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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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肥満への嫌悪感

ここで少し変わった比較を試みる。アメリカでもっとも軽蔑されているものの1つは,肥満であろう。肥満に関する意識調査では,次のような結果が得られている。子どもは太りすぎのクラスメイトを愚かで,意地が悪く,醜いとみなしがちだ。親は,肥満している子どもには,そうでない兄弟姉妹に対してより,高校卒業程度の学費の援助を節約しがちになる。どんな人と結婚したいかと尋ねられれば,太った人より,詐欺師や麻薬常習者や万引き常習者のほうがまだマシだと答える人が多い。知的障害をもつ子どもが生まれてくるとわかったときよりも,生まれてくる子どもが肥満になると知った場合のほうが,妊娠中絶を望むだろうと答える親は多い。肥満した人の隣に立つと,細身の人のそばに立ったときよりも自分に魅力がないとみなされれがちだと報告する最新の研究もある。
 かつてないほど肥満者が増加したアメリカでは,肥満への嫌悪感は前述のとおりすさまじい。さらに重要なことに,太った人を目にすると,私たちはどうしてもその人に何らかの性格上の欠陥を見出そうとする。そして太っているという事実は,選択の失敗を意味し,これまで誤った選択をしてきた証とみなされる。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.33-34
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絶対に変えない

ここの給与袋のように,極端に丁重に扱うものがあるのとは反対に極端に粗雑に扱うものもある。また,そこに何らかの理屈,根拠があればよいのだが,どうもそのようなものは全くないようなのである。単に前からやっていることを,やり続けているだけのように思える。ある日,この給与袋配達係が,源泉徴収票を持ってやってきた。給与袋とは違って,ハンコの要求はなかった。驚いたことに袋に入ってはいるが,他のスタッフの源泉徴収票と一緒に1つの袋に入っている。「おいおい,ちょっと待ってくれよ。これって健康診断結果と同様に究極の個人情報じゃないの」,「個人ごとに袋に入れて渡すべきじゃないのかね」と言ったが,「ここでは今までこうしています」と言われてしまった。前例は常に正しいと考えているのだ。
 それからも「ここではこうしています」,「もうこの話についての返信はしないで下さい」ということばを何度も聞くことになる。「絶対に変えない」と同じように,誰に何と言われようと自分たちは正しいんだ,という強い意気込みを感じる言い方なのである。これを言われると何を言っても意味がないし,聞く耳を持っていない。従って,「ああ,そうなの」,「民間の感覚じゃおかしいと思うんだけどね」と言うだけに留めて,あきらめる以外になすすべはない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.74-75

評価する集団

相対評価をする場合,同レベルの集団の中で比較しなければ意味がない。例えば中学1年生と数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞者の数学の力を比較しても意味がない。また,市民ランナーとオリンピックのマラソンランナーを比較してみても始まらない。100mをジャマイカのボルト選手と一緒に走れと言われて,はいそうですかと走る人はいない。結果は初めからわかっていて,意味がないからである。
 米国でもアップル・アンド・アップル,オレンジ・アンド・オレンジという言い方がある。また,それはアップル・アンド・オレンジとも言う。比較をするならりんごとりんご,オレンジとオレンジとを比較しなければ比較にならないということを言うのである。りんごとオレンジを比較してみても,それは好みの問題であって,どちらがおいしいりんごなのか,あるいはオレンジなのかの比較にはならない,という例えで米国人との会話の中では,よく出てくる表現である。
 組織の中での評価も同じである。新入社員と10年のベテラン社員を一緒に人事考課したら,新入社員は常にベテラン社員より高い評価を得ることはできない。秘書と社長を一緒に評価ができると考える人はいないはずだ。そもそも仕事が大きく違い,期待されているアウトプットも違う。人事考課を行う場合,このような違う人たち同士で評価するのではなく,同じレベルの人たち同士で評価するのが原則である。ところがここでは,この原則で評価を行ってはいない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.62-63

