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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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国のためにならない

ナチスは,同性愛を生まれつきのものだとは考えませんでした。仮に生まれつきの同性愛者がいると認めれば,ヒルシュフェルトが提唱していたような,「同性愛は生まれつきの同性愛者による自然な行為なんだ!犯罪者扱いするべきじゃない!」という理屈が通ってしまいます。これではナチスにとって都合が悪いわけです。アーリア人の男と女がみんなくっついて,新しいアーリア人をガンガン産んでくれればいい,そういう考えでいるのですから,どうしても「人間はみんな異性愛者だよ!同性愛や異人種間結婚は犯罪だよ!」っていうことにしておかなければなりませんでした。
 そのためナチスとその支持者は,同性愛非犯罪化を訴えるヒルシュフェルトを罵り,殴り,足蹴にし,彼の研究所に放火してなにもかもを燃やし尽くしてしまったのです。
 自分たちの理想に合わない人間を,次々と排除していくナチス。1939年には,日本の厚生省(当時)もナチスドイツを手本にし,「産めよ殖やせよ国のため」などとうたう「結婚十訓」を発表しました。勝つためには数で勝負しなければならないという,第2次世界大戦下の強迫観念にとらわれ,いつしか,「子どもをつくれない人は国のためにならない」とされるようになっていきました。

牧村朝子 (2016). 同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 星海社 pp.88-89
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直視したくない難題に直面する

このなかで彼らはこう主張している。過去に起こったことと未来に起こるであろうことは決定的に違う。ある集団の遺伝的改善を構想すれば,必ず個人とは別の権威が存在し強制力が伴うことになる。しかし個々人の生殖の自決権として考えれば,事態はまったく違ってくる。親は,それぞれの宗教的信念や職業や習慣に従って,教育を介して,子供を自身の理想に合致させてきた。また,これまでアメリカ社会では,美容外科や心理分析やスポーツ医学の専門家がさまざまに肉体に手を加えてきた。ならば,なぜ親が自身の理想像に従って子どもの遺伝的質を求めることをしてはならないのか。個人的な優生学的追求を非難する倫理原則は見当たらないようにみえる……。
 優生学の悪を強制的であるか否かで区分するのは,歴史的にも意味がない。むしろここでは,アメリカ流の個人主義や自由主義が技術使用の場で貫徹されれば,必然的にこのような結論になってしまうという,単純な事実を認めるべきであろう。
 この点をはっきりさせるためには,欧州社会の対応をみるとよい。個人の自己決定権とプライバシー権を至上とするアメリカの人権概念と違って,ヨーロッパの人権概念は,個人の自己決定に重きをおきながらも,人権や人間の尊厳そのものを維持するため,それに一定の制限を加えてもいる。例えば,アメリカのいくつかの州では商業的な代理母が認められているが,フランスやドイツでは,公共の秩序や,生まれてくる子どもの幸福という観点から,商業的か否かにかかわらず代理母を禁止している。遺伝情報の扱いに直結する技術の使用についても,これを個人の自己決定にのみ委ねることには大きな抵抗があり,その使用を規制している。また,これらの理念を国際的に確認するため,ヨーロッパ規模で「人権と生物医学条約」を発効させている。この条約では,例えば,遺伝病の発症前の遺伝子診断は,保健もしくは保健研究の目的以外では行わない(第11条)として,技術の使用をあらかじめ限定している。
 しかし,これらの優生学の是非はなお,問題の核心を直視していないきらいがある。それは,かつて優生政策として断種の対象にされた大半が精神疾患の患者であったという事実である。精神疾患は子育てや通常の社会生活が不可能という「社会的・優生的」理由から精神病院の退院の条件として断種が行われる例が実際には多く,この場合,個々のケースが本当に遺伝性であるかどうかは重要ではなかったのである。今後ヒトゲノム研究が進めば,中枢神経系の分子生物学的な解明が進むことが確実で,われわれは早晩,いちばん直視したくない難題に直面することになる。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 265-267

