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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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代わりがいくらでもいるから

 これらの行為はすべて,労働市場に「代わりがいくらでもいる」ことによって成り立っている。毎年200人を採用し,2年後には半数になる。これを繰り返して,常に新鮮で利益になる者だけを残すのである。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.41-42
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クズだ

 「お前たちはクズだ。異論はあるだろうが,社会に出たばかりのお前たちは何も知らないクズだ。その理由は,現時点で会社に利益をもたらすヤツが1人もいないからだ」
 「営利団体である企業にとって赤字は悪だ。利益をもたらせないヤツが給料をもらうということは悪以外の何物でもない。だから,お前たちは先輩社員が稼いできた利益を横取りしているクズなのだ」
 「クズだから早く人間になれ。人間になったら,価値を生める人材になり,会社に貢献するように」

 これらはすべて執行役員の発言である。入社初日から,「新卒は歓迎されていない」ことを知らしめられた新入社員たちだったが,その翌日から始まる過酷な新人研修のなかで執行役員の「コスト=悪」という価値観を叩き込まれていく。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.29

気にしない方がいい

 誰でも「面白い人」であることにしがみつきたい瞬間があります。でも,そういうときはお笑いのことを気にしないほうがいいのです。
 何かを語っている人に対して,「で,オチは?」なんてことを言わないであげてほしい。「今,噛んだ!」なんて指摘をしないでほしい。そんな言葉で袈裟斬りにしないでほしいのです。
 これに留まらず,日常でもお笑いの世界から学んだ「ツッコミ」によって他人を容赦なく斬っていることが多々あります。
 普通の人がそのことに気づくのは難しいでしょう。でも,そんなツッコミをして,鬼の首を取ったような気分になってほしくはないと思います。

槙田雄司 (2012). 一億総ツッコミ時代 星海社 pp.27

逆説

 そして,今もビートたけしの逆説が分からない若者の多さには呆れている。
 それはサブカルチャー論にも共通する。
 いつの間にか,サブがメインになり,本来カウンターで発言すべきサブカルチャーが正論の如く流通している。
 昨今の太田光が,番組の中で総理を自称し,実にお笑いにあるまじき,まともな正論をぶつ論客となっているのも,本来のメインカルチャーの方が脆弱すぎて立ち位置としては,正論をぶつ方が,むしろ異端でありカウンターであるからだろう。
 太田光は年齢を重ねると共に,正論の方が少数派であることを意識し,空気を読めていない正論バカをお笑いの役柄の一つとして演じている。
 そのポジション取りを汲むこともなく「太田光は文化人気取りだけど,本気で政治家になりたいんじゃない?」としたり顔で言う,芸人の真意が読めない人々がいるが,「政治家よりお笑いのほうが圧倒的に影響力のある存在」であるのに気が付かないのだろうか。

水道橋博士 (2012). 藝人春秋 文藝春秋 pp.267

よく計算間違いをする

「どうして,人間は,人間を殺すんだ?」
 彼が一瞬,目を見開き,黙った。駐車場の脇に立つ街灯が,電気を撒いて震えるような音を発し,明滅した。
 「どうして俺に,そんなことを」
 「ちょうど君がそこに立っていたからだ。別の人間がそこにいたら,そいつに訊ねただろうな。たまたま,質問があって,その質問の先に君が立っていた」
 青年はしばらくの間,口を閉ざしていた。ずいぶん経ってから,「恨みや怒り,計算。人を殺す理由はそんなところじゃないかな」と言った。
 「計算?」
 「あいつがいなければ,俺の人生は楽になるのに,とかそういう計算だよ。金の面,精神的な面で,損得を計算するんだ」
 「人間はよく計算間違いをする」
 「その通りだね」と青年が歯を見せた。

伊坂幸太郎 (2008). 死神の精度 文藝春秋 No.2655/3977(Kindle)

人間のことで悩んでいない

 「俺がもっとすごいことを教えてやる」私は言った。
 「うっせえな」
 「あんなにたくさんの人がいて,人間のことで悩んでいる奴は,たぶん一人もいない」
 「馬鹿じゃねえの。みんな悩みばっかだって」
 「自分のことで悩んでいるだけだ。人間のことで悩んではいない」確かこれも,以前,どこかの思想家が言っていた台詞だな,と私は思い出す。


