忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「宗教」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

霊視の秘密

 霊媒稼業をはじめたころに,わたしは自分の霊視の内容を詳しくはっきりとしたものにして,同業の見えない力の使者たちを追い抜こうと心に決めていた。わたしは,社会保障番号から保険証書の番号,はては秘密にしている銀行の口座番号まで霊視したのだ!
 どうやってそういう情報を得ていたのか?
 簡単なことだ。わたしはスリの達人になったのである。
 ほとんどの場合には,普通のスリよりもずっと簡単だった。必要なのは,ラウールかわたしが——それはどちらが交霊会をやってるかによった——真っ暗闇のなかで,トランペットから流れる霊の声に一心不乱に耳をそばだてている最中の女性のハンドバックを盗んで,べつの部屋に持っていき,中身を片っ端から拝見することだけだった。ハンドバックはあとで同じ場所に戻され,交霊会が終わって明かりがついたときには,その女性が疑うようなことはなにもない。

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.44-45
PR

2種類の霊媒

 ところで,私たちは真面目な心霊主義者だったのか?
 そのとおり——すくなくとも半分程度は。じきにわかったことだが,このイカサマ商売では,霊媒は2種類に分かれる。「眠っているタイプ」と「目ざめているタイプ」である。
 「眠っているタイプ」は,素直に霊を信じている人間たちで,感じのいい小柄な老婦人であることが多い(ただし,心霊主義に関わる老婦人がみんな感じがいいわけではない)。このタイプは自分が霊能者で,「霊界からの波動(ヴァイブレイション)」を感じとれると本気で思っている。このタイプは,悪意のかけらもない物腰が業界のイメージアップになるので,業界周辺をうろつくことを許されている。しかし,「眠っているタイプ」がイカサマ商売の仲間にくわえてもらえることはない。
 それに対して,「目ざめているタイプ」の霊媒は,自分たちがイカサマ師であることを知っていて,それを認めている者たちだ——すくなくとも,同業者の秘密サークルのなかでは。
 ラウールとわたしは,仕事をはじめるにあたって,自分たちを「眠っているタイプ」と「目ざめているタイプ」のあいだのどこかに位置づけるべきだった。しかし実際には,わたしたちはこの業界でいう「自分たちだけで目ざめているタイプ」だった。これはつまり,霊媒のなかには完全な偽物もいることは知っている——ただし,どれだけの数が偽物なのかは知らなかった——が,偽物は善意でやっているのであって,誰にも害をおよぼしていないと思っているという意味だ。もしそれで信仰が強まるのなら,それほど悪いものでもあるまい?

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.28

数という宗教

 ピュタゴラス学派にとって,数は単に予言するための手段ではなかった。それは人間の理性と自然の仕組みを結びつけるものだったのだ。それぞれの数は固有の性質を備えた1種の神秘的な実体だった。これらの性質を理解することによって,人は世界の仕組みを理解し,未来を予見し,神々に近づくことができるとされていた。
 モナドは,それから宇宙が生み出される「1なるもの」——単子を意味し,神々の知性と結びついている。モナドが,「2」という数——デュアドに分化することは二極化を表した。一元的なものが二元的なものへと変化したのである。したがってデュアドは易変性,つまり外見を変える能力を示すとともに,行き過ぎた不節制,闘争,不確定性——志願者が怒りや情熱を抑制する能力によって選別される教団において,これらはすべて望ましくない性質であった——をも示した。イアンブリコスによれば,「悲嘆,泣くこと,嘆願,哀願は軟弱で卑しむべき性質であり,利益や欲望,憤怒,野心,さらにおよそこれらと性質を同じくするものも総じて争いの元凶である」。「3」という数——トライアドは万象に,始まり,中間,終わり,あるいは過去,現在,未来を与える。デルポイの三脚椅子同様,これが予言と結びつけられた数だった。「4」という数——テトラドは1年を構成する四季のように完全性を意味した。すべての数のなかでもっとも偉大でもっとも完全なものは,「10」という数——デカドであった。最初の4つの数の和が10になるように,デカドも自然の法則の和であった。ピュタゴラス教団は,前ページに示すテトラクテュスとして知られる,10個の点を矢じりの形にデザインしたものを神聖な象徴として用いた。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.38-39

