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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「発達心理学」の記事一覧

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社会の構造

しかし,これが暗黙の規範の次元になると話が違ってくる。まず結婚は「するのが普通」という通念がある。個人がその生涯を独身で通す確率を生涯未婚率といい,便宜的に50歳時点での未婚率で表すが,2010年時点での生涯未婚率は男性で20.1%,女性で10.6%である。1970年時点では男性は1.7%,女性は3.3%であったから,かなり上昇してきたとはいえ,まだまだ結婚する人のほうが多数派である。そうした社会では,結婚しないライフコースを選択することは(あるいは心ならずも選択せざるを得ないこと)はそれなりの覚悟を必要とする。周囲の「なぜ結婚しないの」という素朴な質問にいちいち答えていかなくてはならないし,所得税もたくさん取られるし,老後の不安も大きいものになりがちである。つまり私たちの社会の構造は人々が結婚というライフイベントを選択しやすいような仕組みになっているといってもよい。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.68
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転機

ストレスがあまりに大きくなると,人は自己を守るために,役割の方を切り捨てる(あるいは別の役割と取り替える)という行動に出る。具体的には,労働市場における退職や転職,家族における離婚や再婚,学校における退学や転校という行動がそうである。こうした行動はその当然の結果として生活の構造の大きな変化を引き起こすことになる。それはしばしばその人にとっての「人生の転機」として語られることになる。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.53

イメージ作り

大人の何が楽かといって,仕事は辞められるが,子供は学校は辞められない。また,事実上,子供の自由で学校は選べない。大人は仕事を選べる。これだけを取っても,子供の方が過酷である。仕事は基本的に自分の得意な分野であるはずだ。一方,学業は,不得意なものでも,(特に小さい子供ほど)しっかりと向きあわなければならない。
 仕事が凄いものだというイメージを,まるでテレビコマーシャルのように大人は作っている。実際に,テレビコマーシャルになっているものもある。たとえば,「国を動かす仕事」とか,「未来を築く仕事」とか,そういう言葉の印象だけで大きく見せる。まるで,それらが「ゲームを作る仕事」よりも「やりがい」があるかのようだ。そんなイメージを植えつけようとしているのである。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.48

Kaganの気質研究

 ケーガンらは,生後4ヵ月の赤ん坊に慎重に選んだいくつかの新しい体験をさせた。録音した声を聞かせたり,色鮮やかなモビールを見せたり,先端をアルコールに浸した綿棒を嗅がせたりしたのだ。それらの未知の体験に対して,赤ん坊たちはそれぞれに反応した。全体の約20%は元気よく泣いて,手足をばたつかせた。ケーガンはこのグループを「高反応」と呼んだ。約40%は静かで落ち着いたままで,時々手足を動かすものの,さほど大きな動きではなかった。ケーガンはこのグループを「低反応」と呼んだ。残りの40%は「高反応」と「低反応」の中間だった。ケーガンは物静かな10代に成長するのは「高反応」グループの赤ん坊だと予測した。
 その後,赤ん坊たちは2歳,4歳,7歳,11歳の時点でケーガンの研究室に呼ばれて,見知らぬ人やはじめて体験する事柄に対する反応をテストされた。2歳のときには,ガスマスクをかぶって白衣を着た女性や,ピエロの格好をした男性や,無線で動くロボットに引き合わされた。7歳のときには,初対面の子供と遊ぶように指示された。11歳のときには,見知らぬ大人から日常生活についてあれこれ質問された。ケーガンらはこうした外部からの刺激に対して子供がどう反応するかを観察し,ボディランゲージを解読するとともに,自発的に笑ったり話したり笑みを浮かべたりする様子を記録した。さらに,両親と面接して彼らの普段の様子について尋ねた——少数の親しい友達とだけ遊ぶのが好きか,あるいは大勢で遊ぶのが好きか?知らない場所を訪ねるのが好きか?冒険派か,それとも慎重派か?自分のことを内気だと思っているか,それとお大胆だと思っているか?
 子供たちの多くが,ケーガンが予測したとおりに成長した。モビールを見て盛大に手足を動かして騒いだ20%の「高反応」の赤ん坊の多くは,思慮深く慎重な性格に成長した。激しく反応しなかった「低反応」の赤ん坊は,大らかで自信家の性格に成長している例が多かった。言い換えれば,「高反応」は内向的な性格と,「低反応」は外向的な性格と一致する傾向が見られた。

スーザン・ケイン 古草秀子(訳) (2013). 内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力 講談社 pp.128-129
(Cain, S. (2012). Quiet: The power of introversion in a world that can’t stop talking. Broadway Books: St. Portlamd, OR.)