伊坂幸太郎 (2008). 死神の精度 文藝春秋 No.2598/3977(Kindle)

無知につけ込む

 人間の多様性に関わる遺伝学は道徳的に危険だとする主張のほうが,はるかに深刻だ。もちろん,人種主義的科学の歴史を鑑みれば,こうした」主張がどこから生まれるかわかるだろう。しかしながら,やはりそれは間違った主張だ。思慮分別のある人なら,人間どうしのあいだの相違などほんのわずかなので,それを悪用して社会正義の遵守を妨げる理はないことを熟知しているはずだ。グールドのスローガンを借りれば,「人間の平等は歴史上の偶然的な事実である」のだから。それよりも,人間の多様性の原因が研究されずにいる限り——世界の様々な地域の人たちを区別する7パーセントの遺伝子の多型が解明されずにいる限り,そのあいまいな部分を悪用して社会不正を促すような理論を展開する人々は,跡を絶たないだろう。社会不正が新しい知識の結果として起こることもしばしばだが,より多くの場合——はるかに多くの場合——社会不正は私たちの無知という知識の裂け目につけ込むのだ。

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.303-304

「人種は存在しない」

 「人種」は,長いこと四面楚歌の状態にあった。科学者の中では遺伝学者たちが先頭に立って攻撃してきたが,その攻撃は世界じゅうの遺伝的変異のパターンを研究した2つの調査結果にもとづいている。最初の調査からわかったことは,ヒトゲノムに豊富に見られる遺伝子の多型で人間を分けると,伝統的・民族文化人類学的な人種とは一致しないということだ。どんな遺伝子にもさまざまな多型が現れる。たとえほとんどの多型が「沈黙」していて,コードするタンパク質に影響を与えないとしても多型は存在している。当然のことながら,ある多型はある特定の地域に多く見られることがある。だがほとんどの遺伝子の多型について,地域的広がり,あるいは希少性の世界的分布を見てみると,昔ながらの人種の境界線とは一致しない。人種の境界線はたいがいはっきりと引かれるが,概して遺伝子の多型の頻度はなだらかに変化している。多型の頻度の地域的な差は遺伝子ごとに異なる。だからもし人類の間に境界線を引こうとしても,ほとんどの遺伝子は境界線のどちら側に分類されるのかを簡単に示してはくれないのだ。
 2つ目の実験からわかったことは——それによって遺伝学者たちは人種それ自体を疑り出したし,いまも疑っているが——どんなに小さな集団でも遺伝的多型は見られたということだ。世界じゅうから集めた遺伝的多型の約85パーセントは,たとえばカンボジアやナイジェリアといったどんな国やどんな集団でも見られ,約8パーセントがオランダやスペインといった国ごとに見られ,残りのたった7%だけが大陸——「人種」を大雑把に解釈したもの——ごとに見られた。たしかにオランダ人とディンカ族との間には遺伝的な相違はあるが,オランダのデルフトに住むふたりの人間の間の相違とたいして変わりはない。
 遺伝的多型に関するこうした事実は,1960年代から知られていた。それ以後10年ごとに,遺伝的変異を発見・分析するより精度の高い方法を利用したより豊富なデータによって裏付けられてきた。1960年代は多型のタンパク質がゲル上を移動する様子を研究していたが,現代はゲノム全体の塩基配列を研究している。科学者たちは何十年にもわたって——本書で私がしているように——こうした結果を説明し,遺伝学的には,人種は存在しないと主張してきた。人種は実体のないものを具象化したものであり,社会的構成物であり,さもなければ信用に値しないイデオロギーの残存物だと。