普遍化への衝動

 キリスト教もイスラム教も,普遍化に向かう衝動を秘めている。その根底にあるのは,彼らの信仰が人類の唯一の宗教になるべきだ,という考え方だ。しかし,キリスト教徒イスラム教には大きな違いがある。イスラム教にあってはいかなる種類の聖職者も,また布教を担う聖職者の組織も存在しないことだ。
 交易商人に付き添ってイスラム教の法学者と説教者も海外に出て行ったが,布教のための組織,あるいは海外での布教の拠点は,カリフ制とは無関係の,まったく独立した存在だった。最初の数百年間のイスラム教の普及は,主として地中海世界と中央アジアにおける軍事的征服によるものだった。他方,アフリカと東南アジアでイスラム教が信者を獲得したのは,まわりを異教徒に囲まれた普通のイスラム教徒の布教活動によってであった。トマス・アーノルドがその古典的な研究で述べているように,イスラム教を最初に東ヨーロッパに持ち込んだのは,ビザンチン帝国に囚われていたイスラム法学者だった。
 だが多くの場合,この信仰を遠くの地へ,より広範な地域へと伝えたのは交易商人だった。イスラム教の教義が単純であった——アッラー以外に神はなく,ムハンマドはその預言者である——こと,また信者が情熱をこめて信仰を実践したことは,イスラム教徒以外の人びとを感動させた。その教義は単純で神学的な複雑さを持たなかっただけでなく,イスラム教徒に課せられた義務もまた単純だった。すなわち,信仰告白をし,日に5回の祈りを捧げ,喜捨[ザカート。所有財産に対して一定率の支払いが課せられる。宗教的義務行為の一つ]をし,ラマダン月に断食をし,メッカに巡礼する,というものだ。14世紀の有名なモロッコの旅行家イブン・バトゥータは,メッカが「イスラム世界の年次総会」の場になった,と書いている。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.251-252

お金の使い道を

 生きているあいだにいくら金を儲けたとしても,それをあの世にもっていくことはできない。生きているうちに使わなければ,それは別の誰かのものになる。どうせなら,もっと多くの人たちに役立って欲しい。そうした思いを実現する寄進という行為は,人が生きた証としての意味をもつ。
 葬式は,いくら金をかけてもその場かぎりのもので何も残らない。参列した人々の記憶に残るだけである。
 ならば,具体的に死後に何かを残した方がいい。それだけの経済力があるのなら,葬式に金をかけるよりも,よほど有意義なはずである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 p.172

墓参りは東アジアの風習

 墓参りの慣習は日本以外の東アジアでも共通することで,中国や台湾,韓国では熱心に墓参りをする。沖縄は,墓の形態が本土とは異なっていて,門中墓という一族の大きな墓があり,墓参りの折には家族,親族がそこに集まって,掃除し,持ち寄った料理を一緒に食べる。墓参りは,家の祭りであるとも言える。
 ところが,これがヨーロッパになると,墓参りの慣習はほとんどない。墓をもうけるものの,それは個人を葬る空間にすぎず,残された家族が命日などにその墓に参ることはない。そもそも個人墓が主流で,日本のような家の墓はない。墓参りをしないため遺族も墓の場所を忘れてしまう。墓に参ることがあるとすれば,著名人のものに限られる。それは一種の観光である。
 場合によっては,遺体を火葬場に持ち込んだ後,遺族が火葬の終了を待たずに返ってしまうこともある。遺骨は火葬場で処理され,遺族がそれを持ち帰って墓を作ったりしないのである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.148-149

