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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「社会一般」の記事一覧

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思い入れは

 現代社会に生きる個人には「私は私」であってほかの誰でもないという意識がある。その個人がほかの誰かの完全なコピーであるということはあり得ない。その人にしかない資質,能力をもち,古今東西,ただ1回きりしか存在しないものである。少なくとも現代人の生き方はこうした考え方を前提としている。人に名をつけるのに,「ほかの誰とも同じでない」特色のある名前をつけたいと考えるのは,理由のないことではないのである。ただし,名をつけるのは新生児本人ではない。自分の名を自分自身で名づけるという行為が原則的にできないのが,この社会でのルールになっている。本人による自己命名ができたら,じっくりと望ましい名前を自己の責任においてなされるであろうが,それができない相談なのだから,親の責任で適当な名を考えてやるしかない。子の望ましい将来を思い描いて「ほかの誰とも同じでない」存在を,名前によって予祝したいと考えるのは,親として当然のことである。名づけに強い思い入れが感じ取れる場面にしばしば遭遇するのは,ひとえにこのゆえなのである。

佐藤 稔 (2007). 読みにくい名前はなぜ増えたか 吉川弘文館 pp.19
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ギャップから愛着へ

もっともそれらの美学者も指摘したとおり,この刺激は極端になれば不快でしかない。具体的にいえば,楽曲や振りを含む演出があまりにもギャップに富み,新奇さ,異質性,ジャンル横断的なハイブリッド性を過剰に備えてしまうと,ファンは面食らい,ときに無理解,幻滅,反発,不快さえ抱くことになる。
 これはももクロにかぎったことではない。しかし,次々に変わりゆくことを積極的に目指すももクロにあって,その種の事態はしばしば起こる。とくに新曲や新演出が発表されたときには,ほとんどつねに批判される。逆にいえば,そうした不快や批判さえ生むショックを与えないかぎり,ももクロの戦略としては失敗ということになるだろう。
 しかしやがてファンは最初のショックを乗り越え,楽曲や演出の良さを理解し,最終的にはかつてなかったほどの強い愛着さえ抱くようになる。それは単なる新し物好きや知ったかぶりを超える。というのも,ももクロの楽曲・演出は,全体として入念に仕上げられ,途切れない全力の身体パフォーマンスによって繋がれているからである。そのためファンは,ももクロ自体への信頼や愛情にも支えられて,楽曲・演出をできるだけ好意的に解釈しようという意思を働かせる。おかげで,各断片は徐々に適切な意味づけと関連を与えられ,最終的にはその場にぴったりと来るようにおもえてくる。そして最初は無理解や反発さえ抱いていたギャップや異質性が,むしろ快く,愛着のわくものになる。

安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.108-109

無題

 たとえば,もしある人が,ホメオパシーか何かの“代替”療法を飲んで,体の具合が良くなり,霊能者に会いに行って満足感を覚えたなら,うまくいったわけだし,その人の治療法の偽りを証明する必要はないと主張する人は多いかもしれない。そういった人々の心の安らぎを,私たちは否定すべきだろうか?個人的には,そういった人たちが私に議論を吹っかけてこない限り(たいていの場合,「それじゃあ,これをきみはどう説明するんだ?」という形だ),そのような治療法によって人が手に入れる幸福感や満足感を減らしてやろうという気は,私にはさらさらない。何らかの形で私に影響を及ぼしたり,危険な原理主義につながったりしない限り,人が何を信じようと私には関係ないことだと思っている。人生における厄介な問題には単純な答えのないものがほとんどであり,真実はおそらくは数え切れないほどの矛盾によって成り立っているのだろうということも,私は心得ている。だから私は,どんな政治的イデオロギーにも与するのは難しいと感じる。1つの立場がすべてを包括できるなどということは想像できないからだ。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.369-370

だましにくい人

 以上のすべての理由を考え合わせると,一般的に騙すことがもっとも難しいのは,関心が非常に薄い観客ということになる。私がこの手のマジックをパーティで大人数のグループに向かって演じたとき,一番危険だったのは,端のほうに腕を組んで立ち,隣同士で会話しながらなんとなく見ている観客だった。集中して見ていない彼らをこのゲームに巻き込むことはできない。彼らは集中して見ている時間こそ少なかったが,見えているものは多かったはずだ。

ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.64

絶対の確信

 正義感からの殺人は,相手の存在そのものが悪であるとの絶対の確信にもとづいてなされる。殺すことは,悪を滅することであるから,正義なのである。歴史上,この殺人がもっとも多い。だいたい,すべての戦争における殺人がそうだ。すべての戦争は正義のための戦争で,敵は悪,味方は正義なのである。ベトナム戦争だって,米軍の側からすれば正義の戦いなのだ。
 中世における異端者の虐殺も,あらゆる革命での反革命者の粛清も,ナチスのユダヤ人虐殺ですら,すべて正義の名のもとにおいてなされてきた。各国でおこなわれている凶悪犯罪者の処刑だって,社会正義の名のもとにおこなわれていることである。
 殺人が正義の名のもとにおこなわれるとき,人はそれを是認するばかりか,歓喜し,賞揚さえする。しかし,正義というのは,必ずしも普遍的なものではないから,ある正義の尺度を持つ者にとっては喜ぶべき処刑が,他の正義の尺度を持つ者には吐き気がするほどおそろしいこと,ということは,よくあることだ。

立花 隆 (1983). 中核VS革マル(上) 講談社 pp.34

排除につながる

 心からわかりあえることを前提とし,最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか,「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が,どうにかして共有できる部分を見つけて,それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。
 「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は,耳に心地よいけれど,そこには,心からわかりあう可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いてはいないだろうか。
 実際に,私たちは,パレスチナの子どもたちの気持ちはわからない。アフガニスタンの人びとの気持ちもわからない。
 しかし,わからないから放っておいていいというわけではないだろう。価値観や文化的な背景の違う人びととも,どうにかして共有できる部分を見つけて,最悪の事態である戦争やテロを回避するのが外交であり国際関係だ。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1905-1913/2130(Kindle)

管理職の責務

 企業は利潤を追求する場所だ。そして,管理職が,本当に若者たちの多様な意見を欲しているとすれば,彼らが意見を言いやすい場所をセッティングするのが,管理職の責務である。もしもそれを怠って,「近頃の若者は……」と愚痴をこぼしているだけなら,それは,「はい,私は,会議もデザインできない無能な管理職です」と公言しているようなものだ。
 若者の側が,この理屈に甘えていいわけではない。若い世代は,個々人のプレゼンテーション能力をもっと伸ばす努力もするべきだろう。だが果たして,意見が出ないという状況は,どちらにより責任があるかと問われれば,それは当然,数倍の給与をもらっている管理職の側ということになる。

平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 1775-1785/2130(Kindle)

自信と誤診

 自信過剰を優遇するような社会的・経済的圧力は,金融関連の予測だけに働くわけではない。他のプロフェッショナルも,専門家たるものは高い自信を示さなければならない,という社会通念に直面している。フィリップ・テトロックによれば,ニュースの解説に招かれるのは最も自信たっぷりの専門家だという。自信過剰は,医療業界にも蔓延しているようだ。ある調査では,集中治療室で亡くなった患者について,患者の生存中に医師が下した診断と解剖結果とを比較した。このとき,医師に診断に対する自信の度合いも申告してもらった。すると結果は,「絶対確実と医師が自信を持っていた生前診断の約40%は誤診だった」。ここでもまた,専門家の自信過剰を顧客が助長しているようだ。「一般的に,自信なげに見えることは医師にとって弱点とされており,気弱な証拠とみなされる。迷いより自信を示すほうが好まれ,不確実性を患者に開示するのは,もってのほかと非難される」という。自分の無知を率直に認める専門家は,おそらく自信たっぷりな専門家にとってかわられるだろう。なぜなら後者のほうが,顧客の信頼を勝ち取れるからである。不確実性を先入観なく適切に評価することは合理的な判断の第一歩であるが,それは市民や組織が望むものではない。危険な状況で不確実性がきわめて高いとき,人はどうしてよいかわからなくなる。そんなときに,当てずっぽうしか言えないなどと認めるのは,懸かっているものが大きいときほど許されない。何もかも知っているふりをして行動することが,往々にして好まれる。

