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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

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右脳と左脳

 また右脳と左脳についてのお話も,脳の単純化の良い例です。左脳は論理的思考に関係していて分析的な働きをするのに対して,右脳は直感的な働きに関係しており,包括的にものごとを捉える働きをする,というのが現在の通説です。そして理屈っぽい人は左脳型,直感的な人は右脳型といいます。あるいは細かい点にこだわり正確さを求める人を左脳型,ものごとを大局的に捉える人を右脳型といいます。巷では右脳と左脳と書いて,ウノウとサノウと呼ぶそうですが,脳の研究者は決してこのような妙な読み方はしません。普通にミギノウとヒダリノウ,より正確には右大脳半球と左大脳半球といいます。
 モノが2つあったらその違いを見つけ出そうとするのは人の常です。ですから右脳と左脳を対比させたお話が単純化されるのは当然の人の心理ともいえます。また左右大脳半球を優位半球と劣位半球と読んできたこととも関係しているかもしれません。左脳のほうが優位でこちらのほうが大事だ,論理的で知的な脳だ,というわけですが,あまりこのような表現を使われるとそこは判官びいきといいますか,劣っていると表現されてしまった右大脳半球が実は大事なのだというお話をすることが逆にインパクトをもってきます。ここには知能一辺倒であった社会の価値観に対するアンチテーゼといったものも含まれているのかもしれません。でも右脳は直感的分析に優れているといいう表現も,類型的なものに過ぎません。
 大脳半球の働きの左右差は確かに存在します。でも実際に健常人の脳においては左半球と右半球で信号をやり取りしながら手を取り合って働いています。右脳と左脳の働きの違いは十分に科学的研究の対象となるものですが,話を単純化してしまってラベルを貼り,それ以上の思考を停止してしまったのではなんの意味も見出せません。血液型性格判断と同様に読み物としてはおもしろいのかもしれませんが,少なくとも「脳科学による証拠」とはいえません。たとえば右脳訓練法にしたところで,右脳が左脳よりもよく鍛えられるという証拠はどこにもありません。右脳訓練とは,論理的思考だけでなく直感的思考の訓練もしましょうね,という表現以上のものではありません。「右脳」は脳科学用語ではなく修飾語に過ぎないと認識してしまえば,右脳訓練法そのものを批判する必要はないのかもしれませんが……。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.155-156
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良いのか悪いのか

 実際には情報発信をする人の恣意的な表現選択が行われます。たとえば前頭葉が大事な部分であると信じている人にとって,ゲームをしているときに前頭葉が活動していなければ,これは前頭葉が活性化していない,だから悪いのだという主張につながるわけです。でも,将棋の羽生善治さんが将棋を指しているときに前頭葉があまり活動していなくても,このようなときには「活性化していない」という表現は使いません。単に前頭葉が活動していないと中立的な表現を保ち,前頭葉が活動していなくてもこんなにすごい「神の手」を指せるのだ,というお話ができてしまうのです。ここではその人の主張したい内容に応じて表現を変え,聞いた人の印象を変えてしまうという操作が加えられているのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.146

脳の善玉・悪玉

 「前頭前野は知性をつかさどる」
 このような表現は一般向けの情報発信の場だけではなく,論文や総説にもしばしば登場します。前頭前野を研究対象とする研究者たちは,前頭前野こそが脳の最高経営責任者であり,脳の活動の中で最も「偉い」領域だと主張します。そして前頭前野は,その他の脳全体の領域すべての活動を制御し,ひいては私たちの身体,思考,そして意思をコントロールしていると考えられています。おかげで前頭葉を中心に研究している私は,なんだか大事なところを研究している人ということになって,ちょっとうれしいような気もしてきます。
 前頭葉が大事な働きをしていること,そして高次な思考メカニズムに必要な領域であること,また人間でとくに発達した領域であること,これはある程度以上の確からしさをもっています。ですがこれは脳の中での価値付けの基準にはなりません。研究者の中ではさすがにこのようなことはないものの,一般向けにはそれぞれの脳領域が善玉か悪玉かという見方で捉えられてしまいます。
 脳の中で欲望に関係する領域である大脳基底核がよく悪玉にされます。一般向けには大脳基底核などという堅苦しい表現はあまり使わずに,原始的な脳の部分,あるいは爬虫類脳などと表現されます。ネーミングからして悪玉になっていますね。そしてこの原始的な,野蛮な,恐竜脳を制御して,文明化され,社会性をもった人間として振る舞うようにさせているのが善玉の前頭前野というわけです。
 脳領域に扱いの格差が生まれると,今度はその脳領域の活動にも価値付けがなされるようになります。前頭葉がよく活動しているということは,すなわち脳の中で最も大事な部分を使っているのだからこれは良いことだ,というように説明され,皆も納得してしまうのです。前頭葉は人で最も発達していて知能にかかわる部分なんですよ,ここをよく使えば,鍛えられて素晴らしい人間になれますよ,とまでは言ってませんが,暗喩としてこのような論理が展開されていることが多いように思われます。ここでは脳領域,あるいはその働きが善悪で語られるようになっています。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.144-145

