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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「発達心理学」の記事一覧

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親の個人的目標に子を使ってはならない

 ここで,両親の行為を,ほかとは違う道徳的規則の管轄下にあるものとして扱わなければならない理由は何一つ存在しないと,私は言いたい。
 もちろん,子供に対する親の関係は,あらゆる面で特別なものである。しかし,子供の個人としての個性を否定するほどに特別なものではない。それは外延を共有する関係でも,所有の関係でもない。子供は親の一部ではないし,比喩的な意味以外に親に「属する」わけでもない。子供は,いかなる意味でも両親の私有財産ではない。実際,この同じ問題について別の文脈で述べられた合衆国連邦最高裁判所の言葉を引くと,「個人は彼自身に属するものであり,他者にも,全体としての社会にも属するものではないというのは,道徳的事実」なのである。
 したがって,もし両親の個人的な目標の達成のために子供が利用されれば,ほかの誰かによって利用されたのと同じように,子供の権利への侵害なのである。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.355
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貧困と発達

 これまで見てきたように,子どもたちは貧困状況に置かれ続けることによって身体的,知的,情緒的にハンディを負う可能性が高まります。とくに,乳幼児期に経済的な困窮状況にある家庭で過ごすことはその深刻さを増す可能性があります。乳幼児期に経済的なことを心配せずに子育てに専念できることの意義は,アメリカの研究などを俟たずとも私たちにも簡単に想像できることです。
 逆に,貧困な子どもたちの発達の保障を考えるとき,家族の所得を増加させることがまず一義的に考えていかなければならない点でした。所得の増加は,家族のストレスを減らし,子どもの発達を促す遊具などの購入や,良い環境の住居で暮らす機会の増加を家族に与え,子どもたちの成長を促進することができます。
 子どもたちの貧困の実態にまったく目を向けようとしないことで,結局,日本社会は大きな社会的損失を被り続けているのかもしれません。子どもたちは,貧困状況の連鎖のなかでもがき,その才能は生かされないままに,かえって発達上のさまざまな課題を背負ったまま次の世代へと,つまりは親になっていきます。

山野良一 (2008). 子どもの最貧国・日本 学力・心身・社会におよぶ諸影響 光文社 pp.256-257.

モラル

 私は当然,いずれ息子の原始的で唯我独尊のモラル感覚も,両親の行き届いた行動としつけによって変わるだろうと思っている。少なくとも,もっとうまく隠しおおせるようにはなるはずだ。大人のモラルの皮も1枚むけば,騒々しい幼児と変わらない。本能まかせの非道ぶりがあらわになる。他人の置かれた状況に共感できなければ,私たちだって青二才の裁判官のように「グレタのバカ!」と軽率な結論に飛びついてしまうかもしれないのだ。また,状況が変わって自分自身が正しいことをしにくくなったときには,“手に負えない二歳児”と変わらない,気分まかせの行動をとっている。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 p.60


感覚器の自覚

 ことによるとみなさんは,私の主張----ある人が外界の物体の色に関して抱く所信は,「感覚様相(モダリティ)の区別がない」可能性が十分あるという主張----は非現実的だと思うかもしれない。しかしそれなら,児童心理学者たちが最近発見した事実について考えてほしい。3歳の子供は,色彩をはじめ,周囲の物体の属性についての所信にどの感覚器を通して至ったか,ほんとうにわからないことがあるようなのだ。3歳児に緑色の軟らかいボールを手に持たせ,何色か訊くと,目で見て緑と答える。硬いか軟らかいか尋ねると,握ってみて軟らかいと答える。ところが,ボールを袋に入れ,色を知るには,あるいは,硬いか軟らかいかを知るには,どうしなければならないか,中に手を入れて触ってみなければならないのか,それとも,中をのぞいてみなければならないのか,と訊くと,わからないと答える可能性が高い。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 pp.30-31

