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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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自分以外は

これは自虐ではありません。いまの日本人はむかしよりダメになったと主張するかたがたは,「自分以外の日本人が劣化した」と考えているのですから。

 いまの日本人は劣化した。
   ↓
 むかしの日本人はまともだった。
   ↓
 むかしの日本人にシンパシーを感じる私は,まともで劣化していない。

 なんの根拠もないエセ三段論法で自分を正当化できるのでとても便利です。
 「日本はダメになった」という言説の裏には,「自分だけは除く」と,ただし書きがあるのです。

パオロ・マッツァリーノ (2015). 「昔はよかった」病 新潮社 pp.19-20
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知識人の責任

ひとりひとりの知識人にとって問題なのは,個人としての選択である。だが社会全体としてみれば,重要なのは知識人共同体の分極化が,回復不能なほどに進むのを防ぐことだ。すなわち一方は,権力にのみ関心をいだき,権力が押しつける条件をそのまま受け入れる技術屋たち。もう一方はみずからの理想を実現させることよりも,自分たちの純粋性を維持することに関心をもつ確信犯的疎外派知識人である。専門家はもちろんのこと,批判派のなかにも,精神的に自分たちの社会の外側から,その思い上がりを厳しく直視できる人たちが現れる可能性はあり,彼らは人数の点でも自由の度合いにおいても,みずからの存在を強く印象づける勢力になるだろう。両者のあいだで議論がたたかわされる可能性は,おそらく今後もなくならず,また知識人共同体の内部には,権力と批判の両世界の間に立つ能力をもった知性が生まれるはずだ。そうなれば,知識人社会は,相互に反感と違和感をもつ勢力に分裂する危機を回避できる。われわれの社会は,多くの面で病んでいる。だがこの国の健全性は,アメリカ社会を構成する諸要素の多元性と,それらが相互に関わりあえる自由にある。すべての知識人が権力に仕えようとすれば,それは悲劇だ。だが,権力と結びついた知識人が,知識人共同体との連帯感をことごとく奪われるとしたら,おなじように悲劇だろう。こうした知識人が,もはや権力だけに責任を負えばいいと考えるようになるのは,ほとんど避けられないからだ。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.377-378

天才は不要

自助の作家や《たたき上げ》の人びとが唱えた人格の概念には,彼らが漠然と天才と呼ぶものは入っていない。この考え方の背後には,明らかにある両面性がみられる。「天才」に対してはだれもが羨望のまなざしを向けるものだが,自助の文学においては,人格は必要だが卓越した才能は不要だという見方が支配的だった。それどころか,生まれながらに卓越した才能をもつ人間は,人格を発展させる動機も能力もないと見なされていた。平均的な人間でも長所を伸ばし,常識を磨くことによって天才と同等,あるいはそれ以上の存在になれると考えられたのである。あるニューヨークの商人は「天才は不要だ。もし必要だとしても,何人かの偉人がいったように,その本質は常識の集大成にほかならない」と述べている。こうした立場からみると,際立った才能に頼るのは怠惰,および規律や責任感の欠如につながるものだった。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.225

「たたき上げ」

商人の理想が衰退すると,それに代わって《たたき上げ》(the self-made man)の理想が台頭してきた。この理想は百万長者ではないにせよ,少なくとも裕福な実業家になった無数の田舎出の少年たちの体験や野望を反映していた。現代の社会動態研究者が完膚なきまでに明らかにしたように,伝統的なアメリカの立身出世物語は——実業の歴史を飾る華やかな事実であるとしても——統計上の実態としてよりも神話や象徴として重要な意味があった。19世紀の拡張期というもっとも熱狂的な時代においてすら,産業界の頂点に立った男たちの大部分は決定的に有利な条件のもとに生まれた人びとだった。とはいえ,《たたき上げ》の人びとも確かに存在した。彼らの存在は劇的で感動的なその出世物語とともに,神話に実体をあたえていた。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.223

