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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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貧困ビジネス

日本では派遣労働者などの弱みにつけこんで食い物にする貧困ビジネスが横行しているというが,ここフィリピンでも困窮邦人に「帰国させてあげるから」と話を持ち掛ける貧困ビジネスが行われていると聞いた。飛行機に乗ればたった4時間で行ける祖国,日本。たとえ貧困ビジネスの対象にされたとしても,自力では到底無理だった帰国が実現しただけまだましかもしれない。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.78
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カネ目当て

クラブが立ち並ぶ首都圏マニラ市マラテ地区,国際結婚のために必要な手続きを行う在フィリピン日本国大使館や入国管理局の周辺にいるとそれを象徴する光景に遭遇する。60歳以上とみられる日本人男性と20歳前後のフィリピン人女性。年齢差40歳以上の男女が手をつないで歩いている。年齢差50歳以上の交際も時には耳にする。日本で言えば,中高年男性と女子高生が付き合う援助交際的な感覚と基本的な構図は同じなのだろう。男は若い女性を,女性は金を求めるという利害関係で成り立っている。最低賃金1日約400ペソ(約800円)という途上国の就労事情を考慮すれば,「日本人」と聞いただけで「金のなる木」に映ってしまい,年齢やルックスの良さといったものはほとんど関係なくなってしまうのが実情のようだ。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.22

きっかけ

困窮状態に陥る要因は人それぞれだ。強盗被害に遭う,ギャンブルで大負けする,ビジネスの投資話にだまされるなどで所持金や全財産を使い果たしてしまう人もいるだろう。だが,外務省や事情に詳しい在留邦人などによると,この国で一般的とされる困窮邦人は,フィリピンクラブ(フィリピンでの一般名称は「カラオケ」)で出会った女性を追い掛けて渡航する日本人男性が圧倒的に多い。大半は50歳以上。日本で誰にも相手にされなくなった自分の前に現れたフィリピン人女性に笑顔でもてなされ,男としての自尊心をくすぐられる。「俺にもまだ輝ける世界がある」と錯覚し,有り金すべてを持って日本を飛び出してしまうのだ。その背景には,家族や友達から見捨てられた孤独感,単純労働の空虚な毎日,多額の借金など自分を取り巻く生活環境に鬱積し,逃げ出したくなるような現実があったのではなかったか。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.21-22

困窮邦人

海外で経済的困窮に陥っている在留邦人を「困窮邦人」と呼ぶ。所持金を滞在先で使い果たし,路上生活やホームレス状態を強いられている吉田のような日本人のことだ。特にフィリピンではこの困窮邦人が一般的な問題になっており,在留邦人の間でも,その存在はよく知られている。
 現在では中国に抜かれ,GDP(国内総生産)世界第3位に順位を落としてしまったとはいえ,未だ経済大国の日本で生まれた国民が,途上国のフィリピンでホームレス生活を送っているという皮肉な現実。世界で最も困窮邦人が多いのが,ここフィリピンなのだ。この国で記者生活を続けるうち,私はその異様とも言える現象に次第に興味を持つようになった。
 ——異国の地でこんな惨めな状態になって,一体どんな思いで日々生きているのか——。
 当初はそんな短絡的な発想でしかなかった。しかし,何か引き付けられるものがあった。最初に断っておくが,私は彼らに同情しているわけではない。取材を続けるうちに同情しなくなった,と言った方が適切かもしれない。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.19-20

無難な回答

実際に入社面接で志望動機をたずねると,大半の応募者が「御社の社風にひかれて」といったことを答える。特に新卒採用の学生は,どこかの会社で口にするという意味では概ね100%だろう。志望動機の代表選手といった感じで新鮮味には欠けるものの,無難な答えであることは間違いない。
 「御社の将来性にひかれたからです」と学生が明るく答えても,会社の内情はいろいろだから,面接官も心のなかでは「そんな甘くはないよ」と独りごちているだろう。だからといって「高い給与水準と楽な仕事に魅力を感じます」というすべての学生が持つ本音中の本音を言ってしまえば,もちろん即アウトだ。
 一方,「志望するのは御社の社風に魅せられたからです」と言われて,悪い気持ちを持つ面接官はまずいない。業績が良かろうが悪かろうが,面接をする立場の人は自分の会社を好きだからだ。おそらく「どこで当社の社風を知る機会がありましたか」という質問を続けるが,それに対しては「御社におられる大学の先輩から話を聞きました」「就職セミナーで御社の方が話をされる中で感じました」などいくつかの回答パターンがある。回答の内容は何でもかまわない。「社風」を会社選択の基準に据えていること自体が大切だからだ。
 社風を理由にする以上,少なくとも会社の面々と協調してやっていこうとする意思はあるに違いない。疑ってかかれば,社風を志望理由として挙げること自体も,マニュアル本の模範解答かもしれない。それはそれでやはりいいのである。なぜなら,会社は言われるまでもなく,「社風」に合うか合わないかを実質的な選考基準にしているからだ。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.161-162

