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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

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共感覚

 つまり,シィーの場合,われわれの場合には存在している聴覚と視覚との間の境界,聴覚と触覚もしくは味覚との間の境界が,はっきりした形では存在しないのである。通常の多くの人の場合には,退化した形でしか存在しない「共感覚」の残痕(低い音や高い音がいろいろな色をもっていたり,「温かい」音や「冷たい」音があったり,「金曜日」,「月曜日」が何らかの別の色をもっていることを誰が知っていようか)が,シィーの場合,彼の精神生活の最も基本的な特徴として残っているのである。それは,非常に幼い時に発生し,現在まで保持されてきたのである。それらは,これから見ていくように,彼の知覚,注意,思考に固有な作用を与え,そして,それは彼の記憶力の重要な成分になったのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.30
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限界のない記憶

 明らかになったことは,シィーの記憶力は,たんに記憶できる量だけでなく,記憶の痕跡を把持する力も,はっきりとした限界というものをもっていないということであった。いろいろな実験で,数時間前,数ヵ月前,1年前,あるいは何年も前に提示したどんなに長い系列の語でも,彼はうまく——しかも特に目立った困難さもなく,再生できることが示されたのである。そのうちのある実験は,同じくうまくできたものだが,何ら予告なしにある系列を記銘させ,15,6年たってから行ったものであった。このような場合,シィーは,坐り,目を閉じ,しばらく休止し,そしてつぎのように話しはじめた。「そうです。そうです。それは貴方のアパートでのことでした。貴方は机の前に坐り,私は揺り椅子に坐っていました。貴方は灰色の洋服を着ていて,そしてそのように私を見つめて……はい……貴方が私に話したことがわかります……」——そしてつぎに,以前に読み聴かせた系列を誤りなく再生したのであった。
 その頃までにシィーは有名な記憶術者となり,何千,何百の系列を記憶しなければならなかったという事情にもし注意を向けるとすると,この事実は,さらに一層驚くべきものとなる。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.12-13

完全な記憶

 実験が示したことは,彼は,このように,きわめて容易に長い系列を再生することができ,しかも,それを逆の順序,つまり終わりから最初への順序でも再生できるということであった。また,どの語のつぎにどの語がくるのか,指示した語の前にどのような語が並んでいるのかを言うことは,いとも容易なことであった。だが,指示した語の前の語を探し出すときには,あたかも必要な語を探索しているかのように,しばらく休み,つぎに問題に答える。しかも,普通は誤ることはなかったのである。
 提示するのが,有意味語であっても,無意味綴りであっても,数字もしくは音素であっても,また,口頭で提示しても,書字の形で示しても,彼にとって差はなかった。ただ彼にとって必要だったことは,提示する系列の各要素を2〜3秒の休止間隔をおいて提示することであった。そうすれば,つぎの系列の再生には,何ら困難をひきおこすことはなかったのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.10-11

ソロモン・シェレシェフスキーのこと

 この人は——シィーと呼ぶことにするが——ある新聞社の記者で,この新聞社のデスクの発案で,実験室を訪ねてきたのである。
 どこもそうであるように,毎朝,デスクは自分の部下たちに指令を与えていた。彼は,部下たちに,訪ねていくべき場所のリストを列挙し,それぞれの場所で,何を知ってくるべきかを言うのである。シィーはこのような指令を受ける部下の一人であった。
 住所やその指令のリストは十分長いものであったが,デスクが驚いたことに,シィーは,受けた指令を,一言も,紙に書きつけることはなかったのである。デスクは,不注意な部下に小言を言うつもりでいた。シィーは,デスクの求めに応じて,課せられたことすべてを正確に反復したのである。デスクは,何が起きているのか事の事情をわかろうとして,彼の記憶について訊ね始めた。しかし,シィーは,まったく納得できずに,こう反論した。言われたことをすべて覚えることは,本当に,特別のことなのか?本当に,他の人々は,自分のようにやっていないのか?自分が,他の人々とは異なった何らかの特殊な記憶力をもっているという事実に,シィーはまだ気がついていなかったのである。
 そして,デスクは,シィーの記憶力を調べてもらうため,シィーを心理学実験室にさしむけたのであった。このようにして,シィーは,私の前に坐ることになった。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.7-8