愛せない場合は通り過ぎよ

 子どもが「○○ちゃんていうムカつくやつがいる」と家でふと漏らしたときに,「その子にもいいところはあるでしょう。相手のいいところを見てこっちから仲良くする努力をすれば,きっと仲良くなれるよ」というのは一見懐の広い大人の意見ですよね。その理想通りに運ぶこともあるでしょうが,現実にはなかなか難しいかもしれません。こんなときは,「もし気が合わないんだったら,ちょっと距離を置いて,ぶつからないようにしなさい」と言ったほうがいい場合もあると思います。
 これは「冷たい」のではありません。無理に関わるからこそ,お互い傷つけ合うのです。ニーチェという哲学者の言葉で,「愛せない場合は通り過ぎよ」という警句があります。あえて近づいてこじれるリスクを避けるという発想も必要だということです。
 ニーチェは「ニヒリズム」という言葉で有名な哲学者ですが,もうひとつ「ルサンチマン」というキーワードに焦点を当てて,ものを考えた人です。ルサンチマンとは「恨み,反感,嫉妬」といった,いわば人間誰もが抱きうる「負の感情」のことです。
 誰でも,自分がうまくいかなかったり,世の中であまり受け入れられなかったりしたときに,自分の力が足りないんだと反省するよりも,往々にして「こんな世の中間違っているんだ」と考えたり,うまくいっている人たちを妬んだりするものです。そんな感情を自覚して,「どうやりすごすか」を考えることが大切です。ニーチェは,「ルサンチマンについて陥ってしまうのが人間の常なんだけれども,そこからどう脱却するか」ということを示唆している哲学者です。「やりすごす」という発想が,非常に大事なことだと私は思っています。


菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.71-72.

極論は無意味

 さて最後に,「それでは,親が子どもにどう接するかは問題ではないというのですか?」だが,これはなんという質問だろうか!もちろん問題に決まっている。ハリスは読者にその理由を思い出させている。
 第一に,親は子どもに対して大きな力を行使し,その行動は子どもの幸福におおいに影響する。育児にはとりわけ倫理的な責任がある。親が自分の子どもを殴ったり,自尊心を傷つけたり,与えるべきものを与えなかったり,無視したりすることが許されないのは,大きくて強い人間が小さくて無力な人間に対してそのような行為をするのは恐ろしいことであるからだ。ハリスが書いているように,「私たちは子どもの明日を掌握してはいないかも知れないが,今日を掌握しているのは間違いないし,明日を悲惨なものにする力も持っている」のだ。
 第二に,親と子の間には人間関係がある。自分の夫や妻のパーソナリティを変えられると信じている人は,新婚夫婦を除けばだれもいないのに,だれも,「それでは,夫(あるいは妻)にどのように接するかは重要ではないというのですか?」とたずねはしない。夫と妻がたがいによくしあうのは(あるいは,そうすべきなのは)相手のパーソナリティを望ましいかたちに作りかえるためではなく,満足できる深い関係を築くためである。夫あるいは妻のパーソナリティを改造することはできないと言われて,「彼(あるいは彼女)に注ぎ込んでいるこの愛情がすべて無意味だなんて,おそろしくてとても考えられません」と応答している人を思い浮かべてみよう。親と子についてもそうなのだーーある人のもう一人に対する行動は,二人の関係の質に影響を及ぼす。人生の時間が過ぎていくあいだに力のバランスが変わり,自分がどのように扱われたかを記憶している子どもたちが,親との関係において発言力を増していく。ハリスはこのあたりのことを,「道徳的要請だけでは,自分の子どもによくする十分な理由にならないと思う人は,こう考えてみるといいでしょう。子どもが幼いときによくしておくこと。そうすれば自分が年を取ったときによくしてもらえます」という言い方で述べている。うまく社会生活を送っているが,子どもの時に親から受けた残酷な仕打ちについて話をすると,いまだに怒りで身が震えるという人たちがいる。かと思えば,一人でいる時間に,母親や父親が自分のしあわせのためにしてくれたやさしい行為や自己犠牲,たぶん本人たちはとっくに忘れているそのような出来事を思い出してしんみりする人たちもいる。子どもがそのような思い出を持って成長できるようにという理由だけからでも,親は子どもにいい接し方をすべきである。
 私は人びとがこうした説明を聞くと,目を伏せていくぶん恥ずかしそうに,「ええ,そうですね」と言うのを見てきた。人びとが子どもを理屈や知識でとらえるようになると,こうした簡単な真実を忘れてしまうという事実は,現代の教養が私たちをどこまで遠くつれてきたかを示している。現代の教養は,子どもたちを人間関係のパートナーとしてではなく,好きな形をつくれるパテのかたまりのように考えるのを容易にする。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.226-228.

