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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「発達心理学」の記事一覧

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ポジティブな時期

70歳くらいになると,昔できたことができなくなって,「あれもできなくなった」「これもできなくなった」と感じ,できない自分に直面するようになります。それをきっかけに,衰えた自分に対してネガティブな感情を持つことも多く,落ち込んでうつ的になる方もいます。
 しかし,それを超えて90歳,100歳になった方は,何か1つでもできることを見つけると,「まだ,これができる」と感じるようです。新しいことができるようになると「こんなことができるようになった」と喜びます。
 「これしかできなくなった」という言葉はあまり出てきません。本当に小さなことであっても,「自分はまだこれができます。それが今楽しい」というふうにおっしゃいます。長生きされた方はそんな境地になるようです。
 どうしてこんなになんでもポジティブに受け止められるのかとほんとうに不思議なほどです。穏やかでポジティブなので,お話ししていてこちらが気持ちがよくなります。

増井幸恵 (2014). 話が長くなるお年寄りには理由がある:「老年的超越」の心理学 PHP研究所 pp.33-34
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超高齢期

超高齢の方たちは,医学的には健康状態とはいえない状態でも,自分の健康状態が悪いとは感じない方が多いようです。健康状態が良いわけではないのに,「ここまで長生きできたんだし,健康状態は悪くない」と考える人がたくさんいます。
 高齢者心理学の分野では,高齢になるほど,病気になる人は増えるのですが,自己評価の健康度は若い人とほとんど変わらないことが知られています。

増井幸恵 (2014). 話が長くなるお年寄りには理由がある:「老年的超越」の心理学 PHP研究所 pp.28

無視されたボウルビー

ボウルビーの見解は,彼の知っているほぼ全員を怒らせてしまった。アンナ・フロイトは彼を完全に追放した。嘆くという感情が持てるほど乳児に「自我が発達している」という点に,彼女は強い疑念を抱いたのだ。クラインは,赤ちゃんが悲しそうに見え,「抑うつ」段階を通過することは認めたが,それは母親を恋しがっているのではなく,正常な発育なのだと述べた。彼女の主張によれば,ボウルビーが見ているものはすべて性的緊張に対する反応であり,おそらく去勢に対する恐怖と,威圧的な両親に対する怒りだろうと主張した。英国精神分析協会が愛着理論とその創始者をあまりにも目の敵にしたので,ボウルビーは会合に行くのをやめてしまった。「彼の論文は読まれず,引用されず,見られなくなったので,彼は精神分析の世界に存在しないことになってしまった」とカレンは述べている。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.86

喜びという尺度

ボウルビーを知る科学者たちは,彼が典型的な英国紳士であり,ときに傲慢で,性格も口調も皮肉っぽく,感情的でなく,見るからにクールだったと記憶している。しかし,WHOの報告書では,彼は激烈だった。電線を流れる電気のように,どのページでも怒りがうなり声をあげていた。「母親業とは,当番制でできるようなものではない。互いの性格を変化させる,生きた人間同士の関係なのだ。正しい食事とは,カロリーやビタミンの供給以上のことが求められる。もし食事が有益なものなら,われわれはそれを楽しむべきだ。同じように,母親業も1日に何時間という尺度で考えるべきではない。母と子の双方が一緒にいる喜びという尺度でのみ考えるべきなのだ」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.82

大人の時間

中年になっても,予期的に時間を評価した時の1時間はいつも通りの速さで進み,1日が過ぎる速度も変化はしない。人は1ヵ月や1年が過ぎるのが速すぎるとショックを受けることはあっても,1時間が速く過ぎるようになったとは感じない。時間の流れの目印は,年月が過ぎるのを常に私たちに知らせてくる。ベルリンの壁崩壊からもう20年が過ぎたと聞いて,私たちは驚く。自分が今も使っている物が,ヴィンテージ・ショップで売られているのを発見する。何よりもショックなのが,90年代生まれの同僚たちの存在だ。彼らはまだまだ学生のはずなのに!こういった目印が知らせる経過時間と,私たちが新たな記憶の数をもとに追想的に評価した経過時間は,大きく食い違う。中年以降は新たな経験の数が少なく,したがって新たな記憶の数も少ないため,私たちは予期的に評価した経過時間と,追想的に評価した経過時間とのずれを何度でも感じる。