キプロスの成功例

また,日本ではあまり知られていないが,出生前診断を予防手段として積極的に導入した例としてキプロスがある。
 この国では,βサラセミアというメンデル劣性の遺伝性貧血の遺伝子頻度がきわめて高く,人口70万人のうち17パーセントがこの病気の原因遺伝子をもっていると計算されていた。そこで,医学者が中心となってキプロス・サラセミア・プログラムが組織され,まず大規模な啓蒙教育が行われた。そのうえで1977年以降は出生前診断と中絶が推奨され,80年代に入ると,キプロス教会がヘテロの保因者(父母の片方だけから遺伝子を受け継いでいるため本人は発病しない)同士の結婚を思いとどまらせる目的で,結婚許可証の採用に踏み切った。理論的には毎年60人前後のホモの因子をもつ(父母双方から病気の遺伝子を受けついだために発病する)新生児が生まれてくる計算だったのが,これによって,88年以降は発生をゼロに抑えてきている。このキプロスの例は「遺伝病の発生予防の成功例」として,しばしばあげられてきている(詳細は,Ethics and human genetics; Council of Europe Press, 1994)。
 また,ほとんど同時期にアメリカでも,東欧系のアシュケナージ・ユダヤ人に多いテイ・ザックス病という遺伝病に対して,出生前診断と中絶によって劇的に発生を抑えこんだ例がある。
 今日からすれば,このような遺伝病対策は優生学的熱狂ともみえるが,当時の関係者はみな善良な人たちであり,これらのプロジェクトも,まったくの善意で行われてきたのである。
 このようにある社会において,遺伝病の病態,技術の水準,遺伝病に対する態度,宗教的伝統,経済水準などの要因が重なれば,ある時期には,集団スクリーニング,宗教指導者による結婚の誘導,選択的中絶などが,合理的な疾病対策として受け入れられることもありうるのである。言い替えれば,国の近代化過程のある段階では,一種の必然として,あるタイプの優生政策に急接近する時期があることを,善悪の判断とは別に心に留めておく必要がある。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 246-247

「中絶を失敗」という眼差し

しかし,選択的中絶が個別に行われた結果,出生前診断が可能な特定の病気や障害をもつ子どもの出生が激減する現象が,実際に起こっている。そのために,こうした病気や障害をもって生まれてきた子どもたちは,「中絶を失敗した子ども」,「中絶を怠ったために生まれた子ども」という否定的なまなざしにさらされるとともに,専門医の減少などによって社会的支援が受けにくくなる恐れがある。イギリスの二分脊椎症患者のケースがこれにあたる。また,生殖細胞系列の遺伝子操作を容認すれば,病気の治療にとどまらず,親にとって望ましい性質を増進するように遺伝子を操作する可能性も出てくる。このように,自己決定の結果の集積が優生学的効果をもたらしうることを,われわれは認識しておかなくてはならない。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 235

「優生」のイメージ

戦後,遺伝性疾患の子供を含む障害児の出生を防ごうとする専門家たちが,もっとも懸念し,回避しようと努力してきたのが,ナチスやヒトラーの記憶と障害児の発生予防が結びつけられることであった。「青い芝の会」が出生前診断や胎児条項はナチスやヒトラーが行ってきたことと同根である,と批判してきたのに対して,そうした非人道的な所業とは違うのだと,彼らは繰り返し反論してきたのである。渡部氏のエッセイは,「青い芝の会」に批判されてきたような専門家たちにとっても,到底容認できるものではなかった。
 1972年以降の優生保護法改正問題は,「優生」という概念の差別性が認識される大きな契機となったが,当時の優生保護法問題に対するマスコミの関心のありかは主として経済条項削除の是非にあり,産む・産まないの自由をめぐる「女の問題」という側面がクローズアップされていた。しかし,80年の渡部発言問題は,「優生」を,人権侵害や差別一般の問題として読者に広く知らしめ,日本において優生学とナチスやヒトラーのイメージの結合を決定的なものにしたといえよう。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 224-225