ババ抜き人事

係長,課長がルーチンの仕事を全く知らず,なぜ管理も行わないのかというと,ともかく人事異動が激しいからである。3年程度で人が代わっていく。それも面白いことに,全く現在の仕事とは関係のないところに動いていく。大学から保健所,保健所から大学といった調子でアットランダムな人事ローテーションが行われる。まるでトランプのババ抜きのようである。企業であれば,ある目的を持って人材の育成を行う。しかし,ここではそのようなことは全く考えていないようなのだ。従ってプロが育たない。ここの課長レベル以上で,現在の収入を維持,あるいは収入以上で民間にプロとして転職できる人は,ほとんどいないのではないか。それほど専門性が低い。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.55

クレーム回避の論理

安い物が買えないというのは,出張も同様である。常に正規料金で精算が行われる。企業にいた時は,出張パック等安い方法を駆使することが求められた。札幌には何度も出張したが,往復の航空運賃より大幅に安くてホテルの宿泊,朝食がついている出張パックが多くあり,これを利用して出張していた。そして当然,実費での精算である。しかし,ここでは違っていた。ある出張パックを探してそれで出張しても,それ以上に安いパックがあったら住民に説明がつかないというのが理屈のようなのだ。「貴重な税金」を使うので,説明責任が必要だというのである。「おー,面白い理屈があるものだ」とえらく感心したことを覚えている。
 住民からもっと安いパックがあるのに,なぜこのパックで行ったのかとクレームがついたら説明できない。正規料金で出張しましたと言えば誰からも文句が出ないというのである。高くてもクレームがつかないならよいのだ,という発想である。「コスト意識ゼロ」である。確かに,いくら長時間ネットサーフィンをして安い出張パックを探し出したとしても,この出張パックが日本一あるいは世界一安い保証はない。もっと安い出張パックがある可能性はゼロではない。可能性がゼロでない限りは,住民からクレームがつく可能性があるというのである。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.45

コスト意識ゼロ

検収センターの設置によって,確かに架空発注は防げるだろう。しかし,過剰発注あるいは金額の水増しは防げるだろうか。検収センターで可能なチェックは,あくまでも伝票と実物とのチェックである。電池が1個1万円ということであれば,検収センターでもわかるであろう。しかし,特殊な物品であれば,金額のチェックは難しい。さらには,消しゴム1個,電池1個まで,検収を行う必要がどこにあるのだろうか。金額で線を引くべきである。消しゴム1個,電池1個まで検収をしていては,明らかに人件費のほうが高い。「人件費はタダ」,「コスト意識ゼロ」の典型的な例である。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.32

人件費はタダ

そして,手段であったはずの仕事が目的に変わっていく。手段が目的化するのである。目的になった仕事は,絶対になくならない。組織の拡大とともに,このような仕事にさらに人手が追加される。これが当たり前になった人たちには,実態は見えない。また,不必要な仕事だとも考えられていない。民間から来た人間から見ると「こんなこと必要ないんじゃない」と思えるのだが,大変重要な仕事だと認識されている。ここでは,ありとあらゆるロスが発生する。人件費,コスト,時間,生産性,サービスである。民間経験者から見ると,ロスと浪費のデパート,いや総合商社である。
 ここの人たちには理解できないようなのだが,このような書類の作成には必ず人間が介在する。人間はタダで仕事をしてはくれない。従って,このような書類を要求すると金額が高くなることはあっても,安くなることはない。先ほどの起案のハンコの数の多さでもおわかりかと思うが,役人の世界では「人件費はタダ」という発想で物事が行われている。そう考えなければ,これだけ無意味なところに多くの人手,工数をかける意味が理解できない。自分たちはタダで働いているわけではないのに,「人件費はタダ」であるということで行動しているのだ。どうしてこんな単純なことがわからないのだろう,といつも考え込んでしまう。とても理解ができない。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.21-22

