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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「宗教」の記事一覧

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安らぎのある世界観をもたらす宗教

 つねに危険が潜んでいたり不快なことの多い社会では,安心を与えるような宗教は見当たらない。逆に,そのような宗教が見られるのは,危険や不快なことの少ない社会である。たとえば,安らぎのある世界観をもたらそうと明白に企図された数少ない宗教システムに,ニューエイジの神秘主義がある。それは,人間はすべての人に,途方もない力が宿っていて,あらゆる種類の知的・身体的偉業が可能だとする。それによると,私たちはみな,宇宙にある神秘的だが基本的に慈愛に満ちた力に直結している。健康は,内なる精神の強さによって獲得される。人間の本性は,基本的によいもので,私たちのほとんどは,前世ではきわめて興味深い一生を送っていた。注目すべきは,安心感を与え自尊心を煽るこうした考え方が現れ広まったのが,歴史上もっとも安全で豊かな社会のひとつにおいてであった,ということだ。こうした信仰をもつ人々は,中世のヨーロッパや現代の第三世界の農民のようには,戦争にも,飢餓にも,乳幼児の死にも,不治の病にも,専制的な弾圧にも苦しんでいない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.29
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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単純明快な結論

 以上すべてから引き出される結論は,単純明快だ。もし「宗教とは,宇宙の賢く不滅の創造主に従うことによって,どうすれば私たちの魂が救われるかを説く教えを信じることだ」と言う人がいたら,その人はたぶん,いろんな土地を旅したり,広くいろんなものを読んだりしていないのだ。多くの文化では,死者はこの世に戻ってきて生きている者たちを怖がらせると考えられているが,どの文化でもそうなわけではない。ある特殊な人々が神や死者と交信できると考えられている社会もあるが,この考えもどこにでも見られるわけではない。また,人間の魂は死後も生き続けるとするところもあるが,この仮定もまた,普遍的なわけではない。私たちが宗教について一般的な説明を考え出そうとする場合,その説明はほかの宗教にも通用するものかを考慮すべきだろう。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.16
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

サリン事件の評価

 1994年6月27日に,オウム真理教の信者たちが,改造冷凍トラックを運転して松本の住宅街に入った。トラック内でコンピューター制御の装置を作動させる。液体サリンを過熱して蒸気にし,送風機で空気中に吹き飛ばすものだった。風の状態は完璧で,致死性の蒸気の雲は,暑い夜に開け放たれた窓へとゆっくりと運ばれていった。8人が死亡し,140人以上が重傷を負った。
 1995年3月20日,オウム真理教は別の方法を試みた。ビジネス・スーツを着て,傘を持った5人の信者が,混雑することで悪名の高い東京の地下鉄網の中心部で5台の別々の電車に乗り込んだ。彼らはサリンがいっぱい入ったプラスティック製の袋を全部で11袋持っていた。袋を床に置き,傘を突き刺して袋に穴を開け,電車から逃走した。11袋のうち3袋が破れなかった。残りの8袋からは4キログラムのサリンがこぼれた。サリンは周囲に広がり,蒸発した。12人が死亡した。5人が致命傷を負ったが生き延びた。37人が重症と診断され,984人に軽い症状が出た。
 当局は日本中のオウム真理教の施設の捜索を行ない,発見したものに驚いた。この凶悪な作戦の規模にもかかわらず,大量虐殺手段を獲得するための多くの活動にもかかわらず,何度も繰り返された攻撃にもかかわらず,日本の警察はオウム真理教の施設で何が起きていたかをまったく知らなかった。これ以上ひどいシナリオを想像することは難しい。すなわち,大量虐殺への非常に強い願望を持った狂信的カルトが,大量の資金と,国際的コネクション,優れた装置と実験室,最高レベルの大学で教育を受けた科学者,作戦を追求するための数年間のほぼ完全な自由を有していたのである。それでいて,化学兵器あるいは生物兵器を用いたオウム真理教の17件の攻撃によって,ティモシー・マクベイが肥料と自動車レース用の燃料で作ったたった1個の爆弾を爆発させたときにオクラホマ・シティで死亡した168人より,はるかに少ない数の人間しか死亡していないのである。
 「オウム真理教の事件が示唆しているのは,いかに直感あるいは一般的な考えに反するとしても,化学兵器や生物兵器を効果的に兵器化し散布する試みにおいて,どの非国家主体も技術上の重大な困難さに直面することである」とギルモア委員会は結論を下した。こういった試みの失敗を決定づけているのは,宗教的熱狂によって強められる陰謀組織内部の環境であるとギルモア委員会は指摘している。「オウム真理教の科学者は,社会的,物理的に隔離され,被害妄想が進む指導者に支配されていたため,現実から遊離し,健全な判断ができなくなった」
 大規模な破壊を夢見るテロリストにとって,これは希望を失わせる結果である。アルカイダやほかのイスラム原理主義者のテロリストは,オウム真理教が持っていた有利な点をほとんど持っていない。そもそも科学者を抱えておらず(アルカイダは教育を受けた優秀な人間の勧誘に努めてきたが,一貫して失敗してきた),このことがオウム真理教の技術的要素の本の一部すら見せていない主な理由である。共有しているただ1つの要素は,オウム真理教の取り組みを駄目にした促成栽培的な環境である。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.340-341
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