過去への蔑視と自己啓発

ビジネスを扱った文学が実利優先の考え方を強調していることから明らかなように,知性への恐れと文化軽視は実業界の反知性主義によくみられるものだ。その基盤になっているのは,文明と個人的信条に対するアメリカ人のふたつの普遍的な姿勢——第1は多くの人びとに共通する,過去への蔑視,第2は自助(セルフ・ヘルプ)と自己啓発という社会的倫理規範である。この規範の下では,信仰心すら実利主義の道具となってしまう。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.209

知識人の悲劇

知識人の悲劇のひとつは,自分自身や自分の仕事について最大の価値とすることが,その社会が測る彼の価値とまったく異なることである。社会が知識人を価値あるものと評価するのは,大衆娯楽から兵器の設計まで,知識人を多種多様な目的に利用できるからである。しかし,私がこれまで知性主義の本質だと指摘してきた気質を,社会が十分に理解することはほとんど不可能である。さまざまな形で現れる知識人の遊び心は,大方の人の目には,おそらくよこしまな贅沢と映る。アメリカでは精神の遊びは,思いやりや寛大な目で見られない唯一の遊びの形態だろう。知識人の信仰心も現実の危険はないにせよ,苛立たしく見られうる。そして,どちらの資質も,実用のビジネス社会には大した貢献はしないと考えられている。

リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.29-30

組織と集団

「組織」の定義はややあいまいだ。「集団」との共通点もあれば相違点もある。組織とは,「25歳未満のすべての人」とか,「アパートの6階以上に住むすべての人」といったような人々の集合(集団)ではない。組織と聞くと,無作為に集められた人々よりも密接につながり合っている人々をイメージするだろう。さらに,組織のメンバーの行動をつかさどる公式なプロセスや非公式なプロセスも定められているはずだ。この点こそ,組織とその下位である集団との違いなのだ。つまり,すべての組織は集団だが,すべての集団が組織だとはかぎらないということだ。

ベン・ウェイバー 千葉敏生(訳) (2014). 職場の人間科学:ビッグデータで考える「理想の働き方」 早川書房 pp.57

あなたとは無関係

読者は,いつもと違う作品,自分が期待していなかった作風に出会うと,「この作家,どうしたの?」という言葉を発する。それに対する答は簡単だ,「自分の思うとおりにしたかっただけです。あなたの気持ちなどとは無関係に」。

森博嗣 (2014). 実験的経験 Experimental experience 講談社 pp.233

配慮が足りない

子どもが生まれて以来,親は子どものためにずっと生きてきたといっても過言ではありません。しかし,相続の対象となる年齢になれば,子どもはもう一人前ですから,そこまで協力すべきなのかと思うのは当然です。残りの人生くらい,好きなようにやらせてくれよというのが,正直なところかもしれません。
 そんな気分でいるのに,死ぬことを前提に相続対策をいわれるのは,ちょっと気の毒な話です。
 子どもとしては,相続対策をしない人が一般的だというくらいのスタンスで向き合うのがいいと思います。それでも,もし親がやってくれるのならありがたいという気持ちになっていただきたいのです。
 ところが,世の中には,「親ならば相続対策をするのが当然だ」とばかりに,配慮もない発言をする人が意外と多くいます。それが原因で,親がひどく気分を害してしまい,親子の間に大きな溝ができてしまったという実例を私はよく目にしてきました。

天野 隆 (2015). やってはいけない「実家」の相続 青春出版社 pp.129

生きる時間

そして,一次相続から二次相続までの期間は,男性が先に亡くなった場合は16.19年,女性が先に亡くなった場合は10.25年となっています。この6年の差というのが興味深いところです。
 男である私には残念な数字ですが,この数字から次のようなことがわかります。
 先に亡くなるのは男がほとんどで,仮に妻に先立たれると10年程度しか残りは生きられない。それに対して,夫を亡くした女性は約16年生きるということです。

天野 隆 (2015). やってはいけない「実家」の相続 青春出版社 pp.86

愛情の奪い合い

じつは,女性の帯締めも男性の披露宴も,根っこは同じ。これはものを巡っての戦いではなく,過去の親の愛情を巡って戦っているのです。私はこれを,「愛情の奪い合い理論」と呼んでいます。
 相続がモメる原因として,本家・分家の戦い,金銭的な資産を巡っての戦いがあることはすでに述べてきましたが,それに加えて愛情を巡っての戦いがあることを覚えていただきたいと思います。