洗脳と脳の状態

 洗脳(とその他の感化)に対するわれわれの感受性には,脳の状態が大きく関与している。その一部は遺伝子に依存しており,研究結果からは前頭前野が遺伝の影響を大いに受けていることが示唆されている。低い教育レベル,独断主義,ストレスなど前頭前野機能に影響する因子は,単純な二元的志向を促進する。もしニューロンを無視し,シナプスを刺激せず,新しい経験に頑固に抵抗したり,あるいは薬物(アルコールを含む),睡眠不足,激しく変化する感情,慢性のストレスによって前頭前野をいじめたりすると,次に現れるカリスマ的才能を持った人の全体主義的魔力に負けてしまう。若い人達がカルトに加わり,ファッションと有名人に取り付かれ,時に全く相応しくない役柄のスターに激しく傾倒したりすることで,どちらかと言えば無気力な年寄りを困惑させるのはそのためである。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.282
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

感情

 信念の場合と同様,われわれの感情が理解し難い傾向をもっていることは,われわれが世の中で有効に機能するための利点になっている。われわれは,認知と認識のすべてを分析する時間がないように,すべての感覚を考察する時間がない——短絡経路は,われわれが混乱して致命的な行き詰まりに陥らないようにする効果がある。しかしながら,管理職なら誰でも知っているように,他人に任せることはリスクも利益もある。同様に,われわれが感情に信頼を置くと,現実から離され,危険に陥る可能性さえある——それらの感情を自分たちに有利なように操作する方法を知っている人がいる場合には特にそうである。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.201-202
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

記憶の欠落

 神経心理学者ダニエル・シャクターが指摘しているように,記憶の欠落にはさまざまな種類がある。彼は7つの「記憶の過ち」,すなわち流動性,注意散漫,阻害,帰属の過ち,被暗示性,先入観,残留について詳述している。シャクターの言葉によると,最初の3つは「不作為の過ち」で,われわれがよく経験し嘆くタイプの記憶消失である流動性は「時間による記憶の希薄化や消失を指し」,注意散漫は,われわれが集中していないために,後に必要となる情報を記憶しないことによって起こり,阻害は,われわれが思い出そうとする記憶が「どこかに隠れていて,必要になった時に一生懸命思い出すと心に浮かんできそうではあるが思い出せない」ことによるフラストレーションを伴う。最後の残留は,流動性の反対である。普通は不快な,あるいは衝動的な出来事の記憶が,忘れたいと思ってもわれわれを離れない。極端な例では,「フラッシュバック」として感知され,それは時に極めて明瞭で,その人はまた元の出来事を再び経験していると感じることもある。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.165
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

グループ化が根源的機能

 われわれの最も基本的な知覚過程から他人の扱いまで,物事をグループ化することが人の脳の根源的機能である。多くの幻視に見られるように,時間的一致と空間的接近については十分といえる。もしわれわれが,1つの物体を見るのとほぼ同時に音を聞くと,その物体が音を発したと推定し,実際にそうではないことを学習しないかぎりは,そう思ってしまう。われわれは,集めて分類し,一生の間に無数の分類概念を身につける。それらを,われわれの世界の理解を早めるために利用するのである。もし私が新しい物体を「猫」という分類の一員と判断すると,その新たな物体について,最初から始めることなく,あらゆる種類の蓄積情報(「肉を食べる」,「引っ掻く」,「台所で振り回されるのを嫌う」など)を得ることができる。これによって,私は時間とエネルギーを大量に節約でき,明確な生存の活力を得ることができる。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 PP.62
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

UFO?

 光の波長が異なると屈折の度合いも違ってくる。たとえば青と緑の光は,赤よりも大きく屈折する。実際ひどくシーイングが悪いときには,目に届く光が屈折で次々に変わるので,星の色が変化して見える。シリウスは夜の星では一番明るいのだが,ふつう肉眼では安定して白色に見える。しかしシリウスが低く見えるときには,激しく劇的に明滅して急速に色を変化させる。私はこの光景を何度も見て幻惑された。
 この現象はトラブルの元にもなる。あなたがひとりで夜道,車を走らせていたとしよう。明るい物体が追跡してくるような気がする。あなたが見つめると,その物体は激しく明滅し,明るくなったり消えそうになったりし,オレンジから緑へ,赤へ,青へと変化させる。宇宙船か?エイリアンに誘拐されるのか?
 いや,イケナイ宇宙学の犠牲になっただけだ。しかしどこかで聞いたことのある話だと思わないだろうか?UFOの話の多くがこんなものだ。星はきわめて遠くにあるので,ドライブしていると追跡してくるように錯覚してしまう。星はまたたきで明るさと色を変化させる。残りの話は想像力の働きだ。この手のUFO話を聞くといつも笑みがこぼれる。UFOではないかもしれないが,地球外のものであることは確かだ。

