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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「宗教」の記事一覧

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ジェダイ教

2001年,イギリスの国勢調査で驚くべき結果が出た。39万人もの人が,自分の宗教は「ジェダイ教」だと答えたのだ。ジェダイとは,映画,スター・ウォーズ・シリーズに登場する,神秘的なエネルギー「フォース」を操り,銀河系の自由と正義を守る騎士集団で,その思想には東洋の宗教の影響が見られる。「ジェダイ教徒」と答えた人の大半はジョークだったが,1万6000人以上の人は真剣にそう答えたのだった。ジェダイ教は世界8ヵ所に支部があり,純粋さと慈愛と自然への敬意を信仰の柱としている。イギリスの国勢調査によると,ジェダイ教は現在,イギリスで4番目に大きな宗教団体で,「ヘビーメタル教」の6242人を上回っている。

ティム・スペクター 野中香方子(訳) (2014). 双子の遺伝子:「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける ダイヤモンド社 pp.100
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反知性主義の原点=平等主義

反知性主義の原点にあるのは,この徹底した平等主義である。本書の冒頭で説明したように,反知性主義は,知性そのものに対する反感ではない。知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になることへの反感である。つまり,誰もが平等なスタート地点に立つことができればよい。世代を越えて特権が固定されることなく,新しい世代ごとに平等にチャンスが与えられればよいのである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.235

「たたき上げ」思想

ムーディは,反知性主義の翼に実利志向のビジネス精神という強力なエンジンを備え付けた人物として記憶される。ホフスタッターの表現では,リバイバリズムが反知性主義の「種を植え付け」,ビジネス的な実用主義がそれを「最先端まで推し進めた」,ということになる。アメリカの反知性主義に特徴的なのは,この宗教的な平等理念と経済的な実用主義との奇妙な結びつきである。
 この両者を結びつけたのは,「天はみずから助くる者を助く」という信念であった。「たたき上げ」(self-made)の思想である。目標に向かう強い意志の力を養い,倹約と勤勉と忍耐を続けた人だけが,成功するにふさわしい人格になる。そして,神もまたそのような真面目な努力に祝福を与えるのである。ここには,「敬虔が人格を作る」というプロテスタント的な道徳規範が明確に表現されている。そして,信仰は成功をもたらす。日本でもよく知られているフランクリンの言葉の通り,早寝早起きという徳が人を健康にし金持ちにするのである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.218

読み書きのできるバプテスト

もともとプロテスタントは「聖書のみ」を掲げて出発しているが,アメリカではこれが特定の教義を妨げない「神学なし」「信条なし」という意味になる。それに代わって各教派の違いを色分けするのが,所属会員の地位や収入や学歴である。だからさきほどの「読み書きのできるバプテスト」のような言い方が流行るようになる。他にも,メソジストは「靴をはいたバプテスト」,長老派は「大学に進学したメソジスト」,アングリカン派は「投資の収入で暮らす長老派」などという序列で語られた。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.152-153

無学で素朴な自然人

説教は,学校で勉強すればできるというものではない。神学を学べば牧師が育つと考えるのは,牧師を医者や弁護士のような世俗の職業と同列に考えることである。ペテロはイェール大学に通ったこともない,無学な漁師だったではないか。だが主キリストは,そのペテロを教会の礎とされた。だから神は,大学卒のジェントルマンではなく,わたしのように無学で素朴な自然人をお用いになるのだ!これが反知性主義の心意気である。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.148

政教分離=宗教への熱心さ

しかしアメリカではまさにその反対で,政教分離は世俗化の一過程ではなく,むしろ宗教的な熱心さの表明なのである。連邦成立時に採用された厳格な政教分離政策は,宗教の軽視でも排除でもない。むしろそれは,各人が自由に自分の思うままの宗教を実践することができるようにするためのシステムである。この自由は,国家が特定の教会や教派を公のものと定めている間は,けっして得ることができない。だから,国家そのものを非宗教化することによって,各人の信仰を最大限に発揮し実践することができる自由な空間を創出したのである。国家が宗教と公式に手を切るという歴史的な実験そのものが,深く神学的な意図に貫かれているのである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.118-119