オウム真理教と大量破壊兵器

 ビン・ラディンがこの教訓を学んだ最初の人間ではなかった。世界の関心が凶悪なイスラム原理主義者に向いているため忘れられやすいが,テロの世界で大量破壊兵器を手に入れ,用いた最初の狂信者は,日本のカルトであるオウム真理教に属していた。オウム真理教は,麻原彰晃に導かれて,大量の死傷者を出すテロ攻撃を起こし,それをきっかけにハルマゲドンを引き起こしたいという考えに取りつかれていた。最盛期に約6万人の信者を抱えていたその資産は恐ろしく大きなものだった。少なくとも現金で数億ドル持っており,ことによるとその額は10億ドルに達していたかもしれなかった。そして,このカルトは高度な技術を持った信者を抱えていた。オウム真理教は日本の最高レベルの大学で生物学と化学,物理学,工学の分野の大学院生を積極的に勧誘し,彼らにお金で買える最高級の装置と設備を提供した。1人の科学者は,単に,オウム真理教の実験室が自分の大学の実験室よりずっと優れていたというだけの理由で入会したのだとのちに告白した。一時期,オウム真理教は,生物兵器の研究をする科学者を20人抱えていた。ほかに80人が化学兵器を研究していた。
 ギルモア委員会によると,オウム真理教は核兵器も手に入れようとしており,オーストラリアの辺境にある50万エーカーの羊の大牧場を購入することまでしていた。これは,ウランを採掘して日本に輸送し,「科学者がレーザー濃縮技術を用いて輸送したウランを核兵器製造に適した品位の核物質に変える」という計画に基づくものだった。既成の兵器も非常に熱心に購入しており,ロシアで大量の小火器を購入した。そして,「戦車やジェット戦闘機,地対地ロケット弾発射機,さらには戦術核兵器までもの先端兵器の購入に関心を示していたことが知られている」。
 オウム真理教はどんな機会も見逃さなかった。エボラ出血熱が1992年10月に中央アフリカで発生したとき,麻原彰晃は40人の自分の弟子を率いて人道的使命という名目でこの地域を訪れた。現在,当局は,日本で量産するためにエボラウイルスのサンプルを集めようとしていたと考えている。だが失敗した。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.385-387.
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

布教の仕方が問題

 筆者は数年来,キャンパス内で正体を隠して学生質を勧誘する統一教会,摂理,親鸞会といった宗教団体や,学園祭において心理鑑定と生じて無料カウンセリングを行ない布教のきっかけにする幸福の科学,熱烈にキャンパス・クルセードを行う韓国系福音派の団体,及び自己啓発セミナー等の問題を指摘してきた。宗教の布教が悪いというのではない。布教の仕方が問題なのだ。要点をまとめれば次のようになる。