フィリップ・プレイト 工藤巌・熊谷玲美・斎藤隆央・寺薗淳也(訳) (2009). イケナイ宇宙学:間違いだらけの天文常識 楽工社 pp.133-134

間違っているのは

 いろいろ書いてきたが,最後の質問をしよう。満月を見上げて,その隣に手に持った10セント硬貨を並べてみるとする。それが満月と同じ大きさに見えるには,自分からどのくらいの距離に掲げなければならないだろうか?
 その答えには驚くだろう。2メートル以上離れたところなのだ!たぶん,ものすごく腕が長くなければ,自分の手でそんなに遠くに硬貨を掲げられないだろう。空の月は大きいというイメージを持っている人がいるが,実際には非常に小さい。月の直径は約0.5度だから,月を180個並べなければ,地平線から天頂まで(距離が90度)届かないのだ。
 ここで言いたいことは,われわれの感覚が現実と一致しないのはよくあるということだ。たいてい,間違っているのは私たちの感覚のほうだ。

フィリップ・プレイト 工藤巌・熊谷玲美・斎藤隆央・寺薗淳也(訳) (2009). イケナイ宇宙学:間違いだらけの天文常識 楽工社 pp.124

平らな天空

 図で表す場合,空は半球として描かれることが多い。これは文字どおり球体の半分だ。もちろん,実際にはそうではない。地球の上空に球面はない。空には限りがないのだ。しかしわれわれは,空を頭上にある球面として認識しているので,形があるように見える。半球状にある点はすべて,中心から等しい距離にある。真上にある点は天頂といい,もし空が本当に半球なら,天頂は地平線上の点から最も遠い点になる。
 しかし,現実にはそうではない。私も含めた多くの人には,空は天頂付近が平らで,半球というよりはスープ皿のように見えている。信じられないだろうか?では,これを試してみてほしい。家の外に出て,空が地平線から天頂まで見渡せるような平らな場所に立ってみよう。一本の線が天頂から空を横切り,地平線に真っ直ぐのびていると想像する。腕を伸ばして,地面と天頂のちょうど中間,地平線から45度上にあると思う点を指してみよう。
 次に,友達に頼んで,腕と地面のあいだの角度を測ってもらおう。保証してもいい。あなたの腕の角度は,天頂までのちょうど半分にあたる45度ではなく,30度前後になるはずだ。私はこれをたくさんの友達と一緒にやってみたが(何人かは天文学者だ),40度以上を指した人は誰もいなかった。こうなる理由は,われわれは空は平らだと考えているからだ。空が平坦なら,天頂と地平線の中間点は,空が半球の場合より低くなる。

フィリップ・プレイト 工藤巌・熊谷玲美・斎藤隆央・寺薗淳也(訳) (2009). イケナイ宇宙学:間違いだらけの天文常識 楽工社 pp.119-120

リスク認知

 オックスフォード大学のサイード・ビジネススクールが発表した論文によれば,人はふだんから交通事故で死ぬ危険を冒し,約100人にひとりの割合で(女性のほうが少ないが)死んでいるという。ならばそうした危険を半減させるエアバッグやバンパーなどオプションの安全装備に,私たちはいくらまでなら払うだろうか。1000ポンド?あるいは2000ポンドまでなら出すかもしれない。だが,死ぬ確率が同じ1パーセントの地雷原に入るのを承諾するには,いくら要求するだろうか。2000ポンド以上であることはほぼまちがいない,とその論文は指摘している。

