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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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誤った戦略

テロリストの心を読み違えたために,誤った軍事戦略をとる例は,枚挙にいとまがない。敵が感情のない動物のような存在であるなら,彼らを震え上がらせるだけの圧倒的な力を見せつけなければならない。だが,もし敵が自分の集団への同情心や,個人的な利益より大きな意味を持つ大義名分のために闘っているなら,「衝撃と畏怖」作戦は,相手を恐怖に陥れると同時に,相手を勢いづかせることにもなりかねない。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.93
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テロリストへの想像力

こうした見方は,テロリストの心を読み違えている。たとえば,自爆テロリストは,かならずしも極貧家庭の出身ではない。彼らは狂人でも,相手の痛みがわからない人でもなく,家庭があり,子持ちの人もいる。そして,親しい人を愛している。暴力行為に及ぶ人とそうでない人を分け隔てるのは,あなたもよく知っている,非常に人間らしい感情や動機だ。それは,自分の社会集団との深い絆や,ある大義名分のせいで苦しんでいる人への強い同情心や,危機にさらされている生活を守りたいという強い責任感である。そして,暴力行為に及ぶ人は,自分が属する集団への同情心と,それに起因する敵対集団への軽蔑心に突き動かされている。彼らの行動は,偏狭な利他主義からきている。偏狭な利他主義とは,自分の行動の結果を積極的に顧みず,ひたすら自分の集団や大義名分に利することをしたいという強い思いのことである。これは,大統領選挙中のジョン・マケインが,すべてのアメリカ人が望む行動の動機として挙げた「個人の利益よりも偉大な大義名分に奉仕すること」そのものだ。私たちは偏狭な利他主義によって,自分に近い同胞たちの存在を借りて語られる。ある自爆テロリストの父親は「息子は大義名分のために死んだのではなく……愛する人々のために死んだのです」と述べている。ところが,テロリストが愛で動いていると想像できる人は少ない。

ニコラス・エプリー 波多野理彩子(訳) (2015). 人の心は読めるか? 早川書房 pp.92-93

遊べるだけ遊びたいのだ

勉強ばかりする者は,好きで勉強するのだから例外で,そんなに勉強ばかり出来るものではないと思った。今まで普通の点数をとっているからそれでいいと思えた。大学も,どこか受かるだろうと思った。大学へは行かなければ社会的にも損だし,大学へ行っている間だけは遊んでいられるのだ。大学を出ればそれから先はどうなるかわからない。真っ暗な社会へ出なければならないのだ。遊べるのは今だけだから遊べるだけ遊びたいのだ。

深沢七郎 (1959) 東京のプリンスたち (深沢七郎 (1964). 楢山節考 新潮社 pp.141)

議論で駆逐可能か

ヘイト・スピーチが良質の議論によって「駆逐される」という主張は,ナチズムが「表現の自由」を行使してヘイト・スピーチを行い,反対勢力を「駆逐」して権力をとり,多くの人々をユダヤ人虐殺の加害者とさせた歴史的事実に照らしたとき,どの程度説得力があるだろう。
 そもそもヘイト・スピーチは,平等な社会の構成員の誰もが議論に参加して議論により解決するという対抗言論の前提を破壊する。経済的,政治的,社会的に現実には不平等な社会において,社会の構成員の誰もが等しく参加しうることを前提とする「思想の自由市場」が存在しうるのかという原理的な問題もある。それを置いても,とりわけマイノリティの場合,数の上でハンディを負い,差別により政治的にも社会的にも不利な立場に置かれて,発言力も不当に低く抑えられている。発現する機会も比較的少なく論戦において圧倒的に不利である。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.157-158

自己実現の侵害

ヘイト・スピーチはマイノリティに沈黙を強いて,その自己実現の機会を奪う性質をもつ。時には自死という究極の自己否定にまで追いやる。加害者であるマジョリティの自己実現のみを擁護し,被害者であるマイノリティの自己実現の侵害は抜け落ちている。本来,自己実現という価値は,他者の自己実現を否定しない限りで認められるはずである。日本国憲法十二条二文も,「国民は,これを濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と定める。「公共の福祉」とは,他者の人権と自己の人権の調節原理として理解するのが通説である。他者の人権を侵害するような表現は,表現の自由の濫用であり,許されない。

