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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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社会人としてのマナー

 労働法の権利行使は,「社会人としてのマナー」である。


 なぜなら,「企業に入ったら法律など関係ない。とにかく言われた通り頑張るべきだ」という発想では,本当は「社会人としての責任」を取ることができないからだ。うつ病の場合がわかりやすい。ブラック企業は長時間労働の末に,精神疾患になるまで働かせる。だから,「頑張っていればいい」では済まないし,「自己責任」などはとることもできない。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 239


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闘いが裏切りに思える

 だから,個人が企業と争う際にも,みんなが「一体化」しているときに自分だけ争ってよいものか,と考えてしまう。とても強い「背徳感」に襲われる。私が労働相談を受けていても,「他の同期に悪い」とか「店長に迷惑がかかる」と考える方は本当に多い。


 こうして彼らは,「企業の業績」に一体化するあまり,逆に自分自身の健康は二の次になってしまう。また,社会全体にうつ病が蔓延していけば,結局日本の国際競争力を引き下げることになるのだが,そんなことよりも,今勤めている「ブラック企業の業績」がなによりも重要なものだと思えてしまう。


 だからこそ,「会社と闘うこと」は,みんなが「企業の業績」と一蓮托生で頑張っていることへの「裏切り」だと思ってしまうのである。さらには,自分が「闘い」を仕掛けることで,企業が競争で淘汰されるかもしれないという恐怖をも感じている。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 212-213


ひたすらサービス残業へ

 それが特に大きな問題になるのが,すれに述べた労働集約的で,個人の努力だけでは生産性が上がりようもない職場での成果給の導入だ。労働集約型の職場で「企業の社員化」が起こると,無理な業務目標を,ひたすらサービス残業で実現するしかない。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 211-212


強制された自発性

 このように,もともと「年齢給」だった年功賃金は,ベースとなる「仕事の評価」を欠いているのが特徴となっている。ここに考課・査定で評価を加えようとすると,それは,具体的な仕事に関する評価ではないため,個人的な属性である意欲や態度などあいまいなものになってしまう。勤続年数や,実質的に性別もこれに加わる。


 具体的な仕事で評価されるものではないために,社員たちは「自発的」に会社への貢献をしようとする。そうした姿勢すべてが考課・査定の対象になる。だから,自分の仕事はここまでで充分,とはなりにくい。そして,この「会社への貢献」は底なしなのである。こうして高い意欲が喚起されることを,労働社会学者の熊沢誠氏は「強制された自発性」と評した。


 こうした「強制された自発性」についても,「労働モチベーションが高いことがなぜ悪いことなどだ?」と違和感をもたれた方もいるかもしれない。だが,この場合にも,やはり「自発性」に付け込んで,無理な働かせ方をする企業は後を絶たないのである。そして,近年悪用する企業がますます増えている。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 210-211


「生きるか死ぬか」ではない

 私が思うに,「生きるため」,あるいは「生きられるから」「生活に希望が持てるから」「豊かになれるから」こそ,日本の社員たちは頑張ってきた。そして,その結果としての偉業だったのではないだろうか。


 日本で排出した多くのノーベル賞受賞者が,「終身雇用」の研究者だったという事実も重要だ。もちろん,偉業を成すためには研究への没入は必要だが,それは明日クビになるかもしれない,「生きるか死ぬか」などという状態で,生み出されたものではなかった。


 「生きることよりも仕事」という理想像は,あまりにも純粋で,従来の仕事へと没入した日本的「エリート像」からも圧倒的にかけ離れているのである。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 149


「安く・長く」

 つまり,どれだけの時間,どれだけの賃金で働いたのか,ということが重要になる。社員が「安く・長く」働くほど,利益は大きくなっていくのだ。こうした点は,製造業を中心とした従来型産業とは異なっている。研究開発や製造工程の革新で,大きく生産性を上げることができる場合には,「安く・長く」以上のイノベーションがある程度可能だからだ。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 143


虐待に似ている

 ブラック企業では,正常ではない状態が「常態」となり,労働に駆り立て続けている。それはまるで「虐待」にも似ている。いくら人員が不足していても,目標の数値が無謀なものであっても,妥協はしない。それどころかもっと少ない人員で,もっと高い数値を,常に追い続けなければならないのである。


 業務の重圧によるプレッシャーと長時間労働は,やがて「心身の喪失状態」をもたらす。ある意味では,ブラック企業はこれを「戦略」の中に組み込んでいる。すべての社員とは言わないまでも,常に新しい人材が「正社員」として引き入れられ,そこで「心神喪失状態」に陥れられる者が出る。その状態が一定期間続くと,病気などを理由に退職する。そしてまた,新たな人員が雇われる――。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 113-114


