I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「宗教」の記事一覧

何時の時代も同じ

政府やマスメディアへの不信は,こうしたオカルトや陰謀論に結びつきやすく,それはいつの時代でもある種の人々を強烈に惹きつける。ネット時代には,それらの情報にさらに接続しやすくなっているはずだ。そして,現在を終末に見立てるための道具も揃っている。震災,原発事故などをもって,現代文明やテクノロジーの限界を人は語りがちである。
 これは繰り返し語られることだが,日本人は歴史に学ぶことが苦手である。そして,何事も忘れやすい。いまの時代でもオウム事件的なものは十分起こり得るだろう。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.206

チーズとバター

チーズの歴史を語る観点からさらに面白いのは,アブラハムがカード,あるいはフレッシュチーズは神の栄光の食卓に載せるのにふさわしいと考えていたことである。これはチーズが信仰にかかわっていたことを示す最古の記録であることは間違いない。この時期までにチーズは,メソポタミアの地において宗教上の儀式などで欠くことのできない存在となってすでに千年以上が経過していた。実際に,紀元前3世紀,寺院ではチーズとバターの日常的な供え物がごく普通になされるなど,宗教儀式のなかに組み込まれていたのである。制度としての宗教体系を通じてこうした儀式は周辺に伝播し,人類の最初の文明の成立に際しても中心的な役割を果たした。その結果,近東とギリシャ,ローマさえも含む,その後に続くほとんどすべての文明に影響を及ぼすこととなったのである。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.34-35

無謬論者

キリスト教神学には「無謬説」という言葉がある。この説を信じる人は,2千年にわたって解釈と翻訳にさまざまな問題があったにもかかわらず,聖書には誤りはなく,その言葉のひとつひとつを字義通りに理解しなければならないと主張する。
 経済学にも無謬論者がいる。経済理論では説明がつかない事実,不思議な事実,矛盾する事実がさまざまあるにもかかわらず,実際には何も変わっていないと主張する。デジタル革命と知識経済への移行が経済に与えた影響は,「基礎的条件」の水準でみればごく小さいと主張する。
 アメリカの大手投資信託会社の幹部がヨーロッパの石油化学産業の経営者会議で,金融の世界にはいつでも上昇と下降があるのだから,何も変わっていないと語った。商務省経済分析部は重要性が下がりつづけている経済指標の精度を高めるために努力している部門だが,同部のブレント・モールトンは筆者に,「経済はいまも以前と変わっていない」と助言した。
 だが,表面にみえる基礎的条件から,もっと深い部分にある基礎的条件に視点を移すと,こうした幻想はすぐに吹き飛ぶ。経済が「以前と変わっていない」という見方の誤りをもっとも説得力ある形で示しているのは,この深い水準での動きである。現在,富を生み出す構造の全体が揺さぶられており,今後さらに大きな変化が来ることが示されているのである。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.65-66

宗教の代替物

聖書を放棄した人が生きるための新しいルールを説く本を,山ほど買うようになるのも偶然ではないはずだ。彼らは十戒の代わりに12ステップや7つの習慣に従う。彼らはモーセを信じなくても,聖なる石版に書かれた言葉は大好きなのだ。こうしたルールや教義に白けてしまったり,不安になったりする人もいるかもしれないが,それを役に立たない迷信と退けてはいけない。これらのルールに対する別の見方があり,それは多くの統計やゲーム理論,そして誰より世俗的な科学者たちを喜ばす経済用語によって語られている。

ロイ・バウマイスター&ジョン・ティアニー 渡会圭子(訳) (2013). WILLPOWER 意志力の科学 インターシフト pp.232-233
(Baumeister, R. F., & Tierney, J. (2011). Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength. London: Penguin Books.)

