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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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人間としての力

 知識や技術や論理的思考などなら,時間をかけて集中して勉強をすれば身につけることは可能だ。しかし,どこに出ても通用する人間は一朝一夕にはできない。そっちのほうにも身を入れてもらいたいが,そんなことはだれも興味がなさそうである。このことは,たとえばなにか改革をしようというときにも重要な要因となる。自分一身の改革なら,自分を動かすだけで済む。しかし複数の人間の協力や組織改革が必要な場合,あなたの人間としての力が不可欠となる。あいつがいうのならと思われなければならないのだ。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.280-281
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自由人と不自由人

 本書でここまで見てきた金持ちたちは,みんなこういうことをいうのである。それが「自由人」だというわけである。生意気な連中だが,かれらの期待に応えて,「いいな。羨ましいぞ」といってあげよう。
 しかし,かれら「自由人」の食べるもの,買うもの,サービスを受けるもの,全部が「不自由人」たちによって支えられているのである。「不自由人」は,もちろんすべてではないが,安い報酬でも自分の仕事に誇りを持ち,一生懸命仕事をしているのだ。「自由人」がぬくぬくと「自由」でいられるのは,かれら(われら)「不自由人」のおかげである。その「不自由人」は「自由人」みたいに,「不自由人」を自分の金づる,カモとみなし,たぶらかし,騙くらかしてまでして,金を稼ごうとは思わないのだ。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.157

成功は目標か

 むろん「成功」はあってもいいし,たしかに「成功」は世に存在している。しかし「成功」など,どうでもいいのである。はっきりいっておこう。ビジネス書「もどき」は「成功」にはまったく役に立たない。「だれでも」なんて,ウソに決まっているのだ。それに「成功」など,ふつうの人間にとっては人生の中心的目標にはなりえないものである。あくまでも付随的結果にすぎない。「成功」を人生最大唯一の目標にするというのは,「成功」の熱に浮かされたごく少数の人間の問題にすぎない。たとえ,目標だったプロ野球選手になれた,期せずして大金を掴んでしまった,大学の先生になれた,社長までのぼり詰めた,国会議員になった,としても,それを「成功」という言葉で呼んでもなんの意味もないのである。目標を達成した人間は,結局はやはり自分で考え,自分で行動したのである。ビジネス書「もどき」が出る幕など,わたしたちの日々のなかにはまったくといっていいほどないのだ。

勢古浩爾 (2010). ビジネス書大バカ事典 三五館 pp.33-34

貝のように

 だが私には,日本の生来の保守主義がさらに強化されているように思われる。彼らはただ「美しい伝統」を守ろうとしているのではない。日本は社会の安定と調和ばかりを重視するが,その社会は社会的信頼を広める方法を知らない。内部の混乱を受けいれようとしない。あるいは混乱に適応しようとしない国は,最終的に,中身を大事に守るために蓋を閉じる貝のようになってしまうだろう。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.410

見合いの減少

 国立社会保障・人口問題研究所の高橋重郷・人口動向研究部長は,大量のデータを検討した結果,日本が直面している人口危機の最大の原因は見合い結婚の減少だと確信している。じゅうぶんな余暇もなく,広範囲にわたる交流ネットワークも存在せず,家族が縁談を持ってくるわけでもない。そのため若い日本人には,自分にふさわしい相手を見つける方法がまったくない,と高橋はいう。「最近では,ガールフレンドを見つけることさえ難しく,まして結婚につながる関係を築くことはさらに難しくなっているのです」と高橋。その理由は,仕事と,さらに仕事終了後に必要とされるつきあいに,あまりにも多くの時間が費やされるからだという。「私たちのデータをみればわかりますが,異性の友人がいないという若い独身者がたいへん多いのです。日本人の性行動には,それほど大きな変化は見られないのに,結婚外の性行動は増えています。したがって,結婚・家庭形成が減少していることになります」

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.263

告発者への扱い

 企業の違法行為や省庁の不祥事を暴露しようとする人々は,しばしば裁判を経ずに処罰される。福島の原子力発電所で保守・点検業務を担当していたGE(ゼネラル・エレクトリック)社の日系アメリカ人,ケイ・スガオカは,安全違反の隠蔽を暴露した直後に,GE社を解雇された。スガオカは,原子炉の重要な部分に亀裂が入っている様子を映したビデオテープを,上司が入念に消去しているところを目撃したという。だが,スガオカがその事実を規制当局に告発すると,当局は公益事業体(東京電力)とGE社に,あろうことか告発者であるスガオカの名前を伝えてしまった。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.180