(1)宗教的価値であれ,スピリチュアリティであれ,集団心理療法的な自己発見・自己分析であれ,信じる・感じる・実践するに足るものであれば,堂々とパンフレットに団体名・活動内容・必要経費等を書き込んで学生達に配布すればよい。これらの団体に十分な情報とじっくり考える余裕を与えることなく,食事やプレゼント,手紙・メール等で相手に断ると悪いなという気持ちにさせて偽装サークルに誘い,信頼関係を構築した後におもむろに宗教の教えや儀礼,活動内容を教え込む。卑怯ではないか。
(2)大学では学問を学び,諸説を比較検討する知的柔軟性をもつことや批判精神をもつことを教育目標に掲げる。ところが,勧誘され,入信した学生達は信じること,指導者に従うこと,疑問を持たないことを信仰的であると教え込まれ,他の学生を勧誘して入信させることこそ信仰活動だと思うようになる。布教のマシーンに組み込まれ,従属的な人間になるために彼らは大学に入学したのではない。
(3)ところが,大学人のなかにはこのような諸団体の活動には苦々しく思いながらも,一般学生に注意を喚起するオリエンテーションの実施や,団体の活動に制限を加えたり,信者である学生に脱会を勧めたりすることをためらう人の方が多い。憲法に保障された思想・信条の自由を侵害することになる,特定団体に対する差別行為ということになりはしないかと心配するのだ。その結果,対策が後手に回り,この種の団体に人材を供給し続けることになる。

 信教の自由という理念の中身は,鰯の頭も信心だからどんな宗教でも尊重されねばならないということではない。他者の信教の自由を尊重することなく,手前勝手な宗教的理屈から卑劣で執拗な勧誘行為を行う団体に対しては決然たる態度を取るべきだろう。大学は学生に対する教育責任を負う。学生の健全な学びの機会を阻害する団体は批判されて然るべきだ。


櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 Pp.212-214

なぜヒーリングが流行るのか

 このようにヒーリングの心理的・社会的機能を考察してみると,では,なぜ医学や科学が高度に発達した現代社会にヒーリングが流行っているか,という疑問が再度わいてくる。
 それに対する1つの解答は,現代人が不可抗力である事態にたじろいだ際に,それを受けとめる度量も世界観も失っているからではないか,と筆者は考える。遺伝子治療や再生医学により,多くの難病が解決できそうになってきた。臓器移植や脳死問題の隘路も打破できそうだ。しかし,その一方でアトピーや腰痛等の慢性疾患は依然として残っている。だからこそ,治らないことへのいらだち,耐え難さをよけいにつのらせる患者が少なくない。
 教育でも同じことが言える。成長期の子供は著しい学力や身体能力の発達を示すために,親は子供の可能性にかけたくなる。ところが,親の期待はしばしば過剰になり,子供には重荷となる。なるようになるさ,と我が子に対して腹をくくれる親がどれだけいるか。
 恋愛や結婚にしても,映画や小説に出てくるような純愛や熱愛を望む反面,傷つくことを恐れる人が少なくない。冒険するよりは,いつそうした出会いが自分に訪れるのかと将来を占いながら,待ちの姿勢に入っている人も多いだろう。
 治ってあたりまえ,出来てあたりまえ,幸せになってあたりまえ,といった欲求水準が極めて高い時代だからこそ,ヒーリングは傷ついた人達に一種のクールダウンを提供しているのだと言える。ただし,それが気晴らしであるうちはよいが,それに囚われるようになると癒しが癒しでなくなることも少なくない。


櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 Pp.166-167

仏教は文明そのものだった

 日本に中国からもたらされた仏教は宗教というよりも文明そのものであり,教典はもとより学問,祭式もハイカルチャーな文化的生活様式であった。そのために誰もが信ずる・行ずる宗教というよりも特殊な能力を用いる職能者として業務独占が認められてきたのである。当時のような身分制社会では,農民は田畑を,漁師は漁場を,貴族や武士は家格と役職を世襲したように,僧侶も僧職と寺院を世襲することが十分考えられる。
 奈良・平安時代の僧侶の仕事は国家鎮護の祈願や学事に携わることであり,今でいうところの文部科学省と文化庁の役人のようなものである。荘園を有し治外法権さえ享受していた中世の寺社において,僧侶とはさしずめ自治都市の職員であろう。浄土真宗では中興の祖蓮如が生涯に5人の妻を娶り,20数人の子をなして教勢を拡大したということであるから,封建領主と変わるところがない。近世の檀家制度が僧侶に与えた役職は,宗門改帳により事実上の戸籍管理を行い(近世の寺檀制度においてキリシタン取り締まりのために,家ごと仏教寺院の檀家に入ることを命ぜられたこと),その報酬として檀徒の葬儀から布施を得る業務独占の権限を得たことであった。このようにして寺院の経済的基盤が安定したため,末寺でも僧職の世襲が進んだといわれる。


櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 Pp.108-109.