入社前にはわからない

 入社前に「わからない」理由は大きく分けて2つある。まず,募集要項や契約書と実際がかけ離れている。つまり,「契約段階で騙す」ということだ。序章で示した「月収の誇張,虚偽の条件で募集」や「正社員ではないのに偽装」もこれに当たる。直接的に騙しているので,こちらは比較的理解しやすい。
 これに加え,第2の理由がある。それは,入社後に労働の要求が際限なく膨れ上がっていくということだ。これでは入社前に,「どのくらいの仕事」が要求されるのか,まったく予測がつかない。契約書などの偽装に加え,この「労働の無限性」が「わからないで入る」最大の理由である。
今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 63-64

感動して入社する

 「死」という言葉が軽々しく投げかけられる。安っぽいCMと同じような,眉唾物だと思った読者も多いことだろうと思う。しかし,学生たちにとって,これらの言葉は燦然と輝き,自らの道を照らしてくれているように映る。だからこそ,企業説明会で「感動」し,涙を流して入社を決意する。


 このような言葉は決して「空文句」ではない。実際に好感をもたれ,勧誘の「効果」があるからこそ用いられている。この内実がいかに「ブラック」で当人自身を破壊するものであったとしても,実際に若者の心に響くのは「警告」ではなく,苛烈な競争社会への勧誘の言葉の方なのだ。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 59


自分から入社する

厄介なことに,「上昇志向が強い」学生ほど,巧みにブラック企業に絡め取られ,「自ら」入社してしまうリスクが高いのである。そして,その事例が意外にも多い。



今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 40-41


使い潰し戦略

 日本の労働社会は大企業を中心とした,「日本型雇用」に大きな信頼を置いて成り立ってきた。日本型雇用では新入社員を終身雇用・年功賃金で守るとされているが,それだけではない。彼らの能力を向上させることで,これを達成するのだ。
 若者は「能力の向上」と将来の見返りを期待して,一生懸命にはたらく。多少のサービス残業や理不尽な配置転換があったとしても,会社に尽くそうとする。日本人の「労働モチベーション」の高さは,世界的に見ても際立っている。
 だからこそ,こうした「使い潰し」戦略を成長大企業が採ったことのインパクトは大きい。大企業ならば,能力の向上や終身雇用に対する「期待」もなおさらだからだ。いわば,ブラック企業は「日本型雇用」への期待,日本社会に培われた「信頼関係」を逆手に取っている。厳しい命令はそのままに,年功賃金や雇用保障といった「見返り」がないのがブラック企業の労務管理なのだ。
今野晴貴 (2015). ブラック企業2:「虐待型管理」の真相 文藝春秋 pp. 32-33

経済的権利

 しかし,私は少し違った思いを抱いている。現代社会で尊重すべき権利について,経済的権利(生活を支える手段として有償労働をする機会が適正に与えられていること),政治的権利(政治への参画が認められていること),社会的権利(働くことができなくともある程度充実した生活ができること)という区分をするとすれば,日本では女性も移民もいまだに経済的権利を獲得できていない段階だ。この問題を解決することなく,政治的権利や社会的権利の不足を優先的に解決しようとすると,社会に歪みが生じ,社会的分断が深くなってしまう。
筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 201-202

「普通のサラリーマン」とは

 実は,私たちは職務内容がある程度限定されている労働者については,その職務の名前で職業を表現し,限定されていない場合には「普通のサラリーマン」,あるいは単に「会社員」と表現するのだ。この職務内容の無限定性は,第3章で詳しく説明したように,特に日本において広く普及した働き方だ。日本の「正社員」は,入社する前に職務内容が限定されることがほとんどない。「社員」は会社のニーズに応じて,柔軟に職務内容や勤務地を変えながら働き続けるのである。そのため,日本企業では採用や昇格・昇進にあたって周囲への適応能力,コミュニケーション力といった抽象的・潜在的な能力が重視される。
 このため,日本企業は基幹労働力,つまり「総合職」として外国人を雇うことを避ける。様々な職務に柔軟に対応できるスキルに欠けると思われてしまうからだ。ただ,もしその外国人が日本の大学などで一定期間の教育を受けている場合には,採用する可能性が多少高くなる。しかしその場合,「教育を通じて得た知識やスキル」が買われているのではなく,一定期間日本で生活しているということが,前述した抽象的な能力の証になり,不定形な働き方にフィットすると考えられるからである。また,職務無限定的な総合職ではなく,研究・技術職であれば移民労働力がある程度受け入れられている。そういった限定的な働き方であれば,職務内容に柔軟性が求められず,コミュニケーション力や潜在能力を重視する必要が(相対的に)小さいからである。
筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 155-156