戒名は仏教と無関係

 戒名のなかに使われることばは,どれも基本的に仏教の教えとは関係しない。たとえば,山本五十六の「大義院誠忠長陵大居士」という戒名を眺めてみたとき,仏教の教えを彷彿とさせる文字は使われていない。むしろ,義,誠,忠といった文字は,儒教と関連しているように思える。仏教の各宗派が,自分たちの養成する僧侶に戒名のつけ方を教えないのも,戒名と仏教信仰との関係が明確ではなく,むしろ縁がない可能性が高いからである。
 このように,戒名の実態は,仏教界での建て前とは大きくずれている。戒名を,仏教徒になった証,ブディスト・ネームとしてとらえるには明らかに無理がある。無理があるからこそ,生前戒名を勧める動きも,さほど広がりを見せていないのである。
 院号がインフレ化し,戒名料が高騰するのも,戒名の本質が,死後の勲章だからである。勲章なら,できるだけ立派で,見栄えのいいものがいい。そうした見栄や名誉欲が,戒名問題の背景にある。そして,立派な戒名が,葬式を贅沢なものにしていくのである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.118-119

日本独自の戒名

 他の仏教国でも,出家して僧侶になったときに世俗の世界の名前を捨て,出家者として新たな名前を与えられる。その点で戒名は仏教の伝統だと言える。だが,ここで注意しておく必要があるのは,それはあくまでも出家者のためのもので,一般の俗人が授かるものではないという点である。
 日本でも,出家した僧侶はその証に戒名を授かる。その点は,他の仏教国と同様である。ただ,一般の在家の信者の場合にも,死後には戒名を授かる。それが,日本にしかない制度なのである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.95-96

日本の葬式が贅沢になるのは

 釈迦の教えからすれば,死後,地獄に堕ちることを恐れたり,西方極楽浄土への往生を願って莫大な金を費やすことは,無駄で虚しい営みのはずである。
 ところが現世において豊かで幸福な生活を送った貴族たちは,死後もその永続を願い,現世以上に派手で華やかな浄土の姿を夢想した。たんに夢想しただけではなく,浄土を目の前に出現させようと試みた。
 ここにこそ日本人の葬式が贅沢になる根本的な原因がある。少なくとも浄土教信仰が確立されなければ,浄土に往生したいという強い気持ちは生まれなかっただろうし,死後の世界を壮麗なものとしてイメージする試みも生まれなかったに違いない。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 p.62

アフリカ発祥

 しかしながら,言語学者ジョゼフ・グリーンバーグの分類によれば,セム語族は,アフロ=アジア語ファミリーを構成する6つを超える語族の1つにすぎない。しかも,セム語族以外の語族(つまり222の現存言語)の分布が見られるのはアフリカ大陸だけである。セム語族に属する諸語の分布範囲も,主としてアフリカに限定されている(19ある現存言語のうち12がエチオピアだけに分布している)。これらの事実は,アフロ=アジア語がアフリカ大陸を起源としていること,および,アフロ=アジア語ファミリーの1つの語族だけがアフリカ大陸から近東へ拡散したことを示唆している。つまり,西洋文明の精神的な支えである新・旧約聖書やコーランを著した人びとの言語は,アフリカ大陸で誕生した可能性がある。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.266

純化した宗教は宗教的か

 こうした対立を回避するもうひとつの方法(一部の科学者の間ではとりわけポピュラーだが)は,純化した宗教を作り上げるというものである。その形而上学的教義は,宗教的概念のいくつかの側面(創造する力というものが存在し,私たちはその力を知るのが難しいが,その力こそがなぜ世界がいまあるようにあるのかを説明する,など)を救うが,不都合な「迷信」(たとえば,神様は私の話すことを聞いてくださっている,人は自分のおかした罪への罰として病にかかる,儀式を正しく執り行うことがきわめて重要だ,など)のすべての痕跡を消し去ってしまう。そのような宗教は科学と両立するだろうか?もちろん両立する。というのは,それがまさにその目的のために作られているからである。しかしそれは,私たちが通常宗教と呼ぶものになりうるのだろうか?まずなりえない。人々は,社会の実際の歴史において,実際場面での認知的理由から宗教的思考をしてきたのだ。これらの宗教的思考は,あるはたらきをする。死や誕生や結婚といった状況について適切な説明を生み出すのである。そういった人間的な目的や関心事に手を汚さない形而上学的「宗教」は,エンジンのない自動車のような市場価値しかない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.416-417
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