宗教とカウンターナレッジの違い

 その答えはこうだ。宗教(その定義がむずかしいのはよく知られている)は,カウンターナレッジに走りがちな一面はあるものの,単なるデマではない。あなたが聖霊の存在を信じているとしても,それが間違いだとはだれにも証明できない。つまり,デマではない。あなたが聖霊にがんを治してもらったと主張したとしたら,それも実証できないことだ。神が自然の,あるいは医療的な方法によってあなたを治癒したことはないと立証することはできないからだ。しかし,あなたが聖霊から授けられた力で医療に頼らず他人のがんを治せると主張すれば,それは検証して間違いだと証明できる。だからといって,あなたを嘘つきと称するのは当たらない。危険な形でデマを広めただけだ。
 宗教がある種のカウンターナレッジになるのは,私たちの知性による判断を狂わせようとする場合か,その判断と矛盾する場合に限られる。宗教にまつわる歴史的な奇跡が実際に起こったと信じるに足る理由はない。だが,教会に通っている普通のクリスチャンのように,キリストの復活といった超自然的なできごとを信じることと,信仰療法のように,周りの世界へ間違った情報を流すことが明らかに違うのは,常識で考えればわかるはずだ。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.36-37

オウムを見てカルトの恐ろしさを知る

 私がカルトの恐ろしさを思い知らされたのは,1996年にオウム真理教の取材のために日本に行ったときだった。東京の地下鉄にサリンガスをまいてハルマゲドンを引き起こそうとしたこのカルト集団は,霊魂の復活,「地震兵器」,UFO,フリーメーソン流の陰謀説を信じていたが,さらに意外なことに,聖マラキの予言も教義に取り入れていた。聖マラキはアイルランドのアーマーの大司教で,1139年にこの世の終わりまでの歴代の教皇112人を予知したとされている。それぞれの教皇は象徴的なニックネームで記されていて,110番目にあたるヨハネ・パウロ2世は,「太陽の労働」,111番目の現教皇,ベネディクト16世は「オリーブの栄光」,そして,112番目となる最後の教皇は「ローマ人ペテロ」。「したがって,あと20年ぐらいで,最後の教皇を迎えることになるだろう」と,オウム真理教の教祖,麻原彰晃は説明している。
 無論,この予言はいんちきだ。予言リストが公表される以前の教皇につけられたニックネームは1590年ごろに「発見された」(つまり,でっちあげられた)ことばかりだ。それよりも私にとってショックだったのは,この聖マラキの予言を教えてくれたのが,大好きな私の祖母だったことだ。つまり,この偽情報はイギリスのブラックプールにあるテラスハウスと,日本の富士山麓にあったカルト集団の総本部とに,ほぼ同時に伝わっていたのである。カルトのあなどりがたい力をこれほど端的に示す例はないだろう。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.20-21.