クレーム回避

そもそも人事部採用担当にとって一番避けるべき事態は,新人を配属した先から「何でこんなレベルの低いのを採ったんだ!人事は一体何を見ているんだ」とクレームがつくこと。人事の威信と沽券に関わる問題だ。このため人事の採用原則は,優秀な人材を採ることではなく,ダメな人を採らないことなのだ。この点で過去の採用実績の多い大学の学生は,ある程度レベルも読め,大きなハズレもない安全パイだ。多少,デキが悪くても,自分の大学の後輩であれば,諸先輩もあまり厳しいことは言わない。また有名大学から採っておけば,仮に後で「採用ミス」となじられても,「ポテンシャルは高いはず。それを育てられない現場が悪い」と言い返せる。いずれにせよ,人事部にとって大学を実質的な採用基準にすることは,最大のリスクヘッジなのである。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.151-152

時間を持て余し気味

新卒・一括採用は,採用側にとって効率的なシステムだが,リスクも大きい。すでに述べたように30分×3〜4人の面接で採用を決めるわけだが,そんな短時間で人の能力を見抜くことはそもそも無理だからだ。将来,会社でどのくらい活躍するか読めない対象に短時間で総額数億円の投資をしていることになる。
 ところが,面接経験者は実感としてわかるだろうが,相手をきちんと理解するのは無理な一方で,30分間の面接は時間としてはむしろ持て余し気味だ。
 「当社を希望した理由は?」
 「御社の自由闊達な社風に魅かれました」
 「それでは学生時代に注力したことを教えてください」
 「レストランでアルバイトをしたことです。人と接する厳しさと喜びを学びました」
 無難な受け答えだ。「社内飲み会の『傾斜』を教えてください」などと,人事をギョッとさせることは言わない。体育会系の学生だと,ここぞ,とばかりに「3年間仲間と苦楽をともにし,いっしょに何かをすることの素晴らしさを知りました」と大きな声が響きわたる。つい先日まで遊び呆けていた学生が就活スーツをまとって座っているわけだから,話が深くなっていかないのも仕方がない。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.149-150

実際は相対評価

どれもこれも目標管理制度が「絶対評価」を建前としているところから生じる問題点だ。絶対評価というのは全員が目標を達成すれば全員がSでもよいという考え方だ。そうなると全員にボーナスを奮発しなければならない。本当に全員がSの業績であれば,少なくとも部署としては儲かっているはずなので,ボーナスの奮発はOKだ。
 では,「寛大化」のなかで絶対評価をすると,どうなるだろうか。いわゆる「合成の誤謬」が発生し,実際の収益に見合わない支出によって赤字になってしまう。
 このような問題に対して,人事部は何を考えたか。じつは絶対評価の目標管理制度について「相対評価で運用する」ということだ。論理的な無謬性にこだわる人事部として,表立っては相対評価と口にできない。そのため評価者からこそっと部下の順位表をもらったり,人事ヒヤリングと称して口頭で聞いたりしているのだ。会社によっては部署の業績に応じたボーナスファンドを部長に委ね,その裁量で部下に配るという方法をとるところもある。これも評価の相対化のバリエーションである。
 いずれにせよ,表向きは全員Sでもじつは順番がついていて,ボーナスの金額にも差がある。そもそもある人がどのくらい優秀かを判断するのは極めてむずかしいが,AさんとBさんのどちらが優秀かを決めるのは容易だ。相対評価はじつは現実的で優れた方法なのだ。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.122-123

メンタリティの問題

いずれにせよ,結局,成果主義はほとんど日本の企業には根づかなかった。そして,その背景には根深いものがあった。成果に応じての評価や処遇を徹底した場合,当然の帰結として年齢や入社年次が逆転した報酬や昇格,人事異動が常態化する。その結果,社内の人間関係には大いなる緊張感が生じる。「昨日の部下が今日の上司」と考えてみればわかりやすい。年功概念の問題というよりは,もはや儒教の精神にまで辿りつく日本人のメンタリティの領域の話となるのだ。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.114