管理強化

以前,官官接待でこの食糧費が社会通念上,儀礼の範囲を逸脱して使われたとして問題になった。そのため,食糧費は特に厳しくなっているようなのだ。このため,見積り,納品書,請求書が必要となる。先ほども述べたが,何かが起こるとすぐに屋上屋を架すのが役人の発想である。1人の不心得者がしでかした悪事に対しても,全員が悪人であると考えて対応をとるよう制度の変更を行う。従って,ここには膨大なムダが発生する。人件費,コスト,時間が浪費されることになる。
 何かが起きると,常に管理強化の方向に動く。原因を見つけ出し,それをどう予防するのかといった根本的な問題を考えて解決を図ろうとはしない。ただ人手をかけて人海戦術で何とかしようとする。システムをどう改善するのか,という議論にはならないのだ。従って,いくら屋上屋を架しても,介在する人が悪さをすれば防ぎようがない。そして,また問題が発生する。すると,さらに人を増やして,といったように意味もなく人だけが増えていく。ほとんど無意味と思えるような仕事に,本当に信じられないくらい大量の人が貼りつくことになっている。

菊地達昭 (2011). キャリア妨害:ある公立大学のキャリア支援室での経験 リフレ出版 pp.20-21

ニュース

いまのところ,未来はまだ「検索」できない。われわれは未来の縁にぎりぎり片脚をかけながら,過去と未来の境界線のようなニュースをむさぼっている。次の大事件を待ちきれないでいるわれわれの貪欲さを考えれば,新聞の見出しを飾ったどんな出来事も,すぐに色あせてしまう運命にある。ある事件の続報が第一面に出続けることもあるかもしれないが,そこに新たな事件が出てくれば,前の事件はたちまちニュースバリューを失うのを避けられない。
 もちろん,これには一般大衆とメディアの双方が一枚かんでいる。ひとひらの雪が温かい指に触れたとたんに溶けてしまうように,ニュースも最初にそれに触れたときにしか,ありがたみがない。「ニュース」は「新しいもの」でなくてはならず,つねに最新事情を押さえておくには定期的なチェックが欠かせない。したがって,昨日の新聞はあっというまに価値がなくなる。この章だって,早く読まないとすぐに時代遅れになるかも……。

アルバート=ラズロ・バラバシ 青木薫(監訳) 塩原通緒(訳) (2012). バースト!人間行動を支配するパターン NHK出版 pp.68

濁った情報

現代社会は,溢れるばかりの情報が降り注ぎ,人々はこれに埋もれてしまっている状態である。広い範囲の具体的な情報に,誰でもいつでも簡単にアクセスができるようになった。知りたいと思ったときに,すぐに知ることができる。ただし,知りたいと思っていないものまで,無理矢理知らされてしまう,という事態に陥っている。また,いったい何が本当なのか,ということがわからない。その理由は,これらの情報が,どこかの誰かが「伝えたい」と思ったものであり,その発信者の主観や希望が必ず混ざっているからだ。濁りのないピュアな情報を得ることは,現代のほうが昔よりもむしろ難しくなったと言えるだろう。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.50

主観的で具体的で感情的

主観的で具体的なものが悪いわけではない。また,感情的になることも,けっして不自然ではない。人間には,主観が大事だし,具体的なものを捉えなければ生きていけない。そして,感情的にならない機械のような思考や行動は,ときに不気味でさえある。生活のほとんどは,主観と具体性だけで成り立っている。だから,その考え方だけでも生きていける。周囲のみんなが善人で,気持ちが通じ合い,平和で豊かであれば,また競争もなく,成功も出世も意味がないという聖人のような生き方が望みならば,それで良いのかもしれない。たとえば,無人島で自分1人だけで生きているという条件ならば,主観的かつ具体的思考でまったく問題はないだろう。現に,野生の動物はみんなそうしているのである。
 けれども,人間社会ではそうはいかない。世界には沢山の人間が生きている。考え方の違う他者とつき合っていかなければならない。社会に出れば,ある程度の競争があり,また,もっと深刻な争いにも遭遇するだろう。自分の自由を獲得するためには,それらを克服あるいは解決していく必要に迫られる。そうなると,主観的で具体的で感情的なものに囚われていては,明らかに不利になるのだ。