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.294-296

死亡者数ゼロ

 1994年に目を見張るようなことが起きた。スゥエーデンの8歳の少女の死亡者数が,ゼロだったのだ。1人もインフルエンザで死なず,1人もバスに轢かれて死ななかったのだ。その年の初めに11万2521人いた8歳の少女は,その年の終わりにも11万2521人いたのだ。
 もちろん,これは統計上の偶然にすぎない。その年には8歳の少年が何名か死亡したし,7歳と9歳の少女の何名か死亡した。翌年には8歳の少年も少女も死亡した。だが1994年にスゥエーデンの8歳の少女が1人も死亡しなかったということは,子どもたちを死から守るという,産業文明の進歩による最大の偉業が達成されたことを象徴的に表していると言えるのかもしれない。
 先進国における子どもの死亡率は,特に事故や犯罪による死亡を除けば,限りなくゼロに近づいた。少なくとも250年かけて達成されたこの偉業によって,平均寿命はゆっくりと上昇していった。1750年以前の平均寿命はたったの20年だったが,現在では経済大国の平均寿命はおよそ75年だ。平均寿命の上昇は,まず感染症の犠牲になる子どもたちを病気から救ったことによって成し遂げられた。しかしおもしろいことに,こうした国々では子どもを死から守るという目標は完全に達せられたにもかかわらず,平均寿命は伸び続けている。

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.290

皮膚の色テスト

 なるほど,彼らの気持ちもよくわかる。リンネが世界の人々をアジア人(黄),ネイティブアメリカン(赤),ヨーロッパ人(白),アフリカ人(黒)の4種類の人種に分類して以来,肌の色は人の属性を表す都合のいい印として悪用されてきた。リンネはこの4種類の人種を肌の色だけでなく気質でも分類した。アジア人は「厳格,傲慢,貪欲で,人の意見に左右される」。ネイティブアメリカンは「頑固で短気だが,満ち足りている。自己の習慣に固執する」。アフリカ人は「狡猾だが,怠惰で無気力,不注意。成り行きまかせ」と良い所は1つもないようだ。それで彼自身の人種はどうなのだろうか?リンネの考えでは,ヨーロッパ人は「明朗快活で創意工夫に富み,社会的習慣を重んじる」。これこそが,のちにアーリア人の優秀性を唱えた19世紀の理論家ゴビノー伯爵アーサーの著作を経て,南アフリカのアパルトヘイト——世界史上最も体系的な人種差別体制——で最高潮に達した,かの悪名高き知的伝統の始まりだった。
 およそ50年にもわたって,南アフリカのアパルトヘイトの立案者たちは世界を敵にまわし,人種の海を2つに割くという絶望的な仕事に国の豊富な資源を費やした。「白人専用」と書かれた講演のベンチには誰が座ることができ,誰ができないかという堂々巡りの話し合いでは,警官や刑事や経営者だけでなく,実際ほとんどの市民が人種を判断する専門家になった。南アフリカの法律は,何を基準に「黒人」「白人」「カラード」(アパルトヘイトの用語では,アフリカ人とヨーロッパ人の混血の意)とするかについては,つねにわざとあいまいにしていた。場合によっては,あなたは誰を知っているのか?どこの出身なのか?人はあなたを誰だと思っているのか?といった程度のことが基準になった。だがこうした社会的基準に,一連の複雑な疑似科学的テストが混ざるようになった。テストの支持者は,「白人で押し通そう」としてもアフリカ人の祖先がいることを暴き出せると断言した。「鉛筆テスト」なんてものを信用する人もいた。被験者に多少でも黒人の血が流れていると,毛髪に鉛筆をさしても落ちてこないというものだ。ほかには爪の下の皮膚を見ればわかるとか,まぶたの色を見ればわかるとか,蒙古斑があればそうだとか,訳知り顔で吹聴する類のものもあった。さらに「陰嚢テスト」といって,性器の色を見ればわかるといったものまであった。1948年から90年まで南アフリカの学校,病院,職場など実際あらゆる公共の場で繰り広げられた人種差別では,子どもの運命は体じゅうのあらゆる部分の皮膚の色で決まった。

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.228-230

スカウト

 応募かスカウトか,AV女優になったキッカケで女性の性格傾向も分かれる。スカウト女性は外見のレベルは高いが時間やお金にうるさい,応募女性はやる気があってセックス好きで撮影はしやすいがルックスがイマイチ,というのが大まかな見方である。
 スカウトマンは人通りの多い繁華街で,歩いている女性に声をかけて勧誘するのが一般的。いきなり声をかけられた女性が立ち止まる理由は「お金」が筆頭だが,「有名になれるかも」「自分をわかってくれるかも」「認めてもらえるかも」などの承認欲求も無視できない。若い女性たちを中心に,誰かに認めてもらいたいという欲求は年々大きくなり,AVに出演したり,風俗でカラダを売ってお金というかたちで評価をされたりすることで,「初めて誰かに認めてもらえた」と満足する女性は多い。数年前までのスカウトが主流だった時代はAV女優に精神的に病んでいる女性や,芸能人になりたい非現実的な願望を持っている田舎女性が多かったが,それはスカウトマンに声をかけられて立ち止まるという行為が,誰にもわかってもらえない淋しさや孤独,承認欲求の表れであったといえる。

