忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

生涯修正は続く

 環境からのメッセージに対する脳の反応は,経験によってかたちづくられる。それも神経科学者の大半が思い込んでいるように胎児期および嬰児期の経験だけではなく,生涯にわたる経験によって形成される。言い換えれば,わたしたちがどう人生を生きるかが脳を発達させ,つくりあげる。マーゼニックにとってこの発見の真の意義は,一般に考えられている行動と精神の障害の原因と関係していた。「わたしたちが脳と呼ぶマシンは,生涯修正が続く」と彼は20年近くのちに語った。「それを有効活用するためには,まったく違った考え方が必要だった。脳をパーツも能力も決まっているマシンと考えるのではなく,生涯にわたって変化する能力をもつ器官とみる考え方だ。わたしはこのことが正常な行動と異常な行動の両方に関係すると,口を酸っぱくして説明した。だが聞く耳をもつ人は少なかったし,意味を理解する人はほとんどいなかった」

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.190-191
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)
PR

どうすればいい?

 生まれたばかりの視覚システムのニューロンが取り組む課題を考えてみよう。目標は次のような機能的回路をつくり上げることだ。網膜の桿体細胞と錐体細胞からの信号が網膜の介在ニューロンに届き,そこから網膜の神経節細胞に(これが視神経),そこから外側膝状体に達するが,ここで左目からの軸索と右目からの軸索が交差して視交叉をつくる。ここから信号は後頭部の一次視覚野の細胞に送られ,ここで左目からの信号を受け取るニューロンの束は,右目からの信号を受け取るニューロンの束とはべつべつの層をつくる。視覚信号が適切に伝えられるには,目から出た軸索が外側膝状体の正しい場所に達しなければならないし,外側膝状体から出た軸索は聴覚野や感覚野(こっちに先に達する)のシナプスでおしまいにしたいという衝動に抵抗して,はるばると一次視覚野の適切なターゲットまで伸びていかなければならない。しかも網膜で隣り合う細胞は外側膝状体でも隣り合うニューロンに届かなければいけないし,そこから視覚野の隣り合う細胞へと伸びていかなければならない。最終目的は,視覚野で隣り合う数百のニューロンの塊が,赤ちゃんの視野のある小さな部分に反応するニューロンとだけ結合することだからだ。どうすれば,こんなことができるのか?

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.121-122
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

子供の脳の可塑性

 子どもの脳の柔軟性あるいは可塑性はほとんど奇跡だ。半球を失っても,最悪でも片側の周辺視野や細かい運動機能が損なわれるにとどまる。外科医が左半球をすべて摘出し,言語野とみられている全部を取り去っても,手術が4歳か5歳までに行われれば,子どもは話したり読んだり書いたりすることを学べる。大半の人は脳の左半球が言語をつかさどっているが,子どもの脳はパンチをかわして,言語機能をまるごと反対側の右半球に移し替えることができるらしい。だから,脳が障害を負ってもともと言語野とされる部分の機能を失ったのが2歳になる前であれば,脳の機能が再構成されて,言語野が移動する。4歳から6歳だと,本来の言語野が損なわれれば重度の学習障害が残るが,それまでに学んだ言語は維持できるのがふつうだ。
 6,7歳を過ぎると,脳の進路は決まっているので,言語野が損なわれると思い永続的な言語障害になることがある。成人が言語野である左脳シルヴィウス溝周辺に損傷を受けると,最近のことも理解することもできなくなる。学齢期前の子どもは脳の半分を失っても回復するが,同じ半球のごく小さな部分を損傷したおとなの卒中患者は言葉を失う。幼い子どもの脳は驚くほどの可塑性を有するが,柔軟だった神経は数年もすると融通の利かない頑固者になる。環境が変化しても脳は再構成を拒否するのである。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.104-105
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

