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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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結果アウト

ここであらためて思い出してください。セクハラにおいて,男性と相手の女性は「対等」ではないのです。上司と部下,正社員と契約社員,派遣先と派遣社員,指導教授と学生。そこには力関係があります。そもそもの関係があるからこそ,女性は男性を尊敬し魅力的に思い,交際が始まったのです。
 つまり,かりに恋愛として始まった関係であれ,結果として仕事が続けられない状態になっているとすれば,それは「結果オーライ」ならぬ,「結果アウト」なのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.136-137
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選ぶ権利

男性が真剣であろうがなかろうが,女性にとってはお呼びでないものはお呼びでない。そんな簡単なことがなぜわからないのか,女性からすれば不思議です。でも考えてみれば,古今東西,どんな時代・社会でも,男性には「遊び」のための女,その場限りのセックスがありました。道徳的判断は別として,男性が望めば多少のカネで女性と手軽に「遊べる」というのは厳然たる事実。カネが直接からまないとしても,女性を遊ぶ相手と真面目な付き合いの相手とに分ける「娼婦」/「聖母」の二分法は過去の遺物ではありません。
 だから男性は「俺は真剣なんだ」と,セックスだけが目当てなんじゃない,君を軽く扱っているんじゃないと自分の誠実さをアピールします。男性は,それで相手の女性は安心して自分との関係を受け入れると思っているのでしょうが,でも,男性の「真剣さ」を額面通り受け取るとしても(実際のところはマユツバですが),その男性との関係を望まない女性にとっては,嬉しくもなんともありません。当然ながら,女性にだって選ぶ権利があるのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.87

ケータイとメール

その典型が携帯電話とメール。セクハラと訴えられる事案では,男性が女性に毎日数10通のメールを送っていた,毎晩深夜にケータイに電話を指定た,とストーカーのようなふるまいをしているのはざら。最初は業務上の連絡や指導のために始まるのですが,そもそもその女性に好意を持っている男性からすると,頻繁な1対1のやり取りの中で,徐々に思いがこもっていきます。しかも,女性の側は,熱心に連絡をくれる上司や教師に無愛想だと受け取られないようにと,絵文字を入れるなどして可愛らしいメールを送ってきます。若い女性からすれば,そんなのは,友人たちと交わしているメールでは当たり前のやりとりですが,中高年男性は華やかで可愛らしい調子には免疫がなく,すっかり特別に親しい付き合いをしているかのような気になってしまいます。そこからは,夜更けにはおやすみ,朝方にはおはようとエスカレート,用事もないのにメールを送り,おやすみのメールへの返信メールが女性からあろうものなら,「まだ起きてたの?」などとついついすぐに電話をかけたりもします。
 メールや電話は,1対1のパーソナル・コミュニケーションでありながら,受け取った相手の戸惑っていたり困っていたりする様子がわかりにくい一方的な情報手段。だんだん「恋人気どり」を始める男性に,いい加減にしてほしい,と女性は電話がかかってきても取らなくなったりするのですが,相手は上司や派遣先の担当社員さんですから,まったく無視するわけにもいきません。男性の期限を損ねないように相手をしているだけなのに,「付き合いが深まった」と勝手に解釈して,会ったときに当然のようにキスしてくる上司。こんな例には事欠きません。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.83-84