政教分離国家の誕生

バプテストら宗教的少数者が迫害されたのは,ヴァジニアに公定教会制度があったからである。つまり,政府がある一つの教会を公の教会と定めて,すべての人がその教会を支え,その教会に出席することを求める,という制度である。政治家となったマディソンは,ジェファソンと協力しつつ,長い努力の末に,多くの体制派牧師の反対を押し切ってこの制度を廃止した。彼らの努力は,政教分離と信教の自由を明記した連邦憲法の「権利章典」にも結実する。マディソンの確信によれば,信仰や良心の自由は「すべての権利の中でもっとも神聖なもの」であり,いかなる政治権力もこれを妨げてはならないのである。
 つまり,一方にいるのは,熱心で福音主義的なキリスト教徒たち,とりわけ主流派教会から有形無形の迫害を受けていたバプテストやクエーカーら少数派のキリスト教徒たちである。他方にいるのは,合理主義的な思想の持ち主で,宗教にはあまり関心がないけれど,各人の自由と権利を侵害することには断固として反対する,という世俗的な政治家たちである。両者の思惑は,公定教会の廃止すなわち「政教分離」という点でぴたりと重なり,ここでがちりと手を組んだわけである。新興国アメリカは,通常ならありえないこのような二勢力の協力関係により,史上初の政教分離国家として出発することになる。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.117-118

神の前に

「神は人間を平等に創造した」というのは,実はキリスト教史においてもかなり新奇な教えである。キリスト教徒は,ごく最近まで,神が人間を不平等に創造した,と信じていた。いや,もちろん聖書には「神の前で万人は平等だ」と書かれている。使徒パウロは,「もはや,ユダヤ人もギリシヤ人もなく,奴隷も自由人もなく,男も女もない。あなたがたは皆,キリスト・イエスにあって一つだからである」(「ガラヤテ人への手紙」3章28節)と言う。だが,その同じパウロは,教会の中で女性が指導者になることを許さず,妻は夫に従えと諭し,奴隷制をあるがままに容認していたのである。この矛盾はいったい何なのだろうか。
 それを解く鍵は,「キリスト・イエスにあって」や「神の前に」などという言葉遣いにある。つまり,キリスト教は長い間,人間はみな宗教的には平等でも,社会的な現実においては不平等でよい,と考えてきたのである。人間社会には,上下の秩序がある。神が創られたこの世界には,支配する者とされる者,身分の高い者と低い者,豊かな者と貧しい者がある。だからこそ,その中でお互いに助け合い,上には上なりの品徳と権威が,下には下なりの献身と服従が求められるのである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.100

素朴で謙遜な無知

キリスト教に限らず,およそ宗教には「人工的に築き上げられた高慢な知性」よりも「素朴で謙遜な無知」の方が尊い,という基本感覚が存在する。神の真理は,インテリだけがわかるようでは困る。それに触れれば誰もが理解できるような真理でなければならない。とりわけアメリカは,ヨーロッパという旧い世界との対比で自分のことを考える。よ~オッパは,知的で文化的だが,頽廃した罪の世界である。自分たちはそこを脱して新しい世界を作ったのだ。だから人間の作り上げたそういう文化的な知よりも,聖書が説く神的な知へと回帰したい,というのが彼らの願いなのである。反知性主義は,「学者」と「パリサイ人」つまり当時の学問と宗教の権威者をともに正面から批判したイエスの言葉に究極の出発点をもつ。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.85

多重契約

では,信徒はどのようにして教会に加わるのか。ニューイングランドでは,世俗秩序も教会秩序も,ともに「契約」の概念を下敷きにしている。その契約は多重である。神は,まずニューイングランドという植民地全体と契約関係にあり,ついでそこに建てられたそれぞれの教会と契約関係にあり,最後にその教会の成員1人1人とも契約関係にある。新しい転入者は,教会全体の前で,自分の信仰を告白し,それを聞いた教会員全員の投票により,加入を許可されるのである。教会への加入は,入会者と神との新たな契約の締結という儀式であった。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.49

ピュア化

「ピューリタニズム」とは,もともとイギリスでヘンリー8世の結婚問題を機に起きた中途半端な宗教改革に飽き足らない人々が,教会のさらなる純化(ピュア化)を求めて始めた運動だった。だから人々は聖書を読むことにいっそう熱心だったし,教会はその聖書の言葉を正しく解き明かしてくれる指導者を求めた。ピューリタン牧師たちに聖書の解釈と解説の高い能力が求められたのは,そのためである。彼らは,ヘブライ語やギリシア語を学び,原典から聖書を解読し,そこから得た自分の考えを,聴き手にわかるようなメッセージに組み立てなおして語らねばならない。これはかなり高度な学問的手順を要する。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.33

