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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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ソーシャルゲームに記憶喪失

さらに最近ではネットワーク上で複数のプレーヤーが協力するソーシャル・ゲームが広がっている。この種のゲームに記憶喪失というモチーフが導入された場合,物語はさらに多様で複雑なものになる可能性がある。いずれにせよPCゲームにおける物語は,必ずしも虚構の世界だけで完結しない。もちろん現在はシステム的な制約により物語が分岐する可能性は限られているが,それはプレーヤーの数だけ存在するとも言える。

小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.133
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ミスマッチ

次にミスマッチについてである。まず「マッチング」と言うが,そもそも労働市場において完璧なマッチングなどあり得ない。いくら情報を透明化しても,相手に伝えられないこと,伝わらないことはある。一緒に働いてみないとわからないことはある。その前提がありつつも,学生も企業も最大限の努力をしようとする。とはいえ,それはマッチングということのどちらかというと根本的な問題である。初歩的な問題が起きてしまっているのが,現在の就職ナビの問題である。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.123-124

受験ではない

さらに言うならば,就職活動をめぐる「採用基準を明確にしてほしい」などの声がある。企業には社会的責任があるので,公平・公正な採用をするように努力するべきだというのは正論だが,とはいえ,前述したように企業には企業側の論理がある。学生は,いや,教育機関やメディアもあたかも就活を受験のようなもの,なかでもセンター試験のようなもの,つまりみんなが参加して,ルールが明確で上から順に決まるものだと考えがちだが,そうはならないのである。
 本来,雇用契約であるはずなのにもかかわらず,受験とすり替えられている部分がある。毎年,同時期に定期的に行われているものであるから,受験と似ているのだが,とはいえ,労働力を売る側と買う側の諸活動であるはずである。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.107-108

就活と採用活動

さて,この労と使の関係を考慮すると,就職活動に対する見方も変わってくる。つまり,求職者である学生にとっては就職活動(就活)であるが,採用する側の企業にとっては採用活動なのである。企業とは価値の創造と継続的な利益の追求を目指す組織である。だから,採用活動においては,自社の未来を担う人材を確実に獲得することを目指すのは当然といえば当然だ。採用活動の目的や,何をもって成功とするかは短期・中期・長期で見方が変化するが,短期的には自社の採用目標の達成がゴールとなる。それは,自社がその年,採用ターゲットとした能力・資質を持った学生を,採用目標とした人数だけ獲得できるかどうかということになる。
 ここが,学生の立場とはかみ合わない。学生としては,社会規範上も,仕事がないことによる経済的リスクからも,なんとか在学中に,自分が希望する企業に就職したいと考える。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.106

安くて便利

採用力のある企業なら,中堅・中小企業とはいえ,採用活動に力を入れることによって大手企業と張り合うことができる。実際,世の中全体での知名度はなくても,新卒採用での知名度,学生への知名度が極めて高いがゆえに,大手企業を凌駕する採用活動を行っている企業はある。例えば,ベンチャー企業などの求人が多数掲載されている就職情報会社ジョブウェブの人気企業ランキングなどを見ると,知名度の低いベンチャー企業もランクインしている。もともとこのサイトがこのような企業を中心に掲載しているというのもあるが,ベンチャーでも大手企業に負けない人材を採れる可能性があることの証拠でもある。
 よく,「行動経済成長期に創られた,右肩上がりで,終身雇用,年功序列を前提としたもの」という批判があるが,この言説こそが間違いで,新卒一括採用は採用しやすいし,安くて便利なのである(この書き方には心証を害する方もいるかと思うが,わかりやすいのでそう書く)。

常見陽平 (2013). 「就社志向」の研究:なぜ若者は会社にしがみつくのか 角川書店 pp.86-87

まるで家畜

「同じ。SNSもね……,まるで家畜」
 「そこまで酷くはないでしょう」
 「何でしょう。つながりたいんですよ,人間は」
 「そうそう,絆ね。絆って,牛をつないでおく綱のことでしょう?」
 「ネットというものが,元来そういう装置なのでしょうね」
 「人を縛りつけておく装置?」
 「そうです」
 