マーティン・プリマー,ブライアン・キング 有沢善樹(訳) (2004). 本当にあった嘘のような話:「偶然の一致」のミステリーを探る アスペクト pp.118

想像力の肥大化

 記憶の分野では屈指の科学者であるエリザベス・ロフタスはこのプロセスを「想像力の肥大化(イマジネーション・インフレーション)」と呼んでいる。何かを想像すればするほど,詳細な部分を付け加えながらそれを膨らませて実際の記憶に繰りこんでいくからだ(神経レベルでどのような作用になるのかを知ろうと,肥大した想像力が脳へ送りこまれる過程をMRIで追跡した科学者さえいた)。たとえば,ジュリアナ・マッツォーニらは被験者に夢の内容を語らせ,そのあとでこれを「本人専用」に(わざとインチキの)解析をして結果を伝えた。研究者らは被験者の半数に,その夢はあなたが3歳にもならないころ,いじめっ子にひどい目に遭ったのを意味するとか,どこか外の広い場所で迷子になったり,ともかく幼少時にこの種の騒動を経験したのを意味すると話した。こうした解析を受けなかった対照被験者と比較すると,彼らは解析された内容が実際に起きたと信じる傾向が強く,うち約半数は自分で経験の細部を思い出すようになった。別の実験での被験者は,全国的な保険調査用に学校の保健室の先生があなたの小指から皮膚の標本を採取した時のことを思い出してくださいと指示される(こうした調査は実施されていない)。こうした現実ではないはずのシナリオを想像するだけで,被験者はこれが実際の出来事だと自信を深めてしまう。そして自信が深まるほど,偽の記憶に感覚的な詳しい情報が付け加えられていく(「保健室はひどい臭いでした」)。非現実的な出来事について説明してくださいと被験者に指示するだけでも,研究者は想像力の肥大化を間接的に引き起こすことができた。認知心理学者のマリアンヌ・ゲアリーによって判明したところでは,人は何かが起きたのを説明しようとすると,まずそれを自分で現実味をもって感じるのだという。子どもは特にこうした示唆に弱い。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.116
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

ステレオタイプによるカテゴリ化

 偏見は,情報をカテゴリーに分けて知覚し処理しようとする人間の性向から生まれてくる。「カテゴリー」というのは「ステレオタイプ」より上等で中立的な呼び名だが,実際にはふたつは同じものだ。認知心理学者によれば,ステレオタイプ,つまり物事を単純化し類型化して考えるのは一種のエネルギー節約法で,このおかげで私たちは過去の経験をもとに効率的な判断を下したり,新しい情報を迅速に処理して記憶を消去したり,何かの集団同士の実質的な差異を意味づけたり,他人の行動や思考をある程度の精度で予測できたりする。私たちはステレオタイプと,ステレオタイプがもたらす情報をちゃっかり当てにして,危険を避けたり,友人になれそうな人物に近づいていったり,学校や職業を選びとったり,大勢の人がいる部屋の中であの人こそが運命の人だと決めたりするのである。
 これはステレオタイプの優れた点だ。一方,欠点としては,ステレオタイプは目の前のカテゴリー内の差を均一化し,カテゴリー同士の差は過度に強調してしまう。共和党支持の洲(レッド・ステート)と民主党支持の州(ブルー・ステート)の州民は互いを共通点のない人間だと考えがちだが,カンザス州の多くの州民は学校で進化論を教えてほしいと願っているし,カリフォルニア州の多くの州民はゲイ同士の結婚を認めていない。私たちは自分と同じ性別や支持政党,人種,国籍の仲間については人それぞれと認めるのに,自分と異なるカテゴリーに属する人々についてはほんの数回出会った経験だけから一般論を引き出して,全部まとめて「彼ら」と呼んでしまいがちだ。こうした習慣はごく幼いうちから始まる。ステレオタイプとはどんなものかを長年研究している社会心理学者のマリリン・ブルーアーは,自分の娘が幼稚園から戻ると「男の子って泣き虫だから」と口をとがらせていたのを報告している。はじめての登園日に親恋しさから泣いてしまった男の子をふたり見たのが証拠だそうだ。ブルーアーはさすが科学者で,泣いた女の子はいなかったのかと訊ねた。「そりゃ,いたわよ」と少女。「でもほんの何人かだけ。私は泣かなかったもの」

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.78-79
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