「優生」という表現と概念

「最近みられる世界的な傾向の1つとして,人類遺伝学は人間を差別するものであるという思想の流行がある」,「この思想の流行の1つの根源は,かつてのナチスによる人類遺伝学の悪用にあるとされているが,ナチス自身が平等と同一を混同したところに悲劇の萌芽があったといえよう」と「人類遺伝学将来計画」は苦言を呈している。60年代末からアメリカやイギリスを中心に,当時相次いで発表されていたIQや性差,攻撃性に関する遺伝決定論に対する激しい批判運動が展開されていた。遺伝決定論は疑似科学としての過去の優生学ないしはナチスの非人道的行為の延長線上に位置づけられ,人類の遺伝学的理解全般に対する警戒感が高まるなかで,批判の矛先は遺伝医療や人類遺伝学にも及んだ。その頃からアメリカやイギリスの科学者や医者たちは,一般に流布した否定的なeugenicsとは違うものとして自分たちの仕事を語るべく,60年代までは気楽に使っていたeugenicsという表現を控えるようになっていった。「人類遺伝学将来計画」の作成に関わった人類遺伝学者たちは,こうした海外の動向を敏感に察知して「優生」という表現を避けたものと思われる。
 ただし彼らは「優生」という概念自体を否定していたわけではない。例えば人類遺伝学を衛生行政に反映するための方策として「優生・公害・人口に関する問題に対処する態勢」を挙げ,「優生問題はもとより」,公害・人口問題に遺伝学を反映すべく国および地方自治体の関係諮問委員会への人類遺伝学者の参加を提唱している。また,前述の人口問題審議会最終答申(1971年)で言及された「優生対策」に特にふれ,「人口資質の向上のための方策が提言されたことの意義はきわめて大きい」と評価している。優生保護法については「遺伝性疾患の予防に関するわが国唯一の法律」と形容されていた。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 203-204

優生学と「逆淘汰」

一般に優生学では,「劣悪者」が人口に占める比率が増加し,「優秀者」の比率が減少すると人口の質が低下して「民族の変質」を招くと考えられてきた。この現象は「逆淘汰」と呼ばれ,文明化にともないあらゆる民族が経験する本質的問題として深刻に受けとめられていた。生活にゆとりのある「優良健全」な階層における子どもの産み控え,「劣悪者」の高出生率と医療・福祉の発達による死亡率低下,戦争によって壮健な青年の多くが命を落とす結果「優良健全」な者の子孫が減ることなどが,「逆淘汰」の原因とみなされた。
 当時の厚生省が重視したのは,「優良健全」な階層の出生率の向上と「劣悪者」の出生防止であり,戦争の「優生学的弊害」には目をつぶっていた。「民族優生とは何か」では,具体的な優生政策として以下の5項目の「民族優生方策」が挙げられている。

一,民族優生思想の啓発——優生思想の啓発,優生政策の実践指導の継続により,国民のすみずみにまで民族優生を徹底する。
二,民族優生に関する調査研究——遺伝家系図や双子の記録などの収集をはじめとする,国家的研究調査機関の充実。
三,民族毒予防——梅毒,アルコール,麻薬などの「民族毒」による子孫への悪影響の防止。
四,民族優生的多産奨励——健全者の多産奨励。
五,遺伝健康方策——「悪質遺伝質」の根絶(隔離,優生結婚,妊娠中絶,去勢,断種)。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 177-178

自民族の変質という意識

優生学は,まず基本認識として自民族が変質(退化,dégénérescence)していると考える。その先駆けとなったのはフランスの医学者ベネディクト・モレルの『人の種の肉体的,知的,道徳的変質論』(1857年)だった。彼はこの書物の中で,キリスト教の創造説を信奉しつつ,毒物や栄養不良,気候・土壌などが原因で代を追うごとに人は退化し創造の頂点からすべりおちると警鐘を鳴らしたのである。このモレルの論は,その後大きな影響力を持った。19世紀末から20世紀初めにかけて,すべての病理的発現が,遺伝性のものだろうとそうでなかろうと,世代から世代へ伝わる「変質」の兆候とされた。そこには,小頭症やくる病などの身体的障害,知的障害,アルコール依存症やてんかんなどの精神医学的症状に加えて,甲状腺腫やさらには結核,性病,マラリアなどの感染症まで入れられた。結核や梅毒と,知的発達障害・脊髄異常・犯罪の増加などが結びつけて考えられた。また精神医学者のV.マニャンは変質概念をダーウィン進化論と結びつけ,それを生存競争における敗北とみなした。こうしてフランスの医師は個人の診断と集団の分析を混同していったとキャロルは断じる。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 150-151