宗教について理解をすべし

 カーター大統領が在任中,自らの信仰について言及した時,ある日本の経済人が「宗教などは青二才の言うこと」と軽蔑した,と新聞に報道されたのを記憶しているが,つくづく日本とアメリカの相互理解の難しさを思わされた。
 日本人,ことに学校制度を成績優秀で駆け上がったエリートの宗教に対する考え方には,神は実在するかどうかを知力で証明しなければならないというところがある。私の大学時代の経験からいっても,級友たちの議論はマルクス主義から見た宗教でなければ哲学的論議という,いつも経験の裏打ちの少ない知的ゲームであった。ある意味では,世界中のアジア,その中の日本,さらにその中のその他大勢にすぎなかった大学生ですら,過去200年のフランス啓蒙主義の影響を受けて,宗教を頭でしかとらえることのできない環境に染まってしまっていたのかもしれない。級友も私も家伝来の宗教はあっても,自らその宗教を日常生活で意識的に実践した者はほとんどいなかった。第二次世界大戦後の日本で,私たちだけが例外だったとは思えない。
 ところがアメリカの場合は,宗教は生まれた時から日常の人生経験である。キリスト教の家に生まれれば,神が存在するや否やという疑問が浮かぶ前に,もの心つく時から「神様」が自分を守ってくれるという理解は,それを教える親への信頼感から出発する。食事の前のお祈り,夜寝る前のお祈りを教えられ,それが習慣になる。大半の親は子供連れで定期的に教会に行く。それほど宗教心篤い家庭でなくとも,幼児のまわりには宗教のシンボルは無数にある。児童向けの本には絵やイラストの豊富な聖書物語がたくさん出ているし,クリスマスの季節になれば,聖書のイエス誕生からとられた芝居,讃美歌の合唱やクリスマス・キャロルで隣近所をまわるなど,子供のためのプログラムが盛りだくさんである。

ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.295-296

宗教と正義

 日本語では「独善」だが,英語の場合「自らを正しいと信じる」という意味の「セルフ・ライチャネス」が「正義」の観念と結びついた時に,宗教の問題が始まるといってもいい。つまり,正義の根底には人を裁くという行為があるからである。人間の正義はかならずしも神の正義と一致しているわけではない。むしろ,あさはかな人間の知恵には限りがある。それにもかかわらず「神の」正義をふりかざし,自分の宗教だけが「真実」であると主張する人間が,人間を裁いてきたのが宗教史といえないこともない。

ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.151

宗教的・霊的

 宗教的,霊的,と書いたがこの2者は別ものである。
 宗教を職業とする人ですらしばしば混同するが,特定宗教の主張する教義を受け入れ,要求されるお勤めを忠実に実行する宗教的な人がすなわち霊的な人とは限らない。逆に教会やお寺にまったく入ったことがなく,模範的とは言いがたい生き方をしている人でも,霊的世界を内に持っている人はいる。つまり神あるいは宇宙の創造主の存在を信じることと,その信仰を基に宗教という教義体系を作り,信仰を同じくする人間の団体を組織することは,必ずしも同じことではない。ただし,宗教的訓練,たとえば瞑想,祈禱,日常生活の場を離れて一定期間に集中して瞑想あるいは祈禱をする「静修」などの訓練が霊性をたかめることはしばしばあるので,宗教と霊性は共存する。


ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.8

宗教というミーム

 ハイイログマやオオカミが野生状態で生きているのは素晴らしいことである。少し知恵を働かせたら,私たちは平和に共存していくことができるからだ。私たちの政治的寛容や宗教的自由の中にも同じ政策を認めることができる。あなたは,それが社会にとって脅威にならないかぎり,自分の願ういかなる宗教的信条を保存するのも,創るのも,自由である。私たちは全員「宇宙船地球号」に乗り合わせているのだから,いささかの調整は身につける必要がある。ヒュッテル族のミームは,部外者を抹殺するという徳をめぐるいかなるミームをも含んでいないのだから,「利口」である。もしそうしたミームを含んでいるのであれば,私たちはそれらのミームと闘わなければならないだろう。私たちがヒュッテル族に寛容なのは,彼らが自分をしか害しないからだ。もっとも私たちとしては,次のように主張しても少しもおかしくはないのだが。すなわち,あなた方のお子さんたちの学校教育については,私たちにも,何かもっと開かれた態度を課する権利があるのですが,と。他の宗教ミームはこんなにおとなしくはない。そのメッセージは明らかである。みずから調整しようとしない者,自分を押さえようとしない者,自分たちの遺産のうちもっとも純粋でもっとも熱狂的な血を引くものだけを残せばよいと主張する者,これらの者は仕方がないので,私たちとしては,彼らを檻に入れたり武装を解除させたりするしかなくなるだろうし,彼らがそのために闘っている当のミームを,万全をつくして失効させることにもなるだろう。奴隷制,子どもの虐待,差別など,もっての他だが,ある宗教を冒瀆した者に(彼らを引き出した者には報奨金までつけて)死罪を申し渡すなど,やはりもっての他である。そんなことは文明人のすることではない。そんなことが宗教的自由の名において尊敬に値するはずはないのは,血も凍るような殺人をそそのかすことが尊敬に値するはずはないのと同じである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.698-699