宗教と意志力

さらに重要なのは,宗教は自己コントロールの2つの中心的なメカニズムに影響するということだ。それは意志の力を築くこと,監視を強化することだ。1920年代ですでに,日曜学校で長い時間を過ごす生徒ほど,自制心を測るテストでの得点が高いという報告がある。信仰心が厚い子供は,親からも教師からも,比較的,衝動性が低いと評価された。日常的な祈りや礼拝などと自己コントロールの因果関係に絞って調査した研究は見当たらないが,おそらくそのような儀式は,背筋を伸ばして座るとか,はっきりとした言葉でしゃべるとか,これまでにその効果が調べられてきたエクササイズと同じように,意志力を強化すると思われる。

ロイ・バウマイスター&ジョン・ティアニー 渡会圭子(訳) (2013). WILLPOWER 意志力の科学 インターシフト pp.228-229
(Baumeister, R. F., & Tierney, J. (2011). Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength. London: Penguin Books.)

自然宗教と創唱宗教

ところがである。約70%の日本人が自分は無宗教と思っていても,その人口のうちの70%から80%の人が,「宗教心は大切だ」と回答しているのある。これは「神や仏にすがりたいと思ったことがある」という気持ちを代弁しているとか,あるいはそれと同義と考えてもよく,日本人の約半数の人が「宗教心は大切であるし,神や仏は存在している」と感じているのである。これは先程の電通総研・日本リサーチによるデータからの「神の存在を信じる比率」の35%前後より少し多いが,遠からずの数字である。ここで得られる結論は,日本人は自分を無宗教と思っている人が多数派であるが,かなりの人は宗教心は大切だし,神や仏の存在を認めている,ということになる。
 ここでの結論に関して,宗教思想史学者。阿満利麿は次のような解釈をしている。阿満(1996)参照。宗教には「自然宗教」と「創唱宗教」の2つの種類があり,日本人は前者を信じる人はかなり(約半数ほど)いるが,後者を信じる人は少ない(20〜30%)とされる。ここで「創唱宗教」とは,特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人のいる宗教であり,教祖,経典,教団の存在を前提とする。例えばキリスト教,仏教,イスラム教を考えればわかりやすい。一方「自然宗教」とは,教祖,経典,教団を持たずに自然発生的な宗教であり,具体的な神とは何かを表現できずに,なんとなく世の中には神のいることを想定しながら,そういう神の存在を信じる宗教である。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.175-176

既成と新興

9世紀に始まった天台宗と真言宗,12世紀に始まった浄土宗と臨済宗,13世紀に始まった浄土真宗,曹洞宗,日蓮宗を,現代にあっては一応既成の伝統的な仏教としておこう。平安末期から鎌倉時代に生まれた法然,親鸞,栄西,道元,日蓮などが開祖となった新諸宗派は,最澄による天台宗,空海による真言宗からすれば当時は新興宗教だったのである。すなわち浄土宗,臨済宗,浄土真宗,曹洞宗,日蓮宗は設立当初とその後のしばらくの間は新興宗教だったのである。厳格に定義すれば,日本での伝統宗教は天台宗と真言宗だけである。
 ところがここで書いた仏教の諸宗派(七宗派)は現代では既成の伝統的宗教とみなされており,江戸時代以降に新しく開宗した宗派,例えば天理教や創価学会をはじめ数多くの宗教は新興宗教とみなされている。天理教や創価学会のように信者が比較的多い新興宗教は,これから何百年も生き延びれば,その頃は新興宗教と呼ばれずに,伝統宗教になっているだろう。それと同時にこれから数百年の間に新しい新興宗教の誕生する可能性は十分にある。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.125

カトリックとプロテスタント

ここまで議論したことをまとめると,16世紀のカトリックのミッション活動はキリスト教(カトリック)とヨーロッパ文明の絶対的優位を信じた上で,現地の人々はその優位を認めることを説得するという上からの目線であったし,やや押しつけがましい側面があった。一方の19世紀のアメリカを中心にしたプロテスタントにあっては,必ずしもキリスト教や西欧文明の絶対優位をかざさず,現地の宗教・文明をも尊重しながらのミッション活動であった。従って押しつけがましいところはできるだけ避ける方針であったとも言える。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.103