脳活動の低下とは

 また特定の人物の脳活動が,他の被験者に対して「異常に」低下していたとしても,これは脳の働きが異常であることを意味しません。脳の使い方は,とくに複雑な思考になればなるほど個人差が大きくなります。脳活動パターンが他の人と異なっていることが異常ということにはなりません。異常かどうかの判断は課題の成績として他の人にくらべて大きく下がっていた場合に使うものです。たとえば,数学の問題を解いているときの脳活動を測定したとしましょう。20人の被験者のうちで1人だけ,前頭葉の活動が「異常に」低下していた人がいました。でもこの人は実は数学専攻の大学院生で,この実験でテストされた問題はすべて楽々と解けていました。この場合,彼の脳活動は「異常」だと言えるでしょうか。むしろ前頭葉をほとんど使わなくてもこの程度の問題など解けてしまう,と解釈されるでしょう。
 「異常」という言葉は,「常と違う」という意味ではなく「悪い」という意味で使われてしまっています。脳活動だけで,良い,悪い,という判断はできないのと同様に,正常か異常かを判断することもできません。また,結果としてテストの成績が悪かったからその脳活動の結果としてテストの成績が悪かった,という因果関係を証明しない限り,このような考えは独りよがりの憶測に過ぎないのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.129-130

確率による色付け

 そして通常のfMRIを用いて得られた脳画像では,脳活動の大きさではなく,統計的にどれぐらいその活動が確かであるかをもとに,脳活動部位を色づけして表示しています。よく使われる表示法では,5%の水準で活動したと言える部分を暗い赤で,より確からしい1%水準で活動したと言える部分は橙色で,さらに確からしい0.1%水準で活動したと言える部分は黄色というようにグラデーションをつけて脳活動部位を示します。このような色つきの図を見ると脳のどの部分が有意な活動を示しているのかがよくわかります。ここでいう「強い脳活動」とはその活動の絶対値が大きいことではなく,統計的により確からしいことを示しているのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.120-121

「何もしないでください」

 また別の問題もあります。何もしていないときにくらべて,人がある問題を考えているときには脳のこの部分が活動している,ということが脳画像で示されたとします。でもこの脳領域の活動が,その問題にとくに関係しているという証明にはなっていないのです。たとえば人が画面上に提示された数式を計算しているときに脳のさまざまな部分が活動するというデータが得られました。でもこの活動は,計算に関係した領域だということはできても,計算だけに関係しているとは言えません。何か他のことをやっていても同じ脳領域が活動するかもしれません。事実,数式を見せて計算をするという行動には,さまざまな要素が含まれています。たとえば画面に提示された数字を見るだけでも後頭葉にある視覚領域は活動します。さらに数字として認識するだけでも側頭葉は活動します。また計算そのものだけではなくて,なんでもいいから一生懸命努力しているときには前頭葉が活動します。
 計算そのものについて関係している脳領域を同定するためには,画面上に同じように数式を提示し,計算と同じぐらいの努力が必要な別の課題を行ってもらったときの脳活動も測定し,これを計算しているときの脳活動と比較することで,計算しているときだけに活動する,あるいは計算しているときにより強く活動する脳領域を見つけ出さなければなりません。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.117-118