宗教 vs. 科学

 知識について考えてみよう。宗教 vs. 科学の論争が西洋において特別の展開を見せたのは,宗教が教義的であっただけでなく,独占的でもあったからである。それは,事実の経験的主張に干渉するという大きな誤りをおかし,宇宙や生き物についてのきわめて厳密で,杓子定規で,表向きは説得力をもったたくさんの主張をし,それらが神の啓示によって保証されているとした。しかし,私たちはその主張が誤りだということを知っている。キリスト教は世界で起こることについて独自の記述を与えようとしてきたし,一方,現在では,それとまったく同じ話題について科学的説明がなされており,どの話題についても,科学的説明のほうがすぐれていることが判明している。キリスト教はこれまでどの闘いにも敗れ,しかもそれは完全な敗北だった。当然,このことはキリスト教にとっては都合が悪い。明らかに,一部の人々は,起こったことを公然と無視し,聖書に書かれてあることが真の地質学的知識と古生物学を教えてくれるという空想の世界に暮らしている。しかし,これには努力がいる。信者の多くは,免責条項——宗教は科学では答えられない疑問をあつかう特別な領域である——を好む。これはしばしば,宗教が世界を「より美しく」,「より意味のある」ものにするのだという,あるいは宗教は「究極の」疑問を厚あつかっているのだという,決定的に曖昧な通俗神学の基礎になっている。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.416
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

個性への理解欲求

 私たちは,「なぜあの人はほかの人にとってはどうでもいいような宗教的信念をもっているのか?」という問いについて明確で意味のある答えを欲しがる。なぜかと言えば,私たちは(心理学者や人類学者のみならず,一般の人々も),個人差に多大の関心を寄せているからである。さらに,私たちは生まれながらに個人差に注意が向くようにできている。他者との相互作用はきわめて重要であり,相互作用は相手の性格にある程度依存している。(だから,大学の心理学の新入生のほとんどが,科学的な心理学の話題——たとえば,なにがヒトを冷蔵庫や牡蛎やゴキブリやキリンやチンパンジーと違ったものにするのか——よりも,なにがあなたと私の違いを生じさせるのかといった,性格の理論や知見に大きな関心を寄せるのだ。)なにがそれぞれの人を個性的にするのかを理解したいというこの強い欲求は,世界中のいたるところの世間話のなかで,多くの熟慮と憶測と私的な仮説検証の原動力になっている。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.413
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

私たちの見方の誤り

 言い換えると,認知機能についてわかっていることから示唆されるのは,宗教的信念についての私たちの一般的な見方にはまったく誤っている面がある,ということである。私たちは,ある明示的決定(「先祖がそのへんにいる」や「全知の神がいる」)が最初に来て,その決定が人々が特定の状況を理解するのを助けると仮定する。しかし,日常的な場面と同じく,宗教的な場面でも,いくつかの心的システムがこれらの一般的家庭に照らすと意味をなす直観をすでに与えている。それゆえ,特殊な状況の解釈を生み出したり,これからどうするかを考えたりするために(すでにそのなかに神や先祖が含まれている),先祖や神の存在を考える必要はない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.408-409
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