師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店 pp.153

知性と権力の固定化への反感

知性が大学や研究所といった本来あるべきところに集約され,それが本来果たすべき機能に専念していると見なされる場合には,反知性主義はさして頭をもたげない。しかし,ひとたびそれらの機関やその構成員が政治権力にお墨付きを与える存在とみなされるようになったり,専門以外の領域でも権威として振る舞うようになったりすると,強い反感を呼び起こす。つまり反知性主義は,知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である。知的な特権階級が存在することに対する反感である。微妙な違いではあるが,ハーバード・イェール・プリンストンへの反感ではなく,「ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義」への反感である。特定大学そのものへの反感ではなく,その出身者が固定的に国家などの権力構造を左右する立場にあり続けることに対する反感である。日本なら,ここに「東京大学」などと代入すればわかりやすい。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.262

どのような平等か

平等という言葉の内容にも,多くの議論がある。大事なことは,権利や出発点や法の下における平等なので,その後の努力によって格差が生じることまでは否定しない,という意見もある。政治哲学や経済学の分野では,それぞれ政治参加の平等や分配の平等が論じられ,「機会の平等」「結果の平等」「資源の平等」「必要性充足の平等」などといった多くの概念が提案されてきた。これらの議論はあまりに錯綜しているため,平等はもはや政治理念としては「絶滅危惧種」である,と宣言する者すらある。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.98

契約

はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は,神の一方的で無条件な恵みを強調するための概念だった。人間の応答は,それに対する感謝のしるしでしかない。旧約であろうと新約であろうと,聖書の基本的なメッセージは,繰り返される人間の罪と反逆にもかかわらず,神はあくまでも恵みの神であり続ける,ということである。契約とは,当事者の信頼やコミットメントを表すものだったのである。ところが,ピューリタンを通してアメリカに渡った「契約神学」は,神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う,という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である。
 神学者のリチャード・ニーバーによると,このような契約理解は現代アメリカ社会にも深く影響を及ぼしている。神学的な契約概念の変化は,人間同士で交わされる世俗的な契約をも変質させてしまった。本来それは,自分自身を縛る信頼と約束の表現であったのに,いつの間にか相手方に義務の履行違反がないかどうかをチェックする言葉になってしまった。ニーバーの解釈は,商売や結婚などを契約の概念で理解する「ドライな」アメリカ社会に対する文明批判である。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.23

真のメリトクラシー社会

真のメリトクラシーの米国とは,どんなふうだろうか。全員に平等に機会を与え,最高の成果を残せる人間に職が与えられる社会だろうが,その目標達成には再編が伴い,現在の米国版メリトクラシーとかなり違って見えるだろう。重要な職務,金と地位によ最高の報酬は,ほんの短期間だけ,厳格に実績に基づいて与えられる。若いころの将来性に基づいて生涯にわたる在職権を与えるのは,できるだけ減らされる。エリート層はメンバーがたえず入れ替わる集団になり,安定した不動のメンバーではなくなる。成功した人間でも落ち着いてキャリアを積み重ねられなくなるが,人生がうまく行かない人間からは,共感を得やすいだろう。マンダリン集団の中のスペースはぎりぎりまで小さく,マンダリン外のスペースはぎりぎりまで大きくなろう。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.427