説明しきれない

 OCDの治療の成果は,意識的,意志的な心が脳とはべつもので,物質つまりモノとしての脳だけでは説明しつくせないことを物語っている。初めてハードな科学が——PETで造影された代謝活動以上に「ハード」な証拠があるだろうか——「心とはほんとうに物質にすぎないのか?」と問いかける陣営に肩入れしたのだ。
 四段階療法で脳に起こる変化は,意志的,精神的な努力が脳機能を変えうること,そして,このような自発的な脳の変化——神経の可塑性——が本物であることを示す力強い証拠である。
 もう一度,いわせていただきたい。四段階療法は自主的な治療法というだけにとどまらない。同時に,自発的な神経の可塑性への道でもある。
 唯物論の還元論者からは,きっと反対の声があがるだろう。「おまえのいうのは,脳の一部がほかの部分を変えるということだ。脳が脳を変えるのであって,PETで明らかになった変化を説明するのに,心と呼ばれる非物質的な存在を持ち出す必要はない」と。
 だが,唯物論者の説明では,どうしたってここでいっている変化は説明しきれない。OCDに苦しむ人々を訓練するには,自らの意志的な行動の効力を信じる心を揺り動かさなければならない。自分の脳の回路を系統的に変えるためには何をすべきかをOCD患者に説得するには,唯物論の因果関係に立脚した説明だけでは不十分だし,効果があがらない。行動療法(四段階療法もそのひとつ)が効果をあげるためには,意志が何かを生み出すという実感を含め,患者の内的体験の活用が必要不可欠なのだ。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.97-98
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

唯物論=科学

 哲学者の世界はともかく科学の世界では,19世紀に科学的唯物論が高まってデカルト流の二元論ははるか彼方に置き去りにされたように見える。唯物論は知的流行として一世を風靡しただけではない。事実上,科学と同義語になった。生物学から宇宙論の分野まで,科学は科学以前の文化で自然現象にあてはめられてきた非物質的な説明を駆逐したとされる。かつて嵐を呼んだ不思議な力は,気圧と温度の組み合わせにすぎなくなった。電気的現象の背後にひそむゴーストは,粒子の運動であることが明らかになった。唯物論的見方によれば,心とは神経の電気化学的作用以上のものではない。コリン・マッギンは言っている。「これは,自然のプロセスが意識のプロセスを引き起こすからではない。自然のプロセスが意識のプロセスそのものだからである。意識のプロセスは自然のプロセスの一面にすぎないからではなく,むしろ意識には神経の相互作用以外のものがないからである」

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.39-40
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

唯物論の問題

 神経の活動と心の体験を同一視しない方がよさそうだと感じとっていただくためには,オーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが考えた思考実験をしていただくのがいい。
 まず,色覚異常の神経科学者が色覚の研究をすると想像しよう(ジャクソンはこの神経科学者にメアリと名づけた)。彼女は650ナノメートルの波長の光が被験者の目に入ったときに何が起こるかを細かく調べる。視床の外側膝状体から視放線を通って一次視覚野に入る視覚神経の回路を丹念に跡づけ,次に側頭葉の視覚連合野の関連領域の活動を注意深く記録する。被験者はその結果を報告する。「赤が見えます!」—なるほど,大変けっこう。メアリはその刺激,つまりある波長の光を把握し,この刺激が活性化した脳の回路をていねいに追跡する。
 さて,色覚異常の神経科学者メアリは,赤い色の感じについてほんとうに深く知ったといえるだろうか?たしかにインプットはわかったし,ニューロンの相互作用についても知った。だが調べて知った「赤い色」の知識とでは,劇的かつ質的な違いがあるのではないか?
 知覚の生理的メカニズムを理解するのと知覚を意識的に体験するのとはまったく違うことだと,長々と説明する必要はないだろう。ここでは,意識的な体験とはあることの認識,あることへの関心とかかわり,中枢神経システムの知覚機構から検討のために提示される何かである,としておこう。この意識的な体験,赤の色覚という精神状態がどんなものかは,関連のニューロンの活動をつきとめただけでは表現しきれないし,まして完全な説明にはならない。神経科学者は痛みやうつ,不安と関連するニューロンをつきとめている。だがそれだけでは,そのニューロンの活動のうえにある精神的な体験を十分に説明できていない。ニューロンの状態は精神の状態ではない。心の存在は(これまでわかっているかぎりでは)物質的な脳に依存するが,しかし心は脳ではない。哲学者のコリン・マッギンは言った。「唯物論の問題は,いくら足し合わせても心になりえないものから心を組み立てようとすることだ」