特殊な例を調べても分からないかもしれない

 だが,研究として,これは見込みある方向だろうか?そうした研究は,なぜ宗教があるのか,そしてなぜそれがいまあるような宗教なのかについて理解を深めてくれるだろうか?私は,脳を調べてそのはたらきがよく理解できるようになれば,多くのことがわかるようになるとは思う。しかしそれは,自分たちが理解しようと思っているものがなにかを知っているという前提に立てばのことであって,この場合にはそれがはっきりしているとは言いがたい。アナロジーで考えてみよう。どのようにして脳のなかのプロセスが私たちにすぐれた投擲能力を与えてくれるのかを理解したいとしよう。ほかの大部分の動物種と比べて,ヒトは,目標めがけてものを投げるのがとりわけよくでき,しかも命中率にすぐれ,訓練しだいでその能力を高めることもできる。確かに,アーチェリーやダーツ投げのチャンピオンの技は驚異的だ。ここで,この能力について,ヒトとチンパンジーの投擲能力の差を説明しようとする場合,チャンピオンだけを調べるだろうか?チャンピオンがどのようにしてそれをやってのけるかはもちろん興味深いが,ここでの問題はそういうことではない。(親になったことのある人ならよく知っているように)子どもはみな,幼い頃からある程度ものを投げることができることから,チャンピオンの驚異的能力もこの共通の能力に由来するのは間違いない。明らかに,幼児の目と手の動きの精妙な連動を生み出すのは,チャンピオンの技ではない。
 ウィリアム・ジェイムズや彼に続く多くの人たちは,宗教はこれとは逆にはたらくと考えた。すなわち,何人かの非凡な人々が宗教的概念を作り上げ,一般大衆がそうした概念を俗化させるのだという。この見解によれば,見えざる超自然的行為者,死後も存在し続ける魂,妖術師に遠くから操られる意識をもたないゾンビ,バナナの葉に乗って飛び回る特別な臓器といった概念はまず,強烈な体験をした何人かの有能な個人によって生み出され,それからそれが説得力をもち,心をとらえるものであったがゆえに,ほかの人々もそれらの概念(より穏やかになり,体験的色彩も薄まっているが)をもつようになったのだ,という。
 しかし,この説明は誤りをいくつか含んでいる。第一に,ほとんどの宗教的概念では,こうしたことが起こったという証拠はない。私たちの知るかぎりでは,胃にエヴールがついている人もいるというのは,霊感豊かなファンの予言者が言い出したのではなく,人々どうしが不思議な話を何千回となく話すうちにしだいに洗練されていったのだろう(ちょうど都市伝説や,流布する噂がしだいに一定の形をとるように)。しかし,なんらかの新しい種類の宗教的概念を考え出すような場合でさえ,人々がすでにそうした概念の形成を助けるすべての認知的装備をもっていないかぎり,それらの特殊な概念が意味をもつことはないし,影響を与えることもないはずである。たとえ予言者が新しい宗教的情報の主要な発信源だとしても,予言者でないふつうの人々の心がその情報を特定の宗教に変える必要がある。私たちは,たとえば,アフリカの混淆宗教で霊感に打たれた新たな予言者が説くように,伝統的な先祖とキリスト教の天使とが同じ人物だと主張することもできる。しかし,これが意味をもつためには,人々が見えざる超自然的行為者をイメージするという傾向をあらかじめもっていなければならない。例外的な人々を研究することでは,宗教がなぜ広まるのかがわかるようにならない理由は,これである。だが,宗教が通常の認知能力からどのように生じるのかを考えることによって,宗教全般についても,また予言者やほかの宗教的天才能力者についてもよくわかるようになる。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.402-403
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