この子の運命

ハリスは,親が子どもの人格を形成できるという信念がどれほど歴史の浅い偏狭な考えであるかを指摘して,1950年代にインドの僻地の村に住んでいたある女性の言葉を引用している。子どもにどんな人間になってもらいたいと思っているかと聞かれた彼女は,肩をすくめて,「それはこの子の運命で,私が望むことではありません」と答えたのである。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.224-225.

直観を捨てる必要性

子どもたちは学校に行かなくても歩いたり,しゃべったり,物を認知したり,友だちの性格を覚えたりすることを学ぶが,これらの課題は読んだり,足し算をしたり,歴史上の日付を覚えたりすることよりもはるかに難しい。書き言葉や算数や科学を学ぶには学校が必要だが,それはこれらの知識やスキルが発明されたのがあまりにも最近のことで,まだ種全体が要領を進化させるに至っていないからである。
 したがって子どもは,空っぽの容器や万能の学習者であるどころか,特定の方法で推論や学習をするための仕掛けの入ったツールボックスを備えており,それらの仕掛けをうまく使って,本来の目的とはちがった問題を克服しなくてはならない。それには子どもの精神に新しい事実やスキルを入れ込むだけではなく,古いものを除去したり無効にしたりする必要がある。学生がニュートン物理学を学ぶには,まずインペトゥスにもとづいた直観物理学を捨てなくてはならないのである。現代生物学を学ぶには,その前に,生命のエッセンスという立場から考える直観生物学を捨てる必要がある。そして進化論を学ぶためには,その前に,デザインを設計者の意図に帰する直観工学を捨てる必要がある。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.162-163.

大人は子どもの心を知らない

 しかたがないので,ある作家から贈られてきた子どもむけの本を読み始めた。けれど,すぐに放り出してしまった。腹が立ったからだ。なぜかというと,この人は,この本を読む子どもたちに,子どもというものはのべつまくなしに楽しくて,どうしていいかわからないくらいしあわせなのだと信じ込ませようとしていたからだ。このうそつきの作家は,子ども時代はとびきり上等のケーキみたいなものだと言おうとしていたのだ。
 どうしておとなは,自分の子どものころをすっかり忘れてしまい,子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを,ある日とつぜん,まったく理解できなくなってしまうのだろう。(この際,みんなに心からお願いする。どうか,子どものころのことを,けっして忘れないでほしい。約束してくれる?ほんとうに?)
 人形がこわれたので泣くか,それとも,もっと大きくなってから,友達をなくしたので泣くかは,どうでもいい。人生,なにを悲しむかではなく,どれくらい深く悲しむかが重要なのだ。誓ってもいいが,子どもの涙は大人の涙よりちいさいなんてことはない。おとなの涙よりも重いことだって,いくらでもある。誤解しないでくれ,みんな。なにも,むやみに泣けばいいと言っているのではないんだ。ただ,正直であることがどんなにつらくても,正直であるべきだ,と思うのだ。骨の髄まで正直であるべきだ,と。


エーリッヒ・ケストナー(作) 池田香代子(訳) (2006). 飛ぶ教室 岩波書店 p.19-20.


子どもの時間

 子供の一日,一年は濃密だ。点と点の隙間には,さらに無数の点がぎっちりと詰まり,密度の高い,正常な時間が正しい速さで進んでいる。それは,子供は順応性が高く,後悔を知らない生活を送っているからである。
 過ぎたるは残酷なまでに切り捨て,日々訪れる輝きや変化に,節操がないほど勇気を持って進み,変わってゆく。
 「なんとなく」時が過ぎることは彼らにはない。
 大人の一日,一年は淡泊である。単線の線路のように前後しながら,突き出されるように流されて進む。前進なのか,後退なのかも不明瞭なまま,スローモーションを早送りするような時間が,ダリの描く時計のように動く。
 順応性は低く,振り返りながら,過去を捨てきれず,輝きを見いだす瞳は曇り,変化は好まず,立ち止まり,変わり映えがない。
 ただ,「なんとなく」時が過ぎてゆく。