森博嗣 (2013). キウイγは時計仕掛け 講談社 pp.77-78

おおよそこのくらい

ハイテク素材ゴアテックスの製造・販売を行なってきたビル・ゴアは,世界で最も成功した企業経営者のひとりだ。ゴアテックスの生産量を増やすとき,彼は既存の製造設備を拡大するのではなく,工場を新設する道を選んだ。どれも従業員150人程度の工場だ。それがゴアの成功の秘訣だったのではないかと私はにらんでいる。工場の規模をそこまでに抑えることで,組織内に序列関係を導入したり,管理部門をつくったりする手間を省いているのだ。個人どうしの関係が中心になるため,おたがいへの義務感が生まれ,従業員どうしは競いあうのではなく協力するようになる。
 軍隊の編成にもこのルールが生きている。近代的な軍隊では,最小の独立部隊は中隊だ。中隊はふつう先頭小隊三個と司令部,支援部隊で構成され,ひとつの戦闘小隊は30〜40人の兵士が所属するから,中隊の人数は合わせて130〜150人となる。共和国時代の古代ローマ軍も,基本部隊である歩兵中隊はおよそ130人編成だった。
 学問の世界も同じこと。サセックス大学教育学部のトニー・ビーチャーが理系・文系の12分野を対象に調べたところ,研究者どうしが注目しあえるのは,100〜200人の規模であることがわかった。研究者の数がそれより多くなると,その学問分野はいくつかの領域に分裂する傾向にあるという。

ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.24

攻守渾然一体

よく,「リスク管理(リスクマネジメント)は大事だが,リスクを取ること(リスクテイク)も大事だ」という発言を聞きます。まさしくそうです。ただし,そうおっしゃる方のかなりが,リスク管理とリスクテイクを,野球の守備と攻撃のように切り離して考えています。「上位打線が続く相手の攻撃をゼロに抑えた。よくやった。さあ,今度はわれわれが点をとりにいくぞ。先頭バッターは塁に出ることだけを考えろ」といった感じです。
 リスクの中にも,国家間の紛争のように,個人では如何ともしがたいものがありますが,日常のリスクの多くは,これまで何らかの形で関わってきたものや,それを作り出してきたものです。
 先に登場したEさんの場合も,何時の電車にのるかということは,リスクの管理でもありリスクのテイクでもあります。そもそも,都心にある今の会社に勤めたこと,郊外の鉄道沿線で家を買ったことは,Eさんの判断と意思決定によるものです(家については奥様の判断と意思決定によるかもしれません)。われわれの行為の1つひとつがリスクのテイクであり,その後のリスク管理に繋がり,それが新たなリスクのテイクになっていきます。過去と現在と未来は,別々のものではなく,1つに繋がっています。

植村修一 (2013). リスクとの遭遇 日本経済新聞社 pp.29

リスク

Eさんの通勤電車に見るような,日常用語として用いる場合のリスクとは,漠然と「将来起こるかもしれない良くないこと」を指します。経済学における専門用語としては,同じ不確定なことについて,ある程度「確率」をもって捉えられるものをリスクと呼び,それで捉えられないものを不確実性もしくは,「真の不確実性」と呼びます。さらに「想定外」とは,人間が何かものを考えようとする時に便宜上定めた領域(=想定)を超えることであって,決して起こり得ないことではありません。

植村修一 (2013). リスクとの遭遇 日本経済新聞社 pp.22

人間が行う

どれほど自動化されても,また,人の手を必要としなくなっても,最初にその状態をセットするのは人間です。したがって,作業者がはじめにその状態を作り出すときに,誤っていれば,その誤りはそのあとのすべてに関わるのです。大事故が起きた場合,たいていいわれることは,作業者のうっかりミスが事故に結びついたということです。当事者の本音としては,うっかりでないミスなどあるはずないということです。ごくわずかの目盛りのずれのようなものは,それだけではすぐ目に見える事故になりません。しかし,こうした傾向の生じやすい人の場合,長い間には,多くの損失をもたらすでしょう。