公平・不公平

読者が,できるだけ公平に機会を分配するシステムを1から設計したいとしよう。今ある米国版メリトクラシーを設計するだろうか。それは,IQテストの得点,もしくはより広く学業成績が,能力に等しいものと信じる場合に限られる。この立場を取ることは可能だが,ただ単に仮定するのではなく,少なくとも世間で議論するように提示しなければならない。そうすれば即座に反対意見が出るだろう。能力にもいろいろあり,一面的ではない。知能テストや教育そのものが,あらゆる形の能力を発見するとは期待できない。知能テストでは,知恵,独創性,ユーモア,ねばり強さ,情緒的な理解力,良識,独立心,意志の強さは把握できない——人徳は言うまでもない。知能テストは潜在的な側面で人間を判断するが,選抜の目的となる作業の長期にわたる実績で判断することはない。
 一歩進めて,できるだけ不公平な機会配分システムを設計する課題をもらったとしよう。最初の選択は,世襲によってあらゆる役割を露骨に受け継がせるシステムかもしれない。これは極めて有害なシステムだ。ありがたいことに,米国にはかつて一度も存在しなかった。さて,二番目に不公平なシステムは,競争は容認するが,人生のなるべく早い時期に競争させ,学校をその場に用いるシステムかもしれない。両親の影響や,各人の背後にある文化・階級の影響は,学生時代に最も大きく色濃く表れる。どの学校にも勉強を通じた競争があり,最終的な結果に基づいて,一部の人間は生まれた環境を大きく超えて出世するチャンスをつかむ。しかし学校は総じて,ジェイムズ・ブライアント・コナントの言葉にあった「各世代の“持てる者と持たざる者”の秩序を再編し,社会秩序に流動性を与える」機能を果たし得ない。教育が提供するのは期待——両親が露骨に,熱烈に寄せる期待——世代をまたいで地位を引き継ぎ,変化したり,没落したりしないという期待なのだ。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.424

複数の仮定

米国版メリトクラシーは,いくつもの仮定が連なった上に成立していた。人々は今,この仮定をよく知らない。最初に公表されなかったからだ。第1の仮定は,このシステムの主要課題が,少数の人間の選抜と新エリート層の形成に置かれるところにあった。すべての米国民に機会を与える目標は,システムの設計に絶対必要な要素ではなく,システムに世間の支持を集める方法として,あとで付け足された。2つ目の仮定は,選抜方法は知能テストに依るべきで,それが優れた学問的才能の代用物を測るとするものだ。言い換えれば,「能力」の定義は,純粋に知能,教育面の能力となる。最後に,学生を選抜する目的は,トーマス・ジェファーソンが「政府機関」と呼んだもの——近代官僚国家の行政・学問サービス——の現代版に学生を入れるためだった。システムの創設者たちは,現在使われている意味のメリトクラシーより,フランスや日本のエリート官僚システムに近いものを構想していた。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.423

限られた枠内の競争

社会のトップの人たちは大体いつも,本質的に他人より優秀だと感じており,幸運に生まれついただけでなく,自ら地位を築いたと思っている。戦間期の米国やビクトリア王朝の英国など,われわれから見て,明らかにメリトクラシー的でなく,アリストクラシー的だったと思われる社会では,責任を担う価値のある人間が社会を運営するとされた。過去に繁栄を謳歌した人たちはどのようにして自分を優秀だと認めたのだろうか。そういう人たちは通常,限られた枠内で競争するメリトクラシーに参加していた。たとえば『イェールのストーバー』が描いた類の競争である。少数の非常に限られたグループのメンバーが,最高の賞を目指して全力で競争する。勝者は,自分は賞にふさわしいと感じる。競争にいっさい参加できない大衆は,遠く離れて視界に入らない。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.422-423

機会を得る

米国では,機会は国民の特別な関心事だった。人々は従来,非公式な組織だっていない形で,学校や大学の外で機会を手にしていた。大学は,実業界の出世に関心のない特権的な連中や,評価は高いが収入は高くない職業——法曹,医師,聖職,外交官,軍人——のために教育を授ける場所と受け止められていた。逆に実社会で成功するには,教育関係の証明書は必要ないと思われていた。トクヴィルは「米国では,おびただしい群衆がもとの社会状況から抜けだそうと大変な努力をしている場面に最初に出会う」,「すべてのアメリカ人は上昇願望で頭がいっぱい」と書いた。願望実現の方法は?きめ細かな正規の教育でないのは確かだ。「勉強の味が分かりそうな年齢に達するころには時間がない。時間が取れるころには勉強の味を忘れている」と彼は言う。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.63-64

