忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

文化性が育つ

昔は,みんなずい分とげとげしい顔をして行列に並んでいたものだ。押したって順番が早くなるわけでもないのにぐいぐい押して,あちこちで諍いがおこった。スキあれば少しでも列の前のほうへ割り込もうという様子だった。喧嘩が始まってしまうようなことも珍しくはなかった。
 ところが最近では,行列で前にいる人を押す人をとんと見なくなった。みんなとても穏やかな顔をして,行儀よく並んでいる。むしろ並んでいるのを楽しんでいるかのように,ニコニコしていたりする。特に若い人が,行列に並ぶことを苦痛に思わず,とてもおとなしくルールを守っているようだ。
 ここまで私は主に,文化を守る,という角度のことを言ってきたが,守るのではなくて,文化性が育ってくる,という場合もあるようだ。

清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.130-131
PR

西高東低

総じて東京の大学の立地は,西高東低の傾向がある。
 地理的には都心に位置するものの,地形的には東部に近い中央区も,本部があるのは聖路加看護大学だけにとどまる。一番大学生が多い区は,有名私大の本部が集まる千代田区だ。2位と3位は文京区と新宿区の接戦で,世田谷区がこれに続く。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.110

世代のサイクル

戦前から戦後の初めに移住してきた山の手第1世代のときは,ストックが生きた。100坪なら売れなくても,3分割なり4分割なりすれば買い手がついたからだ。
 とはいえ,限度を超えて再分割されてしまうと,まちの環境が悪化する。そこで世田谷区が「小規模宅地開発指導要綱」を定め,ミニ開発の抑制を始めたのは1980年。戦後35年目のことであった。
 1回目のサイクルはこれでなんとかしのぐことができた。しかし2回目のサイクルとなるとそうはいかない。土地は,もう切り刻みようがない。子どもが家を建て直して住んでくれれば丸く収まるが,マンションがいいとなればそれまでだ。住宅余りの時代だから,果たしてうまく買い手が現れるかどうかも不安が残る。
 その結果どうなるか。まるで歯が抜けたように,無住の家をあちこちに生み出してしまう。更地にするには費用がかかるし,とりあえず家を建てたままにしておけば固定資産税が最大で6分の1に減免される。だが空き家の発生は,犯罪や火災の危険度を高め,まちの風紀を悪化させてしまう。
 空き家問題は,団地問題の「まち版」である。この最悪のシナリオが23区の中で具体化するリスクが最も高い場所,それが定住先として屈指の人気を誇る山の手エリアにほかならないのだ。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.51-52

サザエさんの家

アニメ『サザエさん』が住むまちは,作者の長谷川町子が住んだ世田谷区の桜新町をモデルとするのはよく知られたところ。サザエさんの家は,2世帯7人家族が暮らす庭つき一戸建て。しかも平屋だ。
 物好きな人が計算したところによると,敷地は93坪。波平は,医者でも高級官僚でも大会社の重役でもなく,中堅会社の中間管理職に過ぎない。それでも,敷地100坪の家に住んでいたことになる。
 サザエさんはアニメだから,登場人物は年を取らないし,家も古くならない。しかし,現実世界は,人にも家にも寿命がある。わが国の木造住宅の寿命は30年といわれるが,実際にはもう少し長持ちするようだ。
 それでも35年から40年も経つと老朽化が目立ち,小手先の修復では済まなくなる。それ以上に,家の造りが時代に合わなくなり,どうしようもなく住みにくくなる。ここに,ちょうど同じサイクルで人の問題が加わってくる。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.50

フローの課題

これらの事実は,まちの新陳代謝を生み出すことが,高齢化対策の特効薬になることを示している。もちろん,全国レベルで見ると高齢者は一方的に増えていくのだから,どこかで高齢化の進展が抑制されると,別のどこかがそのしわ寄せを受け,格差が拡大することになる。格差を否定するのなら,子どもを増やして分母を大きくするしかない。
 繰り返しになるが,まちに新陳代謝を生み出すのはフローの課題である。一方,子どもを増やすのはストックの課題だ。両者のバランスを図ることの大切さがここにも示されている。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.41-42

子どもも集中

全国の子ども(0〜14歳)の数について,2000年と2010年を比べると,ほぼ鹿児島の人口と等しい167万人(9.0%)も減少した。ところが,この10年間に子どもの数が増えた都道府県がふたつだけある。
 ひとつは神奈川県の0.3%増。そしてふたつ目が東京都。こちらは4.0%増。23区で見ると,これをさらに上回る5.1%の増加を示す。
 0〜4歳の幼児人口に着目すれば,もっと顕著だ。全国の10.3%減に対し,東京23区は8.2%増。少子化どころか,子どもも東京に一極集中している。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.34-35