こんな日本だったら

 失敗が報いられる日本を想像してみよう。若者が老人に挑戦できる日本を想像してみよう。革新派が瀕死の守旧派にとってかわり,新しい事業を起こそうとする人々が,何度失敗しても再チャレンジできる日本を想像してみよう。女性たちが,家庭でも職場でも,自分は正当な権限があたえられていると感じられる日本を想像してみよう。そのような社会には,活発なフィードバック・ネットワークが存在し,政府構想あるいは社会政策が,どのような場合に有効に機能し,どのような場合に機能していないかを明確にするうえで,重要な役割を果たす。社会は,冒険をためらわない人や企業を支援する。そこでは,国民1人ひとりが,何事においても自分独自の選択ができ,自分独自の価値観を確立できると感じられる。さらに,自分の選択の結果について,自分が責任を負い,集団や組織からの暗黙の支援は必要としない。
 そのような社会は,活力があり,柔軟で,世界経済における国際競争力も高い。

マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.12

更新投資やる気なし

 ある首長は,「更新投資は票にならないのでやる気が出ない」と語っていた。もちろん,冗談めかした言い方だが,筋は通っている。選挙の際に新しい図書館や保育所を作るという公約は票を得やすい。だが,古い学校や庁舎を建て替えるというのは,危機感のない人にとっては当たり前のことをしているに過ぎず,表に結びつかない。少なくとも,政治家自身がそう思っている。
 これは,我々住民の問題でもある。公共投資を公約する首長や議員を当選させることで,「公共投資を公約しなければ当選できない」という誤ったメッセージを与えてしまっているからだ。
 「問題だとしても,市民に知らせると動揺するので公表すべきでない」「対策がないまま発表するのは無責任だ」と語る関係者も多い。この言い訳はさらに始末が悪い。問題点は解決策と合わせて公表するのが責任ある行政だというのは,一見合理的に見えるからだ。
 だが,本音は,「公表すると責任を追求されるのがいやだ」と思っているだけかもしれない。近年,民間企業では,不祥事が相次いだ経験を踏まえ,不利益な情報でも一刻も早く公表するのが常識になった。どのような理由があるにせよ,情報を知らせないことは不都合を恐れて何かを隠していると疑われても仕方がないのだ。
 筆者は,「老朽化の事実を知っていながら公表せず,対応せず,結果的に住民の生命や財産が侵害されたら不作為の犯罪になる」と主張している。少なくとも,筆者は行政に対して,自分の生命にかかわる重大な情報を知らせない権利を与えた覚えはない。

根本祐二 (2011). 朽ちるインフラ 日本経済新聞社 pp.63-64

定年後

 これは,別に映画だけの問題やのうて,一般の会社でも同じや思うんです。代用品ですべて間に合わせられる。あんたらの業界でもそうじゃないですか。定年になった人をどうしても使わなあかんなんてこと,なかなかないでしょう。
 定年になった本人は,それなりに自信があるでしょうけど,よく考えてみれば,別にそんなの,なんてことないんですわ。
 実際,この東映でも,私はそれをずっと見てきましたからね。
 駆け出しで何もわからん時代から,この世界に45年間もいて,次々と先輩が定年になって辞めていかれました。私らは,その先輩たちからいろいろ教わって,ずっとここまでやってこれたんやから。
 ですから,今度は私が後輩に託す番なんですわ。

福本清三・小田豊二 (2007). おちおち死んでられまへん:斬られ役ハリウッドへ行く 集英社 pp.212-213

会社っていうのは

 よく,リストラや早期退職させられて「こんなに会社のために働いたのに,ひどい仕打ちだ」と怒る人がおりますけどね,会社っていうところは,そういうところなんです。
 会社のために働いたって思っているのは自分だけ。誰も,「お前のおかげで会社がここまで発展してきた」なんて思っていない。もっとわかりやすく言えば,「別に,会社はお前じゃなくたってよかったんだ。たいした能力もないお前を,ここまで働かせてあげたじゃないか。感謝せえ」てなもんですわ。
 だから,私も,退職金を貰えるだけありがたいと思っています。上の人からみれば,私らは別に必要ないんですよ。私がいなくたって,映画は作れますからね。とくに,私らみたいな大部屋の俳優は,別に誰でもええんですから。