脳活動は相対値

 脳活動計測といっても実際の脳活動の絶対値が計測されるわけではありません。動物実験などで,1つ1つの神経細胞の活動を記録する場合には,平均して1秒間に何回,神経細胞が電気的インパルスを発したかという数値を示すことができます。そして神経細胞が活動していない場合にはこの値はゼロになります。ところがfMRIやNIRSといった脳画像による脳活動計測では脳の血流を測定しているのです。脳は当然生きている細胞の集まりなわけですから,何もしないでいても脳の中を血が流れています。そこで脳画像研究では,何かをしているときには,何もしていないときにくらべて脳のどの部分が活動しているか,というデータが示されます。
 ここで問題があります。何もしていないとき,というのはどんな状態でしょう。何もしていないでじっと静かにしていてください,と被験者に指示しても,被験者が何を考えているかはわかりません。いくら何も考えないでじっとしていてくださいと被験者に言っても,やっぱり何か考えてしまいます。夜の星空を眺めているようなつもりでリラックスしてください,という指示がひと昔前にはよく使われていましたが,これもなんだか作為的ですし,実際そのようにしているときにも脳の特定の部分が活動していることでしょう。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.115-116

脳と心の因果関係

 またもう1つ重要な点は,脳と心の因果関係です。これまでの研究は,ある心の状態,ここでは痛みを感じているという状態にあったときに脳のどの部分が活動するかということを明らかにしてきました。脳のその部分が活動しているときにはその人は痛みを感じている,ということは示されていないのです。逆は必ずしも真ではないのです。なぜかといいますと,脳の1つの領域はたった1つの働きをしているわけではないからです。脳の前頭葉内側部は計算問題を一生懸命に考えているときや,心の中に葛藤があるとき,新しい手順を学習しているときにも活動します。少なくとも現在の時点では,脳のある領域が活動しているからといって特定の心の状態を推測することはできないのです。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.67

神のヘルメット

 このような例として「神のヘルメット」があります。カナダの「脳科学者」であるマイケル・パーシンガー氏は,ヘルメットに磁気ソレノイドをつけて弱い磁場(コンピューターモニターから出るのと同じ程度)を発生させて,右大脳半球の側頭葉に磁場を与える装置を考案しました。このヘルメットをかぶった健常人被験者の80%以上が,「神に会った」,「亡くなった夫に会った」などといった不思議な体験をしたのです。そしてこれは右半球の意識が本来の左半球の意識に流れ込むことによって生じたのだと主張されました。この「成果」はCNN,BBC,ディスカバリーチャンネルで放映され大きな反響を呼びます。パーシンガー氏はその後,同じメカニズムで動作する携帯型ヘルメットを開発し,霊的体験を深める装置として販売しています。
 いかにも怪しげな内容ですが,全く根拠がないわけではありません。脳の側頭葉にてんかん発作が生じると霊的体験や神秘的体験をする患者さんの報告は多数あり,また時に至福感に満たされる,神と出会った,宇宙とつながっている感覚が得られた,などといった報告もあります。ですから脳科学的にはあり得るお話なのです。「右半球の意識」や「本来の左半球の意識」という仮説には証拠は一切ありませんが,そのように解釈しようと思えばつじつまを合わせられる研究報告を集めてくることはできます。
 「神のヘルメット」による霊的体験はその後,別の研究者の追試により否定されました。あまりにも初歩的な問題なのですが,パーシンガー氏の実験ではダブル・ブラインドで行われていません。つまり被験者は全員,神のヘルメットによって磁場を与えられていました。ですので彼らの体験は暗示によるものである可能性を否定できないのです。追試実験では「神のヘルメット」をかぶった被験者のうち半数は磁場を与えられ,他の半数は磁場を与えられていません。そしてどの被験者が磁場を与えられたのかは実験者も被験者もわからない状態で実験が行われたのです。何人かの被験者は霊的体験を報告したのですが,そのうちの半数は磁場なしのヘルメットをかぶっていたのです。もともと霊的な話を信じる傾向にあった人が,それっぽいヘルメットをかぶったことで霊的体験をしたのだと考えられます。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.52-53