社風が人事権をもつ

組織体を維持することは,どの会社にとっても最も根源的な至上命題だ。そこで中心的な役割を果たすのが,やはり社風である。人事はそのDNAの運び屋である人材について,採用,異動,評価,昇給・昇格など諸施策の遂行を役割として担っているからだ。社風が人事部をして人事を差配し,至上命題である組織の「サステナビリティ(持続可能性)」を実現しているわけだ。人事権を持っているのは,じつは社長でも人事部でもなく,社風ともいえる。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.98-99

暗黙知

会社においては,何か一定の事案が発生すると,それについての社内の関係部署・関係者がいろいろな議論や教義を繰り返しながら判断をして結論を出す。また,社員個人についても毎日起こるさまざまな事柄に対して自分なりに判断していく。会社とは判断の連続によって継続しているといってよい。そして,この「事案・事柄」に対して「判断・結論」に至るプロセスで重要な役割を果たしているのが社風なのだ。
 函数と社風が異なるのは,「変換機能」が明示的か否かという点だ。函数では文字どおり「数式」に表現されるわけだが,社風は「暗黙知」であり言語などの形で明示されることはない。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.82-83

よくある会議風景

我が国の伝統的な会議風景は次のとおりだ。まず,担当部署のヘッドが,優秀な部下のつくったペーパーにもとづき,その日の議題となっている案件の説明を始める。基本的にはペーパーの棒読みだが,鉛筆でメモ書きされた補足事項をそれらしくコメントすることもある。説明が終わると議長(または司会者)が「何か質問やご意見は?」と聞くが,すぐには手が上がらない。少し間をおいてから,まず1人が「意見というほどではないが」という前口上でボソボソと話し始める。その後,2〜3名が発言するが,質問とも意見ともつかない差し障りのない発言が続いて質疑は終了する。最後に議長がなにかムニャムニャとしゃべったあとに,「では,そういうことで」といって終了する。
 「では,そういうこと」とは,一体何がどういうことなのか,外国人の社外役員がいたら,どのように訳すのだろうか。出席者から反対らしい意見が出ないのは,場を乱さないようにしたいという気づかいもあるだろう。事前の根回しが効いているのかもしれない。
 しかし,本当の理由はそんなことではないように思う。要するに参加者全員がほとんど同じ考えをもち,反対する理由がないのだ。もっと言えば,仮に違う意見だったとしても,その違いはわずかで,相手の言いたいこともそれなりによく理解できてしまうので,あえてチャチャを入れるのも大人気ないと感じているのである。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.73-74

抽象化された概念

就職活動をしている大学の後輩に「御社の社風を教えてください」と聞かれたら,あなたは何と答えるだろうか。おそらく多くの人は,「風通しのいい社風」とか「チャレンジングな社風」など,会社の宣伝をするだろう。先輩として自分の会社を誇るのは当然だ。
 では,たとえば「風通しのいい社風」というのは何を表すのか。きっと,組織がフラットで上下や左右のコミュニケーションが図りやすい職場環境ということだろう。
 確かにその通りだ。だが,本当に言いたいことはそれだけではないような気もする。自分の会社の社風を列挙すれば,普通,4つや5つの言葉はすぐに思いつく。しかし重要なのは,言葉でいくら並べてみても,本人が肌で感じ取っている社風(のようなもの)は伝えられないということだ。会社で仕事をし,その空気に触れれば,一瞬にして身をもって理解される社風は,そもそも言葉では表現できないものなのかもしれない。表に現れる個々の言葉の上位にある抽象化された概念なのではないだろうか。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.32-33

社風

社風は,ある人にとっては,せっかく転職して入ったばかりの会社を数日で「違う!」と思わせ,キャリアが傷つくのを承知の再転職に誘うこともある。目には見えず言葉で表現されることはなくても,社員1人ひとりの心のなかにいつも直接働きかけ,また,時として,絶大なる力を持った人事評価者にもなる。それが社風なのだ。
 「社風」とは便利な言葉だ。何か仕事上の物事を説明する必要がありながら,どうもうまく説明できそうもないときに,たとえば「それがウチの社風なんだから,しかたがないだろう」と半ば居直ってしまえば,それ以上,追求されることはまずない。おそらく相手のなかにも,社風という得体の知れない,それでいて決定的な影響力を持つものの存在が実感としてあるのだろう。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.30-31