クラウディア・ハモンド 度会圭子(訳) (2014). 脳の中の時間旅行:なぜ時間はワープするのか インターシフト pp.185-186

学童期の時間

子供たちが10代半ばになるころには,思い出の隆起が作動し始める。学校の課題や試験勉強によって時間が引き延ばされることはあるが,こなさなければならない日課はしだいに減っていき,自由が増えて,それから間違いなく初体験の数々がやってくる。始めてのセックス,初めてのお酒,初めての恋,初めて故郷を離れ,自分の行動やあり方を初めて自分で決める。前述したとおり,この時期にはアイデンティティが確立されるため,これらの初体験は記憶にしっかりと刻まれてすぐに思い出せる。この時期の記憶が特に鮮やかなのは,新たに確立したアイデンティティの強化に役立てるためだと述べたが,私の意見としては,それ以外にも,成人の仲間入りをするこの時期が,追想的に時間を計るときの基準になることも原因の1つだと思う。数えきれないほどの新しい出来事に出会う時期は少なくとも20代半ばまで続き,そのころには私たちは記憶の数から時間の長さを判断するようになっている。

クラウディア・ハモンド 度会圭子(訳) (2014). 脳の中の時間旅行:なぜ時間はワープするのか インターシフト pp.185

子どもの時間

新しい体験に満ちた生活を送っている7歳の子供を例にとって考えてみよう。すでにわかっていることだが,この子は大人に比べて時間がゆっくり過ぎると感じている。それがなぜかを理解するために,この子が時間の流れを予期的,追想的にどのように感じているか改めて考えてみよう。子供の場合は大人よりもパラドックスが生じることは少ないのだが,それは予期的に見ても時間が引き伸ばされる場合があるからだ。子供の生活は大人に比べてはるかに自由が効かないうえ,やりたくもないことをやらされる時間が多い。あなたも子供のころに,いつ終わるともしれないドライブ旅行に連れて行かれたことや,退屈なレッスンが早く終わらないかと思いながらいたずら書きをしていたことがあるだろう。その反対に楽しいことをしているとき,夢中になった子供は大人より充実した時間を過ごせるようだ。子供はビニールプールで新しい遊びを考えたり色々なことを試したりして,大人には真似できないほど何時間でも楽しく過ごしていられる。そんなときの時間の流れは速くて,速すぎると感じるくらいだ。彼らはプールから上がって昼食を食べなさいと言われて驚く。そばで見ている親にとっては,時間がゆっくりと流れていたが,遊びに夢中な子供たちは,あっという間に時がたったと感じていたのだ。夜になって寝る時間が近づくと,さらに時間は速く流れ,あと1回だけゲームをさせて,あと少しだけ遊ばせて,あと1つだけお話をして,と懇願することになる。子どもたちが経験するこの現象はホリデー・パラドックスの変形版で,予期的な時間の見方が大人に比べて未熟なために複雑化したものだ。子供の毎日は新しい経験に満ちているので,急いで学校へ行くように親から言われても,どんな探検のチャンスも逃したくない。道路工事をやっていれば立ち止まって眺め,犬に出会えば頭をなで,変わったことがあればすぐに見つけて,何でもやってみようとする。敷石の割れ目を踏まないように跳んで歩いたり,でこぼこした塀に登ってその上を歩いたりできるのに,なぜ歩道を歩く必要がある?つまり,子供の生活には退屈なことを無理やりやらされて時間がゆっくり流れるときも少しはあるが,全体として見れば,大人の休日と同じように面白いことにあふれていて,新しい記憶がたくさんあるため,あとで振り返ると1ヵ月,1年が引き延ばされているように感じるのだ。