中高年よ気をつけろ

とはいうものの,男性がセクハラの加害者として訴えられ,でも男性本人は恋愛のつもり,相手が困っているとは知らなかった,というケースに接するたびに私は,相手の女性が受けた被害に同情する一方,男性の側の「カン違い」「妄想」も,ほんの少しですが,気の毒な気がします。というのは,「妄想」に落ちる気持ちもわかる,と言いたくなるようなパターンがあるからです。
 そういう場合,男性は,たいていは中高年。相手は自分の部下や取引先の女性,指導している学生で,若い女性です。男性は,上司や先輩社員として,指導教授として,親身に女性の面倒を見ています。女性は若く仕事の経験も少なく,そんな彼女たちにとって,仕事を教えてくれる目上の男性は,頼りがいのある存在。自分を尊敬のまなざしで見つめ,自分が出す指示やアドバイスを一生懸命聞く女性に,男性は好感を持たずにはいられません。
 はなはだ失礼なことを承知で言えば,日ごろは家庭で存在感が薄く,妻や娘から疎まれたりもしている中高年男性が,仕事のできる上司,頼りになる男性,尊敬できる先生,と思ってもらえるのですから,嬉しくないわけはありません。しかもそれが若く可愛い女性なら,格別でしょう。そういう女性の態度を「ひょっとして俺に気があるのかな」と錯覚するまでは,ほんのちょっとです。
 というより,そういう中高年男性は,自分で仕向けておいて気付かないことも多いのです。「家族の誰も俺の誕生日を祝ってくれないんだよな」と愚痴をこぼしていた上司。当然,いつも世話になっている女性は,「これは祝ってほしい,ってことね」と察します。だから,誕生日には「これからも素敵な部長でいてください」などと嬉しいメッセージのカードをつけてデスクにプレゼントを置いておきます。それを男性は,自分が催促したことも忘れ,「やっぱり俺のことを……」と,舞い上がってしまいます。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.80-81

恋愛がらみの場合

ケースによってさまざまではありますが,恋愛がらみのセクハラのパターンは,大きく2つのサブパターンに一応分けられると言えるでしょう。
 1つは,女性は男性と恋愛どころか交際をしているつもりもなかったのに,男性は男女の付き合いをしていると思い込んでいるパターン(これを妄想系と呼びましょう),もう1つは,女性の方も一時的にであれ,交際をしていた,恋愛感情があったという認識があるパターン(現実の恋愛をもとに起こることから,リアル系と呼びます)。
 ただし,注意していただきたいのは,この2つがはっきりと別のものというわけではないこと。リアル系にも,妄想に近い勝手な思い込みが少なからず含まれますし,妄想系であれ,性関係を持った事実があったりします。そういう場合,女性の側はまったくの強要,レイプだったと思っているのに男性はそれに一切気づいていません。また,リアル系であれ,女性がセクハラで訴えているからには,そこには男性が気付いていなかった—妄想というより錯覚でしょうか—要素が大いにあります。それに,人の気持ちというのは他人には窺い知れず,しかも時間とともに移り変わりますから,恋愛感情があったかなかったかについての「真実」は誰にも(本人にさえ!)ミステリーだと言えるかもしれません。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.74-75

グレーゾーンへの対処法

セクハラの感じ方は,同じ関係であっても,変化するもの。最初は何とも思わなかったことも,時間と関係の変化の中で,堪えがたいセクハラに変わっていきます。「最初OKだったからいつまでもOKのはず」は通りません。グレーゾーンにあるのなら,黒に転化する前に,さっさとふるまいを改めて安全地帯に移行する,それが正しいグレーゾーンへの対処法です。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.62

それこそ

ですから,まったく客観性もないのに,相手の変な受け止め方のせいでセクハラにされてしまうという心配は不要です。ただし,かりに相手が通常以上に敏感であるとしても,だからといって,そのまま続けてOKというわけでもありません。セクハラにあたらないとしても,相手の嫌がることはしないのが社会生活上のマナー,職場ではとくにそうです。
 管理者・教育者としては,職場環境・学習環境への配慮が必要です。その人の感じ方を,「異常」「考えすぎ」などと頭から否定するのでは,それこそセクハラになってしまいます。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.45-46

立場の利用

だったらなんでセクハラなんだ,イヤがってるのにやるのがセクハラだろう,と思うかもしれません。でも,それがまさにセクハラの常識のウソです。「相手が嫌がってるからセクハラ」なのはたしかですが,嫌がっているそぶりなど見せなくても,仕事の立場上,望まないのに受け入れざるをえない状況に追い込まれることもセクハラなのです。
 英語表現を使うなら,voluntary(自発的)であっても,unwelcome(望まない)な行為ならセクハラなのです。無理強いされたわけではないがノーと言えば困ったことになる,と自ら受け入れるという意味では「自発的」。でも,仕事上の立場を利用して望まない性的行為を押し付けられるから,セクハラなのです。

