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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

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焦点を絞ることによる錯覚

 人の注意を特定の情報に向けさせることでその人をたやすく操作できるというのが,「焦点を絞ることによる錯覚」と呼ばれる現象だ。ある単純だが示唆に富む研究では,大学生が2つの質問に答えるように指示された。その質問とは,「あなたは人生一般にどのくらい満足していますか」と「先月何度デートしましたか」だった。一方の学生グループは,この順番で質問された。もう一方の学生グループは順序を入れ替えた形で質問を受けた。つまり,2番目の質問が先で,1番目の質問が後だった。幸せに関する質問を先に訊かれたグループでは,2つの質問に対する学生の答えにほとんど相関は見られず,あまりデートしていなくとも幸せだと答えた学生もいれば,頻繁にデートしていても悲しい思いをしていると答えた学生もいた。ところが,質問の順番を反対にすると,学生の注意は恋愛に集中した。突然,恋愛と幸福を切り離して考えられなくなったのである。頻繁にデートしている学生は幸せと感じ,あまりデートしていない学生は不幸せと感じた。違いは一目瞭然だ。デートの質問を先にされた学生の判断は,デートの頻度と強い相関を示した(幸福感の質問を先にされた学生の場合はそうではなかった)。この結果にあなたは驚かないかもしれない。が,じつは驚くべきなのだ。というのも,このことは私たちの思い込みや信念が,本当はひどく何かの影響を受けやすいことを如実に示しているからである。私たちの自己評価すら,その時点で何に心の焦点が合わさっているかに影響されるのだ。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.67-68
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いいかげんな

 討議や評価,あるいは内省の対象となるような,明確に表現された信念を持つ能力は,言語と同様に進化によって比較的最近に得られたものである。この能力はヒトには普遍的に見られるが,他の大半の種では珍しいか,まったく存在しない。そして,比較的最近に獲得されたものゆえ,欠陥の除去が十分に行われていることはまずあり得ないと考えていい。「絶対的な真理」を見つけて符号化する客観的な機械とは違って,ヒトが何かを信じる能力は行きあたりばったりで,進化のつけた爪跡も生々しく,情動や気分,欲望,目的,単純な利己主義に染まっていて,前章で紹介した記憶の奇癖の影響を驚くほど受けやすい。さらに言えば,私たちはきわめて騙されやすい生き物だが,それは巧妙なデザインの結果そうなったというよりは,どうやら進化が手軽な解決策を採ったからであるらしい。以上をまとめると,私たちのものを信じる能力を支えるシステムは強力ではあるけれども,迷信や他からの働きかけ,欺瞞に対して脆弱にできている。これはけっして看過できない状況である。私たちがものを信じること,あるいはそういった信念を評価するために欠陥のある神経系に頼らざるを得ないという事情によって,家庭内の反目や宗教戦争,果ては戦争までが引き起こされ得るからだ。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.62-63

最適化されたトレードオフ

 結論として,私たちの推論能力が,迅速とはいえ信頼性の低い文脈依存記憶に頼っている現状は,最適化されたトレードオフとは言いがたい。しかし歴史とはとかくそうしたものだ。脳の中にある推論のための回路が,歪曲された記憶で我慢せざるを得ないのは,進化がそれしか与えてくれなかったからだ。ヒトに固有の複雑な思考に適した,真に信頼できる記憶を得るには,進化は最初からやり直さねばならないだろう。そして,進化がいかに強力でエレガントなものであろうとも,そればかりはできない相談なのである。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.60