福本清三・小田豊二 (2007). おちおち死んでられまへん:斬られ役ハリウッドへ行く 集英社 pp.119

給料があること

 でも,それがここまで,私が大部屋俳優を四十三年も続けられた原点かもしれないですね。定期的な給料があるって,すごいことですわ,ほんまに。
 保険がつきますやろ。怪我しても,病気しても,会社がある程度,負担してくれますがな。失業保険もついてるし,どれだけ,それからの人生で助かったかわかりまへんな。これだけは,会社に感謝せんといけないと思ってますわ。
 結婚して,子供をもってみますとね,どんな安月給でも,安定した収入が得られ,病気に対して保険があることの素晴らしさがわかりますね。あとは,一生懸命仕事をして会社のために働けばいいんやから。

福本清三・小田豊二 (2003). どこかで誰かが見ていてくれる:日本一の斬られ役 福本清三 集英社 pp.114-115

きき手を変えること

 もっとも組織的にきき手の変更に取り組んだのは19世紀末,ヴィクトリア時代のイギリスでの「両手きき運動」であろう。この運動は,左ききの排斥というよりも右ききも左ききも両手ききにしようとするもので,「これからの人間は両手ききでなければならない」という主張のもとで起きた。現在の南アフリカで1899年に始まった第二次ボーア戦争で,いったんは勝利しかけたイギリス軍がオランダ農民に負け始めたころ,簡単に兵隊を補充できないイギリス軍が片手を負傷した場合でも別の手で銃を撃てればよいと考えたことに端を発するらしい。そのほかには「左ききが右手を訓練し,右ききが左手を訓練すれば左右の脳が調和的に機能し,性格も調和のとれたものになる」「左手でピアノを弾き,右手でスケッチをすれば人生は2倍楽しめる」などという理由も唱えられた形跡がある。
 しかし,この運動はすぐに廃れてしまうこととなった。「両手ききが左ききや右ききよりも能力的に優れることはない」という解剖学者の報告や,「左右の手を同じ頻度で使っても両手ききになるわけではない」「左右手を交互に使って動作するという愚劣な訓練よりも自然に任せたほうが,気分的にずっと楽である」などの主張に負けたのである。
 つまり,少しくらい片方の手を使ったところできき手が変わるものではないことが明らかとなり,1920年代には「両手きき運動」は消滅したのである。20世紀の初頭では,むしろきき手の変更は悪いことであるという主張が強まり,アーリットが指摘するように「強制的なきき手の変更は発語だけでなく,読書能力などにも悪影響を及ぼす」といわれるまでになった。
 このような歴史があるにもかかわらず,現在でもなお,大人になってからきき手を変えることを推奨するような報道がなされたり,幼児での左ききの矯正の可否が取り上げられたりする。科学が発展するために必要な条件の1つが知識の蓄積だとすると,こうした現状は少なからず問題であり,学術論文の作成に目を奪われて,知見を社会に伝えることを怠ってきた研究者の怠慢といわれても仕方がない。
 少しくらい左手を使う訓練をしたところできき手が変更できない事実は,左手を使うようにすれば右脳が活性化し,初期のラテラリティ研究が指摘した右脳タイプの情報処理様式の増進や,創造性の発揮につながることなどあり得ないことを証明している。左手が腱鞘炎になる前にそのような試みは考え直したほうが賢明であろう。

八田武志 (2008). 左対右:きき手大研究 化学同人 pp.183-184

カーソンはヒトラー以上???

 時代は一気に2007年に移る。インターネットに,レイチェル・カーソンはヒトラー以上の大量殺人者だという主張があふれている。カーソンはナチスよりも多くの人々を殺した,カーソンの手は血にまみれていると,故人を非難する発言がある。なぜだろうか。『沈黙の春』によってDDTが禁止され,おかげで何百万ものアフリカ人がマラリアで死んだというのだ。これまでの章に出てきて,タバコを擁護し地球温暖化という現実を疑った企業競争研究所(CEI)が,今度は「レイチェルは間違っていた」と主張している。「1人の人物が間違った警告を発したために,世界中で何百万もの人々がマラリアで苦しみ,しばしば命を落としている」と,彼らのウェブサイトは主張する。「その人物とはレイチェル・カーソンだ」と。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(下) 楽工社 pp.164-165