視覚的盲点と心理的盲点

 脳には生まれつき盲点が,それも視覚的盲点と心理的盲点がある。脳が仕掛けてくる最高に巧妙なトリックのひとつが,自分にだけは盲点などないといううれしい錯覚を本人に与えることだ。不協和理論とは,ある意味では,盲点の理論であり,人はどのようにして,そしてなぜ,自分の行動や思いこみの是非を問いかけてくれたはずのたいせつな出来事や情報に気づかないように目を閉じてしまうのかを考えるものだ。確証バイアスだけでなく,脳にはほかにも自分かってな習慣が備わっていて,そのせいで私たちは自分の感じかたや意見が正確で現実的で公平なものだと正当化できてしまう。社会心理学者のリー・ロスはこの現象を「幼稚なリアリズム」と呼んだ。自分が事物や現象を「まさしくあるがままに」明確に感知していると思いこむ,誰もが逃れられない現象だと彼は言う。私たちはまともな人ならば誰でも自分と同じように物事を見ていると思いこんでいる。意見が食い違うならば,彼らにはきちんと見えていないのだ。幼稚なリアリズムでは,ふたつの想定によって論理の迷路ができてしまう。ひとつ,偏見のない公正な人は正しい意見に同意すべし。ひとつ,私が理屈に合わない意見をもつはずがないから,私の意見はすべて理屈に合っているはずである。だから,私の意見に反対する者でも,ここに連れてきて話を聞かせて物の道理をわからせれば同意させられるはずだ。同意しないならば,彼らに偏見があるからに違いない——。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.58-59
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

リベットの自由意志実験

 そこでリベットは,意志がほんとうはいつ現れるかを実験で確かめようとした。最初は,意志の始まりを測定するのは「不可能」だと思われた。だが,いろいろと考えたあげく,リベットは被験者を椅子に座らせ,動かそうという意志を認識した瞬間の時計の秒針の位置を見てもらった。ここで問題になっているのは1秒よりも短い時間だから,ふつうの秒針では役に立たない。もっと速いものが必要だ。彼は秒針の代わりにオシロスコープの光の点の動きを使うことを思いついた。光の点は秒針のように,だが秒針よりも25倍速く回る。オシロスコープの1目盛りは40ミリ秒ということになる。
 こんなに速い光の点の動きを追うのは難しいかと思われたが,リハーサルをしてみるとリベット自身も含め被験者はかなり正確に目盛りを読み取ることができた。被験者に弱い電気ショックを与えて,光の点はどの目盛りを指していたかと尋ねると,50ミリ秒以内の誤差で読み取ることができたのだ。「これで準備は整った」とリベットは言う。
 リベットの指示に従って,5人の被験者が魂か何かの赴くままに手首を動かした。同時に,動かそうという意志を初めて意識したとき,オシロスコープの光の点が目盛りのどこにあったかを報告した。リベットは被験者自身の報告と,同時に測定していた準備電位とを比較した。40回の実験結果の解釈は簡単ではなかったにしても,関連性ははっきりとみられた。準備電位は筋肉の動きのほぼ550ミリ秒前に現れた。行動しようという決断が意識されるのは,運動の100ミリ秒から200ミリ秒前——準備電位が現れてから350ミリ秒あとだった。準備電位(無意識),決断(意志),行動という順序になる。
 こうしてリベットは,リチャード・グレゴリーの有名な「しないという自由意志」にあたる自由意志の存在を初めて実験的に確かめたのだった。ちょっと考えると,動かそうという意志より前に準備電位が検出されれば,自由意志は葬り去られるのではないか,という気がする。動きにつながる脳の活動は,被験者が動かそうという意志的な決断をしたと思う時点より前に始まっているからだ。この実験結果から考えると,ニューロンの信号という列車はほんとうに駅を出てしまっている。自由意志が存在するとしたら,乗り遅れた客のように,「待ってくれ!待ってくれ!」と叫びながら線路の脇を走っている状況だろう。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.334-335
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

可塑性と関心

 脳の可塑性の存在とその重要性には,もはや疑問の余地がない。「最近の神経科学の歴史のなかで最も目覚しい発見は,大脳皮質が感覚的インプットの減少あるいは増強に応じて自らを再構成する能力をもつことである」と,カリフォルニア大学デイヴィス校神経科学センターのエドワード・ジョーンズは2000年に言明した。脳への感覚的インプットを増強する多くの実験は,何を教えたか?皮質表現は不変ではない,ということ。それどころかダイナミックで,わたしたちの暮らしによってつねに修正されているということだ。
 ビデオゲーム大好き人間の親指,点字を読む人の人差し指,というぐあいに,脳は一番頻繁な運動に使われる身体部分にスペースを割り当てる。だが,経験が脳をつくり変えるといっても,その経験は関心を集中した経験でなければならない。「受動的で上の空の,あるいは関心が薄い経験は,神経の可塑性を実現するうえで限定した力しかない」と,マーゼニックとジェンキンスは言う。「脳の表現の可塑的変化は,当人がとくに関心を向けているときにだけ表れる」
 ここに,重要なカギがある。脳の物理的変化は心のあり方,つまり「関心」と呼ばれる精神状態に依存している。関心を向けることがたいせつなのだ。それはそこここの身体部分の表面,あるいはあれこれの筋肉を表現する脳の領域の大きさに影響するだけではない。脳の回路そのもののダイナミックな構造に,そして脳が自らをつくり変える能力に影響する。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

