは文法的なつながりを理解し,それを使うようになる。過去形の動詞はすでに起きたことを表すということを学ぶ。過去の出来事を話す能力には反復と同じ効果がある。つまり出来事を思い出す機会が増える。また,それはつねに他人に話すという形をとるとはかぎらない。ネルソンは「クリブ・トーク」,すなわち,よちよち歩きの幼児が眠りに入る前に発する無意味な声の研究で,彼らは自分の経験を自分に話して聞かせたがることに気がついた。言語の発達とともに,一部は発達の結果として,ほかの抽象能力の成熟も助けられる。子どもは経験をカテゴリー別に並べ,特定の出来事ではなく,似たような経験に関する記憶を形成していく。
 このような自伝的記憶の発達には二面性がある。多くの思い出と特定の出来事は決まった型にはめ込まれるようになる。3歳の誕生日に生まれてはじめて動物園に連れて行かれた幼児は,しばらくのあいだその記憶を鮮やかに保つだろう。だが数カ月後,今度は祖父母と動物園に行き,さらにずっとあとになって3度目に学校の遠足で行ったとすると,別々の時期に行ったという記憶が「動物園に行く」という一般的な印象に統合されてしまう。このように,より抽象的な体系は記憶を消し去る効果がある。この点で,幼児期の自伝的記憶はそれ以降の自伝的記憶とまったく同じように作用する。たとえばブルターニュ地方での休暇が,小さな港,湾,崖の散歩道,縞柄のセーターなどからなる一般的な印象に,いつのまにか変わっていく。だが一方,同様のプロセスは正反対なことを思い起こさせもする。貯蔵されるのはむしろ逸脱したもの,例外的なもの,驚かされるものである。この説明の重要な点は,私たちのいちばん古い記憶は,反復と決まった型が背景になければならないが,これは3歳以前には起こらないということである。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.40-41

ピアジェの偽記憶

 この件に関していえば,いちばん古い記憶が信頼できないというのは周知の事実である。スイスの発達心理学者ジャン・ピアジェは,思い出すたびにどきどきするいちばん古い記憶として,2歳のときの経験を挙げている。「私は乳母が押す乳母車に乗って,シャンゼリゼ通りを歩いていた。すると男が私をさらおうとした。私は乳母車に紐で固定されていた。乳母は勇敢にも私と人さらいのあいだに割り込もうとして,あちこちに傷を負った。私はそのときの彼女の顔の傷をいまでもぼんやりと思い浮かべることができる。そのうち群衆が集まり,短い上着と白い警棒の巡査がやってきて,男はあわてて逃げた。私はいまでもそのときの情景をすべて覚えており,それが地下鉄の駅の近くだったことも覚えている」。ジャンが15歳のころ,両親のもとに当時の乳母から手紙がきた。自分は悔い改めて救世軍に入ったので,過去の罪を告白したいと書いてあった。あのとき彼女は人さらいの話をでっち上げ,わざと顔に傷をつけたのだった。乳母は,勇敢に赤ん坊を守ったお礼にもらった腕時計を送り返してきた。ジャンは,子どものころに乳母から聞いた話を,心のなかで記憶に変えたのであろう。ピアジェ自身の言葉を借りれば,それは「記憶の記憶,だが嘘の記憶」になったのだ。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.39-40.

夢を思い出すのは9歳から

 こうした調査を通じて,親も科学者も予想しなかった驚くべき事実が浮き彫りになった。9歳から11歳になるまでは,夢の内容も夢を見る頻度も大人のレベルには達しないことがわかったのだ。フォウクスの実験では,9歳未満の子供がレム睡眠中に起こされて夢を思い出せる確率は30%余りにすぎなかった。9歳という節目の年を越えると,大人と同じ80%前後になる。それ以上にフォウクスらの注意を引いたのは,子供たちが話す夢の内容が大人のそれとは大きく異なっていたことだ。しかも,どの子供も年齢が上がるにつれて,より複雑な夢を見るようになった。

アンドレア・ロック 伊藤和子(訳) (2009). 脳は眠らない:夢を生み出す脳のしくみ ランダムハウス講談社 p.64.

幼児期から宗教を気にする

 4,5歳のころから,アメリカの子供は自分の宗教,他人の宗教に関心を持ち,あの子はユダヤ教,この子はキリスト教と区別することにより,自分と他人のつながりを理解する。これは差別するのではなく,他人の特徴を目や髪の色,背の高さなどと同じように,宗教から理解しようとする幼児の行動である。

ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.194

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