一つの区の多様性

たとえば板橋,有楽町,八重洲,神田,秋葉原。これらのまちが何区にあるかをご存知だろうか。板橋は港区。八重洲は中央区。残る有楽町,神田,秋葉原はいずれも千代田区。全問正解者は相当の東京フリークだと自慢してもいいだろう。
 個人的な話で恐縮ながら,筆者は千葉県の船橋市に住んでいる。人口は杉並区を上回る62万人。
 数字だけ見れば東京23区を除くと,20の政令指定都市に次ぎ,全国で21番目に人口が多い大都市である。ところが,圧倒的多数の人は船橋市と聞いても「船橋」の駅かその近辺しか思い浮かばないのではないだろうか。全国の都市の大部分は船橋市と同じで,名前を聞いても代表的な拠点くらいしか思い浮かばない「渋谷型」である。
 ひとつの区に多様な特徴を持つまちが同居する「杉並型」が多数を占める東京は異色の存在であり,これが東京23区の大きな特徴でもある。

池田利道 (2015). 23区格差 中央公論新社 pp.26-27

最低限のマナー

だいたい金を払っていれば何をしてもいいという考えが間違いです。最低限のマナーがあります。ゴルフのグリーン上での勝負のときは客は移動してはいけないし,テニスの観戦では静かに観ないといけないし,電車の中での携帯電話もそうです。落語会だって同じではないですか。落語は客の想像力に訴える芸能。横に酔っ払いがいて騒がれたら,落語なんて聴いていられません。

立川志らく (2009). 雨ン中の,らくだ 太田出版 pp.178

NSAと数学者

このような技術が確立されると,人間の言葉から計算される企業の得点は,消費者の意見の移り変わりを刻々と追跡する指標になる。アンブリア・コミュニケーションズも,その商売敵であるニールセンやグーグルも,この分析によって得られる見識がマーケターや政府の役人や政治家に高く売れると確信している。さらに,人間の言葉の分析がもっとも精力的に進められている領域は,むしろ人目につかない世界かもしれない。2001年の同時多発テロをきっかけに,アメリカの諜報員はインターネットや電話での大量の通信を監視するようになった。アメリカ国家安全保障局(NSA)には国内でもっとも多くの数学者が集められ,更新の内容をつねに掘り返している。

スティーヴン・ベイカー 伊藤文英(訳) (2015). NUMERATI ビッグデータの開拓者たち CCCメディアハウス pp.141-142

確率を小さくコントロールする

しかし,実際に一億分の一あるいは百億分の一という確率を検証することは不可能である。そこで重要なのは,

  互いに無関係な二つの因果関係によって起こる二つの事象が同時に起こったときにのみ起こる事象の確率は,最初の二つの事象が起こる確率の積である。

という法則(乗法法則)である。このことは「互いに無関係な因果関係によって生じる事象は,確率的に独立である」ということを意味している。もちろんこのことが正しいという論理的保証はないが,しかし二つ以上の因果連鎖を別々に考えることができるということは,実はその生み出す結果が独立であるという仮定を含んでいると考えられるので,現実的な行動原理としては妥当というよりも,むしろ必要である。
 そこである事象が起こる確率がきわめて小さくなるようにするには,いくつかの事象が同時に起こらなければその事象が起こりえないようにした上で,それぞれの個別事象の起こる確率を検証可能な小さい水準に抑えるようにすればよい。それは多重安全システムの基本的な考え方である。そうして一つの安全システムが失敗する確率が千分の一互いに独立はシステムを四重に設けておけば,全部が失敗して大災害が現実化する確率は一兆分の一となって,これは十分小さくて事実上ゼロといえるだろう。
 現実にきわめて高度の安全性を保障されていたシステムが大事故を起こしてしまった場合には,実は何重にも設けられていた安全システムが実際には互いに独立でなく,共通の一つの要因によって同時に機能しなくなってしまった場合が多い(その最も明白な例は,そこで働いている人々が安全ルールを守らなかった場合である)。
 稀な,しかし起こってしまったらきわめて重大な結果をもたらすような事故を防ぐために最も重要なことは,「確率の乗法原理」が成り立つ条件を確保することである。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.207-209