アリストクラシー

プラトンは『国家』で,「国守り(守護者)」の階級が社会を運営するシステムを提案した。国守りは10歳で親元から離され,教師が育てて,国家の統治者となる。その国守りを全階級から連れてこなければならないのが,プラトンの要点である。プラトンは「ときには,金の親から銀の息子が,銀の親から金の息子が生まれることがある」,「もし金や銀の親から生まれた息子が,真鍮と鉄の混ぜ物であれば,自然の摂理はランクの移動を命じる……神託によれば,真鍮や鉄の男が国家を守護したとき,国が滅びるからだ」と書いた。プラトンはもう1点,国守りは終身の政府官僚で,国家のためだけに関心を持ち,個人的な富には無頓着だとはっきり打ち出している。プラトンはこの理想のシステムを「貴族政治(アリストクラシー)」と呼び,文字通り,最高の者による統治という意味を与えた。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.56-57

子どものケンカと同じ

しかし,まだ謎が残る。リベンジが抑止機能として進化したのなら,なぜそれが現実の世界でこんなにも頻繁に行使されるのか?なぜリベンジは冷戦時の核兵器備蓄のように,恐怖の均衡を生むことによって全員を行儀よくさせるものとして機能しないのか?復讐の連鎖がつねに存在し,報復に次ぐ報復がやまないのは,いったいどういうわけなのか?大きな理由は,モラリゼーションギャップであろう。人は自分が与えた損害を正当化して忘れやすい反面,自分が受けた損害については根拠のない言語道断の行為だと思いがちである。この意識の差によって,対立をエスカレートさせている両者は攻撃の数を違うふうに勘定し,被害の重さについても違うふうに解釈する。心理学者のダニエル・ギルバートに言わせれば,長期にわたって交戦している当事者双方の言い分は,自動車の後部座席でそれぞれの言い分を親にぶちまけている2人の男の子のそれとほとんど変わらない。「こいつのほうが先に僕をぶったんだ!」「こいつのほうが強く僕をぶったんだ!」

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.295

リベンジの機能

リベンジが抑止力として機能できるのは,報復者が報復するであろうことが広く知られていて,なおかつその報復者に,たとえコストがかかろうと必ずや報復を実行する意志がある場合だけだ。そう考えると,なぜリベンジの衝動がこんなにも拭い難く,激烈で,ときには自滅的でさえある(自ら裁きをくだそうと,不実な配偶者や無礼な他人を殺したりする)かの説明がつく。さらにいえば,リベンジが最も有効となるのは,報復者から罰がくだされることを報復されるターゲットが知っていて,それゆえに,報復者となるかもしれない相手へのふるまいを考え直せるときである。だから報復者の切実な願いがかなえられるには,ターゲットが罰せられる対象になっていることを自ら知っていなくてはならない。このような衝動は,司法理論で言うところの特別抑止機能を果たす。つまり犯罪者本人に罰をくだすことによって,犯罪者の再犯を防ごうという考えである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.293

男性の氾濫

インドや中国のような階層社会ではどうだろう,ホークスによれば,子殺しを行う階層社会では,親がやはり息子を所有するが,娘は所有していない。ただしこの場合は軍事的な理由というよりも,経済的な理由による。上流階級が富を独占している階層社会では,たいてい遺産が息子に受け継がれる。インドではカースト制がさらに市場を歪ませていた。低いカーストの家は法外な額の持参金を払わないかぎり娘を高いカーストの家に嫁がせられないのだ。中国では,親がもうろくするまでずっと自分の息子とその妻からの支援を受ける正当な資格を有するが,娘とその夫に対してはその資格を持たない(そのため「娘はこぼれた水のようなもの」という古来の諺がある)。1978年に導入された中国の一人っ子政策は,老齢になった親の世話を息子にさせようとするその要求をさらに厳しいものにした。これらの事例すべてにおいて,息子は経済的な資産であり,娘は負債である。そして親は,その歪んだインセンティブに最も極端な手段で応じるのだ。今日,子殺しはどちらの国でも違法となっている。中国では,子殺しは性差別的な堕胎(これもまた違法だが)に取って代わられたと考えられているが,実際にはいまだ広く行われている。インドでは,超音波と中絶のクリニックにセットで襲来されているにもかかわらず,あいかわらず子殺しが普通のことと考えられている。これらの慣行を減らそうとする圧力はほぼ間違いなく高まるだろう——たとえその理由が,政府がついに人口の計算を行って,今日の女児殺しが明日の荒れ狂った独身男につながることに気づいたから(その現象については追って詳しく見ていく)というだけだったとしても。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.86-87