牟田和恵 (2013). 部長,その恋愛はセクハラです! 集英社 pp.39-40

ネットトラブル

ネットでのコミュニケーションによるトラブルでは,帰国子女の子どもが精神的にやられてしまうケースもしばしばみられます。それまで,外国の暮らしでは,メールやインターネットによるコミュニケーションよりも,直接思ったことを口にしてコミュニケーションをとってきたような子が,ちょうど小学校を卒業するころに帰ってきて,メールの分化に触れて,そこでつらい思いをすることになるのです。
 この背景には,多少とも日本人特有のものがあるのかもしれません。海外の研究者たちにこのことを話すと,アメリカや中国の研究者たちは,「メールなんてただの文字だから,自分から切り離せるという感覚がないのか?」と,日本のこうした状況に首をかしげていました。外国ですと,メールは会って話すことに対して付属のような位置づけで,メールでわからないことや行き違いがあっても,あとで話せばいいではないか,あとで確認すればいいではないか,という感覚のようです。
 でも,日本の場合には,直接相手に会って確認する前に,メールを見ただけで相当なショックを受けてしまう。言葉で直接話すよりも,手紙やメールのほうを重視してしまう傾向が日本人にはあるのかもしれません。興味のあるところです。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.201-202

成果の評価

移民の子どもや,親の失業などによってハンディキャップをもった子どもに対しては,それを補填するために,他のオランダ人の子どもよりも割高の教育費が支給されるということです。この他にも,移民の子どもやその親たちに対しては,無料で受けることができるオランダ語の授業が実施されるなど,さまざまな教育的な配慮を伴った政策がとられています。
 このように,それぞれの子どもが自分なりの学習の成果を評価される仕組みを持っていると,学校のなかでの自尊感情を保てるため,いじめなどの,他人の自尊感情を下げることで満足を得ようとする行動が起こりにくくなるのではないかと思われます。

古荘純一 (2009). 日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか:精神科医の現場報告 光文社 pp.93-94

生活を構造化する力

その力とは一体何か。それは一つの力ではない。生活を構造化している力には三種類ある。第一は,身体の生理的なリズム。私たちが日常の中で行っている行動のある部分は生理的な欲求に基づいている。食事をするのはお腹が空いたからであり,トイレに行くのは用を足したくなったからであり,眠るのは眠たくなったからにほかならない。そして,お腹が空いたり,用を足したくなったり,眠くなるのは,体内時計と呼ばれる一定の生理的なリズムに従ってそうなるのである。
 第二は,自分の意志。人間は自分の意志に力によってある行動をしたり,思いとどまったりすることができる。たとえば,眠気をこらえて夜遅くまで勉強している受験生や,空腹を堪えてダイエットに励む若い女性などはその典型だといってよい。どちらのケースも生理的な欲求によっては説明できない行動である。
 第三は,社会の要請。生理的欲求にしろ,自分の意志にしろ,それは内的な力という点で共通である。これに対して社会の要請というのは外的な力である。人間は他者や集団からの要請(丁寧なお願いから強制的命令まで力のレベルはさまざまである)によってある行動をさせられたり,ある行動をしないようにさせられる。たとえば,平日の朝,会社員のAさんが六時半に起きるのは,九時までに出社すること(遅刻しないこと)を会社から要請されているからである。六時半という起床時刻は,起きてから朝食や身支度にかかる時間,自宅から会社までの所要時間を勘案して,出社時刻の九時から逆算して決定されたものであり,目覚まし時計の助けを借りずに自然に目が覚める時刻ではないのである。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.38-39

構造化した毎日

通常,私たちは自分の明日の生活,朝起きてから夜床に就くまでの自分の行動について,天気予報と同じくらいの確かさで予測することができる。これは私たちが自分の生活の構造を知っているからである。もし生活に構造が存在しなければ,それはさぞかしドラマチックな毎日であることだろう。なにしろ朝,目が覚めて,これからどんな一日が始まるのか自分でもまったく予想ができないのだから。それはまるで冒険小説の主人公のような生活といってよいだろう。私たちがそうした人物にあこがれるのは,とりもなおさず私たちが構造化した(マンネリ化した)毎日を送っているからにほかならない。