天野 隆 (2015). やってはいけない「実家」の相続 青春出版社 pp.65-66

家は借りるもの

もし,世の中に「家は借りるものだ」という感覚が一般的になれば,空き家は減ると私は考えています。50代,60代でも借家や賃貸のマンションに住んでいれば,相続によって実家に戻る人は確実に増えるはずです。
 ところが,今の50代あたりは,まだまだ持ち家志向が強いようです。かつては,いい年をして借家に住んでいると,親戚から「あの婿はなんだ?家も建たんのか」といわれましたが,その名残がまだまだあるようです。とくに,高額所得者に自宅所有意識が強いようで,お金を稼いだら,まず家やマンションを買うというのが当然のことのように考えられています。
 諸外国を見ても,必ずしもそうではありません。驚くほどの金持ちも,「そのうち飽きるから」などといって,家を借りて住んでいる人が多くいるのです。
 日本では逆に,「お金がない人が家を借りている」という意識がまだ一般的です。そうした意識もまた,空き家問題の原因のひとつだと私は考えています。

天野 隆 (2015). やってはいけない「実家」の相続 青春出版社 pp.21-22

平等な社会

特権を廃絶して平等な環境を実現するには何が必要か?もちろん,累進課税と社会保障制度による富の再分配によって,どんな人にも機会を与えることだ。それを負の所得税と表現しようとも,富裕層からカネをとって不幸な人に配ることには変わりない。実力主義の立場から見れば,人は個人資産を蓄えることと自分の子供をよい地位につかせることに夢中でありながら,特権廃絶と機会平等のために犠牲を払うこともいとわないと考えられる。はたして人はそんな合理的な生きものだろうか?生まれたときから希望のない最下層階級に,人生のチャンスが与えられるだろうか?とうてい思えない。実力主義のダイナミクスは,実力主義の実現ではなく,不平等な環境と特権のはびこる社会秩序の出現へ向かうのだ。平等な社会を維持するには,莫大な富を経済的成功でなく必要に応じて分配しなければならないのである。
 階級化した実力主義では,すべての国民がカネに執着しつつも正義も貫くという,ありえない状態が求められる。実力主義論にしたがえば,私たちは狭い世界に閉じこめられ,一人ひとりが才能の違いによって仕切られる。そして,環境の差が小さいほど遺伝子の役割が大きくなり,遺伝子の役割が大きいほど遺伝的な差が行動を大きく左右する。このように社会的な分析を無視した考え方をしていると,社会的シナリオの下支えがない宙ぶらりんな理論に惑わされてしまうのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.178-179

社会正義と人類の理念

実力主義論によれば,社会正義をつき詰めると人類の理念が崩れるという。それはなぜか。(1)人類は,平等な環境をめざして進歩する。残る個人どうしの才能の差は,すべて遺伝による。(2)人類は,特権の廃絶を目指して進歩する。社会が流動することで,優れた遺伝子はすべて上流階級に集まり,劣った遺伝子はすべて下級階級に集まる。(3)そのため,上流階級は遺伝的エリートになって,優れた遺伝子と上流階級の地位を代々受け継いでいく。いっぽう下層階級は遺伝的な掃き溜めにいつまでも残る。あまりに愚かで現代社会では役に立たず,失業,犯罪,ドラッグ,私生児のはびこる最下層階級に落ちていく。
 これでは人間の平等という理念からはほど遠い。論拠自体が破綻しているのだ。上記の(1)から(3)はどんな心理学的・社会学的な前提にもとづいているのか。ひとつずつ見ていこう。(1)カネや地位に執着するという心理は,改善されたり変化したりはしない。(2)そのような心理状態にあっても,カネや地位を犠牲にして平等を推し進めることはできる。(3)困窮している人でも子供によい環境を提供できる。この3つの前提はとうてい信じがたい。しかも実力主義論では,これらを前提としていることがはっきりとは示されていない。それこそが,社会学的想像力が欠けている証なのだ。