罵倒戦術

エキスパートがひとを平伏させるのに使う議論のやりかたは,罵倒戦術である。彼につき従わない者は,絶望的なまでに取り残される。その者が寝坊しているあいだに,発展の列車は通り過ぎてしまったのだ。エキスパートは「善/悪」の対を「進歩/退歩」の対に取り替え,それによって自分流の価値秩序を配備する。ここで彼は豊富な語彙を手中にしている。一方の側には,「近代的」「時代の先端を行く」「明るい未来」のような,わくわくするようなおまじないがある。もう一方の側には,「古くさい」「時代遅れ」「時代の遺物」「かびが生えた」などの弱々しい外見がある。実際には,ある領域で進歩であるものが,別の領域ではまったくの退歩であることも十分にありうる。けれどもエキスパートは,いとも朗らかに,知識の進歩を大河の流れとしてイメージするという科学の基本的メタファーをなんの修正もなしに社会に転用する。まるでどこでも進歩には異なる顔がないかのように。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.173-174

言語の間引き

国民国家は,言ってみれば言語の間引きをおこなっているのだ。この点で国民国家は,世界画一化をおしすすめるビジネス・マネージャーであるといってよい。引きつづき言語の世界地勢を数値で特徴づけてみるならば,次にあげる一連の数字がたいへん重要な意味をもつ。1945年に国連憲章は52の加盟国によって調印された。現在,国連には160カ国が加盟している。だから,いまある国家の3分の2はせいぜい1世代を経たくらいの年齢にしかならないのだが,ヨーロッパの先例にならうかぎりで,それらの国民国家はただひとつの言語を国民統合のシンボルとして位置づけ,この言語にアルファベット文字をあてがって標準化しようとしている。そして,世界文明の中身を——好まれる言い方を用いるならば——「輸送」し「コミュニケート」することができるように,その言語を「発展」させることを自らの課題とみなしている。これらの国家は,ばかげた言語観を輸入して,ヨーロッパでは数世紀かかった「近代化」のプロセス,つまり,中世の普遍的ラテン語による文字文化から俗語が分離したプロセスを数十年のうちになしとげることを目指している。国境の内部の土地を完璧に地ならしする以外に,どうしてそんなことがなしとげられようか。そして,それによって,年若い国家とそこで伝統的に話されてきた諸言語は,まったくの無防備状態におかれてしまうのではないだろうか。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.30

光をともす

人類はフランシス・ベーコンが1603年に提起した大きな課題に取り組んできたのだ。「どれほど有益であっても,何かに役立つ発明」を行うのではなく,「自然に光をともす」ようベーコンは求めた。「いま人類がもつ知識の周囲にある境界部分のすべてに及び,それを照らしだすような光」をともすように。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.348

知識の陳腐化

これに対していまでは,知識は提供される前にすでに陳腐化しているといえるほどである。知識の対象はつねに拡大している。知識の源泉は増えつづけている。そして,知識は世界のどの地域で作られるか分からない。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.129-130

下位の専門分野

複雑さが急激に増していることを示すものとしては,多数の分野で下位の専門分野が増え,それをさらに細分化した下位の下位の専門分野が増えていることもあげられる。
 半世紀前,知識経済への移行がはじまる直前には,医療は十前後の専門分野に分かれていた。いまでは医療専門家は二百二十を超える分野に分かれていると,カイザー・パーマネンテのデビッド・ローレンス博士は語る。1970年代には医療専門家は年に百前後の臨床試験結果について知っておく必要があった。いまではこれが年に1万になっている。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.55

変化の教え

変化の教えは既存の制度と秩序にとってとくに危険である。もともと右翼的でも左翼的でもないし,民主主義的でも独裁主義的でもないからだ。この教えが意味するのは,どの社会も,どの生活様式も,どのような信念すらも,本来一時的にすぎないということである。
 これはアダム・スミスやカール・マルクスのメッセージではない。フランス革命やアメリカ独立戦争のメッセージでもない。もっとも革新的な哲学者,ヘラクレイトスのメッセージである。ヘラクレイトスの有名な言葉が変化の教えを要約している。「同じ川に二度足を踏み入れることはできない。二度目には川が変化しているからだ」。すべては過程である。万物は流転する。
 ヘラクレイトスは要するに,歴史のなかでみれば,社会制度がすべてそうであるように,思想や宗教もすべて一時的なものだと主張したことになる。そしてこれこそ,アメリカが発している真のメッセージだ。そしてもっと深いレベルで,数十億人の睡眠を妨げ,悪夢をもたらしているのは,このメッセージなのだ。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.23

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