表面的な真似

 たとえばアメリカは典型的な自由主義路線を歩んできた。しかしここで単純に「アメリカは市場に多くを任せるところで,規制も少なく,自由競争によって競争力を高めている」とだけ理解し,十分な思慮もなく規制緩和に突き進むと,大きな副作用に苦しむことになるだろう。アメリカでは外部労働市場が発達しており,スムーズな転職,スキル転換の機会も多い。そして何よりも,人種や性別による教育や雇用差別に対しては極めて厳しい禁止法則が存在する。アメリカの政策に学ぶのならば,アメリカ社会で労働力が具体的にどのように活用されているのかを詳しく知る必要がある。
筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 144

中途半端

 少子高齢化社会の問題を考えた場合,各国のパフォーマンスの有力な基準となるのは,やはり出生力を維持しつつ,女性労働力がどれだけ有効活用されているのか,であろう。生まれてくる子どもを増やすことで人口構成の歪みを小さくしつつ,増加する高齢者を支えるための税と社会保障を負担する労働者を増やす必用があるからだ。そして出生力と女性労働力参加率という2つの指標から見た場合,比較的よい数値を維持できているのはアメリカに代表される「小さな政府」の国と,スウェーデンに代表される「大きな政府」の国であり,そのどちらでもないドイツ,イタリア,そして日本などは低出力と女性労働の不活用の問題に直面してきた。このことから,私たちは,単純に政府が大きいほうがよい,いや小さいほうがよい,という議論をしていては,物事が先に進まないということを認める必要がある。
筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 128

女性のキャリア断念

 とはいえ,独身時のサポートについては男女でそれほど大きな差はないだろう。大きな差が出てくるのは結婚してからである。無限定的な働き方をする人が世帯にいる場合,そうではない人(たとえば専業主婦)が同じ世帯にいてサポートするならば私生活のレベルは落ちないし,子どもを産み育てることも可能であろう。しかし無限定的社員と無限定社員のカップルだけでは無理である。その結果,女性の側がキャリアを断念することになりやすい。ましてやどちらかに転勤が命じられれば,片方の(たいていは女性の)キャリアプランは破壊される。パートナーのどちらかに転勤の可能性があるというだけで,持ち家を買うかどうかの判断などに必要な,生活の長期的見通しが立たなくなることもあるだろう。



筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 112


三つの無限定性

 日本企業の基幹労働力として採用された者は,仕事に関する三つの「無限定性」を受け入れることを要請される。職務内容の無限定性,勤務地の無限定性,そして労働時間の無限定性である。



筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 103


少子化の加速

 アメリカとスウェーデンでは,女性が仕事と家庭を両立できる環境があり,かつ男性雇用が不安定化していることが,(同棲を含む)カップリング戦略およびそのなかでの子育てを促し,結果的に少子化が克服されたのであった。日本では1995年以降,男性雇用が不安定化したものの,女性にとって仕事と家庭を両立していける見込みが小さいままで,そのことが結婚をせず両親と同居するという選択肢を若者に選ばせた。親と同居していても子どもは生まれないので,少子化が加速することになったのである。
筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 76

チャンス逸脱

 2006年以降,出生率は反転し,女性の労働力参加率と出生率の関係は日本でもようやく正に転化した。しかし人口規模が大きかった団塊ジュニア世代はすでに30歳代後半に入ってしまっていた。いくら出生率が上昇しても,出産可能性が高い女性の数が減ってしまっていては,生まれてくる子どもの数は増えない。日本の出生「率」の回復は,出生「数」上昇の最後のチャンスを逃してしまったあとだった。
筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 71-72

二人なら

 雇用労働に従事する女性が増えるにつれて,どの国でも出生率が下がることになった。しかし女性の労働力参加が出生率へ与える負の影響は,アメリカやスウェーデンといった少子化を克服した国においては,ある時点から中和されるようになった。おそらく,スウェーデンでは,長期的には公的両立支援制度の影響,アメリカでは民間企業主導の柔軟な働き方の影響で,女性が賃金労働と子育てを両立しやすくなったからだと思われる。その後,女性の労働力参加と出生率との関係はいよいよ反転し,女性が働くことは出生率に正の効果を持つようになる。これは不況あるいは経済成長の鈍化のなかで若年層の雇用が不安定化し,それへの対応として男女がカップルを形成し,共働きによって生計を維持するというケースが増えたからである。個々の雇用が不安定化しても,二人いれば家族としてやっていける,という考え方だ。こうして共働きが合理的戦略となり,さらに仕事と子育てを両立しやすい環境が整っていれば,女性が働くことは出生率に正の効果を持つ。この転換の背景には,スウェーデンでは女性が公的セクターに大量雇用されたこと,アメリカでは民間セクターで女性がますます活躍するようになったことがある。女性が結婚・出産後も長期に働くことができる素地があれば,経済の不調による男性雇用の不安定化に際して「共働きカップルを形成する」という選択肢が合理的となる。そのことが女性の労働力参加と出生率のプラスの関係を生み出した。
筒井淳也 (2015). 仕事と家族 中央公論新社 pp. 69-70

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