倫理的体系のコンセンサスは

 人間の文化,それもとりわけ宗教は,「黄金律」,「十戒」,ギリシャ人たちの「汝自身を知れ」などから,ありとあらゆる形での特異的な命令,禁止,タブー,儀礼などまでを擁した,倫理的訓戒の貯蔵庫である。プラトン以来,哲学者たちはこうした命令のかずかずを,理性によって擁護することのできる,普遍的で単一の倫理学体系にまでまとめあげようとしてきたが,コンセンサスが得られるような体系は,まだ何も得られていない。数学や物理学は,どこに行こうと,誰にとっても同じなのに,倫理学はまだ,同じような反照的均衡にはおさまっていないのである。なぜだろう。目標自体が間違っているのだろうか。徳性というのは,個人的趣味(や政治的権力)の問題に過ぎないのだろうか。倫理的真理というのは,発見することも確証することもできないようなものなのだろうか。この世には,不可避の一手もなければ,「妙技」というものもないというのだろうか。倫理学理論のさまざまな殿堂が,合理的探求の最良の方法によって,これまで何度建てられ,批判され,擁護され,改造され,拡張されてきたかもしれないのに,しかも人間的推理のこうした所産のうちには,文化の最も堂々たる産物のいくつかが見られるというのに,それらを入念に研究した者たち全員の同意を静かにとりつけているものは,まだ何もないのである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.664-665

カトリックの組織

 カトリックは,4世紀にローマ帝国の国教となって以来,帝国をまねて,全世界統一の厳格な階層統治組織を作り上げた。頂点にいるのはローマ教皇で(ローマ手国でいえば皇帝だ),その下に,ローマ帝国の属州総督のような形で「司教」がいて,それぞれの司教区を管轄しながら教皇に仕える。
 驚異的なことは,今でもバチカンを中心とするこの世界統一組織は健在で,アメリカにあってもカトリックである限り,バチカンの一地方支部で単一の教派という位置づけである。アメリカではプロテスタントの方が総人数は多いが,たくさんの教派に分かれているので,単一の教派としてはカトリックが最大になるわけだ。


飯山雅史(2008). アメリカの宗教右派 中央公論新社 p.190-191

福音派の確かめ方

 福音派は,プロテスタント大分裂の時に,進化論など信じたくはないが,原理主義者のように孤立するのも嫌だという人たちだった。だが,その子孫が「福音派」の“認定証”を持って歩いているわけではない。現代において,誰が福音派か確かめるには福音派特有の考え方を持っているかどうかを尋ねてみることになる。
 そこで,世論調査では,「成人してからの衝撃的な体験で信仰に目覚めた」という意味の「ボーン・アゲイン」という言葉をキーワードにして,「あなたはボーン・アゲイン,もしくは福音派のキリスト教徒ですか」という質問を行い,それに「イエス」と答えた人をすべて福音派とすることがある。それに従うと,福音派の人口は,なんと米国成人人口の44%(2008年)にのぼってしまう。


飯山雅史(2008). アメリカの宗教右派 中央公論新社 p.174


アメリカの政教分離

 アメリカの政教分離とは,教会の“自由市場競争主義”と考えればわかりやすい。建国時の植民地には,たくさんの教派があった。彼らは,必ずしも仲良く暮らしていたわけではないので,教派の1つが連邦政府の恩寵を受けて強大になり,他教派を抑圧することを恐れていた。一方で,政府の保護を受けた宗教は堕落して活力を失ってしまうという考えもあった。政府に保護を受けた宗教は堕落して活力を失ってしまうという考えもあった。政府に保護された産業が,結局競争力を失って衰退してしまうことと同じである。だから,さまざまな教派が,平等な立場で信者獲得のために自由競争を展開することが,宗教全体のためには望ましい。政教分離とは,宗教活動を活発にし,強力にする狙いも含まれているのであって,宗教を社会の隅に追いやり,衰退させていこうという意識はない。