不運をわかちあう

事故については,それが起こる確率がなるべく小さくなるように,すべての関係者が事前に努力すべきことは当然であるが,しかし小さい確率のことでも「偶然」起こってしまうことはある。その場合には事後処理として「不運」を適切に分かち合うことが必要である。損害賠償の問題はそのような観点から考えるべきである。またその場合,保険によって保険会社が損害を補償する(もちろんその場合には当事者の少なくとも一人があらかじめ保険に入っていなければならないが)こともありうる。
 事故の事後処理において,当事者の一方が故意または過失によって事故の起こる確率を大きくするようなこと(例えば酔っ払い運転)をしているのでなければ,道徳的なあるいは法律的な「責任問題」をあまり論じ合うことは不毛であろう。「不運な事故」は「不運」なのであって,それは本来不条理なものである。それについてすべての当事者が満足する解決などはありえないのであって,可能なことはその「不運」の適切な分配によってその作り出す「不幸」,つまり不運な事故の被害から生じる人々の惨めさをなるたけ少なくすることでしかないのである。
 そのためには人々の間の同情心と適切な社会ルールが必要である。そのようなルールの中では,当事者のそれぞれの「不運」を負担しうる能力と,事故が起こる確率を小さくしえた可能性とを考慮に入れる必要がある。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.172-173

別の考え方

もしそれが発生すれば莫大な損失を発生するような,絶対起こってはならない現象に対しては,大数の法則や期待値にもとづく管理とは別の考え方が必要である。
 例えば,「百万人に及ぶ死者を出すような原子力発電所のメルト・ダウン事故の発生する確率は一年間に百万分の一程度であり,したがって「一年あたり期待死者数」は1であるから,他のいろいろなリスク(自動車事故など)と比べてはるかに小さい」というような議論がさなれることがあるが,それはナンセンスである。
 そのような事故がもし起こったら,いわば「おしまい」である。こんなことが起こる確率は小さかったはずだなどといっても,何の慰めにもならない。また,もしそのことが起こらなかったら,何の変化もないので,毎年平均一人はそれで死んだはずだなどというのはまったく架空の話でしかない。このような事故に対して,料率が百万分の1の保険をかける,あるいはその他の対策によって「万一に備える」というのは無意味である。なすべきことはこのような事故が「絶対起こらないようにする」ことであり,そのうえでこのようなことが起こる可能性は無視することである。
 このようにいうと,小さい確率であってもまったくゼロではない限り,それを無視するのは正しくない,したがって,巨大事故の確率がゼロであるといいきれない限り,原子力発電所は建設すべきではないという議論が出されるかもしれない。
 しかし,個人でも人々の集団でも,あるいは一つの社会,国,さらに人類全体でも,その生存を脅かすような危険性はいろいろ存在するのであって,それらの確率は決してゼロではない。それらが人間の行動によって起こされる場合,あるいは逆に人間の行動によって防止できる場合,その確率をできるだけ小さくするように努力しなければならないことはいうまでもない。しかし,その確率を完全にゼロにすることは不可能であるかもしれない。

竹内 啓 (2010). 偶然とは何か:その積極的意味 岩波書店 pp.201-203

やり甲斐は幻想

そういう意味では,小説家以外の職業,あらゆる職業でも,まったく同じことがいえるだろう。近頃は,仕事に「やり甲斐」を求めたり,「憧れの職業」などといった幻想を持ったりする若者が多い。それは,そういったイメージを植え付けようとする勢力があるからだが,実社会にそんなものは存在しない。幻想なのである。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.197-198

感情が動機ではできなくなる

「好きだから」という理由で書いている人は,好きでなくなったときにスランプになる。「自慢できる」仕事だと思っている人は,批判を受けるとやる気がなくなる。つまり,そういった感情的な動機だけに支えられていると,感情によって書けなくなることがある,ということのようだ。
 それに比べれば,仕事で書いているかぎり,スランプはない。書けば書いただけ稼ぐことができる。人の心は人を裏切るが,金は裏切らない,ということか。守銭奴のような物言いになるけれど,これは正直なところである。仕事という行為は,例外なく守銭奴になることだ。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.197

出費をさせる魅力

オリジナルなものを作る(創作する)ということは,しかし,「労働」だけで評価をされる行為ではない。ここが重要である。ただ文字を書くだけの作業ではない。すでにある話を書き写すのではないし,また似ているものも非難を受けるだろう。新しさがなければならない。そのうえ,大勢に受け入れられる要素がなければならない。絶賛してくれる人が10人いてもしかたがない。文句を言われながらも,何千人,何万人という人たちに出費をさせるだけの魅力が個々の作品に必要なのだ。この部分が,なかなか具体的なノウハウとして文章化できないところでもある。