龍谷大学の前身

僧侶養成か,俗人教育か,という論点は,実際の学校の設立過程を知ることによってわかる。谷川(2008)は浄土真宗本願寺派の僧侶養成学校の設立過程を紹介している。江戸時代には学林と呼ばれる僧侶養成学校を持っていたが,それに替わる新しい僧侶養成方法を模索していた。本願寺派は最初の頃は俗人教育と僧侶養成を兼ねる学校制度を考えていたが,1876(明治9)年に結局は僧侶養成のための「大教校」が学林にとって替わる。1885(明治18)年には俗人教育をも兼ねた「普通教校」を創設するが,これも僧侶養成校へと傾いていく。
 なお京都の現・龍谷大学は,この「大教校」や「普通教校」の後身の学校である。校史によると龍谷大学の創設は1639(寛永16)年に西本願寺境内に学寮を建設してからのスタートである。従って370余年の長きにわたる古い歴史を示す学校であるし,同校はそれを誇りにしている。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.89-90

カトリックの場合

カトリック系の神父・修道女の活動は教育分野ではなく,孤児院・授産所・施療院などでの社会的な慈善事業に従事することが多かった。なぜ文化や教育の事業に取り組まなかったかといえば,プロテスタントの諸宗派が既に私塾や学校をつくって活動を行っていたので,出る幕がなかったという事情がある。とはいえカトリックは社会福祉の事業に関与することによって,民衆との直接の接触に関心を持っていたことも重要な理由である。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.74

各派の学校

アメリカ聖公会は1874(明治7)年に東京で聖保羅(後の立教学院),77年には立教女学校(後の立教女学院)を設立している。英国国教会も長崎,大阪などに私塾や学校をつくって,教育を始めた。現代でも残っている学校としては大阪のプール学院,桃山学院などがある。なお設立当初にあってはアメリカ聖公会と英国国教会は別組織であったが,その後両者は日本では日本聖公会として統一され,1つの宗派になっている。現代でも立教学院,立教女学院,桃山学院,平安女学院(京都),プール学院,神戸松蔭女子学院などがこの宗派の学校である。
 アメリカ長老会(プレビステリアン),アメリカ・オランダ改宗派教会(リフォームドチャーチ):プロテスタント派の中でもカルヴァン派の流れを汲む宗派である。アメリカではこの派は南北に分裂したが,北長老教会が日本に来て布教を始めた。既に横浜でのJ.C.ヘボンを紹介したが,彼はこの派の宣教師であった。ヘボンの名はヘボン式ローマ字を開発した人として有名である。ヘボンの妻も1863(文久3)年に横浜で男女共学の英語塾(ヘボン塾)を開くこととなった。
 改革派教会とは,もともとカルヴァン派がオランダで改革派という一派を形成した宗派であるが,アメリカにも波及してアメリカ・オランダ改革派教会と呼ばれるようになった宗派である。S.R.ブラウンが横浜で1873(明治6)年に私塾を開講したのである。
 長老派にあっては,カロゾルス夫妻が私塾の後に,A6番女学校(後の女子学院)を,D.タムソンが,B6番女学校(後の女子学院)をつくったりする。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.57-58

布教と学校

ここで述べた6つの理由を総括しておこう。キリスト教への信仰心の強い信者と宣教師が純粋な気持ちから,キリスト教を世界各地に広めて,そういう人にも救いがあるようにという熱意の発露があった。すなわち第3で述べたことが最大の理由とは思うが,必ずしもそれだけではない。政治や経済の目的から植民地を得たり,重商主義の遂行という行為を欧米の為政者,資本家は実行したのであり,キリスト教の布教はその目的達成のために間接的にせよ支援することに役立つと考えた。このことは為政者や資本家が,宣教師の活動を経済的にあるいは諸々の援助を陰に陽に行っていたことでわかる。現地にミッション・スクールを創設することも,その目的を成就するために一定の役割を果たしており,本書での分析のテーマにもなっている。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.47