ダニエル・カーネマン 村井章子(訳) (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるのか(下) pp.50

こんな分析しか出来ない人たち

 仕事で出会うビジネスパーソンたちから,「結局のところデータ分析なんかでビジネスは推し量れない」といった意見をいただくこともしばしばあるのだが,このような「何の問いにも答えていない単純集計だけでは推し量れない」というのであれば,全面的に賛成である。結局のところ彼らは,「ビジネスを推し量れないデータ分析しかできない人たち」としか出会ってこなかったのだ。

西内 啓 (2013). 統計学が最強の学問である ダイヤモンド社 No.771/3361(Kindle)

デュエット

 言うまでもなく,ゲームがどのようにプレイされるかは得点の記録方法によってある程度決まる。たとえばアシストを評価して集計するスポーツ(アイスホッケーでは,得点者の前にパックに触れた最後の2人の選手も評価される)では,どれも選手同士の団結力が強く,チーム精神が高いように思える。
 ところが,中高生がおこなうコミュニケーションの「ゲーム」——すなわちディベート——には,会話をゼロ和の対決にしているものがあまりに多いことを,僕は残念に思っている。ゼロ和モードの対決的会話では,他の人の主張を弱めることが自分の主張を強めることになる。おまけに,アメリカで弁証やディベート,意見の相違を言い表すために使われている比喩表現は,ほとんどが軍事用語である。供述を擁護(ディフェンド)する,論拠を攻撃(アタック)する,控えめな主張に後退(フォール・バック)する,告訴に対して反訴(カウンター)で応じる。だが同時に,会話とは協調であり,即興であり,相手と息を合わせて真実に突き進むものであることも多い——激突(デュエル)というよりも二重奏(デュエット)なのだ。英語の比喩表現と子どもたちの課外活動を見直して,会話は協調的なものであると学べる機会を与えてみてはいかがだろうか。

ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.242-243

現状認識の誤り

 政府や社会がブラック企業で遅れをとっている最大の要因は,現状に対する認識が誤っているからだ。本書の冒頭で示したように,政府や学者の基本的な思考枠組みは,「若者の意識の変化」で雇用問題を捉えるという傾向にある。若年非正規雇用や失業の問題を「フリーター」や「ニート」問題へと矮小化してきたことがその現れである。そして,ブラック企業問題に対しても,彼らは同じように「若者の意識」さえ改善させれれば,解決する問題だと考えている。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.220

勘違い?

 ある有名な人事コンサルタントの話はとても印象深かった。採用面接で「環境問題への御社の配慮」や「ワークライフバランスへの取り組み」について質問した学生については,全員不採用としたことがある,というのだ。彼曰く,「学生には勘違いしてもらっては困る。お前たちが企業を選ぶのではない。お前たちが企業でどれだけ利益を出せるか,それが重要なのだ」と。こうした目線に晒され続けることで,企業を通じた社会貢献の志や,労働条件についてなど,「何も言えない,言うべきではない」という思考を身に付けさせられていく。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.193

自衛的思考

 これまでも,日本では厳しいノルマや長時間労働が課せられてきたが,それらは「くらいついていけば,将来がある」ものだった。しかし,ブラック企業の命令に従うと,戦略的に退職に追い込まれるかもしれない。本当に意味のある業務命令なのか,辞めさせるための業務命令なのか,それは,若者自身にはわからない。
 こうした「ソフトな退職強要」が横行する社会では,心身を仕事に没入させようなどと考える方が,間違っている。そのため,今度は,もしまともな企業が若者を育てる目的のために厳しい業務を課したり,厳しい叱責を行ったとしても,それが本当に「育てるため」なのかが疑われてしまう。最近,「厳しく育てようとすると,パワハラだと感じる若者が増えている」というデータが各所で示されている。ブラック企業からの相談を受けている私からすると,これは若者の「受け止め方」の問題ではなく,実際にブラック企業という「リスク」が存在するために自然と発生した自衛的な思考である。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.168