宗教は特別な体験ではない

 この推理——(a)宗教は特別だ,(b)宗教を特別なものにしているのは体験である,(c)並外れた人々は一般の人々よりも純粋な宗教的体験をもっている,(d)一般的な宗教は,そうした体験の強烈さが失われた,希釈されたものにすぎない——は,ジェイムズの心理学だけのものではない。実際それは,宗教についてのきわめて一般的な考え方である。この考え方は,多くの人々に,宗教的な考えについてのすべての議論が誤っており,概念に対する誇張された関心は西洋特有のバイアスだという印象を与える。仏教やそのほかの東洋思想に特別な関心を抱いている多くの西洋人は一般に,それらの価値が議論よりも体験に焦点を当てている点にある,と思っている(ちなみに,ここには皮肉な思い違いがある。結局のところ,大部分の東洋的な教えはおもに,個人的な体験そのものについてというよりも,さまざまな儀礼や専門的な正しい修行のしかたについてのものである。これらの教えの一部には確かに主観的体験を強調しているものもあるが,それらは,西洋の哲学(とりわけ現象学)の影響を強く受けているようだ。したがって,西洋哲学に幻滅した西洋人がそれらに魅力を感じるのは,自分たちの西洋哲学の残響に聴き入っているだけなのかもしれない。)こうした仮定は広く見られ,これこそ,神秘体験者や熱狂的信者に,彼ら特有の体験,その体験の特徴,ほかの思想との関係などについて尋ねれば,宗教について多くのことがわかるように思える理由である。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.400
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

宗教的信念に努力は不要

 宗教的信念をもつには,それほどの努力は必要でない。驚くほど強力な超自然的行為者が自分たちを見ていると思うキリスト教徒も,妖術師がバナナの葉に乗って空を飛んでいると言い張るファンの人々も,ふつうは,そのことを確信するために,懸命に努力する必要はない。これが,なぜ懐疑論者が信念を一種の心的怠慢として見ることがあるのかという理由である。なぜ人々が超自然的存在を信じるかと言えば,それは,彼らが迷信深く,感情に迷わされやすく,心がバランスを欠いていて,純朴で,確率というものがわからず,科学的な素養がなく,文化に洗脳されていて,受けとった知識を疑うだけの能力をもっていないからである。この見方では,人々が信じるのは,彼らが不適格な,あるいは正当性に欠ける考えを却下できない(あるいはそうするのを失念している,そうする時間がない,したくない,あるいはたんにできない)からである。もし人々が次に挙げるような心の管理の常識的原則を一貫して用いるなら,信仰は消え去るはずである。

・明確で正確な思考だけを相手にせよ。
・首尾一貫した思考だけをせよ。
・主張を受け入れる前に,それを支持する証拠を検討せよ。
・反証可能な主張だけを相手にせよ。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.388-389
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

原理主義とは集団の維持

 要約すれば,原理主義とは,過度の宗教でもなければ,偽装された政治でもない。それは,離脱の代価が安く,それゆえ離脱が起こりやすく,特定の種類のヒエラルキーが脅かされているように感じられた時に,連帯にもとづいてそれを維持しようとする企てなのだ。脱走兵に対し軍法会議がより寛大になったら,そしてそれが戦線の兵士たちの知るところとなったら,潜在的な脱走兵に対する不法な迫害と処罰が自然発生的に起こり,それは,より過激で,見せしめの色彩が強いものになるだろう。同じ心理メカニズムが,なぜ一部の人々が宗教的連帯において極端な暴力にいたるのかを説明するかもしれない。そこに関与している心的システムはあらゆる正常な心に存在するが,歴史的条件は個別である。これこお,このプロセスが必然ではない理由である。すべての宗教的概念が民族集団の徴を生み出すのに用いられるわけではないし,民族集団のすべての徴が連帯の信号として用いられるわけでもない。すべての連帯が代価の安い離脱を抱えているわけではないし,内部にそうした脅威をもった連帯のメンバー全員が離脱の代価を引き上げることによって反応するわけでもない。実際,その代価がひじょうに高いものになるという事実から明らかなのは,これらの集団が,民衆の感情が自分たちのほうを向いているわけではないということを自覚しているということだ。残念ながら,このことは,結束が十分に強い連帯の場合には,政治的支配の障害にはならない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.383-384
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