中村淳彦 (2012). 職業としてのAV女優 幻冬舎 pp.66-67

労働量の増加

 メーカーの販売不振の対策は今のところ出演料の大幅な削減ではなく,もっとクオリティの高い女性を出演させてもっと過激な行為をさせる,という方向を選択している。監督やカメラマンやAD,編集などの撮影経費を限界まで下げて出演料はなんとか現状維持するので,モデルプロダクションにはもっとクオリティの高いAV女優にはもっと過激な性行為をというさらなる“労働”が求められる。
 企画,企画単体の価格は横ばいだが,“労働量”は増加の一途をたどっている。

中村淳彦 (2012). 職業としてのAV女優 幻冬舎 pp.41-42

次々と参入

 AV女優は現場から現場を駆けずり回って,日当ギャラであらゆる性行為を披露して売り歩く職業である。病気や怪我,誰かにバレるなど,リスクが極めて高いわりには世間が思っているほど収入は高くなく,過酷な行為が要求される大変な肉体労働である。
 現在,そんな厳しい職業であるAV女優の世界に育ちや社会的地位や年令に関係なく,あらゆるタイプの女性が自ら望んで次々と参入している。AV女優に至るまでの過程に“やむを得ない深い理由”や“大きな決断”があるわけでなく,誰もが日常的に経験している些細なキッカケから応募して究極の職業に就き,決して悲観することなく前向きに仕事をしている。

中村淳彦 (2012). 職業としてのAV女優 幻冬舎 pp.26-27

女優

 AV女優という職業は18歳以上の大人に販売するメディアの撮影において,メーカーや監督の意図に沿った演技や性行為をすることである。性行為そのものに価値のあるサービス業ではなく,その行為が刻まれた映像や写真で視聴者を興奮させることが仕事である。
 まさに“女優”といえる。
 同じセックス行為をしても女性のクオリティによって価値は異なり,その大きな要因がルックスや裸という経験や努力ではどうにもならない。生まれながらの資質。そのため残酷なほど大きな格差が生まれることになる。

中村淳彦 (2012). 職業としてのAV女優 幻冬舎 pp.17

厳しく

 かつて,AV女優になる入口は路上で女性たちに声をかけるスカウトだったが,現在は自分から出演したいと志願し,応募してくる女性が中心となった。モデルプロダクションのサイトや求人広告から,相当数の応募がある。しかも,AV出演する覚悟をして志願しても,外見を中心とした能力を選別されるので,簡単に出演できるものではなくなった。不景気で収入減を補おうとする女性から,好奇心や刺激欲しさの女性まで,幅広い層からの応募で出演志願者は膨れあがり,完全に供給過剰な状態となっている。AV出演を希望する女性はルックスやスタイルや性格を吟味され,現在はある水準に達していないと末端のAV女優にさえなれない。大多数の女性は出演したいと希望しても面接に呼ばれることすらなく,門前払いをされているという現実がある。

中村淳彦 (2012). 職業としてのAV女優 幻冬舎 pp.15-16

残酷なトレードオフ

 犯罪に問われる恐れがあるのに武装解除や和平に応じるお人好しはいない。DDRで仕事を得ても,自分たちが逮捕される可能性があれば意味がないからだ。そのため,多くの場合,和平合意の際は,武装勢力が武器を手放して兵士を辞めることと引き換えに無罪にすると明記される。結局,シエラレオネでも,兵士たちは恩赦を与えられ,経済的に不満を抱かないよう一般市民として生きるために手に職をつける権利を得た。
 平和とは,時に残酷なトレードオフのうえで成り立っている。その「加害者」には,元子ども兵のミランのように,好んで加害者になったわけではない,むしろ紛争の被害者といえる者もいる。物心ついたときから銃を持たされ,教育を受けたこともなく,戦うこと以外に自分の価値がないと心から信じてしまう者もいる。こういった人々への救済策は,確かに必要だ。
 一方で,家族を失ったり,身体に障害が残ったり,家を失い避難民となっている「被害者」に,同じレベルの恩赦が行き渡ることはめったにない。加害者の人数と比べて,被害者の数が圧倒的に多いからだ。シエラレオネで最終的に武装解除された兵士の数が7万2千人ほどであるのに対し,死者数は推定5万人,被害者数はおよそ50万人である。
 被害者たちは,元兵士たちの不満が爆発した時,犠牲になるのは自分たちであり,我が子であることがわかっている。そして,「平和」という大義のために,加害者の裁きをあきらめ,理不尽さをのみ込み,自らの正義を主張することを身を切られる思いであきらめる。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.66-68