機関車のような精神

およそ宗教というものは,仏教でもキリスト教でも,ひとまずは人間の道徳が破綻したところから出発するものである。救いは凡夫や罪人にこそ与えられるもので,「申命記」のように単線的な道徳論は,聖書の中でもやや例外的である。ところが,アメリカの歴史はそこから始まっている。レーガンの底知れぬ楽観主義は,ウィンスロップの説教が敷いたわかりやすい二本線の論理をそのまま踏襲したものである。
 アメリカ精神とは,昔も今も,このレールの上を突っ走る機関車のような精神である。この国と文化のもつ率直さや素朴さや浅薄さは,みなこの二分法を前提にしている。明瞭に善悪を分ける道徳主義,生硬で尊大な使命意識,揺らぐことのない正当性の自認,実験と体験を旨とする行動主義,世俗的であからさまな実利志向,成功と繁栄の自己慶賀——こうした精神態度は,交差も逆転もなく青年のように若々しいこの歴史理解に根ざしている。20世紀アメリカの産物である「ファンダメンタリズム」も,進化論を拒否する「創造主義」も,終末的な正義の戦争を現実世界で実現してしまおうとするアメリカの軍事外交政策も,みなその産物と言ってよい。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.29

幸福を安泰だと思いたい

不思議なことに,人は不幸な時ばかりでなく幸福な時にも,神の正義を問いたくなるものである。自分が不幸なのはなぜか,という問いである。そしてその答えはきまって,「それは偶然ではなく,正当な根拠があるのだ」というものである。幸福な人は,誰もがそう思いたいのである。なぜなら,もし偶然に幸福なだけであれば,いずれその幸福は失われるかもしれないからである。ヴェーバー的に言うと,人は単に幸福であるだけでは満足できずに,幸福であることの権利や根拠を欲するのである。自分が幸福なのは当然だ。自分は幸福である権利がある。だから自分の幸福は安泰だ,と信じたいからである。そこに,神の祝福という補助線が見えてくる。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.28

7つの大罪に対する罰

初期のキリスト教徒たちはまた,拷問を当然の報いだとして称賛した。ほとんどの人は,西暦590年にローマ教皇グレゴリウス1世が定めた7つの大罪というのを聞いたことがあるだろう。だがそれらの罪を犯した者に地獄で下される罰について知る人は,そう多くはない。

 高慢 車裂きの刑
 嫉妬 凍りつく水の中に入れる
 大食 ネズミ,カエル,ヘビを無理やり食べさせる
 色欲 地獄の責め苦を味わわせる
 憤怒 生きたまま身体を切断
 強欲 煮えたぎる油の入った大釜に入れる
 怠惰 ヘビ穴に投げ込む

 これらの刑罰はもちろん無限に続けられる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.51-52

聖書の残虐さ

現代人の目から見ると,聖書に書かれた世界の残虐さは驚くばかりだ。奴隷,レイプ,近親間の殺人など日常茶飯事。武将は市民を無差別に殺しまくり,子どもでも容赦しない。女性は人身売買され,セックストイのように略奪される。神ヤハウェはささいな不服従を理由に,またはなんの理由もなしに何十万もの人々を拷問したり虐殺したりする。こうした残虐行為は,決してまれなものでも目立たないものでもない。旧約聖書の主要な登場人物すべて——日曜学校で子どもたちがクレヨンで描く人物たち——が,こうした行為に関わっており,アダムとエヴァに始まってノア,アブラハムやイサクらの族長たち,モーセ,ヨシュア,士師たち,サウル,ダビデ,ソロモンやその先の人物にいたるまで,何千年もにわたって延々と続く物語の筋書に納まっているのだ。聖書学者のレイムンド・シュワガーによれば,ヘブライ語聖書には「国家や王,あるいは個人が他の人びとを攻撃したり殺したりしたことを明示的に記している箇所が600以上ある。……ヤハウェ自身が暴力的な罰の直接の執行人として登場する箇所がおよそ千,主が罪を犯した者をそれを罰する者の元に送る場面も数多くあるが,それ以外にヤハウェが人を殺すように明確に命令する箇所は百以上に及ぶ」。残虐行為研究家を名乗るマシュー・ホワイトは歴史上の主要な戦争や大虐殺,ジェノサイドの推定死者数をデータベース化しているが,彼によれば聖書に数を明示してある大量虐殺によって殺害された人はおよそ120万人に達するという(ここには歴代誌下13章に描かれているユダとイスラエルの戦いの死者50万人は含まれない。歴史的にありえない数字だからという)。ここにノアの大洪水の犠牲者を足せば,さらに約2000万人が上乗せされることになる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.42-43