親も目一杯

親ごさんは親ごさんで,いっぱいいっぱいなのでしょうね。Aさんのご両親にしてみれば,自分の子どもがそのような行為をしたということは,ご自分たちの恥とお感じになるのだと思います。自分の恥なので,そのことについて話すことは耐え難い屈辱と感じてしまうのでしょう。なので,自分に恥をかかせた子どもを叱る,感情的になれば殴るということもあるのでしょう。学校に対しては,十分に叱ったので,もうこれで終わりにしてください,これ以上私たちの恥に触れないでくださいといった感じになってしまうのでしょうね。
 この場合,お子さんの感情と親ごさん自身の感情の区別がついていないわけです。お子さんの話を聴いてあげるという対応ができるためには,親自身の感情と子どもの感情がきちんと別のものになっていることが必要なのです。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.149

やればできる

まちがうことを恐れる傾向は,大学生にも見られる深刻な問題だと感じます。優秀な大学生の場合,大学にくるまで「やればできる」という経験のみをしているので,「やってもできない」経験を大学ではじめて経験すると,ショックを受けてしまうということがあります。
 幼いころから,「やればできる」と励まされて育って努力してきたわけですから,無理もないかもしれません。社会人として職業専門性を身につけて行くときの学び方は,「まちがうことから学ぶ」という学び方になるわけですが,「予習をしてまちがわないようにする」ことに必死になってきた子どもたちは,社会人になってから,挫折しやすい脆さを抱えてしまっています。
 そういう意味では,親ごさんたちも,その不安を抱えたまま親になり,子どもがまちがわないようにコントロールしようとする悪循環になっていると言えるかもしれません。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.135-136

適切な言葉を

現実の大人から認めてもらえない身体感覚としてのネガティヴな感情は,言葉とのつながりをもてずにエネルギーとしてのみ存在することになります。そのような状態でテレビやゲームに浸るとき,自分の身体を流れるネガティヴな感情とフィットする言葉に出会うわけです。
 いらいらむかむかしているときに,ゲームで「死ね!」と言いながら敵を倒すと,すっきりする。そのようなとき自分の身体感覚とともに,自分の感情をあらわす言葉として,不適切な乱暴な言葉を獲得してしまうのではないかと想像します。
 だから,「死ね!」と言っているときには,本当は「くやしい」という気持ちであるかもしれないし,「つかれた」と言っているときには本当は「悲しい」という気持ちであるかもしれないし,「別に」は「不安だ」という気持ちであるかもしれないわけです。
 単純な言い方をすると,子どもたちは,ネガティヴな感情をあらわす言葉をまちがって学習してきたといえるでしょう。ゲームやテレビやインターネットの問題は,大人が子どものネガティヴな感情を承認できなくなっている傾向と対になっているときに,子どもに重大な悪影響をもたらすものになると言えるのではないかと思います。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.123-124

身体と言葉

赤ちゃんが言葉を覚えていくとき,どうやって覚えていくでしょうか?
 「まま」とか「まんま」といったお母さんやごはんをあらわすコトバを最初に覚えるお子さんが多いですよね。一番ほしいもの,その欲求を満たしてくれる「もの」と「ものの名前」が一致することで,言葉を覚えていきます。いちご,バナナ,テレビ,お花,いす,テーブル,など「ものの名前」の獲得によって言葉を増やしていきます。
 しかし,「うれしい」「悲しい」「さみしい」など感情をあらわす言葉は,「もの」がありません。では,「もの」がないのに,どうやって覚えるのでしょうか?
 あゆみちゃんを,ブランコに乗せて後ろから押してあげると,きゃっきゃっと大喜びしますよね。風が気持ちよくて,お空がゆれて,ふわふわした気分で大喜びです。ママもパパも自然に「うれしいねぇ」「楽しいねぇ」と声をかけますね。
 そのとき,あゆみちゃんの身体の中を流れている喜びのエネルギーを,ママとパパが自然に感じ取って,それを言葉にして返すという相互作用が自然に起こっています。子どもにとっては,自分の身体の中を流れているエネルギーの感じ,身体感覚と「うれしい」という言葉が結びつくという学習をしていることになります。
 つまり,身体感覚が「もの」にあたり,「うれしい」が「ものの名前」にあたるのです。だから,感情をあらわす言葉を獲得するためには,大人との相互作用がいつも必要なのです。感情は,身体の中を流れる混沌としたエネルギーにすぎませんが,言葉を結びつくことによって,他者にそれを伝えることができるものになります。このプロセスを環状の社会化と言います。「うれしい」という感情が社会化されている人たちの間では,「うれしい」という言葉を使うと,その感情があらわす身体感覚を推測することができます。それによって,共感するということが可能になるわけですよね。