社会への費用転嫁

 ブラック企業が引き起こす第2の社会問題は,新卒の「選別」と「使い捨て」の過程が社会への費用転嫁として行われることである。もちろん,この過程では,いうまでもなく新卒労働者本人の問題としても時間や将来を奪われ,病気の苦痛を与えられたことなどがある。だが,ブラック企業の問題は,これを制度的・組織的に社会へと費用転嫁していることにこそ見出すことができる。
 社会全体が引き受けるコストは,鬱病に罹患した際の医療費などのコスト,若年過労死のコスト,転職のコスト,労使の信頼関係を破壊したことのコスト,少子化のコスト,またサービスそのものが劣化していくといった,あらゆるものに及ぶ。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.155

入社後シューカツ

 また,ブラック企業では共通して「入社後のシューカツ」が続く。就職して以後の職業生活それ自体が,永遠に終わらない「選別」の過程なのである。だから,「正社員」とはいってもいつ辞めさせられる対象になるかわからない不安定な身分。そして,継続する「選別」は常に強い緊張状態を彼らに課す。結局,心身を壊し,働き続けられなくなる。こうして,ブラック企業に正社員として就職した若者たちは,次々に「自己都合退職」で離職していく。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.152

辞めさせる技術

 かれらは社会的な配慮でも,新卒や若者への情けでも動かない。ブラック企業にとって重要なことは,自社の利益を上げることだけである。そのためならば,いかに反社会的であろうと,自社のリスクを最小化し,利益を最大化させる方法を最大限に追求する。こうして現れたのが「辞めさせる技術」なのであり,これがいかに非道なものであっても,彼らにとって「合理的」である以上は進化し続ける。
 ブラック企業の用いる「技術」とは,彼らにとっては全く「合理的」な経営戦略の一部なのである。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.121-122

戦略とは

 具体的に「戦略的パワハラ」の手口を紹介しよう。
 まず,この手の会社にはリストラ担当の職員がいる。彼らは狙いをつけた職員を個室に呼び出し,「お前は全然ダメだ」と結論ありきの「指導」をする。業績不振をあげつらうこともあれば,「うちの社風に合っていない」と「指導」することもある。そしてその職員が「ダメな奴」であることを前提に,様々なタスクを課す。
 たとえば,PIP(Performance Improvement Program: 業務改善計画)と称して達成不可能なノルマを設定させ,「そのノルマを達成できないなら責任をとれ」と転職をほのめかす。達成可能なノルマを設定すると,「意識が低い」とつめよられるため,この手のPIPに入ったら逃げ道はない。
 Y社の場合には,「リカバリープラン」と称して精神的に追い詰めるようなタスクを課していた。坊主頭での出勤を命じたり,コンサルタント会社の集まる社ビルにスウェットで出勤するよう命じたり,他にも「コミュニケーション力を上げるために」と駅前でのナンパ,中学校の漢字の書き取りなどをさせる,いずれのタスクもやり遂げたところでその状態から抜け出せるわけではなく,当然ながら本人にとっても意味が感じられない。
 会社からの「指導」に素直に従ってしまう人は私たちに相談に来る人の中でも多く,ある人は会社に認めてもらおうと難しい資格を短期で3つも取って能力を示した。にもかかわらず,会社は「うちに合わないから改善が必要だ」と追い込む。
 こうしたことを繰り返していると,人間は驚くほど簡単に鬱病や適応障害になる。そうなった頃に,「会社を辞めた方がお互いにとってハッピーなんじゃないか」と転職を示唆するのである。「解雇してほしい」と労働者が言ったとしても,「うちからは解雇にしないから自分で決めてほしい」と,退職の決断はあくまでも労働者にさせる。
 精神障害になることは初めから想定されているため,労働者が病気になるまで追い詰められたとしても会社は躊躇しない。適応障害になったと報告した社員に「ほら,前からうちには合わないって言っていた通りでしょ。あなたはうちには適応できないんですね」と言って謝罪させ,一緒に精神科の産業医のもとに行って「この人はうちで働き続けないほうがいいですよね」と産業医に同意を求め,更に精神的に追い込んだ例もある。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.90-91