矢野宏 (1994). 誤差を科学する:どこまで測っても不正確!? 講談社 pp.152

情報洪水

世の中にコンピュータが本格的に入ってきてから50年。データの蓄積が進み,これまででは考えられなかったようなことがいつ起こっても不思議ではない状況にある。かつて世界がこれほどの情報洪水に見舞われたことはないし,その情報量も日増しに拡大する一方だ。規模の変化は状態の変化につながる。そして,量的な変化は質的な変化をもたらす。

∨・M=ショーンベルガー&K.クキエ 斎藤栄一郎(訳) (2013). ビッグデータの正体:情報の産業革命が世界のすべてを変える 講談社 pp.17

現代まで影響

しかし,なにも類例を海外に求めるまでもなく,現にいまの日本においても「死をもって潔白を訴える」「抗議の自殺」「憤死」といった言動が子供の世界のイジメから芸能人や学者の醜聞,政治家の汚職事件にいたるまで価値を持ち続けているという深刻な現実があることを忘れてはならない。その一方で,欧米社会ではそうした傾向はみられず,むしろ逆に係争中に一方がみずから命を絶つようなことがあれば,それは敗北を認めたのと同様にみなされるとも聞く。そして,彼我の相違から,日本人はある主張の是非を判断するとき,その主張が論理的に正しいかよりも,主張者がその主張にどれだけの思いを込めているかを基準にする傾向がある,と指摘する向きもある。もとより,その背景には,一方に自死を禁じるキリスト教の規範があり,一方にはそれに類する思想がなかったことが大きな要因として考えられる。が,こと日本の場合についていえば,これまでみてきた中世以来の心性が払拭されず,その後も根強く支持され続けたという歴史的経験が決定的な意味をもったように思えてならない。もしそうだとすれば,室町社会を生きた人々の激情的な心性は,近世・近代をはさんで現代にまで,日本人の精神構造にふかい陰影を刻み込んでいたことになる。

清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.50

ネットの世界

ある意味でインターネットも,他の電子コミュニケーションと同じように,空間を狭くするという現象を生じさせる。私たちは実際の距離をまったく気にすることなく,キーボードを叩くだけで,南アフリカの国立公園でひなたぼっこ中のライオンのライブ映像を見ることができるのだ。
 実のところ,クリックをくり返しながらウェブサイトからウェブサイトへと飛んでいく行為には,私たちが頭の中で空間をどう処理しているかが映し出されている。インターネット上の各サイトは,位相の中のノードとして互いにつながっている。私たちがリンク先をクリックするさい,ふつうは見ているサイトの出所がどの方向で,どのくらいの距離が離れたところにあるのかまったくわからないし,それを気にすることもない。これは日常生活の中であちこち移動しているさい,空間の形状をシンプルな位相に還元してしまう私たちの性質の極端な例だ。

コリン・エラード 渡会圭子(訳) (2010). イマココ:渡り鳥からグーグル・アースまで,空間認知の科学 早川書房 pp.239-240

都市のパターン

1000年以上かけてゆっくりと形成された都市には,都市空間が人間の頭の中身を反映する鏡であることを示すおもしろい共通点がある。ヒリアーのグループは,たいていの都市が同じような形に成長することに気づき,その形を「ゆがんだ車輪」と呼んだ。都市の核である中心地と辺縁地域が何本ものスポークでつながったような形で,統合計数が大きい。このパターンはロンドン,ローマ,東京などでは一目瞭然であり,少し細かく調べると,すべての都市で見られる現象だ。

コリン・エラード 渡会圭子(訳) (2010). イマココ:渡り鳥からグーグル・アースまで,空間認知の科学 早川書房 pp.214

著作権者は

「みなさんの会社や学校が,宣伝用のポスターを作るとします。外部のデザイン会社に注文して,その会社でポスターがデザイン・印刷され,必要部数が納品されて,お金をはらいました。さて,このポスターの著作者はだれですか?」「注文してお金を払った会社や学校は,このポスターを自由にコピーできますか?」
 ここでやっと,「作った人でない人は著作者ではない」(ので著作権を持たない)(ので無断でコピーできない)ということの重大性が分かるのです。
 「作った人でない人は著作者ではない」ということは,「全額お金を支払った発注者でもね…」という,重大な意味を含んでいるのです。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.107