クラウディア・ハモンド 度会圭子(訳) (2014). 脳の中の時間旅行:なぜ時間はワープするのか インターシフト pp.184-185

海外から養子を

ミネソタ大学のハロルド・グロテバント(55歳)も,養親の都合が先行していることを認める。グロテバントは,全米の720人の生みの親らを継続調査し,養子縁組の功罪を丹念に研究しており,アメリカ内の養子縁組のトレンドを追っている研究者の1人だ。
 「より健康で,より年齢の低い赤ちゃんを確実に見つけようとすれば,養子を望む夫婦の視線は海外に転じることになる。場合によっては,これに『より早く』という要素も加わる。米国内の養子縁組で出会える健康な子どもの数はかなり少ないし,里親制度を通じて比較的大きな子どもを縁組するのは容易だが,赤ちゃんを受け入れるには何年もかかるからです」
 アメリカ国内では白人の養子は常に少なく,需要過多の状態にある。費用は3万ドル前後が相場といわれるが,時間がかかる。白人以外の養子はたくさんいて,斡旋事業者によっては費用を安くするところもある。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.148

自己認識が不快な時

自己認識は本質的に不快なものだという考え方は,思春期以外の多くの人が,自分のことを考えたり,鏡を見たりするときに楽しさを感じるという事実とも矛盾している。さらに研究が進められると,人は「平均的な人間」と自分を比べることで満足を感じられるということがわかった。私たちはみんな,自分は平均より上だと思いがちだ。また今の自分を過去の自分と比較して喜びを感じることもあるが,それは年を重ねるに従って進歩すると思っているからだ(体は衰えるにもかかわらず)。
 しかしゆるい規範と自分を比較すれば満足を得られると考えても,人間の自己認識の進化を説明することはできない。人がよい気分になるかどうかは進化には関係ない。生存と生殖の可能性を高める性質が選ばれて残るのだ。では自己認識能力には,どんな利点があるのだろうか。それに対する最高の答えは,心理学者のチャールズ・カーヴァーとマイケル・シャイエーがたどりついた重要なアイデアにあった。自己認識が進化したのは,自己コントロールを助けるためだ。彼らはデスクに向かって座らせた被験者を観察するという,独自の実験を行なった。デスクの前にはさりげなく鏡が置いてあるのだが,特に重要な意味を持つようには見えない。実験の説明をするときにあえて触れることもない。しかしこれがあらゆる種類の行動に大きな変化を起こした。鏡で自分の姿が見える被験者は,他人の命令よりも自らの信念に従って行動する傾向がある。他の人に電気ショックを与えるよう指示されたとき,鏡が見える被験者は,鏡が見えない対照群の被験者よりも自制心が働き,攻撃的になりにくい。また与えられた作業に熱心に取り組み続けた。意見を変えるよう脅かされても,脅しに屈せず自分の意見に固執し続けた。

ロイ・バウマイスター&ジョン・ティアニー 渡会圭子(訳) (2013). WILLPOWER 意志力の科学 インターシフト pp.148-149
(Baumeister, R. F., & Tierney, J. (2011). Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength. London: Penguin Books.)

二者択一

ちょっと想像してみてほしい。あなたの子供が生まれた日,医師から2種類の乳児用サプリメントを差し出され,どちらかを選ぶよう命じられたとする。一方のサプリメントは神童になれるが成長後はただの人になる可能性が高く,感情面に重大な問題が生じる恐れもある。もう一方は感情のバランスが取れた子供になり,幼いうちは運動にも音楽にも秀でたところは見えないが,少しずつツールを集めることで自信を深め,研鑽を積み,人間関係をしっかりと築いて,ハードワークの価値を心から信じるようになる。長い目で見れば,後者のほうは成人後,偉大なことを成し遂げるのに必要な資質を手にしていることになる。
 この二者択一は少々ばかばかしく思えるかもしれないが,多くの親が意識下でこういう選択をしている。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.166

スポーツ地理学

こういう例は枚挙にいとまがない。スポーツの卓越した能力が1ヵ所にかたまって出現することはしばしばあるのだ。だから,いまや「スポーツ地理学」という小規模な学問分野が出現し,この現象について研究が進められている。それによって判明しているのは,スポーツ選手が地理的なかたまりをなす要因がいくつもあることだ。成功をもたらすのは,気候,生活環境,人口動勢,栄養状態,政治,訓練,気風,教育,経済事情,習俗のさまざまな貢献である。要するに,スポーツ選手の地理的なかたまりは,遺伝的にではなく,体系的につくられる。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.125