選択的中絶と優生学

出生前診断にもとづく選択的中絶は優生学ではない,なぜなら,それはかつての優生学と違って,個人の自己決定にもとづくものであり,強制ではないからだ,という主張がある。しかし,出生前に淘汰を完了するというプレッツの夢は,妊娠女性の自己決定による出生前診断と選択的中絶を通じて,結果的に十分,達成されうるものなのである。今世紀初頭の優生学者たちからしてすでに,啓蒙や教育を通じて「低価値者」とされた人びとがその自己決定によって結婚や子づくりを断念するよう積極的に働きかけたし,またスウェーデンのケースのように,本人同意(自己決定)の原則は,優生政策の射程を広げる(狭める,ではない)方向で機能した。さらに今日,イギリスでは,すべての妊婦に対して各種の出生前診断について情報を与え,希望者には無料(公費負担)で検査を実施することになっているが,それは圧倒的に多くの場合,選択的中絶に結びつくことで,障害者のケアにかかる福祉コストを削減するという行政側の意図を,見事なまでに実現する結果となっている(坂井律子『ルポタージュ出生前診断』)。
 確かに,出生前診断は現在,ドイツや北欧諸国ばかりでなく,日本を含め多くの国々ですでに実施されており,また,こうした診断技術を切実に望む人々がいることも事実だ。しかし,「自己決定だから優生学ではない」の一言によって,人びとが出生前診断と選択的中絶に対して同時に抱く戸惑いや逡巡,あるいは疑問や批判といったものを,杞憂として一蹴することは,それ自体,歴史的に見れば何の根拠も,裏付けもない主張であり,また,この一世紀あまりの優生学の歴史を手前勝手に歪曲するものでしかない。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 139-140

単純化された因果論的解釈の偏愛

こうして,遺伝単位による遺伝現象の理解という態度は,飛躍的に広がっていった。ただし人間の場合,血液のABO型の遺伝を除けば,はっきりメンデル型の遺伝をするのはごく一部の病気にかぎられていた。1902年にイギリスの医師A・ギャロッドは,アルカプトン尿症がメンデル劣性の遺伝形式に従う遺伝病であることを報告し,6年後に,生得的代謝異常は特定の酵素の欠陥によるのではないか,という一遺伝子一酵素説に近い考え方を提示した。
 しかし,純生物学的な遺伝理論の発展は,この新理論を例外的な病気だけに適用するのとはまったく逆の態度を鼓舞する時代的雰囲気のなかにあった。自然科学主義の底にあるのは,単純化された因果論的解釈の偏愛である。こうして世紀交代期には,すべての形質は生殖細胞に由来するはずだという,純「生殖質的」人間観が漠然と広がっていった。それは,生活環境の改善や教育の効果を否定する主張でもあった。

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 20-21

受刑者への扱い

アメリカ諸州のうち44州は,消極的なものではあれ,受刑者に対して優生学を実行しているも同然なのを知っているだろうか?男性受刑者は精子を持ち出すことを,また,女性受刑者は卵子を持ち出したり,精子を受け取ったりすることを禁じられている。つまり,仮釈放の可能性のない終身刑に服している受刑者は,自分の遺伝子を子孫に受け渡すことができない。彼らは,生殖という進化のゲームにおける敗者なのだ。この線は,とうの昔に司法制度によって引かれている。
 この厳然たる事実は,ほとんど気づかれていない。あなたはそれについて考えたことがあるだろうか?何人かの同僚の犯罪学者に尋ねてみたが,考えたことは一度もないという答えが返ってきた。2009年に,ニュージャージー州トレントンにある矯正施設のスタッフ200人以上に話しをした時にも,同じ答えが返ってきた。講義や学会で同じ質問をしたときには,誰もが沈黙していた。
 ここには皮肉がある。1990年代の遺伝研究者は,犯罪を阻止する「最終的な手段」として優生学を推進していると非難された。言うまでもなく,この非難は誤りである。1つはっきりさせておこう。「消極的な優生学」と私が呼ぶ,犯罪者に対する現在の方針は,遺伝学や生物学の研究から生まれたものではない。それは社会政策から直接生じた産物だ。優生学につながるから,犯罪の遺伝的研究は中止すべきだと善意で主張する人はいるが,同様に犯罪の社会科学的研究や,犯罪に対する公共政策の研究を中止せよという声はまったく聞かない。しかし私たちは,そのような公共政策を通じて,重罪犯の遺伝的適応度を減じ,彼らの遺伝子を遺伝子プールに残せないようにしているのだ。