森博嗣 (2013). 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 新潮社 pp.6

本末転倒

「仕掛けられる」被害者でしかない女性の側に説明責任を問うこと自体が,本末転倒と言わなければならない。説明責任はあくまで「仕掛ける側」にあり,加害者である男性が考えなければならない“男性問題”なのである。
 しかし,この時代の変化を理解できない人たちの頭のなかでは,依然として,被害を訴える女性の側の問題であり続けている。いまだに多くの男たちは「嫌ならなぜ,もっと強く拒否しなかったのか」「なぜ,声をあげなかったのか」「なぜ,逃げなかったのか」という女性の責任を問えばよいという問題認識のままでいる。だから,彼らの関心は,依然として女性の挑発や抵抗への詮索だけに向けられている。
 それどころか,加害者の男までもが,被害者の落ち度を言い立てたり,どうにもならなくなると,「魔が差した」などという他人言のような言い訳で済ませてしまおうとする姿勢を変えない。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.192-193

いいわけにしがみつく

セクハラ男たちが示す共通の反応は,これまで許されてきたことが許されなくなってしまう,既得権喪失への条件反射に似た怒りである。そして,非難されればされるほど,自らの思い描いたストーリーが思い通りに運ばなかったり,訴えられたりしたことへの苛立ちとなって,男たちの内部にくすぶり続けることになる。
 それは加害者男性がよく使う,幾つかの苦し紛れの言い訳によく示されている。「彼女にもその気があったのではないかと思った」とか,「お互いに,意気投合して……」「彼女も同意していると思った」などという言い方がそれである。そんなとき男たちは,「それなのに,なぜ……」という疑問を抱え込んだまま立ち尽くしているのである。
 セクシャル・ハラスメントとして訴えられ,あるいは告発されている以上,相手は明らかに合意はしていなかったということになる。それにもかかわらず,「あれは間違いなく合意だった」と繰り返し,相手から否定されてもまだ,「合意だったはずだ……」と男性はつぶやき続けている。
 こうして繰り返し現れるセクハラ男たちに共通していることは,セクハラ問題がもはや言い訳不要な“女性問題”ではなく,確実に説明が必要な“男性問題”になってきているということへの認識を決定的に欠いていることである。
 つまり,彼らは依然として,セクハラは女性の側に問題があって,その落ち度を言い立てれば,それでことが済むと考えているのである。そこまで極端ではないとしても,ありとあらゆる女性の仕種を強引に合意と解釈しようとする,困った習性を身につけてしまっている。だから過剰にOKサインを読み込んでしまい,「了解していると思った」という言い分にしがみつこうとしているのである。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.188-189

いいわけ

この種の事件に共通して言えることは,男たちの「合意だ」という主張を裏付けるほど,はっきりとした意思表示は,女性の側からはなされていないことが多いということである。だから,その都度そんなことを加害者男性に聞き直してみるのだが,その際の答えは,せいぜい「拒否はしていなかった」という説明に留まることが多い。
 彼らから,女性の側が「了解していた」「合意をしていた」ことについて納得できる説明を得ることは難しい。そして,そんな場合は決まって,彼女が「消極的な性格」のためとか,「女性だから,はっきりとした意思表示はしなかったがその態度でわかった」などという言い訳がされる。
 実に多くの男たちが,「彼女が望んでいることは雰囲気でわかった」とか「仕種や態度から察することができた」などと言う。さらに「強い拒否がなかった」「本心からの抵抗だとは思えなかった」などと,追加的に説明される。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.169-170

離婚経験のある場合

離婚経験のある女性は,男性たちからの性的に期待を込めた過剰な視線にさらされがちだ。そして男性たちは,女性の「性的欠落感」が,逆に性的奔放さや積極性へ展開することをさらに期待する。またそれだけではなく,彼らは夫婦生活の破綻は女性の性的価値を低めるものとみなし,時には,いわゆる責任のともなわない性的関係をも期待しがちである。
 こんな特徴が指摘できるが,つきつめて言えば,「男性は女性を仕事上のパートナーとしてよりも常に性的な対象として見ることに慣れていて,性的な視線を女性に向けがちである。特に離婚した女性などに対しては,そうした傾向が一層強い。そして,そのような場合に,トラブルに発展した際には,男女とも離婚した女性に対しては自己責任について厳しく,本人の落ち度などの非を唱える傾向が強い」ということになろう。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.144-145