確証バイアス

 もちろんこのようなゲーム脳論を主張する人たちには,嘘をついて人をだまそうという意図はありません。その学説の主張者は,あくまでも科学的に正しい研究と発見であると本心から思い込んでいるのです。このような強力な信念が先走った論者に対しては,その誤りを正すことは非常に困難です。ここには確証バイアスという心理メカニズムが働いています。一度こうだと決めてかかるとその仮説に拘束され,仮説にもとづいてしか実験結果を認識できなくなってしまうのです。そしてその仮説に合致しないデータは無視して自身の仮説を守り抜こうとします。もちろん社会をより良いものにしたいとの熱意はわかります。ただこれは科学ではありません。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.47

脳トレの作り方

 これを脳の年齢に換算するところが脳トレのオリジナリティーです。この脳年齢は,20代から70代までの各年代の被験者20人,計120人から得られた課題成績データにもとづいています。年齢に応じた被験者の成績の変化を最もよく表すような曲線にもとづいて,いまのあなたの成績は何歳相当かを求めることができるわけです。脳年齢という用語を使うことによって,「脳が鍛えられた」と印象付けることに成功しているのです。
 脳の働きについては知能指数というすでに確立された(といわれている)検査法があります。知能検査でも,脳年齢測定の場合と同じように記憶課題や認知制御課題,反応速度などの課題が用いられています。脳年齢測定とは知能検査の内容をより簡便にしたものと言えるかもしれません。ただし知能指数測定は数千人以上のデータをもとにして,世界各国でも評価されたものです。データ数が多いために年齢ごとの平均得点とばらつきを算出することができます。知能指数はこの平均とばらつきを加味したうえで算出されるわけです。これに対して脳年齢を求めるための基礎データのサンプル数は十分とはいえません。ゲームの点数を脳と関連付けただけであってそんなに目くじらを立てる必要はないのかもしれませんが,脳年齢は学術的な裏付けがあるものではないことは銘記しておいてください。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.27-28

前頭葉

 でも実際には,脳活動計測実験をしたときに,たいていの場合,よく活動するのが前頭葉なのです。ちょっと複雑な課題を被験者に行ってもらうだけで,前頭葉はしっかりと活動します。前頭葉といった場合には,脳の表面の前半分を占めている広大な領域ですから,前頭葉のどの部分でもよいのであればここを活動させることは簡単なことです。さまざまな課題を行ってもらい,そのときの前頭葉の活動レベルを比較するという研究は簡単に成り立つのです。前頭葉研究といっても,比較的手軽にできてしまう脳活動計測実験においては,その研究としての質に大きなばらつきがあります。

坂井克之 (2009). 脳科学の真実:脳研究者は何を考えているか 河出書房新社 pp.24

知能の存在

 アリやヤドカリ,そしてダンゴムシには,身近にある対象をとっさに道具として用いて,問題解決を図る能力,すなわち知能があるようです。そもそも,外骨格という鎧を着けた彼らは,普段からその鎧を道具的に用いているのかもしれません。
 とにもかくにも,知能の存在を裏づける道具使用や問題解決という現象は,人間やチンパンジーなど大きな大脳を持った動物にしか見られないとは,もはや言えないことは,確かなようです。

森山 徹 (2011). ダンゴムシに心はあるのか:新しい心の科学 PHP研究所 pp.142

自制心を失う理由

 正常な人がときとして自制心を失うのは,次のような,私たちの認知にかかわる数々のクルージが相俟って作用するのが原因である。(1)不器用な自制心装置(一時的な怒りに任せて反射型システムに支配権を渡してしまう)。(2)確証バイアスの狂気(自分がいつでも正しい,またはほぼ正しいと私たちに思わせる)。(3)確証バイアスの邪悪な従兄弟である「動機づけられた推論」(たとえ間違っていたとしても,自分の信念にしがみつく)。(4)記憶の文脈依存性(誰かに腹を立てていると,過去にその人に腹を立てた別の理由を思い出す)。要するに,これらの理由で「熱い」システムが「冷たい」理性を支配するままにおかれるのである。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.226