エイドリアン・レイン 高橋 洋(訳) (2015). 暴力の解剖学:神経犯罪学への招待 紀伊國屋書店 pp.544-545

どこに線を引く

しかしひとたびその決定を下してしまったら,私達はどこへ向かうのだろう?暗黒の社会が口を開いて待ってはいないだろうか?問われるべきは,絶えず移動する流砂のような社会的基盤のうえに,社会の保護と人権侵害の法的境界をどこに引けるのかだ。どこに引こうが,恩恵もあればリスクもある。何が正しくて何が間違っているのか。生か死か。最新の神経犯罪学の知見を受け入れるのか,それとも私たちがこれまで維持してきた平等,倫理,自由への関心を優先するのか。私たちはこれらの選択をしなければならない。

エイドリアン・レイン 高橋 洋(訳) (2015). 暴力の解剖学:神経犯罪学への招待 紀伊國屋書店 pp.543

外科的去勢

ドイツでは,1970年に法律で許可されて以来,現在でも外科的去勢が実施されている。もちろん手術は自発的なもので,実際に受ける犯罪者は毎年数名にすぎない。外科的去勢と言うと非常に野蛮に聞こえて批判が多いため,ドイツ政府はいくつかの制限を設けている。対象者は25歳以上でなければならず,専門家から構成される委員会の承認を必要とする。とはいえ,ヨーロッパで激しい議論を呼んでいるのは間違いない。たとえばストラスブールにある,欧州評議会の反拷問委員会は,それを廃止すべき非倫理的な処置と見なしている。しかし,すべての可能性を検討するまで性急な判断は控えよう。

エイドリアン・レイン 高橋 洋(訳) (2015). 暴力の解剖学:神経犯罪学への招待 紀伊國屋書店 pp.422-423

反社会性の有利さ

環境条件は国ごとに大きく異なる。また人類の行動は,先史時代を通じて,変化する環境に適応すべく進化した。この見方に基づいて,社会の全構成員が反社会的な特徴を発現する場合もあると考える人類学の研究もある。これらの研究はおもに,種々の繁殖戦略と社会行動を生む生態的,環境的要因に照らしつつ,各文化間の反社会的行動の相違を比較するという調査方法をとる。特定の生態的な条件と,特定の行動様式が関連するのなら,私たちが反社会的と呼ぶ行動様式も,特定の環境条件を持つ文化のもとでとりわけ有利に働き得ると考えられる。反社会的で精神病質的な生活様式は,まさにそのような文化のもとで発展したのかもしれない。

エイドリアン・レイン 高橋 洋(訳) (2015). 暴力の解剖学:神経犯罪学への招待 紀伊國屋書店 pp.38

価値観の二極化

さらにいえば,価値観の二極化は妊娠中絶に限ったことではない。「リベラル」と「保守」の意識のズレが広がり,互いの敵対感情が大きくなっているとの報告もある。
 ビュー・リサーチ・センターが2014年に全米で実施した共和党支持者と民主党支持者の意識の違いを探る調査では,「自分は一貫してリベラル」「自分は一貫して保守」と考える人は,20年前の1994年の調査と比べて10%から21%に増えた。民主党を「とても好ましくない」と考える共和党支持者は20年間で17%から43%に増え,逆に共和党を「とても好ましくない」と考える民主党支持者は16%から38%に増えた。ひとえに集団が固定化し,互いを許容する余裕がなくなっているのである。

行方史郎 (2015). IQは金で買えるのか:世界遺伝子研究最前線 朝日新聞出版 pp.144

依存しやすい社会

世界は40年前より依存症に陥りやすいところになっているとグレアムは言う。食べ物もドラッグもテレビもコンピューターも,みな以前よりずっと魅力的になった。その結果,私たちは物を過度に好きになるという癖に陥ってしまったと言うのだ。「ぼくが知る限り,過度に好きになることを意味する言葉はない。それにもっとも近いのは”病みつき(アディクティブ)”という言葉の口語的な使い方だろう」。将来,病みつき状態になるのを避けたいと望む者には「1人で身悶えするような」運命が待ちうけている,とグレアムは予測する。私たちの人となりは,いよいよ,誘惑をどれだけ拒否できるかによって定義されるようになりつつあるのだ。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 332