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.32-33
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

唯物論の勝利

 何しろ現在の神経科学者のほとんどは,種々の脳神経の集まりの活動と,一般的にいえばある精神状態との関連さえわかれば,精神活動がどこから生じるかという問題が解決する,と頭から思い込んでいる。うつ状態が前頭皮質と扁桃体を結びつける回路の活動に関係していることが跡づけられれば,それで説明完了というわけだ。記憶の形成と海馬の電気化学的活動とが関連づけられれば,記憶についてはわかったことになる。たしかに,まだなすべきことはたくさんあるだろう。だが最大の謎—心という言葉が表す壮大な現象が,ほんとうに脳だけで説明できるのか—は,まっとうな科学的研究の対象ではない,と大半の研究者が考えている。これこそ唯物論の勝利というしかない。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.27
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

サブリミナルなメッセージ

 霊的な直感とみなされるものの場合も,やはり脳が裏で糸を操っているにすぎないことが研究でわかっている。いわゆる直感とは,精神が第六感で得た情報ではなく,脳がすでに知っていたのに僕たちに教えなかった情報だ。その情報が公開されるのは,僕たちではなく,脳が公開すべきタイミングだと判断したときだけ。人はそうしたほうがいいと感じられるから,予感や直感がするからといって決断を下すことがよくあるが,それは第六感の働きではない。脳が僕たちには意識されないサブリミナルなメッセージを受け取っているのだ。
 ポーカーをしているときがいい例だろう。プレイヤーはちょっとした表情やしぐさで手の内を教えてしまうことがある。ちょっぴりとろい僕たちはそれに気づかないが,脳はしっかり気づく。けれど,脳は気づいたことを教える代わりに胃の中がざわざわするような感覚を起こすだけ。その感覚のおかげで相手の手の内を正しく読み解くと,俺の直感力ってすごい,俺はサイキックに違いないなどと本人は考える。だが実際には,鋭敏なのは脳のほうだ。僕たち人間は鋭敏であることを好まない。

ウィリアム・リトル 服部真琴(訳) (2010). サイキック・ツーリスト:霊能者・超能力者・占い師のみなさん,未来が見えるって本当ですか? 阪急コミュニケーションズ pp.381

支配という名の幻想

 自己の能力を信じる力はあまりに強く,私たちはしばしばコイン投げやトランプのゲームといった偶然の出来事まで支配できると思いこんでしまう。
 何年も前におこなわれた有名な一連の実験によって,現在ハーヴァード大学教授のエレン・ランガーは,もっと分別があってしかるべきグループ——イェール大学生でも,この傾向が見られることを示した。
 ランガーは,イェール大学の学部生に,教員とカードを使ってゲームをさせた。単純なゲームだ。各自が1枚ずつカードを引いて,数が大きなほうの勝ちとする。学生は毎回,0〜25セントを賭けることができた。
 だが,このゲームにはしかけがあった。学生の一部は,洒落た服装をした,いかにも有能そうな人物と対戦し,ほかの学生たちは教員らしくない運動着のさえない先生を相手にした。どちらの場合でも,数が大きいカードを引く確率は同じである。カードにはプレイヤーが何者かなど関係ないのだから。だが学生はおおいに気にした。そこが重要な点だ。
 学生は,さえない教官と対戦するときには,自分が大きな数のカードを引くのに自信満々だった。この自信が掛け金に表れたのだ。「さえない教官」が相手のときは「有能そうな教官」と勝負するときよりも賭ける金額がつねに高かったのである。
 学生にコイントスの結果を予測させたときも同様の効果が認められた。このゲームにもしかけがあった。実験の協力者が放り投げたコインが空中にあるうちに学生が表か裏かをコールするのだが,結果はあらかじめ決めてあった。一部の学生にだけ最初の数回を当たったと告げることにしたのだ(学生にはコインが表か裏かは見せない)。
 この最初の連勝は,学生の自信に大きく影響した。しばらくすると,しょっぱなから当たったと信じた学生たちは,自分には表か裏かを当てる能力があって,半分以上の確率で予想を的中させられると確信するようになったのだ。だが,もっと興味深いのは,ゲーム後のコメントである。学生の40%が,「練習をすれば的中率を上げられる」と本気で思っていた。ランガーはこの現象を「支配という名の幻想」と呼んだ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.216-217