ワンパターンな男性

いや,現実は,追い込まれた女性たちがいろいろな思いで悩みながら,悲鳴をあげてやってくる。だから,たしかにいろいろな女性がいる。しかし,事件の1つひとつに目を凝らしてみていると,ワンパターンなのは女性の方ではなく,むしろ「女とはそうしたものなんだ」と括りたがっている男性にタイプが共通しているような気がする。
 そう言えば,男性たちによって描き出される女たちがワンパターンなのは,描き出す男性たちの表現がワンパターンだからではないだろうか。そう考えた方が起こっている事件の解釈に無理がない。そうなのだ。そうした男性たちが抱いている,自分たちに都合のいいワンパターンな女性像を相手の女性に重ね合わせようとしたり,そこに身勝手な望みを押しつけたりすることによって起こる事件こそが,セクハラ事件なのだ。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.123

対価型

セクシャル・ハラスメントの1つの形態として,「対価型」と呼ばれるものがある。定義としては,「何らかの雇用上の利益あるいは代償として性的要求が行なわれるもの」とされている。文字通り「言うことを聞けば,給料を高くしてやる」「聞かないのなら,辞めてもらう」,または,「昇進させてやる」「異動させる」などの利益誘導や脅かしの言葉での性的な誘いかけをすることを言う。
 こんなストレートで,はっきりとした性的な言動が職場で行なわれている事自体が信じられない気もするが,現実にこんな事件は少なくない。裁判や事件を通して,繰り返しこうした事件の実情に触れるにつれ,こんな職場は一体どうなっているのだろうと考え込んでしまう。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.108-109

鈍感さ

セクシャル・ハラスメントの事件を見ていて,どうしても気になるのは,加害者となる男性たちが,自分の置かれている立場をまったく理解していないことだ。つまり,立場の絡む人間関係ということに,いまだ何の配慮もないように見えることである。相手の女性の側から見たときに,自分の言動はどのように受けとめられることになるか,また,その時に相手はどんな気持ちになっただろうか,という点にあまりにも鈍感だという気がするのである。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.68-69

脆弱なもの

彼らが浮き足立つもう1つの要因は,女性たちからのこれまでの男性中心の職場運営に対する異議申し立てである。セクハラをはじめとする性差別に対する告発はもちろん,男性中心の発想で運営されている職場の不合理な部分や,根拠のない男性優位のシステムなども同時に問われている。
 こうした変化によって男性たちは,自分と職場の関係などを通して,自らのアイデンティティの問題を初めて問い直さざるを得なくなっている。こうして今,一挙に職場の“男性問題”が浮き彫りにされているのだ。相談現場で,そうした問題に直面している男性たちに接していると,男の「我慢強さ」なるものは,単にこれまで優位な立場にあったがために保たれてきただけのもので,実はちょっとしたことで一気に崩壊に至るような脆弱なものなのだと思わざるをえない。

金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.9-10

マタハラ

女性の妊娠を知ると,すぐにセックスと結び付けたことを言いたがるセクハラ男性がいる一方,どうも日本の文化では,妊婦の身体にはプライバシーがないかのように錯覚してしまう傾向があるようで,出産経験のある働く女性たちが経験したセクハラとしてよく挙がるのが,妊娠中のお腹を触らせてと職場で誰かれなく触られた,というもの。触る方からすれば,もうすぐ産まれてくる赤ちゃんにちょっと挨拶,というつもりかもしれませんが,そのお腹は女性のとてもプライベートな部分。家族や親しい女友達なら別ですが,職場の同僚や上司にそんなプライバシーはさらしたくありません。相手には何の悪気もないどころか,親しみを持ってくれているからだとわかっているだけに,イヤとは言えなかったけれども,なんとなく気持ち悪かった,あれってセクハラじゃない?と経験者は言います。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.162

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