気づいたときには

 「固定残業代」が合法であるための条件は,(1)何時間分で何円分の残業代が含まれているかが(計算すれば)わかること,(2)残業代の部分や基本給の部分の時給がそれぞれ最低賃金を下回っていないこと,(3)予め支払っている残業代の分よりも長く働いた場合,超過した分の残業代を支払うことだ。これらの条件を満たせば,「固定残業代」は違法とはいえない。
 隙の無い「固定残業代」は違法ではない。しかし,これを正当なものだと言えるだろうか。ある会社は,100時間分の残業代や深夜労働,休日労働の割増を全て予め基本給に組み込んで支払っていた。働いている労働者は,そんな仕組みになっているとは思わないため,「給料は良いが仕事がきつい上に残業代も出ない」という程度の認識しかない。いざ残業代を請求しようとして初めて,会社側の策略に気がつくのである。計算してみて驚いたのは,1円のずれもなく最低賃金と一致するように賃金が設定されていた。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.83-84

食いつぶす動機

 若者を食いつぶす動機は,いくつかに分類できる。
 第1に,(1)「選別」(大量募集と退職強要)である。大量に採用したうえで,「使える」者だけを残す。これは,利益を出し続けるためには,ぜひともかなえたい,企業の欲望である。だが,通常の企業はこれを禁欲する。法的なリスクが高いうえ,社会的信用を傷つける恐れがあるからである。この「一線」を軽々飛び越えていくところに,新興成長企業の恐ろしさがある。
 第2に,(2)使い捨て(大量募集と消尽)という動機がある。これは文字通り,若者に対し,心身を摩耗し,働くことができなくなるまでの過酷な労働を強いることだ。「労働能力の消尽」ともいえよう。これも,詳しくは第II部で述べるが,従来の企業では見られなかったことだ。しかも,大量に新卒を募集して,次々に使い捨てるため,労働不能の若者を大量に生み出す。(1)「選別」も(2)「使い捨て」も大量に募集して,残らない(働き続けることができない)という点では共通している。
 第3に,(3)「無秩序」,つまり動機がない場合。これは,明らかな経営合理性を欠いているようなパターンである。パワハラ上司による(辞めさせるためではない)無意味な圧迫や,セクハラがそれである。これらは,「代わりがいくらでもいる」状態を背景とし,会社の労務管理自体が機能不全を引き起こしている状態である。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.78-79

在庫

 これらに共通する特徴は,入社してからも終わらない「選抜」があるということや,会社への極端な「従順さ」を強いられるという点である。また,両社とも新興産業に属しており,自社の成長のためなら,将来ある若い人材を,いくらでも犠牲にしていくという姿勢においても共通している。経営が厳しいから労務管理が劣悪になるのではなく,成長するための当然の条件として,人材の使い潰しが行われる。いくら好景気になろうが,例え世界で最大の業績を上げようが,彼らの社員への待遇は変わることがない。社内の選抜と,「従順さ」の要求には終わりがないのだ。もちろん「正社員」などというものも,これまでとはまったくことなった意味しか付与されていないことがわかる。
 結局のところ,これらの企業に入社しても,若者は働きつづけることができない。これから見ていく各章で,ブラック企業の行動原理については,いくつかに分類していくことになるが,働き続けることができない点で,すべてのブラック企業は共通している。ブラック企業がいくら増えたところで,そして,彼らがいくら雇用を増やしたところで,若者にとって安心して働ける社会は訪れない。
 それどころか,彼らにとって,新卒,若者の価値は極端に低い。「代わりはいくらでもいる」,取り換えのきく「在庫」に過ぎない。大量に採用し,大量に辞めていく。ベルトコンベアーに乗せるかのように,心身を破壊する。これら大量の「資源」があってはじめてブラック企業の労務管理は成立する。「代わりのいる若者」は,ブラック企業の存立基盤なのである。
 「正社員になること」を唯一の解答として与えられてきた若者にとって,正社員になったとしても,必ずしも安定が保証されないという事実は,残酷としかいいようのない事態である。いまやどれだけ競争して,正社員を目指したとしても,そしてたとえその競争に「勝利」したとしても,個人的にすら問題は解決しない。ブラック企業の問題は,格差問題が,非正規雇用問題から,正社員を含む若者雇用全体へと移行したことを示している。

今野晴貴 (2012). ブラック企業:日本を食いつぶす妖怪 文藝春秋 pp.61-63

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