森博嗣 (2015). 作家の収支 幻冬舎 pp.94-95

孤立死

ちなみに,誰にも看取られずに一人で息絶える死に様について,当初は「孤独死」と呼ばれていた。数年前には各種メディアで大々的に報じられるようになり,その語感のセンセーショナルな響きからも広く一般に名称が認知されたが,のちに政府や行政も含めて言い方を「孤立死」と改める動きが続いている。
 というのも,一人でいることが「孤独」(=頼りになる人や心の通じる人がなく,一人ぼっちで寂しいこと)であるかどうかは本人の主観の問題であり,外部から特定できるのは「孤立」(=一人だけでいること)の状況のみである,との見解からだ。
 一人でいることを選び,楽しんで過ごしている人と,誰からも相手にされずに見捨てられている人とは違う。
 社会参加を続け,周囲とも日常的な交流があったが,一人暮らしでいたため,たまたま死の瞬間が一人の時に訪れて,すぐには発見されなかったケースと,自ら他者を拒み,打ち捨てられて社会的に孤立したまま一人で絶命し,長い間気づかれなかった場合とでは意味は大きく異なる。
 こうした実情を区分したり包括したりして語るのは困難なため,一括して「孤立死」(=一人の状態で亡くなった死)と呼ぶ流れが出来つつあるのだ。

新郷由起 (2015). 老人たちの裏社会 宝島社 pp.165-166

心配の必要はない

アリの脳には25万本ほどのニューロンがあり,ニューロン1本ごとに数千個のシナプスがあると推測される。だとすると,世界のアリの脳をすべて集めたら,世界中の人間と同じくらいの複雑さになるはずだ。
 このことから,コンピュータがいつ人間の複雑さに追いつくかなど,それほど心配する必要はないことがわかる。なにしろ,われわれはアリの複雑さに追いついたのにアリはまったく意に介していないようなのだから。たしかに今,人間が地球を征服したかのように見えるが,霊長類,コンピュータ,アリのなかで,100万年後の地球にまだ存在しているものはどれかという賭けに参加しなければならないとしたら,どれに賭けるか。私には迷いはない。

ランドール・マンロー 吉田三知世(訳) (2015). ホワット・イフ?:野球のボールを高速で投げたらどうなるか 早川書房 pp.132

但し書き

自炊代行業者に対する業界の危機感は,出版物に密かな変化をもたらした。2010年以後,書籍の奥付に次のような但し書きが目立つようになったのだ。
 「本書を代行業者等の第三者に依頼してスキャンやデジタル化することは,たとえ個人や家庭内の利用でも著作権法違反です」
 「私的利用以外のいかなる電子的複製行為も一切認められていません」
 「代行業者等の第三者による電子データ化及び電子書籍化はいかなる場合も認められておりません」
 やれやれ。右記の文章が奥付に記されている書籍の版元は,いずれも僕が取引をしている会社である。自炊代行業者にスキャンを依頼することが回り回って出版社の耳に入り,心証を損ねる可能性はある。最悪の場合,得意先を失うかもしれない。
 ではどうすればよいのか。床が抜ける可能性を残したまま部屋に置いておくか,大量の書籍を廃品回収に出したり,売ったりするのか。出版社に嫌われるのを覚悟して自炊代行業者へ依頼するのか——。

西牟田靖 (2015). 本で床は抜けるのか 本の雑誌社 pp.109

分刻み

日本人を相手にしたツアー旅行の場合は,一日中,早朝から夜までも分刻みで,あちらこちらを訪問し,非常に能率的,効率的に行われている。さまざまな場所へ行ったり,食事やイベントに参加したり,実にバラエティーに富んでいる。費用対効果ではないが,行き先の多様さと多さで,旅行会社はお互いに競いあっている。すると,必然的に観光体験は広いが浅い,という結果になることは避けられない。こんな行動傾向の中にも,知らないものは何でもみたいというわれわれ日本人の強い好奇心,それを実現しようというツアー企画者の競争心,まじめさ,勤勉性,そしてまた課題さえもがみえてくる。

梶田正巳 (2015). 日本人と雑草:勤勉性を育む心理と文化 新曜社 pp.6

安心第一

日本人は口では安全・安心といいながら,相も変わらず,危険の隠蔽とバレたときの謝罪にばかり力を入れてます。現実の日本の姿はまさに“安心第一”。
 “安心”は,危険や異物を徹底的に取り除くまで訪れません。だから安心への道は,排除の論理や疑心暗鬼,人間不信へとつながってます。

パオロ・マッツァリーノ (2015). 「昔はよかった」病 新潮社 pp.137

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]