リリー・フランキー (2005). 東京タワー オカンとボクと,時々,オトン 扶桑社 p.83


30代以降は人生の付け足し

一生を左右するような出来事が起きるのはせいぜい二十代までで,あとの人生はその復習か,つけ足しにしか過ぎないのです。

蓮見圭一 (2005). 水曜の朝,午前三時 新潮社 p.58

ピアジェ

 ピアジェは神童だった。1896年8月9日,スイスのヌーシャテルに生まれ,早くから生物学に関心を示した。10歳の時,公園で見つけたアルビノのスズメについて博物学雑誌に寄稿したのが,その後の多彩な叙述活動の始まりである。15歳から18歳にかけて,軟体動物に関する文章を積極的に発表したことが評価され,ジュネーブの自然史博物館で,軟体動物コレクションの学芸員にならないかと誘われたこともある(ハイスクールも終えていなかったので断ったが)。生物学で博士号を取ったのは21歳で,その後興味は心理学へと向かった。チューリヒで勉強を続け,やがてパリのソルボンヌ大学に学び,1920年にはビネ研究室でテオフィル・シモンと並ぶ地位に就いた。シモンとアルフレッド・ビネがビネ=シモン知能テストを開発したとき,ピアジェは知能テストの項目標準化の手伝いをしている。
 伝説によると,テスト項目を調べていたピアジェが強い興味を示したのは,子どもたちが正解したときではなく,まちがったときの反応だったという。年齢によって,頭の回転だけでなく,考え方の質も違っていた。ピアジェは子どもの思考についての論文を発表するようになり,ジュネーブにあるジャン・ジャック・ルソー研究所に地位を得てからも,認識発達の研究を続けた。ピアジェは,ライフワークとして,数多くの著作で自分なりの認識発達論を展開していったが,生物学での蓄積を完全に捨て去ったわけではない。子どもの環境適応方法を強調したその姿勢は,生物学的,進化論的なプロセスの影響を強く受けていた。それによると,子どもは成長とともにいくつかの認識段階をくぐり,12歳ぐらいには最終的な「形式的操作段階」に到達するという。この段階になると,子どもは抽象的思考,つまり言葉や論理表現だけで思考できるようになる。

スチュアート・A・ヴァイス (1999). 人はなぜ迷信を信じるのか 思いこみの心理学 朝日新聞社 p.215


赤ん坊はなぜしゃべりながら生まれてこないのか

 では,ここで,本性の最初に提起した疑問に立ち返ろう。なぜ,赤ん坊はしゃべりながら生まれてこないのか。答は部分的にはすでに出ている。赤ん坊は,発声器官をうまく動かすために自分の声を聞く必要があり,言語共同体に共通の音素,単語,句順を知るために年長者の話すのを聞く必要がある。文の獲得は単語の獲得に,単語の獲得は音素の獲得に依存するから,言語発達は順序を踏んで進行する。しかし,心的機構の実態がどんなものであれ,これだけのことができるほど強力なら,数週間か数ヶ月のインプットがあるだけで十分ではなかろうか。なぜ,3年もかかるのだろう。もっと早くならないものか。
 おそらく,早くはならない。複雑な機械を組み立てるには時間がかかるものだが,人間の赤ん坊は,脳の組み立てが完成する前に子宮から追い出されている可能性が高い。人間は,あきれるほど大きな大きな頭を持った動物だ。頭は女性の骨盤を通り抜けなければならないが,通路の広さには限りがある。他の霊長類が寿命の何パーセントを胎内で過ごすかということから,人間の場合を比定すると,18ヶ月で生まれていい計算になる。赤ん坊が単語をつなぎはじめる時期ではないか。18ヶ月も胎内にいたとしたら,しゃべりながら生まれてきたかもしれないのだ!