子ども兵士

 子ども兵士は,スーダン,ソマリア,ウガンダ,ルワンダなどのアフリカの内戦のほか,アジアや南米の内戦でも存在してきた。子どもを使う理由は,大人に抵抗する力がない,洗脳しやすい,敵に警戒されない,身軽で目立たないのでスパイ活動や運び屋に適していることが挙げられる。AK47のように作りがシンプルで取り扱いしやすい自動小銃が出回るようになったことで,子どもでも銃を持てば1人前の兵士となれる。そして,先入観を持たないまま洗脳された子ども兵士ほど,残虐になれる。
 司令官たちは,子どもを兵士として使用していたことの罪を問われることを恐れ,子どもを解放したがらなかったり,子ども兵士の存在を隠したりする。また,18歳未満を子どもとする国際基準が自分の国には当てはまらない,自分たちの文化では15歳以上は大人だから,自分の国には子ども兵士はいない,と主張する国もある。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.60-62

選択肢の不在

 選択肢の不在。
 これ以降に訪れた多くの紛争地で,人々が繰り返し口にし,私が目の当たりにしてきたことだ。紛争の最中には,しばしば,選択肢とすら呼べない道しか目の前に存在しない状況に陥る。
 たとえ紛争が終わっても,食べ物がない,家がない,またいつか争いが勃発するかもわからない状態に生きる人々は,家族を失ったことを悲しむ間もなく,その日を生きることで精一杯だ。命はあるけど,自分が何のために生きているのかわからない。そして,自らの生き方を選ぶ選択肢も持っていない。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.48-50

言葉の凶器

 私は,現地を訪れるまで,「和解」とは良いことだと信じて疑わなかった。でも,その言葉を口にした時の現地の人々の表情を見て,自分が間違ったことをしているとやっと気づいた。部外者の私の無神経な問いは,たとえば日本で犯罪被害者の家族に,加害者との和解について尋ねるのと同じようなものだった。私が家族を失った立場だとして,ある日フラッとやってきた外国人に,加害者と和解しない理由を問い詰められたら,どんな気分になるだろう。被害者の心の傷を深める,いわば「言葉の凶器」と感じるのではないだろうか。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.41

DDR

 「紛争地では,元兵士や子ども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」
 これだ!と声を出していた。無条件にピンと来たとしか言いようがない。しかも,これだけ紛争解決や平和問題についての情報を見てきた私が初めて目にしたのだから,まだメジャーな問題ではないのだろう。日本でこのテーマの話をしている人を聞いたこともない。そして,国際的にも解決策が分からないのなら,自分がそれを専門にすれば役に立てるはずだ。
 これが,のちに私の専門となるDDR——兵士の武装解除(Disarmament),社会復帰(Reintegration)——のことを知った瞬間だった。ただ,この時点では,DDRという単語さえも,そこには書かれていなかった。
 和平合意が結ばれて紛争が終わっても,それだけで人々が安全に暮らせるわけではない。紛争が終わるということは,兵士にとっては,明日からの仕事がなくなるということだ。ただでさえ,紛争の直後は,家や工場,道路などが破壊され,仕事もなく家族を養うことができない人々であふれる。そんな状態で,手元に銃があり,戦い方を熟知している兵士たちの不満が爆発するような状態が続いたら,また武装蜂起して争いに逆戻りする危険がある。それを避けるため,兵士や戦闘員から武器を回収し,除隊させたうえで,一般市民として生きて行けるように手に職をつける職業訓練や教育を与える取り組みが,DDRである。

瀬谷ルミ子 (2011). 職業は武装解除 朝日新聞出版 pp.35-36

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