ミスに気づかない理由

 ゴルドフスキーの時代からスキムに関する研究は重ねられ,知見は広げられた。世界的に有名な音楽心理学者ジョン・スロボダは,サンプルの楽譜にある音符をいくつかわざと変えておき,ベテランの音楽家にそれを1度でなく2度,演奏させてみた。初回の演奏では,変更された音符のほぼ38%が見落とされてしまった。
 だが,ほんとうに興味深いのは2度目の演奏で起きたことだ。うっかりミスを見落とす割合は下がらないどころか,むしろ上がったのである!つまり音楽家は,たった1回の演奏で曲を頭に入れてしまい,2回目には音符を見ずに,パターンを探りながら演奏したのだった。簡単に言うと,スキムしていたのだ。
 この傾向は,私たちがなぜ自分のミスに気づかないのかを理解するために大きな意味をもつ。ものを見慣れるにつれて気づくことは増えず,むしろ減りがちである。ものごとをありのままにではなく,あるべき(と思う)ように見るからだ。この深く根ざした行動のせいで,音符のような小さなものばかりか,驚くほど大きなものも見逃しかねない。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.157

引用者注:「スキム」は“scheme”だろうか。心理学では「スキーマ」とされることが多いのでは?

目が見えるとは

 第二次世界大戦の開戦前のこと,ドイツ人研究者マリウス・フォン・ゼンデンは,白内障でいったん目が見えなくなって,のちに手術で障害を克服した100人近い患者の例を広く西側世界から集めて発表した。
 多くの患者にとって,見ることを学ぶことは苦痛をともなう経験だった。ある男性は,思い切ってロンドンの街に出かけたが「視覚が混乱して,もう何も見えなくなった」。別の男性は距離の判断がつかなかった。「そこでブーツを脱ぎ,前方に投げ,落下地点までの距離を測ろうとした。ブーツに向かって数歩踏み出し,つかみかかった。手が届かなければ1,2歩進んで手さぐりし,やっとブーツをつかめた」。ある少年は,視力の回復があまりに困難なせいで,目をえぐり出してしまいたいと言いだした。ほかの多くの患者はもっぱら落ちこんで,見るためのリハビリをすっぱりやめてしまった。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.40

波に乗ったように思えるのは

 「波に乗る」という現象が信じられていることの第2の説明は,ハッキリとした先入観を持っていないような場合でさえ,ある種の基本的プロセスによって,データが間違って解釈される可能性があるとするものである。人は,偶然によるできごとがどのようなものであるかについて,間違った直観をもっていることが心理学者によって明らかにされている。たとえば,投げ上げたコインの裏表の出方は,一般に考えられているよりも裏や表が連続しやすい。そこで,裏表が交互に出やすいものだという直観に比べて,真にランダムな系列は,連続が起こりすぎているように見えることになる。コインの表が4回も5回も6回も連続して出ると,コインの裏表がランダムに出ていないように感じてしまう。しかし,コインを20回投げたとき,表が4回連続して出る確率は50%であり,5回連続することも25%の確率で起こりうる。表が6回連続する確率も10%はある。平均的なバスケットボールの選手は,ほぼ50%のショット成功率なので,1試合の間に20本のショットを試みるとすれば(実際,多くの選手はこれくらいショットを試みる),あたかも「波に乗った」かのように,4本連続や,5本連続,あるいは6本連続でショットを決めるようなことは偶然でも十分起こりうることなのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.23-24
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

連帯感によるミラーニューロンの活性化

 スキャンの当日,被験者はただ顔を見ることだけを求められ,そのあいだの脳活動がfMRIで測定された。結果は,私が自分の仮説から予測していたとおりのものだった。被験者の脳内のミラーリングが表すものの1つに,人間社会全体という大きなコミュニティの内部にある特定のコミュニティへの連帯感や帰属感があるだろうという仮説である。政治通の被験者のミラーニューロン領域は,政治家でない有名人や知らない人物を見ているときよりも,政治家を見ているときに最も活性が高まっていた政治初心者のミラーニューロン領域は,政治家を見ているときも政治家でない人物を見ているときも,なんら活性に変化がなかった。この政治通の被験者から得られた結果を,第4章ので述べた,感情的な表情の観察と模倣に関する以前の調査結果を比べてみたところ,活性化している場所が驚くほど一致していることがわかった。この解剖学的一致から言えるのは,私がこれらの活性化の基盤として仮定していた抽象度の高いミラーリング——特定のコミュニティへの帰属感——においても,ミラーニューロンシステムは基本的な神経機構,つまり,もっと日常的なミラーリング課題でも活性化する神経機構を使っているということだ。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.305-306