理解困難な理由

 業界のキャンペーンが功を奏した理由の1つは,すべての喫煙者がガンに罹るわけではないということだ。実際,喫煙者の多くは肺ガンにならない。彼らは,慢性気管支炎,肺気腫,心臓病,脳卒中になるかもしれないし,口唇,子宮,肝臓,腎臓,膀胱,胃にガンができるかもしれない。白血病,流産,失明のおそれもある。喫煙習慣のある女性から生まれる子供は,そうでない女性の子供に比べて低出生体重であることがずっと多く,乳幼児突然死症候群の頻度も大きい。現在,喫煙が原因と分かっているか,おそらく原因だと考えられている病気は25種類あり,世界じゅうで500万人がそのために死亡し,そのうち半数は中年で命を落としていると,世界保健機構(WHO)は見ている。1990年代になると,喫煙は有害だと多くの米国人が知ったが,特定の病気と結びつけられない人が30パーセントにも上っていた。医師でさえタバコの害の全体像を把握していない人が多く,調査に回答した医師の4分の1近くは喫煙が有害であることをいまも疑わしく思っている。
 業界による疑念の売り込みがうまくいった理由の1つは,あることが原因だというとき,それが何を意味するかを,われわれの多くが本当はよく分かっていないことだ。「AがBの原因である」とき,AをすればBという結果になるとわれわれは考える。タバコがガンの原因なら,タバコを吸えばガンになるはずだと。しかし,生命はもっと複雑だ。科学においては,統計的に原因と言える場合がある。つまり,タバコを吸うとずっとガンに罹りやすくなるということだ。日常的な意味で,何事かを何かの原因と見ることもある——たとえば,「けんかの原因は嫉妬だった」というように。嫉妬は必ず喧嘩の原因になるわけではないが,そうなることは多い。喫煙者のすべてが死ぬわけではないが,半数くらいは喫煙のせいで死亡する。

ナオミ・オレスケス,エリック・M・コンウェイ (2011). 世界を騙し続ける科学者たち(上) 楽工社 pp.74-75

腐敗や背信行為がなくならないのは

 新手の腐敗や背信行動がときどき生じてくるのはなぜか?答えの一部は,そうした行動への罰に対する認識が時代とともに変化するということだ。政府による大規模な腐敗摘発の記憶はだんだん薄れる。腐敗活動が広まっている時期には,多くの人はそれでも逃げおおせられるんだという印象を抱く。みんなもやっているのに,罰なんか受けないじゃないかと思えるのだ。ある意味で,そうした時期に原則順守を怠るのは,完全に合理的な行動なのだ。ある時代で原則が堕落するのは,社会的な浸透の反映もある。たとえばラージ・サハが記録したように,ある種の犯罪に対する罰の可能性についての情報が,個人的な知り合いの網の目を通じて広がったりする。こうしたプロセスは安心乗数の一部かもしれない。腐敗がさらなる腐敗へとフィードバックされるからだ。

ジョージ・A・アカロフ/ロバート・J・シラー 山形浩生(訳) (2009). アニマルスピリット 東洋経済新報社 pp.56

役割自己愛

 最近のわが国のマスメディアは,一般的に言って,以前ほど自殺をセンセーショナルに報道しなくなった(もちろん,相対的な意味であって,私のような自殺予防に関心を持つ精神科医の目にはまだまだ改善してほしい点が多々ある。これは後に詳しく取り上げる)。しかし,たとえば,著名人の自殺,連鎖自殺,そして,社会的なスキャンダルの渦中でその関係者が自殺した場合には,かなり大々的に報道される。一般の自殺記事では事実がありのままに淡々と記載されるのとは対照的に,この種の事件では,自殺直前の行動や自殺の手段などが微に入り細に入り,センセーショナルに報道される。そして,行為そのものが責任を取る手段であったかのように報道される傾向もある。また,驚くほど各マスメディアの切り口も同じものになってしまう。
 真相の究明には不可欠な情報を知りうる立場の人物が,スキャンダルの渦中に自殺する。「私はけっしてやましいことはしていないが,この件で組織に迷惑をかけたので(自殺することで)その責任を取る」といった遺書が残されることなども多い。
 文化人類学者のドゥ・ボスは,他者から与えられた役割や,帰属集団への過度の自己同一化を「役割自己愛」と呼んだ。要するに,集団への帰属意識が極端なまでに強すぎるために,その集団が解体してしまったり,指導者の社会的役割が抹殺されてしまう事態を想像することそのものが不可能になり,この種の自殺が生ずる文化的な背景が成立することを指摘している。
 故人の独自性を重視する西欧文化では,この種の自殺のように,集団へのあまりにも強い帰属性から生ずる自殺は全く存在しないとは断言できないまでも,一般的には理解するのが非常に難しいようである。
 自己の正当性を訴えるならば,真に責任のある人を告発したり,裁判の場で自己の身の潔白を証明すべきであると考えるのだろう。彼らにとっては,日本人が受け入れるような「引責自殺」を理解することは非常に難しいことらしい。そもそも,此種の自殺の形態に対して社会が強い関心を払うこともないし,あるいは存在すら認めない文化圏では,統計も入手できず,日本の引責自殺との比較もできない。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.89-91