インターネットポルノ

昔ながらのポルノとインターネットポルノとの違いは,ワインと蒸留酒の違いに似ている。穏やかな陶酔作用のあるものとして何百年も使われてきたポルノは,ここにきて,粗野な蒸留過程を経ることになったのだ。オンラインのデジタルポルノは,ジョージ王朝時代のイングランドのジンに相当する。それはみじめさと退屈を和らげるみだらな陶酔感を確実にもたらしてくれるものだ。効果がどれだけ強いかは,試してみるまでわからない。だがその時点に達したら,もはや手遅れだ。ほんの数年前まで,レインコートを着て学校の校庭の周りをうろつくイタチ顔の男たちがすることだと思っていた行為から,自分も抜け出せなくなっているのに気づくことになる。
 インターネットポルノには,他の多くの依存物質と同じように,脳の報酬回路を再配線する力がある。深刻な影響を受けるのは少数派だけだが,私たちがここで話しているのは,1億5000万人の”少数派”であることを思いだしてほしい。しかも,その数はうなぎのぼりだ。何も依存症が”病気”だと信じなくても,100年前に喫煙が広まって以来もっとも急速に広がりつつある強迫的行動がポルノ依存であることは,だれにでもわかる。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp. 260

病みつきにさせる

BBCで働いたことがあるゲームデザイナーは,オフレコでこう私に明かした。「ある特定の企業が,わざとユーザーを病みつきにさせるように製品をデザインしていることは業界ではよく知られた事実だ。だが,そういった話は公にはされない。なぜって,とても自慢できるようなことじゃないからね」
 私たちが目にしているのは,おいしそうに並べられたキャロットケーキの前を通らなければカプチーノを注文できないようにするコーヒーチェーン店の巧みな便宜主義と同じものだ。いずれの場合も,報酬に反応する脳の化学構造とマーケティングとが組み合わせさって生まれる社会的流行が,また1つ世に送りだされることになる。もちろん,こうした取るに足らないことについて,こんな仰々しい物言いをするのはちょっと尊大に聞こえるだろう。それは私にもわかっている。だが,これだけは覚えておいてほしい。これは本当に起きていることなのだと。

デイミアン・トンプソン 中里京子(訳) (2014). 依存症ビジネス:「廃人」製造社会の真実 ダイヤモンド社 pp.

よい格差・悪い格差

だが,所得格差に代表される社会経済的な格差の話となると,議論をしても話がなかなかまとまらない。なぜなら,「努力や能力が評価されないのは悪平等だ」とか,「平等を追求して格差を減らすと活力や効率が低下する」「経済の成長のためには平等を多少犠牲にしても許容される」などといわれると,「格差にもいい面がある」「必要悪だから仕方ない」と思えるからだ。
 つまり,格差にも「よい格差」と「悪い格差」がある。あるいは,格差にも「いい面」と「悪い面」があるから「価値観しだい」となる。格差を巡っては,そんな平行線のまま答えが出ない「不毛な論争」に終止している感がある。しかし,「健康格差」は「経済格差」とは違う,と私は思う。健康格差が「悪い格差」であることには,多くの人が同意する。従来の格差論争には「健康格差」の視点が抜け落ちていた。それを持ち込むことは,「悪い格差」をみえやすくして,格差論争を不毛なものから一歩進めるものになる。私が問いたいのは,「悪い格差」まで放置しておいていいのか,である。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 31-32

格差の大きさ

確かに「格差のない社会はあり得ない」だろう。「不老長寿」のように,望んでも得られないものであれば,問題にしても虚しいだけだ。しかし,これをもって「議論の余地なし」であるかの論法は,論点のすり替えだ。もちろん,アメリカにも北欧にも格差はある。が,格差の程度はまったく違う。だから,「格差のない社会はあり得ない」としても,格差拡大を放置していいことを意味しない。格差をいまより拡大するのか,小さくすべきなのかについては,「議論の余地は大いにあり」なのだ。私が問うのは,格差の存在ではない,格差の大きさである。

近藤克則 (2010). 「健康格差社会」を生き抜く 朝日新聞社 pp. 31

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