言語報告と知覚の断絶

 最近の研究でも,言葉による報告と知覚とのあいだに劇的な断絶があることが実証された。2つの女性の顔の魅力度を査定するよう求められた男性被験者が,写真だけを基準にして,より魅力的な方の顔を選ぶ。選択が終わると,すぐに写真は回収される。数秒後,被験者は2枚の写真のうちの1枚を見せられ,なぜこの顔のほうが魅力的なのかを説明させられる。この実験のトリックは,ときどきこの質問のときに,被験者が選ばなかったほうの写真を見せられることだ。つまり,魅力度が低いと見なされた女性の写真が提示されるのである。選ばなかった写真を見せられた被験者はすぐに自分がだまされていることに気づくだろうと思うかもしれないが,驚くべきことに,操作されたテストに気づくのはたった10パーセントなのである。つまり10人に1人!いまではこの現象に選択盲という名称がつけられている。ことほどさように,私たち人間は自分で選択したものが見えなくなってしまうらしい。この実験結果は,人間が完全に自分の決定をコントロールできる合理的な意思決定者であるという考えと明らかに食い違う。そしてどう言っていいかわからないことに,被験者はトリックに気がづかないと,その選ばなかった顔がどうして魅力度が高いかについて,いかにももっともらしい理由を説明しだす。実際,彼らが本当に選んだ顔についての説明と,取り替えられた顔についての説明に,実質的な違いはほとんどないのだ。あるいは被験者が自分の間違いに気づいていながら,恥ずかしいから黙っていることにしたという可能性はあるだろうか?おそらくない。実際,被験者は自分がだまされたと気づいたとたん,実験全体を疑うようになるので,次のテストは分析から外さなければならなくなる。
 こうした事実をつきつけられては,私たちの意思決定についての言葉による報告をどうしてうのみにできようか?そこで出てきたのがニューロマーケティングといって,人間の行動をもっと正しく理解し,予測するのに,神経科学を使おうという考えである。脳撮像を社会の様々な局面に適用する時機がいよいよ熟したということだ。行動に関連した神経機構についての知識はたいへんな勢いで増えている。脳スキャナーも以前よりずっと利用しやすくなっている。これを使って脳の活動を調べれば,人間が決断を下すとき,何を買うかを決めるとき,実際に何が起こっているかをずっと正確に把握できる。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.270-271

音声知覚に必要なもの

 数年前,エール大学ハスキンス研究所のアルヴィン・リバーマンらが,テキストを音声に変換する装置を開発しようと試みた。戦争で視力を失った退役軍人が本や雑誌を「読める」ようにするのが目的だったが,残念なことに,できあがった装置から発せられる音を退役軍人たちはなかなか聞き取れなかった。その知覚の遅さは耐えがたいほどで,人間の生の音声をゆがめたものを聞き取るよりずっと遅いぐらいだった。この観察結果から,エール大学のチームは発話の音声知覚に関する1つの仮説を提出した。発話音は音として理解されるというよりも,むしろ「調音ジェスチャー」として理解される——つまり,話すのに必要な意図された運動計画として理解されるというのである。この「音声知覚の運動指令説」が言っていることは要するに,私たちの脳は話をしている自分自身をシミュレートする(!)ことによって他人の発する音声を知覚している,ということである。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.131-132