種智院

綜藝種智院の特色として次の4点がある。第1に,教育のためには,例えば寺に近いという良い立地条件と自然環境の優れた場所を用意したこと。第2に,儒教,仏教,道徳を教える総合教育であること。すなわち,仏教だけを排他的に教えることはなかったのである。第3に,入学する人を庶民にまで広げたこと。第4に,先生・生徒に給費を支給して,職なくして学問なし,の精神を尊重した。独善的な教育をせず,しかもかなり平等性に富む教育機関であったことを暗示させる特色であるが,これらは空海の教育論の発露とみなしてよい。
 綜藝種智院はおよそ20年間の存在期間にすぎず,空海の没後10年で閉鎖に至る。主として資金不足がその理由とされているが,真言宗の教義を伝えていくための伝法組織になってしまったから閉鎖に至ったという説もある。すなわち,真言宗を教えてそれを布教することになる僧侶の養成が中心となってしまったのである。短期間しか存在しなかった学校であるが,宗教(すなわち仏教)と教育の関係を理解する上で,しかも私学の意義と限界を知る上で,綜藝種智院は貴重な教育機関だったのである。

橘木俊詔 (2013). 宗教と学校 河出書房新社 pp.33

(引用者注:京都にある種智院大学はこの教育機関から名前をとっている)

自分で考えるのは死ぬほどイヤ

大勢の人間は自分の意見を通そうとしてケンカから戦争までする。しかし最も基本的なことを考えるのは面倒臭いから政府や教育機関に任せてしまう。人は,他の人を殺してまで自分の考えを主張するが,自分で考えるのは死ぬほどイヤなのだ。親は学校の性教育の内容に関して文句を言うが,自分で子供に性に関して教えることはしない。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.303

主観による世界観

聖典の解釈に客観性を持ってきた宗教は科学的に見える。少なくとも理論的には見える。最近私の知人が「イスラム教はとっても科学的だ」と言ってきたので,非常に驚いた。証人たちも「組織の真理は科学的だ」と同じことを言う。イスラム教の何が科学的なのか聞いてみたら,「答えは明確に全てコーランに書いてあるからだ」と言う。でもその本にそう書いてあるから,というのは科学的な根拠でもなんでもない。ただそう書いてあるだけで神聖さの証にはならない。
 しかし,人間は根拠のないことでも分厚い本に書かれると,「根拠があるに違いない」という錯覚を持つ。私の本だってペラペラのものよりは,辞書のように分厚い方が信憑性が増すだろう。多くのビジネスマンが投資とかで詐欺にやられるのも同じ理由だ。紙一枚だと信じなかっただろうが,分厚い決算書やアナリストのレポートを渡されると信憑性が増す。みんなが揃って分厚い資料にダマサれたのはエンロンやサブプライム問題が表している。
 「地底世界を発見した」「UFOに拉致された」「悪霊に襲われた」「金星からやってきた」。どんなに突拍子もない発言もその人にとっては真実である。聖書が正しいと信じればその世界をその色眼鏡で見る。すべての主観による世界観でしかない。エネルギーは意識を傾けたところに集中して実体化する。だからサタンを信じれば,サタンのような現実が実体化する。少なくとも信じている者には,体験がリアルとなる。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.255-256

だったら

証人たちは,国々の政府はサタンの手先であると信じている。なぜならこの世の支配者の頂点がサタンだからだ。ところが同時に,反対のことを唱える。政府はハルマゲドンが来るまでは一時的に,秩序を保つためにエホバから権限を与えられている。だから教義が対立する場合をのぞいては,全面的に政府に従順であれとする。大きな矛盾である。サタンの手先である政府の指針にそって,従順で模範的な市民になれと言うのだ。
 だから証人たちは政府に逆らうデモ活動は行わない。さらにこれを拡大解釈すると,企業に対するストライキも参加してはいけないという。だから証人たちは,組合運動には参加しないため,仕事を得られないことがしばしばある。この調子だから証人たちは世の革命家を鼻で笑う。ガンジー,マンデラ,マーチン・ルーサー・キングがどう頑張ろうが,「政府に対する反抗でしょ」で片付ける。私が個人的に呆れたのはマルコムXの話である。私は彼の映画が好きだったので,その話を黒人の兄弟にした。すると彼が「そんな反抗的な人の映画を観ない方がいいよ」と軽蔑したように答える。私は言いたかった。
 「だったら奴隷になれ。おまえは彼の恩恵で今自由に伝道してるんだぞ」