本能に従う

 当然,祖先型システムが下すにふさわしい決断があり,状況によってはこのシステムでなければ無理な場合すらある。瞬間的な決断をせねばならない場合を考えよう。ブレーキを踏むか,隣の車線に移るかを決めねばならないとき,熟慮型システムでは,いかにも遅すぎる。同様に,多くの変数がからんでいるときは,意識を持たないシステムのほうが,一定の時間を与えれば,意識ある熟慮型システムより優れた決断をすることがある。目の前の問題がスプレッドシートを必要としそうならば,統計に秀でた祖先型システムの出番かもしれない。マルコム・グラッドウェルは近著『第1感「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』でこう論じる。「瞬時の決断は,意識して考えた末の決断と同じくらい有効なことがある」
 それでも,むやみやたらに本能を信じてはいけない。私たちが瞬時の決断を下せるのは,同様の問題について豊富な経験を有しているからである。一瞥して贋作をそれと見抜いたという学芸員など,グラッドウェルが挙げる事例の大半は,素人ではなく専門家のエピソードだ。オランダの心理学者アプ・ダイクステルハイスは,世界でも有数の直観に関する研究者である。彼の弁によると,私たちの最良の直観は,長年の経験に支えられた,意識を経由しない思考の末に得られたものであるという。効果的な瞬時の決断(グラッドウェルの「ひらめき」)は多くの場合,時間をかけて丁寧に焼き上げたケーキに,最後にほどこす砂糖掛けのようなものにすぎない。これまで経験したことのあるものとはかなり異なった問題に直面したときには特に,もっとも頼りになるのは熟考推論である。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.135-136

文化の所産

 実際のところ,論理に基づく真に明示的な推論はおそらく,進化によって得られるものではないのだろう。人間が形式論理を操るという意味において合理的であると言えるとするなら,それは私たちに生まれつきそのような能力が備わっているからではなく,私たちが推論規則を学べる(いったん学べばその真偽を認識できる)ほどに賢明であるからに過ぎない。正常な人間はすべて言語を獲得するが,形式論理を使って信念を形成し,あるいは信念を検討する能力は,進化というより文化の所産であるように思われる。進化によって可能にはなるが,必ず保証されているわけでもなさそうなのである。形式的な推論があると仮定しての話だが,それは主として文字を持つ文化に見受けられ,文字を持たない文化で見つけることは難しい。ロシアの心理学者アレクサンドル・ルリアは,1930年代末に中央アジアの山岳地帯に赴き,原住民に次のような三段論法をどう思うかと尋ねた。「シベリアのある町では,クマはみんな白い。あなたの隣人がその町でクマを見つけた。そのクマは何色か」。答えた人はまるで理解を示さなかった。典型的な答えはこうだ。「なんで私に分かる?どうして先生そいつに直接訊かないんだい?」20世紀にさらに行われた研究によってこの結果は再確認された。無文字社会の人びとはおおむね,三段論法に関する質問に対して理解できない様子だった。このことからは,こうした社会の人びとが形式論理を学べないということは言えない——一般的には,少なくとも子どもなら可能だ——が,抽象的な論理の獲得が言語習得のような自然で自動的な現象でないことは言える。したがって,逆にこうも言えることになる——信念について推論するための道具である形式論理は,進化によって獲得されるのと同時に学習によって身につけるものであり,(人間は生まれつき理性的であるという考えを信奉する人が考えるように)生得の能力ではないのである。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.93-94

「何でも喜んで信じる」

 生物に信念の汚染,確証バイアス,動機づけられた推論といった傾向をすべて兼ね備えさせてやれば,そう,ほとんど何でも喜んで信じ込む種が生まれる。歴史を振り返れば,人間は,(それを否定する証拠にもかかわらず)平らな地球,幽霊,魔女,占星術,動物の霊,自分を鞭打つことや瀉血の効用などを信じてきた。幸いなことに,これらの信念の多くは現在では消滅しているが,一部の人はいまだに額に汗して貯めた金を霊能者のお告げや降霊会につぎ込む。私自身,はしごの下を歩くのを躊躇うこともあることを白状しておこう(訳注 はしごの下を歩くと死ぬという古い言い伝えがある)。政治に目を向ければ,2003年のイラク侵攻の18ヵ月後,ジョージ・W・ブッシュに1票を投じた人びとの58パーセントは,イラクに大量破壊兵器があるとまだ信じていた。これを否定する証拠があったにもかかわらず,である。
 そして,ブッシュ本人の逸話がある。彼は全知全能の神と個人的に直に話をすることができると信じていると伝えられている。そのこと自体は選挙に当選するためには有利に働いた。アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチセンターが2007年2月に発表した調査によると,アメリカ人の63パーセントは神を信じない人物には投票しないと答えたという。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.85