大久保孝治 (2013). 日常生活の探求:ライフスタイルの社会学 左右社 pp.37

役割

人が仕事をするとは,個人が好きなことをして,自己実現をめざすという側面だけで成り立っているわけではない。仕事には,社会的分業の中でどこかの「役割」を引き受けるという側面がある。
 だからこそ,就労はひとつの社会参加のルートなのである。社会全体の観点から見れば,さまざまな業界や業種,いくつもの種類の仕事が分業関係を結んでいるからこそ,この社会は円滑に動いている。ひとつの会社組織であれば,それぞれの部署がそれぞれの役割を引き受けているからこそ,会社が機能していく。
 現在の社会において,何が「やるべきこと」なのか,どこに課題があるのかを考えることは,子どもや若者の職業(仕事)選択の際の視点となってよい。若い人たちには,働くとは,自らの仕事を通じて社会に参加し,貢献することなのだという意識を強く持ってほしいと思う。
 そして,現実問題としても,「やるべきこと」の周辺には,職(求人)は豊富に存在しているのが常である。

児美川孝一郎 (2013). キャリア教育のウソ 筑摩書房 pp.86-87

思い込み

酒を飲んで酔っ払っているときに,仕事のアイデアの1つでも浮かぶだろうか。人間関係が酒の席で築けるなんて言うけれど,酒の席で壊れた人間関係の方がずっと多い。勘違いしないでもらいたい,と僕は常々思う。
 おそらくは,戦後の成長期のビジネスマンたちは,こういったところでしか遊ぶことができなかったのだろう。これが,彼らの趣味だったのだ。したがって,その趣味に人生のやりがいを見つけたというだけのこと。それを勘違いして,「これが男の仕事だ」と思い込んでしまい,それを後輩にも教えようとしている。そういう人がまだ残っているのである。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.190

偉い

そもそも,職業に貴賎はない。「偉い仕事」というのは,つまりは給料が高いとか,能力や人気で選ばれた者だけが就けるとか,そういった「ポスト」を示すようだけど,その偉さは,たいていは賃金によって既にペイされているはずだ。つまり,そういう「偉そうな仕事」をしたら,その分の高級を得ているわけで,それでその偉さは差し引かれているはずなのだ。もし,賃金は一切いらない,というのなら本当に偉いと思うけれど,金をもらっているなら,それでいいじゃないですか,と僕は考えてしまう。
 たとえば,国を動かす凄い仕事をしている,といっても,それだけの金をもらっているのなら,それくらいしても当たり前では,と考える。
 下の者に命令ができる人が偉いわけでもない。命令をきく人たちは,その分の賃金を得ているから言うことをきくだけだし,また,命令できるのも,それは単にその場に限って通用するローカル・ルールがあるだけのことで,ようするに一種のゲームだと思えばわかりやすいだろう。鬼ごっこをするとき,鬼はべつに偉いわけではない。怖いから逃げているのでもない。そういうルールなのである。どちらの立場も,嫌ならいつでもゲームから降りることができるのだ。

森博嗣 (2013). 「やりがいのある仕事」という幻想 朝日新聞出版 pp.11-12

二者択一

暴力問題に対する考え方としては,一般的に2つの枠組みが定着しているとスラトキンは説明する。「処罰の必要性を唱える意見がよく聞かれます。もっと刑期を長くすべきだとか,厳格に法を適用すべきだといった内容です。あるいは,こんな意見もあります『教育,貧困,育児,そういったものをすべて改善しなくちゃいけない』と。公衆衛生では,これを“何もかも神話”と呼んでいます。刑罰は行動の動機づけにはならないので効果は期待できません。また,何もかも神話は,暗に目の前の問題は手に負えないと言っているにすぎません。つまり,効果のないことをするか,あるいは何もしないかという二者択一の枠組みにはめられているのです」