ジェームズ・R・フリン 水田賢政(訳) (2015). なぜ人類のIQは上がり続けているのか?人種,性別,老化と知能指数 太田出版 pp.176-177

現代人の発想

とはいえ,読者の方々のなかには,「耳や鼻を削がれるぐらいなら,殺されたほうがましだ」と思う人もいるかもしれない。耳鼻を奪われて生きるなんて,つらすぎる。それならいっそ死んだほうがいい,と。しかし,思うに,それは生死の選択の局面に立たされたことのない現代人が抱く贅沢な発想なのだろう。

清水隆志 (2015). 耳鼻削ぎの日本史 洋泉社 pp.62

知能テストの哲学

ビネーの時代も,わが国における戦前も戦後も,そして,今日も,知能テストを作成し使用する著者たちの哲学は,おどろくほどになんらかわっていない。「適材適所」の実現は,国家・社会の利益であるだけでなく,個人の幸福でもあるという主張こそ,知能テストの哲学である。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.275

メリトクラシー社会

第三共和制が確立していく中で,フランス国家は教育の公教育化を推し進めるのだが,その中心的考え方は,非宗教化,無償化,そして義務化であった。つまり,国家が教育を教会の支配,管理から解放する一方で,自らの支配管理へ移行させるのであるが,これは大多数の共和派,社会主義の共同の意志だったのである。1860年代後半,「無償教育こそ,労働階級解放の根本的な手段である」とする見解が勝利をおさめていくのであるが,1867年の国威発揚の為に開かれた万国博覧会へ,ナポレオン三世によって派遣された労働者代表が,その報告の中で「教育(この場合,共和制によっておしすすめられた公教育——筆者註)のみが我々に平等を与えてくれる」と語ったほどなのである。
 この教育は,封建的身分や,財産,土地と関係なく,つまり彼の出身階層がなんであれ,受けられるとしたのだが,ここでは高等教育も無償であった。高等教育では,試験を受ける権利を平等に保障したのである。1880年の元老院では「試験こそがフランスの力を生み出す国民的統一と学問の自由の保持のために,国家に残される最後の唯一の手段である」とする発言がなされているが,こうして非宗教化,無償化,義務化の中で,教育の国家による支配・管理がうち進み選別の思想が貫徹していったのである。この中で,国民は各自の能力,業績(Mérites)に応じた役割と地位を与えられていくのだが,こうして第三共和制は教育の近代化を推進すると同時に,その中でメリトクラシイ社会(能力,業績に基づく階層社会)が確立していくのである。

日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.259-260

人生のすべてではない

今日のアメリカに生まれる赤ちゃんは,親がどの社会階層に属するかによって,与えられる機会が大きく異なる。だが,親の問題にばかり気を取られて,こうした不平等のパターンを生み出し助長している社会的機関の役割を軽視するのは間違いだ。そして,学業成績が収入や健康など社会でのさまざまな結果を形づくるのは確かなことだが,それが人生のすべてではない。

(アネット・ラロー 『学業成績や収入は大事だが,人生のすべてではない』 pp.79-83)

ジェームズ・J・ヘックマン 古草秀子(訳) (2015). 幼児教育の経済学 東洋経済新報社 pp.83

壊す

敵を発見し,敵を吊るす——。
 社会はいま,こうした憎悪と不寛容の回路の中で動いている。
 そうした時代とどう向き合っていくべきか。
 法規制をしても,言葉を取り締まっても,おそらく人の住む世に差別は残る。
 だが,そこで思考停止してしまうことだけは避けたい。
 何度でも繰り返す。
 ヘイトスピーチは人を壊す。地域を壊す。そして社会を壊す。
 生きていくために,私たちはそれと闘っていかなければならないのだと私は強く思う。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.265-266

匿名性

ネット上のヘイトスピーチがやっかいなのは,匿名性が保たれているからである。悪質なヘイトスピーチの担い手たちが実名を明かしているケースは皆無に等しい。そればかりか大半は,年齢も住所も勤務先もわからない。自分だけは物陰に身を隠しつつ,他者を罵倒,攻撃する。実に卑怯極まりない。そんな連中が「愛国者」だの「大和魂」だのと国士気取りなのだから笑わせる。

安田浩一 (2015). ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力 文藝春秋 pp.180

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