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.92


喃語の重要性

 喃語はどうして,これほど重要なのだろうか。赤ん坊の状態は,つまみやスイッチのたくさんついたオーディオ装置を説明書なしで手に入れてしまった状態に似ている。そんな装置を手に入れたら,とりあえずいろいろなつまみを回したり,スイッチをいじったりして,結果を見るしかない。ハッカー語でいう「フロブ」である。赤ん坊も生まれつき,発声器官を動かしてさまざまな音を出すための命令セットを持っている。喃語を発する赤ん坊は自分の声を聞きながら,どの筋肉をどの方向へどのくらい動かしたら,どんな音が出るかを試している。自力で使用説明書を書いているようなものなのだ。親の発音を真似るためには,この作業が欠かせない。コンピュータ科学者の中には,赤ん坊の喃語にヒントを得て,斬新なロボットを作ろうとしている人もいる。とりあえずいろいろやってみながら,内的ソフトウェアモデルを作りだすロボットである。


スティーブン・ピンカー 1995 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.58-59

思想

「思想は言葉のように個々の単語から成り立っているのではない。もし私が,私は今日青いジャンパーを着た男の子が裸足で通りを走っていくのを見た,という思想を伝えたいと思うとき,私は,男の子,ジャンパー,ジャンパーが青であること,男の子は裸足であること,その子は走っていることを,個々別々に見ているわけではない。私は,この全てを思想の不可分な一幕として,同時に見ているのである。しかし,私は,言葉の上ではこれを個々の単語に分解する。思想は常に全体的な,個々の単語をはるかに越えた広がりと容量を持つものなのである。雄弁家は,しばしばひとつの思想を数分間にわたって展開する。この思想は,彼の頭の中では全体として保持されているのであり,決して言葉が展開されるように逐次的に,個々の単位ごとに生ずるのではない。思想の中では同時的に存在しているものが,言葉の中では継時的に展開される。思想は,単語の雨を降らせる雨雲に喩えることができるだろう」(ヴィゴーツキー, 1934)

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.38

思考

 ヴィゴーツキーの発達図式によれば,思考は,外的記号としての自己中心的言語による媒介を経て,内的記号としての言葉ー内言ーによって媒介された思考へと発達していく。したがって,意識の発達は内言の発達と不可分のものなのである。

中村和夫 2004 ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.57 

書き言葉と内言

 書き言葉は,書く前あるいは書いている過程で,あらかじめ頭の中に書きたいことがあれこれと浮かんでくることを前提としている。この頭の中での書きたいことの展開は,まさに内言によって行われる。つまり,書き言葉は内言の絶えざるはたらきを必要としている。

 内言は自分との対話であるから,内言で陳述されていることがらの状況や内容は,その主体にとっては分かっている。第三者に対する話し言葉で不可欠な主語や状況の説明語は内言では不要であり,省略される。内言は言葉の構造という点では非文法的で,主語や説明語が省略された,ほとんど述語の連鎖で成り立っている言葉である。内言は最大限に圧縮された,構文の整っていない言葉であり,内言の意味の世界は当人だけが了解している。

 したがって,頭の中の書きたいことを内言のまま文字にしたのでは,当人にはその背後の意味が分かっても,読み手には全く伝わらない。内言の意味まで伝わる書き言葉には,主語と述語,様々な修飾語や補語,接続詞などが必要である。書き言葉は省略を許されない,最大限に展開された構文的に形の整った言葉なのである。

 こうして,子どもが内言の意味の世界を書き言葉にするときには,最大限に圧縮された言葉を,最大限に展開された構文の整った言葉へと翻訳しなければいけない。しかも,この再構成の過程そのものを自覚的・随意的に行うことができて初めて,書き言葉が綴られることになる。


中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.38

書き言葉と話し言葉

ヴィゴーツキー(1934, 1935):書き言葉は話し言葉を文字へと単純に移し替えたものではない。

 読み書きを学んでいる9歳児(当時のソ連では1〜2年生)が,書き言葉の発達に関しては,話し言葉の発達よりも遅れているという現象があった。9歳児の話し言葉には形容詞や副詞あるいは接続詞などを使った長い従属文がふんだんに登場するのに,同じ9歳児の書き言葉には名刺や動詞や助詞はあるが,形容詞や接続詞があまり登場しない。話し言葉によって与えられる物語は9歳児として理解するのに,書かれた物語については2歳児の話し言葉程度のものしか理解できない。