母子心中

 多くの場合,背景に精神疾患が存在しているという事実を一般の人が知っているかどうかは別にして,わが国では母子心中が起きると,苦況から脱出する方法として自殺しか思いつかなかった母親に対して社会の同情が寄せられることはあっても,その母親が非難されることはまずない。
 このような苦況に追い込まれた母親の心の中では,自分と子どもが一体になっていて,もはや自分の死後に子どもが生き残ることなどおよそ信じられなくなってしまっている。子どもの生命を断つことは,けっして完全な他者を殺害することとは考えられていない。自己の一部を抹殺することと同義になっていて,他者を殺害するといった意識はなかったと考えられる。自分が亡くなった後に,子どもだけが生き残ることなどおよそ想像できなかった母親の気持ちをわが国の社会もある程度受容する。むしろ,子どもを残して自分だけが自殺するといった場合のほうが,故人は非難されかねない。
 社会一般の風潮と一致して,法曹界も精神医学界もこの種の拡大自殺の概念をある程度認めているといってもよいだろう。母子心中を図ったものの,母親だけが生き残ったような場合,ほとんどの例で,精神科治療の対象となることはあっても,厳罰に処せられるようなことは稀である(当然のことながら,最近のように,保険金を得ることを目的に母子心中を偽装するなどというのは,厳しい処罰を受けるべきである)。
 たとえ同じ現象が起きたとしても,このように文化によって解釈が異なってくるのだ。とくにアメリカ社会はこの種の「他殺・自殺」を引き起こした親に対しては非常に厳しい態度で臨む。子どもであっても,個別の意思と尊厳を有する存在として認めることがアメリカ社会の大前提であることを反映しているのだろう。
 なお,ごく一般的に言って,ヨーロッパでの理解はアメリカと日本の中間との印象を抱いている。ある程度,母子心中についてのわが国の社会のとらえ方に対して理解を示してくれる。さらに,アジア(とはいえ,私の経験は,中国,韓国,フィリピン,インド程度に限られるので,アジアと一般化するのは危険かもしれないが)では,私たちの考えにかなり近いようだ。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.82-84

自殺率

 さて,自殺率は,年間に人口10万人あたりに生じる自殺者数によって表される。1990年代半ばまでは日本の自殺率は人口10万人あたり17〜18であった。この率はドイツよりもやや高く,フランスよりもやや低いというものだった。要するに,ヨーロッパ諸国と比べると,ほぼ中位の率を示していたのだ。「自殺大国日本」の固定観念をいだいて取材にきた欧米の特派員の取材の際に,このような事実を指摘すると,意外な事実に驚くといった場面によく出くわしたものである。
 ところが,1990年代末から我が国の自殺者数が急増し,2001年には自殺率は人口10万人あたり約24になった。ヨーロッパ諸国に比べて,上位国の一角と肩を並べるほどになったのだ。
 とはいえ,日本よりはるかに高い自殺率を示す国があることも事実である。たとえば,リトアニア,ラトビアといったバルト三国,ロシア,ハンガリーなどの自殺率は,人口10万人あたり40前後を示している。自殺率は社会の不安度を示す指標でもある。社会体制や社会的価値の急激な変化が起きている国で自殺率の激増が認められることが知られている。旧ソビエト連邦から独立を果たしたものの。社会的な安定を十分に果たしていないバルト三国が高い自殺率を示していることなどは,この点を象徴的に表していると考えられる。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.67-69

こだわりが

 公務員は政治家が決めたことを淡々とやるだけでいい。あるいは,政治家の言うことに逆らうことは,極端な話として,自衛隊などに対するシビリアンコントロールを否定するのと同様に反民主的だと言われることもある。しかし,どんな職業でもそうだが,仕事というものは一生懸命にやればやるほど,自分の信念やこだわりが出てくるものだ。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.30

ガンコな人

 よくメディアからの取材で聞かれる。
 「結局のところ,結婚出来ない男性って,『低スペック』な人なんですか?」
 その場にいたオーネットの熟練アドバイザーが即答。
 「条件面じゃありません。ガンコな人」

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp161

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