創造論

「創造論」とは,進化論に対するあらゆる宗教的反論をひとまとめにした大雑把な呼び名である。そうした反論はさまざまなかたちをもって現れたし,いまも現れ続けている。あらゆる創造論者が共有する信念は「宇宙と地球上の生命は神によって直接に,超自然的に創造された」「人類と他のすべての種は,現在あるような姿をもって,それぞれ別々に創造された」というものである。言い換えると,創造論者は,あらゆる植物と動物には共通の祖先があるということを否定している。彼らはまた,進化に対する自らの抵抗を,少なくとも部分的に聖典——ユダヤの聖典,キリスト教の聖典,クルアーンなど——の権威に基礎づけている。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.131

信者と懐疑主義者

しるし,驚異,奇跡は,種々の宗教的伝統の中核部分を占めている。そうした現象には,あれこれの個人の特別な地位を証言する,あれこれの教理の真実性を証明する,あるいは宗教運動の世俗的・政治的大望を支援するなどの働きがある。信者の中には奇跡を神の存在と力を明示するものとして歓迎する者もいるが,別の者は困惑の色を隠さない。奇跡の報告など,まずたいてい超自然現象の結果ではなく,希望的観測,騙されやすさ,さらには詐欺などの人間的弱点の結果であるように思われるのだ。そんなものを容認すると,宗教が迷信的なもの,原始的なものに見えてしまうかもしれない。
 信者と懐疑主義者は,ともに,奇跡や超自然的存在を語る物語など,科学時代にあって本当に信じられるものだろうかと自問している。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.61-62

両極端

極端な立場においては,神学的反実在論は無神論に近くなる。しかし,いっそう正統的な,神秘主義的な「否定」神学の諸伝統というものも存在する。それは神の超越性とただの人間の限りある認知能力とのギャップを強調し,人間の手になるいかなる定式化であれ,それが神の実在を把握し得ると考えるのは僭越であると結論づける立場である。
 この立場が抱える問題の一つは,もし人間の理性が神の属性についてのいかなる真なる言明もなし得ないほどに弱いものであるとするならば,神は存在するという言明もまたたいした意味を持ち得ないように思われる点である。このため,多くの者は,見えるものを超えて見えないものを見ようと努め,現象のベールを剥がして物の真のあり方を発見しようという,不可能とも思える作業を首尾よく成し遂げることを希望し続けてきたのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.53-54

適合性が問題

科学と宗教の論争は,とりあえず,「ある特定の宗教的信条はある特定の科学的知識と知的に両立できるのか,それともできないのか」という問題として理解することができる。死後の生への信仰は,現代の脳科学の発見と衝突するのだろうか。聖書の信仰と,人類とチンパンジーが共通の祖先から進化したとする説は両立できないのだろうか。奇跡の信仰は,物理科学が明らかにしてきたような厳格な法則のもとにある宇宙という世界観と相容れないのだろうか。あるいは逆に,量子力学の諸理論は,人間の自由意志と神の行為への信仰に支持と確証を与えるのだろうか。本書のタイトルは「宗教と科学——何が問題なのか?」であるが,この疑問に対する答えの一つは「いま挙げたような事柄の知的両立可能性(適合性)が問題なのだ」というものである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.5

すぐに没入できる

考古学者たちは,崇拝者は数百マイル以上も徒歩で移動してギョベクリ・テペ遺跡を訪れ,それも人生で一度きりの訪問だったのではないかと考えています。現代では,私たちが望むときにいつでも気軽に,そうした環境に没入できます。本物の大聖堂をたった一度だけ目にするために長い距離を移動せずとも,私たちは世界のどこからでも,大作ビデオゲームを起動するだけでそのような場所を訪れることができるのです。

ジェイン・マクゴニガル 妹尾堅一郎(訳) (2011). 幸せな未来は「ゲーム」が創る 早川書房 pp.155

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