 書き言葉は話し言葉に対して,ちょうど算数に対する代数と同じ関係にある

 書き言葉はイントネーションを持たず,話し相手なしに行われる。話し言葉は,常に相手の具体的な会話場面での相手とのやり取りであり,相手の表情やイントネーションや対話での相手の応答それ自体が理解を促している。

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.36-37

ルリヤ(1974)による調査研究

 社会革命直後のウズベキスタンでの調査。革命前まではイスラム教の伝統的因習の下で,大部分は読み書きができなかった。革命後,「文盲」撲滅運動が起き,中等学校や職業技術学校が作られ,特に若者たちは読み書きと科学の基礎を習得していった。

 このような変化の中,(1)読み書きができず新しい社会の形態にも参加していないグループ,(2)短期の講習を受けて多少の読み書きができる程度のグループ,(3)学校や講習会に2〜3年いて,職業技術学校に入学した読み書きができる者のグループ,が併存した。

 これらの住民に対して,知覚,抽象的概念,推論,自己意識などについての実験的調査を行った。
 読み書きのできないグループの者の思考の特徴として,抽象的な一般化された論理的思考ができないこと,つまり,概念的思考が成立していないことが挙げられる。彼らの思考は,具体的な場面や行為を離れられない直観ー行為的次元にとどまった。

 ルリヤはヴィゴーツキーにならい,このような思考を「複合的思考」と呼んだ。概念は,個々の対象を,抽象した共通の本質的特徴によってグループにまとめるが,複合は,個々の対象を,それらが具体的な事実として近接した関係にあるということで,ひとつにまとめる。したがって,個々の対象は偶然的(非本質的)な事実関係という脈絡の中でまとめられ,体系性を持たない。概念的思考においては,犬と鶏と小麦と庭木は生物という抽象化された共通の本質的特徴で結合されるが,複合的思考においては,たとえば,それらはみなペトロフのものであるということで,ひとつにまとめられる。

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.34-35

ヴィゴーツキーによる子どもの科学的概念の発達

 ヴィゴーツキーによる,学校教育での子どもの科学的概念の発達と教授との関係の捉え方

 従来の考えを2つにまとめている
 1.科学概念は大人(教師)の思考領域から子どもへと既成の形で受け取られ,したがって,子どもにおけるそれ自身の内面的歴史(内面的発達過程)を持たないというもの。それゆえに,子どもの科学的概念の発達という問題は,科学的知識の教授とその直接的な習得という問題に還元される。ここでは,科学的概念は教師の口から子どもの頭へと直接伝えられるのであり,子どもにおけるその独自の発達過程は問題にされない。
 2.子どもにおける概念の発達の独自の内面的歴史は認めているのだが,そこで研究されてきたのは,もっぱら自然発生的な生活的概念であり,その知見がそのまま科学的概念の発達にも当てはまるというもの。したがって,科学的概念の発達は独自の問題とはされず,生活的概念の発達と本質的に違いはないとされるのである。その当然の帰結として,ここでは,科学的知識の教授ということ自体が問題とならないし,科学的概念の発達ということ自体が,子どもの発達にとって重要な位置を与えられないのである。ピアジェの考えがこれに該当する。

ヴィゴーツキーの考え
 1.科学的概念は子どもに覚えられるものではなく,暗記されるものでもなく,記憶によってとらえられるものでもないと指摘し,科学的概念は既成の形で子どもに直接的に習得させることはできない。科学的知識の教授により,子どもには科学的概念の発達が終わるのではなく,まさにそこから始まるのだ。
 2.科学的概念は日常生活の中で自然発生的に子どもに発達する生活的概念と同じようには決して発達しないし,生活的概念の発達は科学的概念の発達について何も説明できない。つまり,科学的概念の発達は子どもに自然発生的に生ずるものではなく,体系的な科学的知識の教授との関係を抜きにはあり得ない。

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.21-22

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