テロは戦術である

テロはイデオロギーでも政治体制でもなく,戦術にほかならない。だから,「テロとの戦い」に勝つことは決してありえない——ジョージ・W・ブッシュが9・11後の演説で高らかに掲げた「世界から悪を追放する」という,より大きな目標が決して達成しえないのと同様に。グローバルメディアの時代には,テロの投資がもたらす膨大な利益——わずかな暴力の支出によって得られる恐怖の大金——に誘惑される,不満をいだいたイデオローグがつねにどこかに存在するし,約束された仲間同士の友愛と栄誉のためにすべてを危険にさらすこともいとわない兄弟集団が,つねにどこかに存在する。テロが大規模な反乱における戦術として採用されれば,国民や市民生活に計り知れないダメージをもたらし,核兵器テロという仮説としての脅威は「恐怖」という言葉に新たな意味を加えることになるだろう。だがそれ以外の,歴史が教え,近年の出来事が裏づけるあらゆる状況において,テロ行為は自らの破滅の種を蒔いているのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.624

大量破壊兵器

化学兵器のタブーと核兵器のタブーの類似性は十分に明らかだ。今日,この2種類の兵器は,核兵器のほうが比較にならないほど破壊的なのにもかかわらず,「大量破壊兵器」としてひとまとめにされている。一緒にすることで,2つのタブーが互いに強化されるからだ。2つの兵器はともに,健康を損なうことで緩慢な死を引き起こすことと,戦場と市民生活との境界がなくなることを特徴としており,それが恐怖をいっそう増幅するのだ。
 化学兵器に関して世界が経験してきたことは,少なくとも核時代の空恐ろしい基準からすれば,多少なりとも希望のもてる教訓を提示している。必ずしもすべての致死的な技術が軍のツールキットに恒久的に収まるわけではないこと,瓶から出てきた魔物のなかには,中に戻せるものもいること,道徳的感情が国際規範として確立され,戦争遂行に影響を与える場合もあること。さらにそれらの規範は,たまに生じる例外には揺るがない堅固さをもちうるし,そのような例外は必ずしも制御不能な戦争拡大を誘発するわけではない。この点は,とりわけ希望のもてる発見ではあるのだが,あまり多くの人が気づかないほうが世界にとってはいいのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.487-488

その説を信じている人は多い

1990年代の暴力犯罪の減少は,暴力研究における奇妙な仮説の1つが生まれるきっかけをつくった。本書の執筆中,暴力の歴史的減少についての本を書いているという話をすると,何人もの人から,そのことはすでに説明がついていると指摘された。彼らによれば,暴力事件の発生件数が減ったのは,1973年にアメリカ最高裁が下した「ロー対ウェイド」裁判の判決によって妊娠中絶が合法化されたからだという。これにより,望まない妊娠をした女性や母親としての適性を欠く女性が中絶するようになったため,成長して犯罪を犯すような子どもが生まれずにすむようになったというのだ。2001年に経済学者のジョン・ドノヒューとスティーブン・レヴィットがこの仮説を提唱した時の私の反応は,あまりに話ができすぎているというものだった。見過ごされていた単一の事象が大きな社会動向を説明するという仮説が降ってわいたように出てきて,その当時は一定のデータによって裏づけられたとしても,そうした仮説はほぼ確実に間違っている。だがレヴィットは,ジャーナリストのスティーブン・ダブナーとの共著『フリーコノミクス』(邦訳『ヤバい経済学』)のなかでこの説を紹介し,同書がベストセラーになったおかげで,いまやかなりのアメリカ人が,1990年代に犯罪率が低下したのは,1970年代に犯罪者になることを運命づけられた胎児が中絶されたからだと信じている。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.228

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