大河原美以 (2006). ちゃんと泣ける子に育てよう:親には子どもの感情を育てる義務がある 河出書房新社 pp.32-33

人を見て法を解く姿勢に欠ける

 たとえば,迷留辺荘主人は仮にも心理学者であったから,問題行動のある子どもを持ったおかあさんが相談に来たりすることがよくあった。ある時,家の中のお金を無断で持ち出してしまう子どものことでオロオロしながら相談に来たおかあさんに向かって,迷留辺荘主人は,「できるだけあちこちにお金を置いといて,あとはうっちゃらかしておきなさい」と言ったものである。その子がお金がほしいのに,お金をかくしたりするから無断で持ち出すのであって,いくらでもその辺にお金がころがっていれば,無断で持ち出すようなことはしなくなるものだ,というのが迷留辺荘主人の考えであった。その提言は,ひとつの見識であろうけれども,オロオロ相談にやってきたおかあさんの気持ちとは落差が大きすぎて,おそらく実行には移されなかったにちがいない。いったいに,迷留辺荘主人には,「人を見て法を説く」姿勢にいささか欠けるところがあったように思う。

内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.31

分類の妨害

 最初の実験において,被験者は3,4歳の子供だ。子供はカードを分類して左と右にある2つの箱に入れる。それぞれのカードには,赤色の星か青色のトラックが記されている。左の箱には赤色のトラックが,右の箱には青色の星が記されている。
 子供は色ゲームから始める。赤色のカードを左に,青色のカードを右に入れるように言われる。このゲームは簡単だ。子供はカードの山をすべて分類する。
 次に子供はゲームに移る。今度はトラックを左に,星を右に入れる。実験者は子供が規則を分かっていることを確認する。分類が始まる。
 もちろん,この課題をうまくこなす子供もいる。すべきとおりに,トラックを左に,星を右に入れる。しかし,3,4歳だと,多くの子供がそのようにはしない。その作業の映像を見ると意外な感じがする。子供は赤色の星を取る。「これは星だ」と言い,形ゲームの規則を尋ねられると,右を指さしてどこに星を入れるかを示すことができる。しかし,分類しだすと,赤色の星をまっすぐに,前に赤色のものを入れていた左の箱に入れる。色ゲームの古い習慣が形ゲームの新しい知識と競合する。子供が実験者の質問に答えている間,新しい知識が支配していた。しかし,課題に取りかかり,カードを入れるとき,新しい知識はこっそりと立ち去り,古い習慣が支配力を再び主張する。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.261-262

我慢できる子とそうでない子の違い

 ミシェルは我慢できた子とできなかった子で大学適性試験にどれほどの違いが出たかは発表していないが,ある人々には210ポイントの違いがあったと語っている。これはそうとう大きな違いだ。それだけではない。ミシェルによると,我慢できる時間が最も短かった子どもたちは平均して成績が低くて停学処分も多く,「たいていはいじめっ子に育った」という。「楽しみを我慢する能力は体重とも関係があった。我慢できる時間が長かった子どものほうが細かったのだ(この発見は最近行われた1800人以上の子どもたちを対象とした2つの調査の結果とも一致する。研究者たちはミシェルと同じように,4歳児と5歳児に,我慢できたらもっといいおやつをあげるよ,と言った。楽しみを先延ばしにできなかった子どもたちは,11歳になったときに太っている場合が多かった)」。
 ミシェルは現在,研究成果に手ごたえを感じており,おとなになったビング・ナーサリースクールの子どもたちのフォローアップを続けている。もう1つの研究ではかつての子どもたちは平均して27歳になっているが,ミシェルら研究者たちは,社会的不安の尺度である拒絶に対する感受性に着目し,4歳児のころの成績とどう関係するかを調べた。こちらはビングの卒業生152人が対象で,拒絶に敏感だと問題を抱えがちだが,ナーサリースクール時代に我慢する力が大きかった子の場合はそれほど大きな問題になっていないことがわかった。拒絶に敏感で子どものころ我慢する力が低かった人たち(どうしても待てなかった子どもたち)は,その後の教育水準が低く,コカインやクラックを使用している割合が高かったという。
 では4歳児はマシュマロやプレッツェルを前にしてどれくらい我慢できたのか。ミシェルらは185人の子どもたちを対象とした研究の報告で,我慢できた時間は平均して512.8秒,つまり9分未満だったと述べている。目の前のおやつやその他の状況にもよるが,全体としては4歳児たちが我慢できる時間は7分から8分だった。だが,なかにはずっと長く,20分も我慢できる子どもたちもいた。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.154-155