スキルセットが異なる

第一に,スキルセットの種類がまるで異なる。ひときわすぐれた子供になるのに必要な属性は,成功した大人になるのに必要な属性とは異なるので,成熟すれば自動的にひときわすぐれた大人になれるわけではない。「IQの高い6歳児は,頭のなかで三桁の掛け算ができたり,代数方程式を解くことができたりすれば,称賛される」とウィーナーは説明する。「だが,青少年になると,数学上の未解決問題を解く新しい方法を考案したり,新しい問題や領域を見つけて研究したりする必要がある。でなければ,数学の世界で名をなすことはできない……。それは,美術の世界でも音楽の世界でも同じことである。神童は完璧であれば称賛されるが,いつかその先へ進まなければ世間に忘れられてしまう」

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.114

環境の要求

子供は環境が要求する分だけ発達する。1981年,ニュージーランドを拠点にする心理学者のジェイムズ・フリンは,まさにこの言葉どおりであることを発見した。100年以上にわたって測定された生のIQスコアを比較したところ,その数値が少しずつ上昇していた。見かけ上,数年おきに以前よりも賢い受験者集団があらわれていた。つまり,1980年代の12歳のIQは1970年代の12歳よりも高く,1970年代の12歳のIQは1960年代の12歳のIQよりも高かった。あとの時代になるにつれてIQが高くなったのだ。この傾向はある地域や文化にかぎったことではなかった。また,時代間のスコアの差は小さくなかった。平均すれば,IQスコアは10年ごとに3ポイント上昇していた。2世代で18ポイントにのぼるのだから,これはたいへんな違いである。
 この違いはあまりにも大きく,理解しがたいほどだった。20世紀後半の平均値を100とすれば,1900年の平均値は60ほどだったのだ。このことから,ひどくばかばかしい結論が引き出された。「われわれの先祖の大半は知能が遅れていた」というのだ。知能指数が徐々に上昇する現象,いわゆる「フリン効果」に対しては,心理学の認知研究の分野から疑いの声が上がった。どう考えても,人間は100年足らずのあいだに飛躍的に賢くなったとは言えない。もっと別の理由があるはずだった。
 フリンは,IQスコアが上昇しているのは特定の分野に限られることに目をとめ,そこから重要なヒントを得た。現代の子供たちの成績は,一般知識や数学では昔の子供たちとあまり変わらなかった。ところが,抽象的論理の分野では,フリンによれば「困惑するほど大きく」進歩していた。時代をさかのぼるほど,仮言や直観的問題に苦心しているようすがあった。どうしてだろう?それは,世の中がもっと単純だった100年前には,現代のわれわれの頭の中に入っている基本的な抽象概念は,ほとんど知られていなかったからだ。「1900年におけるわれわれの先祖[の知能]は,日常の現実のみに向けられていた」とフリンは説明する。「われわれが彼らと異なるのは,抽象概念,論理,仮説を用いることができる点である……。1950年代以降,われわれは,以前に学んだルールに縛られず,問題をただちに解くことに巧みになった」
 19世紀の人びとの頭の中に存在しなかった抽象概念の例には,自然選択説(1864年に初めて提唱された),対照群の概念(1875年),無作為標本抽出の概念(1877年)などがある。100年前のアメリカでは,化学的な方法論自体,ほとんどの人になじみのないものだった。一般大衆にとって,抽象的に思考する条件がととのっていなかったのだ。
 言いかえれば,IQスコアの劇的な上昇のきっかけは,原因不明の遺伝子変異でもなければ,摩訶不思議な働きをする栄養素でもなく,フリンの言う「全科学的な操作的思考からポスト科学的なそれへの[文化の]移行」だった。20世紀になると,基本的な科学法則が少しずつ大衆の意識に入りこみ,われわれの世の中を変えていった。この変化は,フリンによれば,「人間の心の解放にほかならない」のだった。