科学の進展は葬式をひとつ経るごとになされる

 たしかに多くの脳細胞は,限定的な働きにきわめて特化されているように見える。しかしながら,ニューロンを単純に類別できる——知覚と行動と認知それぞれの境界が越えられることはない——と思っている神経科学者は,もっとはるかに複雑なことをコードするニューロン活動,あるいはあえて大胆な言い方をすれば,脳がこれまで考えられていたよりもずっと「全体論的」に世界とかかわっていることを示唆するニューロン活動を,完全に見落としている(あるいは単なる偶然と切り捨てている)のかもしれない。ミラーニューロンはまさにそういう事例だった。パルマの研究者もみなそれぞれ優秀な科学者だったが,それでもやはり,運動ニューロンが同時に知覚ニューロンでもあるとは考えもしていなかった。これをよく言い表した古い名言がある——「科学の進展は葬式をひとつ経るごとになされる」。あまり縁起のよろしくない,かなり大げさな表現だが,誰でもご承知のとおり,古いパラダイムを捨て,まったく違った観点からものを見て,考え方を変えるのはとてもたいへんなことだ。これはなにも科学に限った話ではない。実際,パルマ大学の研究室で記録された「複雑な視覚反応」を理解するには当初,科学者たちはその世界で何十年も前から受け継がれてきた前提に異議を申し立てる心構えができていなかった。それらの前提をもとにして多くの生産的な研究がなされてきたのだし,これまでなされた発見はどれひとつとして,その前提に矛盾していなかったのである。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.23-24

二重思考の効用

 作家のジョージ・オーウェルは小説『1984』の中で,二重思考の概念を登場させた。自分の中に相反する2つの考え方を共存させ,両方とも受け入れることである。オーウェルの小説でこの方法を使うのは,たえず歴史を改竄しつづけ,大衆支配をもくろむ独裁政府である。だが最近の研究で,同じ手法のもっと前向きな使い方が示された。目標を達成し夢を実現させるために,応用ができるのだ。エッティンゲンはやる気を出すには,自分の目標達成について楽観的になる(プラス)と同時に,行く手に待ち構える問題(マイナス)を現実的に捉えるほうがいいと考えた。それを実証するため,彼女は風変わりな設定で参加者にプラスとマイナスの両方を考えてもらい,一連の実験でその有効性を調べた。
 やり方は簡単だ。まず参加者は減量,新しい技術の習得,節酒など自分が達成したい目標について考える。つぎに目標を達成したときの自分をしばらく想像し,目標達成でえられる最高のメリットを2つ書き出す。続いて参加者は,目標達成を目指す過程で遭遇しそうな困難や障害についてしばらく想像し,最大の障害を2つ書き出す。ここで二重思考が登場する。参加者は第1のメリットについて,それによって自分の生活がどれほど楽しくなるか細かく具体的に考える。その直後に,成功の前に立ちはだかる第1の障害について,遭遇したとき自分はどうするか細かく具体的に考える。同じことを第2のメリットと第2の障害についてもおこなう。
 いくつかの実験を通して,エッティンゲンはこの方法にプラスとマイナスの相乗効果があることを発見した。たとえば参加者が対人関係の改善を望んだ場合,二重思考をとるほうがたんにプラスだけの場面,あるいはマイナスだけの場面を想像したときより,成功する割合が高かった。エッティンゲンは,ひそかに恋心を抱く学生を対象とした実験に,二重思考の方法を取り入れてみた。夢と現実の両方を自分の中に取り入れた学生は,ひたすら甘いデートを夢見たり,恋心を打ち明けるむずかしさばかりを考えたりする学生より,恋に成功する割合が高かった。二重思考は,職場でも役立つことが証明された。社員を研修コースに参加させる,部下を効果的に使う,時間管理能力を上げるときなどに効き目があったのだ。

リチャード・ワイズマン 木村博江(訳) (2010). その科学が成功を決める 文藝春秋 pp.93-94

可用性バイアス

 5番目にnがくる6文字の英単語と,ingで終わる6文字の英単語とでは,どちらの数が多いだろうか。ほとんどの人間がingで終わる6文字の英単語を選ぶ。なぜだろうか。ingで終わる単語は,5番目にnがくる6文字英単語より思いつきやすく,数が多いように思えるからだ。
 しかし,その推測が間違っていることを証明するのに『オックスフォード英語辞典』を調べる必要はないし,勘定の仕方を知る必要さえない。というのは,5番目にnがくる6文字の英単語のグループには,ingで終わる6文字の単語が含まれているからだ。心理学者はこの種の間違いを「可用性バイアス」と呼んでいる。われわれは過去を再構築する際,もっとも生き生きした記憶,それゆえもっとも回想しやすい記憶に,保証のない重要性を授けてしまうのだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.46
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