我慢比べ

 いまは『スターウォーズ』に出てくるヨーダを思わせる風貌になったミシェルは,もぞもぞしたり即興であれこれ工夫したりする子どもたちを何時間もマジックミラー越しに観察した。そしてベルを鳴らすまでに我慢できる時間(ベルを鳴らす場合には)は,子どもがどうやって誘惑をやり過ごすかに左右されることに気づいた。「重要なのは子どもたちの頭の中で起こっていることで,じつはそっちのほうが目の前のものよりも強い力をもっている。我慢できる時間は頭のなかの『ホットな』あるいは『クールな』イメージと,我慢しているあいだ関心をどこに向けるかによって違う」。
 脳が「ホットな」領域と「クールな」領域に分けられるという考え方は,いまでは研究者たちにかなり受け入れられている。クールな領域は海馬と前頭葉だと見られており,哲学者がいう理性に該当する。計画をたて,自分に有利に行動する合理的な部分だ。ホットな領域はもっと原始的で,幼いころに発達する。こちらは生存に直接かかわる機能で反射的に働く。食欲や危険に際しての逃げるか戦うかという反応その他,刺激に即反応する部分だ。ミシェルら研究者たちは,脳のホットなシステムからクールなシステムに移行できた子どもはうまく我慢できるのではないか,と考えている。最近のインタビューでミシェルは「マシュマロは甘くておいしいだろうなと考えたら1分も待てなかった子どもが,マシュマロは綿の塊みたいにふんわりしているとか,空に浮かぶ雲のようだと考えると20分も我慢できる」と語った。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.152-153

ミシェルの研究

 現在,静かな活況を呈している自己コントロールという研究分野では,ウォルター・ミシェルはどうしても触れざるを得ない重要人物だ。彼がトリニダードで調査したやり方は「楽しみを延期するパラダイム」と呼ばれている。いますぐ小さい楽しみをとるか,いまは我慢して将来もっと大きな楽しみをとるか(楽しみはずっと大きいが,我慢する期間はそう長くはないので,比較すると楽しみははるかに大きいことが多い)という方法は,楽しみを延期する力や自己コントロール能力を調べるうえで標準的な手法になった。カリブ海滞在の成果としてミシェルは,楽しみを我慢する力と注意力,知力,年齢,家族構成,所得などとの関連を調べた一連の研究結果を報告している。彼の研究はこの分野で最も重要な疑問に取り組んだものだった。さらに重要なのは,トリニダード滞在が自己コントロールについて実験的に理解するというミシェルの生涯の研究テーマの出発点となったことだ。その後の研究で驚くような成果がいくつも現れるが,ほとんどはカリブ海での発見が元になっている。現在,自己コントロールについてわかっていること(あるいは推測されていること)の多くは,ミシェルの初期の研究にまで遡ることができる。だからこそ,いまでも彼の研究には注目すべき価値がある。
 もう1つ,ミシェルの研究から生まれた「マシュマロ・テスト」は,研究者にとっても評論家にとっても不可欠の概念,道具になった。マシュマロ・テストでは,いまならマシュマロを1つ,しばらく我慢すれば2つあげるよ,と子どもたちに言って,どちらかを選ばせる。ミシェルのマシュマロ・テストがもとになってさまざまな自己啓発書が書かれ,フィラデルフィアのチャーター・スクールでは「マシュマロを食べちゃだめ」と書いたTシャツまで生まれた。さらにこのテストは,科学的な色合いを帯びたイソップのアリとキリギリスの物語として,政治的な意味をもたされることもある。マシュマロ・テストについてはこのあと詳しく述べる。ここでは,ミシェルの調査は人々の暮らしに自己コントロールがいかに重要かを明らかにしたことを指摘しておきたい。

ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.146-147

ホーダー家族

 私達は最近,ホーダーの家庭に育ったことで辛い結果を見ることになったホーダーの家族について調査した。すると,ホーダー家庭の影響は,ホーダーが始まった時点で子供が何歳だったかによって異なることがわかった。10歳以前からホーダー家庭で暮らした子供では,10歳以降に家族のホーディング行動が始まった家庭の子供よりも,困惑や不幸感が強く,家に呼ぶ友達の数はより少なく,成長過程での両親との関係がより険悪だった。大人になって,彼らは社会的不安やストレスをより強く感じ,両親との間も険悪なままであることが多い。幼い頃にガラクタに囲まれて暮らした子供たちが親に抱く嫌悪感や拒否感は,その頃にはまだホーディング行動が始まっていなかった子供たちに比べて強い。とはいえ後者も,他の深刻な精神病患者のいる家庭で育った子供と比べると,親に対して抱く敵意ははるかに強いのである。ホーディングによる悪影響は,子どもたちに生涯ついて回ることも多い。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.290
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

ホーダーの家族の特徴

 世間では,ホーディングがモノの欠乏への反応であるといわれるが,原因がそれだけでないことは明らかだ。これまで述べてきたように,たくさんのホーダーがごく普通の暮らしを送ってきたからだ。しかし,欠乏は必ずしも物質的なものとは限らず,感情的な欠乏もまたひどい結果を生む。感情的な欠乏とホーディングの関係を調べるために,私たちはホーダーのグループとOCD患者のグループ,そしてどちらの問題もない対照グループで,幼い頃の家庭環境への愛着や記憶の性質を比較した。ホーダーとOCD患者のグループはどちらも,人に対する愛着が対照グループよりも弱かった。彼らは「私はずっと他人に対して『相反する感情』を持っていました」とか「他の人が自分についてどう感じているのか,よくわからない」といった言い方をより頻繁にしていた。ホーダーとOCD患者の間には差がなかったが,人とのつながりの弱々しさは,ホーディングについての何かの問題というよりは,きわめて重い感情的な問題の結果なのではないだろうか。2つ目の,幼い頃の家族の記憶については,暖かく支え合う家族について語るホーダーの数は,他の2つのどちらのグループよりも少なかった。「子供の頃はいつも周りから支えてもらいました」とか「家族はいつも私を受け入れてくれました」といった言葉をホーダーから聞くことは,他のグループよりも少ないのである。彼らのホーディングはおそらく,周りから充分に支えられなかった子供時代に育まれたものだろう。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.121-122
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

子供の「所有」

 コレクターにはあらゆるタイプと年齢の人が含まれる。専門家によれば,ほとんどの子供はモノを集め,ときにはそれが3歳から始まることもある。その頃の子供が所有を表す代名詞「ぼくの」「きみの」を理解するようになるのは偶然ではない。興味深いことに,子供は「ぼくの」を「きみの」よりも早く使うようになるようで,それは2歳から2歳半くらいのことだ。「きみの」が使えるようになるのは,相手がすでに何かを持っているのだから「ぼくの」持ち物を脅かしてはならないと,確認するための場合が多い。
 一般的に,何かを所有できると考えるためには,自分についての高度な理解がなければならない。子供たちが初めて「ぼくの」と口にするときは,物理的に何かを手に入れようとする行動を伴うことが多いが,成長するにしたがって,誰かと共有しようという行動が見られるようになる。一方,2歳以下の子供のほとんどでは,所有についての明らかな理解は見られない。

ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.72-73
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)

特別と愛情はちがう

 子供を愛すること,それを子供に伝えることは,おまえは特別だと言うのと同じではない。愛情は子供の安全な基地になり,いつでも頼れる深い絆をつくる。一方,おまえは特別だと言えば,子供は孤立し,深い絆は生まれない。こうしてナルシシズムが芽生えていくのである。愛情をそそげば,子供は安全な基地から世の中に踏み出していく。そこにデメリットはない。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.231
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

変わった名前

 親から名前を授かるのは,目立とう,個性豊かであろう,人とは違うところを見せようとする人生最初の行為である。個性重視がアメリカ人の生き方として広がりはじめたのは,つい最近のことだ。少し前なら,風変わりな名前はいじめられる心配があり,みなと同じ普通の名前のほうがよいとされていた。現在は個性的で目立つのがよいと考えられるようになっている(実際のところ,1990年代にカリフォルニア州で生まれた子供の223人が「ユニーク」と名づけられた。そのうえ,綴りを普通のものとは変えてさらに個性を強調している親もいた)。「カムクワット(金柑)って名前なら聞いたことないわ」とばかりにそう名づける親も出てきそうな勢いだ(この傾向は,ありふれた名前とそうでない名前が社会保障局などのウェブサイトで一目でわかるようになるずっと前からあった)。普通と違う綴りも流行している。マイケルやケヴィンも,Michael,Kevinではなく,Mychal,Kevynと綴ってもいいのではないかというわけだ。ジャスミンは女の子の名前としてよくあるものだが,綴りが少なくとも10通りはある。「いまや子供に名前をつけるのは,商品のネーミングを考えるような感覚だ。人と同じになりたくないという強い欲求が国中に渦巻いている」と『ベイビー・ネーム・ウィサード』の著者ローラ・ワッテンバーグは述べている。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.218
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

◯◯したい?