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.233-234

道徳基準

今であれば言えるのだが,実はギリシャ語聖書には同性愛を断罪する聖句がない。少なくともイエスは一切言及していない。イエスが常にヨハネと寄り添っていたので,2人はゲイだったと主張するリベラル派もいるくらいだ。パウロがローマの書で同性愛行為に対して言及している。しかしそれは行為そのものでなく,神殿男娼(異教徒宗教そのもの)を糾弾しているだけであるという見方もある。
 ヘブライ語聖書では同性愛は死刑だとある。しかしイエスの新しい立法の後もモーセの古い立法は有効なのか?という議論がある。もしモーセの立法の規則をそのまま当てはめるべきだというのであれば,反抗的な子供は皆,石打ちの刑にされないといけない。浮気をした人も同様に死刑だ。また,月経の女性は穢れているので7日間,人と接触してはならない。そして当然豚肉は食べてはならない。果たしてすべてのクリスチャンはそうしているのだろうか?ヘブライ語聖書の細かい規定に照らし合わせれば,我々は全て死刑に処せられるべきだ。
 ちなみにタイなどの多神教ベースの国ではゲイが多い。多神教の日本でも戦国時代の名だたる将軍たちはバイセクシャルであった。日本で同性愛行為が異常だと見なされるようになったのは,明治維新後に黒船とキリスト教が入ってきてからである。現在の結婚,婚前交渉,性道徳に関するモラルはこの時に一神教の影響を受けたものである。日本ではもともと祭りなどでお寺での乱交があたりまえであった。
 キリスト教は一夫一婦制を厳しく定めている。しかしヘブライ語聖書の登場人物は皆,好きなように複数の異性と関係を持っていた。ソロモンは1000人の女性を囲ってハーレムをつくっていた。クリスチャンと聖書の提唱する道徳基準には,大きな隔たりがある。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.215-216

強制的な輸血

証人たちからすると,強制的な輸血は身体的なレイプと同じである。だから信者が意識から回復して強制的に輸血をされたと知ると,大きなショックと怒りと悲しみを感じる。これが原因で信者が病院を訴訟したケースは数多くある。読者からすると,狂った人に思えるかもしれないが,世の中には大義のためになら死を厭わない人がいるのだ。自殺テロを志願するイスラム教徒がそうだし,戦時中であれば特攻を志願した勇士もそうだ。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.205

本心から

日本では,オウムの事件があってから宗教団体に対する警戒心が強くなった。それで,いかに宗教色を消して伝道するかが課題であった。ここで説明しておくと,証人たちは自分が宗教をやっているとは本気で思っていない。宗教はサタンのまやかしの道具であって,自分たちはそういう宗教とは一線を引いていると信じている。ではなんなのか?と聞かれると,「聖書を勉強しているだけです」と言う。これは営業トークでもなんでもなく,本心からそう思っているのだ。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.188

共通要素

両者には共通した宗教特有の3つの要素が含まれている。

 1.絶対性(これが絶対の宗教・商品よ!)
 2.純粋性(私たちの教義・商品以外は信用できない!)
 3.選民性(私たちの教団・商品は選ばれている!)

 極端に言えば,ナチスもこの3つの要素を持っている。自分たちによるヨーロッパ支配は絶対に必要,ゲルマン族の血は純粋である,ゆえに自分たちは統治する権利がある。程度を軽くすればマーケティングにおけるブランディング方法もこの方法にのっとっている。この商品は絶対に必要で,ブランドには歴史があり,これを持っている人は選ばれた人たちとなる。
 そしてこの3つの法則に加えて,宗教とマルチには4つ目の条件が備わる。

 4.布教性(弟子をつくろう!)

 つまり「自分たちはこの真理・商品を広めて,弟子をつくっていきましょう」ということ。ただ受け入れるだけではなく,それをさらに広める人を自分の下につけていかないといけない。この4つの点で,私はマルチは証人と変わらないと思った。

佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.181-182

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