引用者注:ここでの「可用性バイアス」は,「利用可能性バイアス」と呼ばれることもある。

脳波研究はじまりのエピソード

 昔,ドイツの片田舎にハンスという内気な少年がいた。父は医者だったが,医学よりも祖父が書いた詩を愛し,夜空の星に魅せられていた。高校を卒業すると町に出て,天文学者を目指して大学に通った。しかし,都会暮らしは肌にあわず,すぐに退学して騎兵隊に志願する。平和な時代だったので,1年間の兵役では,のどかな自然のなかで馬乗りを楽しめるはずだった。
 ところがある朝,乗馬訓練中にハンスの馬が突然暴れだした。ハンスは,宙に放りあげられ道に打ちつけられるやいなや,馬に引かれた鋼鉄の大砲がハンスに向かって突進してきた。もうダメだ,とハンスは息をのんだ。しかし奇跡的に,すんでのところで馬たちがなんとか押しとどまった。ハンスは肝をひやしたが,大きな怪我もなく命拾いした。
 ちょうどそのころ,遠く離れた実家ではハンスの姉が訳もなく不吉な気持ちにとらわれた。ハンスに何か悪いことが起きたというのだ。彼女があまりに心配するので,父親がハンスに電報を打つことにした。
 その夜,ハンスはその電報を受けとる。父親から電報がきたのは初めてなので,けげんに思ったが,自分のことを気遣った姉の気持ちを知って,その日に抱いた恐怖感がなんらかの方法で姉まで届いたのだと,彼は確信した。だいぶ後になってハンスは,「これは死の危険に直面して自発的に起きるテレパシーの事例である。死を予期した私がその思いを送ると,仲のよかった姉がそれを受け取ったのだ。」(1940年の自伝)と記している。
 この体験によって,ハンスの興味は宇宙の奥底から人間精神の奥底へと大転換する。兵役を終えるとすぐに大学で医学の勉強を始めたのだった。彼の言う「精神エネルギー」が,どのように姉へとメッセージを伝えたか,それを追究していこうと決心したのである。
 大学での長年の努力により,ついに彼は脳波の記録法を開発する。後にアルファ波と呼ばれる種類の脳波は,ハンスの苗字をとって「ベルガーリズム」として親しまれた。心の主観的状態と脳波の関連性は,彼が最初に見つけたのである。彼はまた初期の情熱を失うことなく,200人以上の被験者にわたって,催眠状態におけるテレパシーの実験を繰りかえした。結局ハンスは,若いころのテレパシー体験をうまく説明できなかったが,現代の神経科学の基礎を築いたのである。脳波から断層撮像法に至るまでの現代の脳メカニズム研究は,ハンスの研究に端を発しているのだ。

ディーン・ラディン 竹内薫(監修) 石川幹人(訳) (2007). 量子の宇宙でからみあう心たち:超能力研究最前線 徳間書店 pp.58-60

無意味な議論

 最初の議論に戻りましょう。脳とは何でしょう。機能的に考えた場合の脳です。ある種の認識や判断や行動命令には,脳は必ずしも必要ではない。情報処理や恒常性維持(外部環境の変化に対し身体の中の状態を一定に保つこと)は,身体のあちこちの器官で,脳とは独自にやっています。それどころか,脳の機能と考えられてきた意識を正常に維持するには,骨や筋肉やそして皮膚が必要なのです。頭蓋骨の中の豆腐のような器官と,風呂でごしごしこすられる器官とで,どちらが上位か,どちらが重要か,どちらが「こころ」をつくっているか,そういう議論が無意味に思えてこないでしょうか。
 あえて言えば,絶え間なく変化する環境の中で生きている存在にとって,その境界たる皮膚の方が,生命維持のみを考えた場合,脳より上位と言うことも可能かもしれません。

傳田光洋 (2007). 第三の脳:皮膚から考える命,こころ,世界 朝日出版社 pp.101-102

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]