 食べものにも同じことが言える。夕食に何が食べたいかと2歳の子供にたずねれば,「クッキー」と答えが返ってくるかもしれない。だから,夕食にふさわしいものに限定した選択肢を2つか3つあたえよう。同じように,3歳児に「もう寝る?」と聞けば,大抵は「まだ」と答えるに決まっている。ここでも選択肢をしぼるのがよい。ジーンは3歳の姪に試してみた。「アレックス,もう寝る?それとも5分経ってからがいい?」。アレックスは少し考えて,「5分経ってから」と答えた。5分が過ぎ,「さあアレックス,5分経ったわよ。寝る時間ね」とジーンは言った。たったこれだけのことが効果抜群とはうれしい驚きだったが,アレックスは「うん」と言って素直にベッドに入ったのだ。もしここでアレックスが言うことを聞かなくても,こちらが折れてはいけない。ぐずって我を通した子供は,親の言うとおりにしなくてもよいと思ってしまう。
 子供に「◯◯したい?」とむやみに聞くのはやめよう。親はよくこう聞くが,実際には子供に選ぶ余地がない場合が多い。ジーンはあるとき空港で,父親が3歳くらいの子供に「飛行機に乗りたい?」と聞いているのを見かけた。乗りたがろうが乗りたくなかろうが,たぶんその子は飛行機に乗ることになるのだ。たとえどちらか選べたとしても,そう聞くことで子供に権限をあたえてしまう。もし親が子供を公園へ連れて行こうと決めたなら,「公園へ行きたい?」と幼い子供に聞くのではなく,親が子供の気持ちを判断する。子供は自分がどうしたいかを,おそらく正しく理解していないだろう。これからすることが気に入るかどうかを予測するのは,大人にも難しいことだ。だから,「公園へ行くわよ」と言おう。ただし,「いいわね?」とうっかりつけ足してしまわないように。子供が望んでいないことを無理強いしているのではないかと心配する必要はない。本当に行きたくなければ本人の意志表示があるはずだ。ただし,これも本人が言い出す前に親のほうから機会をあたえてはいけない。子供が行きたくないと言った時点で,子供の意志を尊重するかどうかを親が決める。もしその子を除く家族全員が公園へ行きたければ,みなで公園へ行くことにするだろう。行きたくないと言った子供も,いつも自分の思いどおりになるわけではないことがわかる。そして,ときにはほかの人のために譲るのが大切だと知り,友だちづきあいや人づきあいがうまくなるだろう。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.103-104
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

子育てとナルシシズム

 子育てに関するある調査は,子供をもてはやす子育てとナルシシズムとの関連を明らかにした。子供が何をしても褒めてやり,注意したりたしなめたりすることはめったにしない親である。子供がスポーツの大会に参加するだけでトロフィーをもらえる時代の子育てを,「褒めすぎ」と言う以上に的確に言い表すことはできないだろう。ほとんどの親はそれが子供のためになると思っている。褒めてやれば自尊心が高くなり,ひいては成功につながると信じている。また,褒めれば成績が上がる,褒めれば褒めるほど能力が伸びると思い込んでいる。さらに,子供にやる気を起こさせるには,恥ずかしい思いをさせるよりも褒めるのが一番だと思っている。屈辱感もやる気を起こす原動力になるが,気分のよいものではない。
 何がよくできたとか,行儀よくしていたというときに子どもを褒めるのはよい。事実,悪いことをしたときに罰をあたえるよりも効果的である。だが,この数十年のアメリカは様子が違ってきた。ほんのちょっとしたことができただけで,ときにはうまくできなかったときでさえも,子供を褒めそやすのだ。本当は駄目なのに自分をすばらしいと思うのはナルシシズムへの近道なのだが,多くの親と教師はそれを自尊心と呼び換えて日々子供を励ましている。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.95
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

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