動機づけられた推論

 自分が信じないものより信じたいもの(信じようという動機づけがなされているもの)をやすやすと認める傾向は,「動機づけられた推論」として知られる。確証バイアスの逆パターンとも言える。確証バイアスが自分の信念に一致するデータに無意識のうちに目が行く傾向であるのに対し,「動機づけられた推論」は,自分が信じる考えより信じない考えのほうに目くじらを立ててチェックを入れる,逆の傾向だ。クンダが行った実験を見てみよう。彼は男女半々の被験者にカフェインが女性によくないとする記事を読んでもらった。私たちの信念——そして推論過程——は動機づけの有無によって汚染されるという考えどおり,カフェイン入りの飲み物をたくさん飲む女性は,そうした飲み物をそれほど飲まない女性に比べて,記事に強い疑念を示した。その一方で,自分にはかかわりがないと感じた男性には,そうした傾向は見られなかった。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.83

一致する証拠へ

 もちろん,何かを十分に吟味するということは,それに賛成と反対の両方の立場から論理的に検討することを意味する。しかし,意識して他の選択肢——自然と頭に浮かぶものではない——を検討するのでもない限り,私たちは正しいとされる説と矛盾する証拠よりは,一致する証拠を思い出すものである。自分の信念と矛盾しない情報のほうが鮮明に思い出されるため,たとえその信念が誤っていたとしても捨て去ることは非常に難しくなる。
 むろん,同じことが科学者にも当てはまる。科学の目的はバランスよく証拠に取り組むことであるが,科学者とて人の子である。どうしても自分の説を裏づける証拠に目が行く。過去の科学文献を何でもいいから読んでみると,天才ばかりがいたわけではなく,現代の視点から見ると奇人としか思えぬような人物も多い。地球が平らであると信じていた人しかり,錬金術師しかりである。歴史はそのような虚構を信じた科学者には優しくない。しかし真の現実主義者なら,文脈依存記憶にこれほど支配された種であれば,こうしたことは大いにあり得ると考えるであろう。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.81

周辺情報による影響

 アンカリングは心理学関連の文献ではかなり話題になったが,人の信念や判断がときとして無関係な周りの情報によって汚染される唯一の例ではない。もう1つ別の例を考えてみよう。この実験では,被験者は上下の歯でペンを軽くくわえ,唇に触れさせないようにと指示される。すると口をすぼめた別の被験者より漫画を楽しいと評価した。どうしてなのだろう。鏡に向かって次のことを試してみると答えのヒントが得られるかもしれない。歯でペンを軽くくわえ,唇に触れさせないようにしてみよう。さて,鏡の中のあなたの唇の形を見てほしい。唇の両端が笑っているように上がっているのがわかるだろう。文脈に依存する記憶の力によって,唇の両端が上がっていると,反射的に楽しくなると了解できる。
 同様の実験では,被験者は利き手ではない方の手(右利きの人の場合は左手)を使って,有名人の名前を“好き,嫌い,どちらでもない”に分類して書くように指示された。この間,次にどちらかのことを同時にするように求められた。(1)利き手を手のひらを下にむけてテーブルの表面に押しつける。(2)利き手を手の平を上に向けてテーブルの裏面に押しつける。手の平を上に向けた被験者は,嫌いな人より好きな人の名前をたくさん書いた。一方で,手の平を下に向けた被験者は,嫌いな人の名前をたくさん書いた。なぜだろう?手の平を上に向けた人は腕を曲げた肯定的な姿勢,すなわち心理学で言う接近/回避行動の「接近」にあたる姿勢を取っており,手の平を下に向けた人は腕を伸長した「回避」の姿勢を取っているからである。各種のデータは,こうした微妙な違いでさえ,私たちの記憶,ひいては信念を日常的に変えていることを示している。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.72

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