大人でも練習すれば

 右利きのバイオリニストが演奏するとき,左手の4本の指はつねに弦をいじっている(左手親指はバイオリンのネックを支えているので,位置やかける力はあまり変化しない)。弓を操る右手は,1本1本の指の個別の動きは少ない。このパターンは大脳皮質に痕跡を残しているだろうか?
 研究者たちは,演奏歴7年から17年のバイオリニスト6人,チェリスト2人,ギタリスト1人と,弦楽器の経験がなくて音楽家でもない6人を集めた。この被験者たちに静かに座っていてもらい,指先に軽い空気圧をかける。頭蓋につけた脳磁気図検査機器が体性感覚野のニューロンの活動を記録する。
 右手については弦楽器奏者と一般被験者で指に対するニューロンの活動に違いはなかったと,1995年に研究者たちは発表した。しかし左手の指については体性感覚野にそうとうの皮質再構成がみられた。研究者たちはこう述べている。「弦楽器奏者の左手の指の表現が占める皮質領域は,一般の人に比べて増大していた」
 脳の画像記録によると,12歳以前に楽器を始めた奏者の指のほうが,その後に始めた奏者よりも皮質再構成の程度が大きかった。結果を発表するときに,広報担当者はこれを新事実として強調した——これは要点を取り違えている,とタウブは不満だった。そんなことよりもっと大きな発見は,すべての弦楽器奏者に皮質の再構成がみられたことだった。意外なのは,未成熟の神経システムに可塑性があることではなく(そんなことは「誰でも知っていた」とタウブは言う),可塑性が成人後も存続していることだ。「40歳でバイオリンを始めても,運動依存性の再構成が起こる」とタウブは言う。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.229-230
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

別の機能を

 「同じ脳なんだから」という考え方を支持する研究は,1996年にNIHのマーク・ハレットの研究所でも行われていた。はレットらは幼いころから盲目だった人々を調べていた。この人たちの場合,一次視覚野は予想するインプット,つまり視覚神経を通じて網膜から送られる信号を受け取らないかわりに,点字を「読む」細かな作業に反応していた。もちろん点字を「読む」とは,盛り上がった点の上を指でたどることを意味する。ふつうは体性感覚野がつかさどる作業だ。だが,視覚野はすぐに目からの信号が入ってこないことに気づくらしい。そこで仕事を変えて触覚を処理することにしたのだ。その結果,ふつうは視覚をつかさどる領域が触覚を担当するようになる。生まれつき盲目の人たちの優れた触覚はこれで説明できるのかもしれない。これは,「異種感覚間の機能可塑性」と呼ばれている。ある機能用に遺伝的に「配線が決まっている」と思われていた脳の領域が,まったくべつの機能を遂行するようになるのである。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.211
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

幻肢と脳

 幻の感覚は可塑性をもつ脳の神経の変化から生じている。いまはなくなった身体部分からの刺激に反応して発火していた部位のニューロンは,新しい仕事を探し,まだ活動している末梢神経に反応するようになったのだ。大晦日にタイムズスクエアに集まった群衆が,空間ができるとどっとそこに押し寄せるように,周辺のニューロンが皮質の沈黙部位に押し寄せる。そしてこれも大晦日の群衆と同じように,空いた場所のすぐそばのニューロンがまっさきに空間を占拠する。
 したがって,身体の上部4分の1のどの部分が切断された四肢のゾーンに侵入するかは,どちらかというと偶然の結果である。手が切断されたあと,顔も胴体部分も手の表現ゾーンである体性感覚野に入り込む可能性がある。足と性器の表現ゾーンは隣り合っているから,足を失った人の中には性行為の最中に幻の足の感触を感じる人がいる。足の体性感覚マップは本来のインプットを失って感覚に飢えており,そこに性器からの神経が入り込むのだろう。同様にガンでペニスを切除した人は,足を刺激されると失ったペニスの感覚がよみがえるかもしれない。足をエロチックだと感じるのも,フロイトが示唆したように無意識のうちに足からペニスを連想するというだけではなく,足の体性感覚の表現ゾーンが性器のゾーンと隣り合っているためもあるのではないか。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.198-199
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

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