飯山雅史(2008). アメリカの宗教右派 中央公論新社 p.19-20

ニューエイジ運動

 超宗教運動---。教皇が話しているのは「ニューエイジ運動」(New Age movement)とその周辺の動きのことである。ニューエイジとは米国で70年代以降に広まった,スピリチュアリティを重んじる信念や実践の総称だ。運動といっても中心となる組織があるわけではなく,小さなグループがゆるやかなネットワークでつながっているだけだ。個人主義的な傾向がきわだち,グループは基本的に出入り自由だ。ある程度まとまった思想傾向としては,なにか神的なものや霊的なものが宇宙や自然,人間のなかにあるという汎神論的な特徴がある。そうした「聖なるもの」とつながるために,たとえば瞑想やヨガ,さまざまな心理的な技法などを使って,こころの成長や意識の変容を目指す。
 ニューエイジは英国をはじめとする欧米諸国,オーストラリアなど先進諸国を中心に,比較的ゆたかな層をまきこんでいった。日本には70年代後半に上陸し,「精神世界」と呼ばれた。80年代からは書店にコーナーが常設されるほどになった。
 しかし,精神世界というひびきが古くさく感じられるようになり,2000年以降になると,「スピリチュアル」ということばが使われだした。オウム真理教を思い出させる暗いひびきをリセットしたいという情報提供側の事情と重なった。最近のブームである「スピリチュアル」のなかにはニューエイジの流れをそのまま引き継いでいるものも少なくない。

磯村健太郎 (2007). <スピリチュアル>はなぜ流行るのか PHP研究所 p.55-56

独断と盲信

 歴史上最悪の時代を振り返ってみるとわかるのですが,それは必ず絶対的な独断と盲信に凝り固まった人々がいたときのようです。しかも熱心さのあまり,世界中の人々が一人残らずそれに賛同すべきだと言い張り,さらに自分の主張の正しさを証明するため,今度はその信念の正反対を実行するしまつでした。
 歴史を通じて人間は何度となく袋小路に封じこめられ,どうにも身動きがとれなくなった時期がありました。人類が二度とそのような窮地に陥ることなく,常に動き,常に自由な方向に進む望みは,一に無知と不確かさを認めることにあると,僕は第一回目の講演でお話ししましたが,重ねてそれを強調したいと思います。僕たちは生命の意味を知らず,正しい道徳的価値が何であるかも知りませんし,それを選ぶすべさえもっていない。道徳的価値とか生命の意味などは,道徳の大根源であり,意味の解明に長けた宗教の領域に踏みこまなくては,とても語れそうにありません。

R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.46-47.

新宗教とカルト

 新宗教とカルトとの関係は,非常に難しい問題を提起している。社会的な問題を起こす新宗教がカルトとして批判の対象となることが多いが,カルトとは何か,どの教団がカルトにあたるのかを学問的に定義することは難しい。あらゆる宗教が,当初の段階ではカルトとしてその活動を始めると言うこともできるし,カルトという区分などそもそも存在しないという考え方もある。
 ただ,ある新宗教がカルトとして糾弾されるのは,その教団が,世直しの思想や終末論を強調したときだということは言える。世直しの思想や終末論は,新宗教がその勢力を拡大する際の最大の武器である。この世界に終わりが近づいていて,世直しの必要があると説くことで危機感を煽り,世の終わりへのカウントダウンがはじまっていると期間を限定することで,信者を熱狂させるとともに,新しい信者を呼び寄せていく。今信者にならなければ救われないと説き,入信を促すのである。
 そうした手段をとれば,信者を急速に拡大することができる。しかし,危機感を煽ることは,信者に過激な布教方法をとらせることにつながり,社会問題を引き起こしやすい。あらゆる手段が正当化され,違法な手段が奨励される。そして,仕事を辞めたり,学校を辞めて入信してくる人間も出て,家族などと軋轢を生む。しかも,終末が近づいているという予言は必ず外れるわけで,失望感や教団に対する不信感を生むことにもつながる。

島田裕巳 (2007). 日本の10大宗教 幻冬舎 pp.207-208

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