他人に迷惑をかけてもよい場合

これから徐々に説明していく著作権というものも,そうした「権利」の1つであり,著作権法という法律によって,すべての人々にあたえられているものです。
 その中には,例えば,「私がとった写真を,勝手にネット配信しないでくれ」と言える権利がふくまれます。この権利を行使すると,「世の中の人たちは見たいと思っているんです。あなたは他人の迷惑を考えないのですか」などと反論する人がいます。
 日本人の多くは「他人に迷惑をかける」ことはすべて悪だと思っているので,こうしたおかしなことを言う人がいるのですが,法律で「権利」があたえられているということは(例外的に)「他人に迷惑をかけてもよい場合」なのだということを,よく理解しておいてください。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.24-25

区別できていない

ルールで決められていない「自由であること」について,各人が何を「正しい」と感じるかが,「道徳観」とか「モラル感覚」と呼ばれているものです。
 それは,人それぞれの「心の中」の問題なので,何を「正しい」と感じるかは,各人の自由です。ですから「ルール違反」ということはあっても,「モラル違反」ということはあり得ません。
 他人に「モラル違反」などと言う人は,「私のモラルとちがう」「わたしは気に入らない」と言っているだけなのです。この「心の中のモラル感覚」と「行動についてのルール」を区別できない人が多い——というのが,実は日本人の特徴です。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.17

行動3種類

「心の中」はいつも完全に自由ですが,「行動」については「社会のルール」があるため,人の「行動」は,次の3種類に分かれます(3種類しかありません)。

 (1)してはいけないこと
 (2)自由であること
 (3)しなければいけないこと

 これらのうち(1)と(3)は,「社会のルール」で決められています。例えば(1)は,殺人・盗み・暴力などですね。また,(3)の例は「赤信号では止まる」といったことです。
 ルールで決められていないことは,すべて(2)であり,みなさんの自由です。
 ところが日本では,各人の自由であるはずの(2)に属する行動について,他人の行動にモンクを言うような人が少なくありません。例えば,ルール違反でない((2)にふくまれる)行動について,「あれはモラル違反だ」などと言う人がいます。

岡本 薫 (2011). 小中学生のための 初めて学ぶ著作権 朝日学生新聞社 pp.16-17

情報過多

人間は情報の量に圧倒されやすいため,情報過多は情報の少なさよりも悪影響を及ぼす場合がある。さらにいえば,情報公開は,情報を受ける側がクレジットカードの所有者であろうが,携帯電話の利用者,あるいは鉱山労働者であっても,情報を公開する側とされる側の力関係をほとんど変えない。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.297

研究成果への関心

同性愛者の権利に反対する陣営は,同姓から異性へと選好を変えた者もいると主張する。人気キャスターのケイティ・クーリックが2008年の大統領選挙期間中に行った運命的なインタビューの中で,共和党の副大統領候補サラ・ペイリンは,同性愛者の親友が「私のした選択とは別の選択をした」といった。それに対して同性愛者の権利を養護する陣営は,同性愛志向が生まれつきのものだということを示す科学論文を引用する。
 ということは両陣営とも,性が選択ならそれは保護されるべきではなく,選択でないのならもっと保護されてしかるべきと想定していることになる。つまり性が選択なら,LGBT[レズビアン,ゲイ,バイセクシュアル,トランスジェンダー(性転換)の頭文字を取り,まとめた呼称]は,その選択と,それによって引き起こされるすべてのできごとに対しての責任を負っていると考えている。
 そうしてみると,性的な志向の生物学的な基板を調査する科学研究の成果に対して,何百万もの人々が大きな関心を寄せていることに,まったく不思議はない。セクシュアリティが選択されたものかどうかに市民の権利が依存しているというのは奇妙な話だが(うまれつきのものでなくても宗教的信念は保護される),実際にその点をめぐって論争されている。

ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.59-60

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