読み書きの影響

 人類学者のジャック・グディによれば,読み書き能力は異なる認知スタイルを生じさせる。読み書きをするということは,文字化されたテクストが外部記憶として用いられるという点で,認知的操作を変化させる。たとえば,読み書きによって,計算の途中結果を覚えておく必要のある複雑な数学的演算も可能になる。特定の要点を証明する要素をたくさん書き記すこともできるので,緻密な議論が可能となる。さまざまな概念構造を目に見える形で考えることもできる。このようなにどの点から見ても,読み書きの「メモ帳」の側面は,その長期的「保持」の機能と同じぐらいに重要である。
 文字化された宗教の特徴のいくつかから,この解釈は支持される。たとえば,ユダヤ教の613の戒律(ミツヴァー)や,シュメールやエジプトのテクストに記録された何千もの前兆を列挙するには,明らかに読み書き能力が必要である。複雑な神学,何千もの異なる状況についての儀礼的規定,さまざまな賢人の言行録,神託や道徳的規則の編纂物など,これらはみな,データを貯蔵し引き出すために文字を用いたことの副産物である。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.363
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

公式の概念と暗黙の概念

 ジャスティン・バレットは,神についての人々の考え方には,彼ら自身が信じていること以上のなにかがあると考えた。そこで彼が用いたのは,ごく単純な伝統的方法だった。被験者は,特別に準備された物語を読み,一定の時間をおいてから,その物語を思い出すように言われた。この実験の鍵は,人は,数行といった短いものでないかぎり,分をそっくりそのままの形で覚えておくことはできないということである。人がするのは,いくつかの重要なエピソードと,それらどうしがどのように結びつくかという記憶を形成することだが,物語を思い出す時には,しばしば細部を歪曲し,実際に覚えている元の物語の断片の間に,自分の考えを挿入する。たとえば,『赤頭巾ちゃん』の物語で,「彼女はおばあちゃんの家に行きました」というのを読んで,数時間あとに言う時には「彼女はおばあちゃんの家に歩いて行きました」となるかもしれない。こういった種類の細部の変化や追加は,物語を表象する際に被験者がどんな概念を用いているかを示している。この例では,物語のなかで主人公がどんな交通手段を使ったのかが述べられていなくても,被験者は,彼女がバスやバイクで行ったのではなく,歩いて行ったと思っているということを示している。
 そこで,バレットは2つのことをした。まず,被験者に「神はどのようなものか?」という簡単な質問をした。被験者は,神のいろんな特徴を挙げたが,それらはみな共通していた。たとえば,彼らの多くは,神の重要な特徴として,(人間が逐次的にひとつひとつのものごとに注意を向けることしかできないのに対して)あらゆるものごとに同時に注意を向けることができる,と言った。このあとバレットは,彼らに,神のこれらの特徴が出てくる物語を読ませた。たとえば,物語は,神がある男の命を救い,同時にある女が失くした財布を見つけるのを助けてやるというものだった。そのあと時間をおいて,被験者はこの物語を思い出して話さなければならなかった。興味深いことに,そして意外なことに,多くの被験者は,神はまず一方の人を助け,そうしてから次にもう一方の人の窮状に注意を向けた,と言った。
 このように,被験者は,聞かれると,神が一時に2つのことをすることができる(これこそ神たるゆえんだが)と答えるにもかかわらず,神がすることを自ら表象する時には,ひとつのことをしたあとにもうひとつのことをする標準的な行為者として説明する。バレットは,この効果が,神を信じる者でも,信じない者でも,そしてニューヨーク州のイサカでも,インドのデリーでも,同じように見られることを示した。これらの実験からわかるのは,神についての人々の考え——神が何をどうするかを表象するために人々が用いる心的表象——が,尋ねられて答える時の答えとはまったく異なる,ということである。実際,この場合には一方は他方と矛盾する。どんな人にも,「公式の」概念(聞かれた時に答えるもの)と「暗黙の」概念(はっきり自覚することなく用いているもの)の両方がある。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.117-119
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]