デイヴィッド・シェンク 中島由華(訳) (2012). 天才を考察する:「生まれか育ちか」論の嘘と本当 早川書房 pp.56-57

感情の共有

人は,互いをよく知れば知るほど話も気軽にできる。そして互いをよく知るためには,感情を共有することが大切だ。子供が生まれた後,会話が堅苦しくなってしまうのは,この感情の共有が少なくなったせいである場合が多い。夫と妻は互いに感情的なふれあいがなくなっていると感じ,よく知らない者同士で話をするのが難しいように,話すのに困難を感じるようになる。2人が離れはじめる最初の主な原因は,時間がないことだ。四六時中世話を必要とする子供がいるのに,互いの感情をいつもくみとれるほど余裕のある人などいるだろうか?そのうえ移行が進んでいくにつれ,しばしば第二の原因が出てくる。自意識の抑制ともいえるものだ。コミュニケーションが少なくなっているため,夫や妻は今や,以前は躊躇なく分かちあっていた考えや感情を口に出すことを,なれなれしすぎるとか,個人的すぎるとか,悪くとられるのではないか,などと考えるようになる。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.218

破壊的けんか

それでは,破壊的なけんかをする人は,どのような性格が特徴なのだろう?
 彼らの議論もまた,結婚における対立の基本形式にのっとっている。たいていは妻の方が2人の関係についての問題をもちだして議論をはじめ,夫は身を引こうとする。けれども破壊的なけんかをする人が持ちこむ感情は,そのけんかの形式を非常に違ったものにする。彼らの結婚生活は多くの場合,相手を恨んだり腹を立てたりといったことが日常的に数多くあり,またこうしたことをやわらげる互いへの思いやりや愛情が不十分である。とくにこうした否定的な感情をもっていると,配偶者が悩みの危険信号を出しても無視するようになり,相手への配慮や理解のサインにさえ気づかないことがある。この傾向はとくに,破滅的なけんかをする妻によくみられる。録音テープでも,彼女たちは夫の和解の申し出や,ぐち,弁護,身を引くといった悩みのサインを無視し,しだいにいらいらをつのらせるのがわかる。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.202

建設的なけんか

建設的なけんかをする人の良いところは,互いにたいして愛情と敬意をもっていることだ。簡単に言えば,2人は愛しあい,好きあっている。そして議論をしているとき,この感情は2つの重要な役割を果たす。ひとつは議論の限度をわきまえていることだ。意見の表明や議論はエスカレートすると,たんなる解決の場から,相手を断罪することが第一の目的である市街戦へと化してしまうが,このタイプの人はこの不可侵のラインの内側にとどまっているのだ。最近の調査では,戦いでひどく傷ついたり傷つきそうになって争いをやめたいと思ったときには,男女共に特別のサインを発することがわかっている。男性の場合には,哀れっぽい声を出したり,自己弁護をしたり,なんとか撤退しようとしたりする。女性の場合は,寂しさと恐れの表明だ。こうしたサインが無視されると,傷ついたパートナーはしばしば腹を立て,けんかはコントロールがきかなくなる。建設的なけんかをする人は,こうした警告サインのぎりぎりまで議論をするため,2人ともフラストレーションや腹立ちを存分に話すことができる。それでいていったんこうしたサインがあらわれれば,攻撃している側は無意識のうちに危険を感じとり,後退して相手が優雅に撤退する道を開く。
 建設的なけんかをする人の第2の特徴もまた,互いにたいする愛情から出ている。議論で重要なのは勝つことだ。建設的なけんかをする人にとってもこれは同様だが,同じように重要なのは,いま2人の幸福を阻害しているものをなんとか早く終わらせたいという気持ちだ。オランダの心理学者キャス・シャープの研究によると,この気持ちが,建設的なけんかをする夫婦と他の夫婦との違いだという。白熱した議論の最中でさえ,2人は譲歩や妥協のかたちで,互いに和解の糸口を与えあっている。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.198-199