アンドリュー・ゾッリ,アン・マリー・ヒーリー 須川綾子(訳) (2013). レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か ダイヤモンド社 pp.297-298

ネットワーク組織

ゆるやかに結びつくネットワークのなかで構成要素が自律し,独自性を発揮するダイナミクスは,テロ組織その他の非政府戦闘集団の相互の関係において,そして個々の集団の内部においても複製される。こうした小さな組織は,従来型の強力な指揮統制ではなく,臨機応変で,冗長的で,インフォーマルな社会的関係によって結束している。海兵隊よりも寄せ集めのバスケットボール・チームに近い。そのネットワークは内在する小規模集団によって敏捷性を保ち,より大きなネットワークの多対多の結びつきは,仮にメンバーの10パーセント,20パーセントが排除されてもネットワーク全体が機能しつづけることを保証している。「これまでアルカイダのナンバースリーが何度倒されたかわかりません。ネットワークのなかでは,誰もがナンバースリーなのですから」。アクウィラは辛辣な口ぶりで指摘する。

アンドリュー・ゾッリ,アン・マリー・ヒーリー 須川綾子(訳) (2013). レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か ダイヤモンド社 pp.85-86

公務員神話

 学生たちの多くは,相変わらず,公務員は民間労働者より雇用が安定しており,労働時間が短く,その他の労働条件も比較的よいと思っている。しかし,これは過去の誇大視された幻影でしかない。あるいは,民間企業の労働者の働き方/働かせ方があまりにも酷いことになっていることの裏返しの意識かもしれない。また,「公務員を減らせ」「公務員の賃金を下げろ」といういわゆる「公務員バッシング」が,逆に公務員神話を支えているのかもしれない。

盛岡孝二 (2011). 就職とは何か:<まともな働き方>の条件 岩波書店 pp.183

バランス感覚の果てに

 個人の名前は「書き易さ」と「読み易さ」という条件を満たしていることが望ましい上に,「好字」で,ほどほどの「顕字」力があることも求められる。個人の識別は番号でも可能であろうが,もっと印象に残る好感や連想をもたらすものの方が選択される。それは目立つ,他とは異なることへの傾斜でもあるが,極端に進めば,他に例がないという「珍奇さ」「奇矯さ」の実現になってしまう。名をつける側の意識に,できるだけ個性的な名前をつけたいという強い願望・意欲もあったから,文字を制限されたことによって文字そのもので個性を表現することが通常のやり方では実現しにくくなっていることで,制限のない読みの分野でその願望・意欲を満足させようとしたわけである。それで,現在の特殊な,掟破りともいうべき読みの出現となったのであろう。

佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.179-180

うさ吉

 私の田舎では「本家」と呼ばれる家があって(それは私の田舎に限ったことではないが),そこの先々代の老人の機嫌のよい時の昔話として聞かされたことだが,その人の父親というのは入り婿だったそうで,舅に頭が上がらなかったらしい。で,子どもが生まれた時も命名権は舅の側にあって,「卯年生まれなので,うさ吉にしたから,役場に届けて来るように」と言われるまま畏まって出かけたのだが,みちみち自分の子が長じても「うさ吉と呼ばれるのなんて,気の毒」と心を痛めながら役場に行き着いたのだという。届けには舅の言い付けに反し,つい「恒吉」と記し,そのまま報告せずに学齢まで放置していたという。
 当の恒吉さんは何も知らずに日常「うさ吉」と呼ばれ,それで幼少期を過ごした。やがて小学校入学を迎えたころ,学校では誰ともわからぬ名前で呼ばれることになり,一大パニックを引き起こし混乱した挙げ句,事の真相が知れるに至ったという。明治の20年代の出来事である。「うさ吉」が,親しみやすい幼名として機能していたとしたら,名を一本化して本名(実名)のみに制限する前の時代の余響と見ることができるのではなかろうか。似たような話は丁寧に探し求めれば,あとこちにゴロゴロしているのかもしれない。

佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.73-74

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