同じ喧嘩の型

建設的なけんかをする人も,破壊的なけんかをする人も,けんかを避ける人も,みんな基本的には同じかたちをとる。妻が対決的で,夫は用心深くなかなか心を開かず,はっきりと不賛成の意をあらわすのを躊躇する。けれどもこのなかで建設的なけんかをする人だけは,以後長期に渡る結婚生活の幸せを促進するために,摩擦を上手に利用する方法を知っている。訓練されていない目と耳には,彼らのけんかは他の人のけんかと少しも変わらないように思える。けれども真剣な議論のなかで,2人はそれぞれこの重要な問題に関する自分の意見や考えをぶちまけ,フラストレーションや苦しみを表にあらわす。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.198

摩擦の原因

雑用を例にとってみよう。家事分担を半々かそれに近くという女性の願望は,摩擦を引き起こすことが多い。というのも,このことは中間型男性の信念(“夫は家庭に貢献すべきであるが,育児,食事の支度,洗濯は本来は妻の仕事だ”)とぶつかるからだ。働いている女性は,子供や家庭に関する精神的な責任も2人の間で分担されるべきだという信念をもっているが,これもよく摩擦を起こす。彼の父親や祖父と違って,中間型の男性は,子供を風呂に入れたり,おむつを取り替えたりといった肉体的な責任の分担はする。けれど相変わらず,家庭と子供に対する精神的な責任分担,たとえば小児科医の検診の日取りを決めたり,保育の手配をしたり,ショッピング・リストをつくったり,といったことは女性の仕事だと信じている,あるいは少なくとも信じているふりをする。これは妻が仕事を持っていても同じだ。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.52

別の物差し

どうして新しい母親は,自分たちに必要な援助や支えが得られないと感じるのだろうか?ひとつには,家事分担の量を,男性と女性はそれぞれ別のものさしで測っているためだ。妻は夫の仕事量を測るのに自分の仕事量を基準に考える。自分を基準にすれば男性がしていることはずっと少ないので,女性は右にあげた妻のように,おもしろくないし不満を抱く。いっぽう男性は家事にたいする貢献度を測るのに,ふつう自分の父親を基準にする。そしてこの物差しで測れば,1週間に15〜16時間というのは父親の世代の30〜40パーセント増しとなるため,右の夫のように自分の家事への貢献度に満足してしまうのだ。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.44

雑用の増加

最近の数字が,子供の誕生によって増える雑用の多さを衝撃的に示している。もともと子供がいなくても行なっていた家事,たとえば皿洗いは1日1〜2回から1日4回へ,洗濯は週に1回から週に4,5回へ,買い物は週に1回から3回へ,食事の支度は1日2回から4回へ,掃除は週に1回からたいていは1日1回へと増える。そのうえ育児の雑用がある。平均して,1日に6,7回はおむつを替えなければいけないし,1日に2,3回入浴させ,ひと晩に2,3回,昼間も5回はあやす必要がある。何もできない赤ちゃんが加わることによって,かつては簡単だったことも,ひどく複雑で時間のかかるものになってしまう。ある父親は憤りを隠さない。「いまではアイスクリームひとつ買いに出るのも月ロケットを飛ばすくらい大変ですよ。まずアレックスのおむつがぬれていないかをチェックし,それから服に押し込んで,次にベビーカーに入れます。そして,ぬらしたときのために余分のおむつをつめ,騒ぎ始めた場合に備えて哺乳瓶も入れなければなりません」
 1960年代の男性とくらべると,この父親のような人は,育児や家事にあきらかにずっと多く関わっている。いくつかの調査によれば,30年前の男性は平均して1周間に11時間を家事と育児に費やしていた。今日では15時間から16時間である。しかしこの増えた分の3,4時間は,母親の負担を目に見えるほど軽くはしてくれない。女性がフルタイムで働いている家庭でも,おむつ替えや食事,入浴など,母親の育児に向ける時間は夫をときに300パーセント近くも上回っている。別の言い方をすれば,夫が3回おむつを替えるとき,妻は8回替えているということだ。家事に費やす時間も移行期間は約20パーセント増える。

J.ベルスキー・J.ケリー 安次嶺佳子 (1995). 子供をもつと夫婦に何が起こるか 草思社 pp.42-43

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