いつ起きたか

 さらにもう1つ,ヒトの記憶に備わった別の奇癖について考えてみよう。出来事の内容に関する私たちの記憶の詳細さに比べて,それがいつ起きたかに関する記憶はいかにも貧弱である。コンピュータやビデオテープは出来事を秒単位(特定の映画を記録した日時や特定のファイルを変更した日時)まで特定できるが,私たちは何かが起きた年がわかればまだましなほうである。何ヵ月もメディアをにぎわしたニュースですらそうだ。私と同世代の人なら数年前に,2人のオリンピックスケーターにかかわる,いささか低俗なある事件に心を奪われたはずだ。一方のスケーターの元夫がチンピラを雇い入れ,もう一方のスケーターの膝を打ち据えさせた。メダルを奪われないためだった。こうした事件はメディアの格好の餌食で,ほぼ6ヵ月にわたってメディアはこの話題でもちきりだった。ところが現在,平均的な記憶力を持った人にこの事件がいつ起きたかを尋ねたら,その年号を思い出すのすら難しいだろう。何月かに至っては論外だ。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.51

ヒトの場合は

 大半の種にとっては,たいていの場合,物事の詳細まで覚えずとも,あらましを覚えていれば用は足りる。ビーバーなら,ダムのつくり方を知っていなければならないが,個々の枝がどこにあるかまで覚える必要はない。進化し続ける大半の種にとって,文脈に依存する方式の記憶の仕組みを持つことの利益とその代償は,うまく釣り合いが取れていた。大筋を速く覚える一方で,細部はゆっくりと覚える。これで問題が生じないのなら,それで良かったのだ。
 しかし,ヒトの場合は,それではすまされない。社会や状況の変化によって,時に私たちには父祖には要求されなかったような精度が求められる。法廷では,誰かが罪を犯したと判明するだけでは不十分だ。どの人がその罪を犯したのかを明らかにせねばならない。ところが,それは平均的な人の記憶力を越えている。しかし,DNA鑑定が出現する最近まで,証人による証言は絶対的な証拠とされていた。いかにも正直そうな証人が自信たっぷりに証言すると,陪審は証人が真実を述べていると判断する。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.44-45

郵便番号記憶と文脈依存記憶

 コンピュータの記憶がうまく機能するのは,プログラマが「大きな地図」に従って情報を保持するからだ。それぞれの情報には,コンピュータのデータバンク内で「アドレス」と呼ばれる特定の位置が割り当てられる。この方式を「郵便番号記憶」と呼ぼう。ある情報を検索するには,コンピュータは該当するアドレスにアクセスするだけでいい(64メガバイトのメモリカードは,およそ6400万個のアドレスを持ち,各アドレスは8ビットから成る「ワード」を1個保存する)。
 郵便番号記憶は簡単であると同時に強力でもある。正しく使えば,コンピュータはいかなる情報をもほぼ完璧に保存できる。またプログラマはどの情報でも簡単に更新できる。友人が旧姓のレイチェル・Kに戻ったら,再びレイチェル・Cと呼ぶことはない。郵便番号記憶が,現代コンピュータのほぼすべてのカギを握ると言っても過言ではないだろう。
 しかし残念なことに,人間ではそううまく事は運ばない。郵便番号記憶があれば重宝したはずだが,進化が山脈の中で正しい頂きを見つけることはなかった。人間は特定の情報がどこにしまわれているかについて,(「脳の中」というきわめて曖昧なレベルより先では)ほとんど何も知らない。私たちの記憶はコンピュータとはまったく別の論理に従って進化してきた。
 人間は郵便番号記憶に代わるものとして,「文脈依存記憶」と呼ばれるものを持つ。探しているものの手がかりを与える文脈をキューとして用い,欲しい情報を探し出すのである。たとえて言うと,何か思い出すたびに,自分にこう言っているような具合だ。「あのう,すみません,脳さん。悪いんだけど,英米戦争(訳注 1812年から14年12月にかけてアメリカとイギリスおよびその植民地間に勃発した戦争)に関する記憶が必要なんだ……該当するものが何かないかな?」脳はこうした問いに答えて,正しい情報を遅滞なくきちんと取り出してみせることも多い。たとえば,私が映画の『E.T.』や『シンドラーのリスト』を監督した人物の名前を尋ねたら,きっとあなたは即座に答えられるのではないだろうか。その情報が脳のどこにしまってあったかは皆目見当がつかないにしても。一般に,私達はいくつものキューを駆使して必要な情報を脳から取り出す。うまくいけば,記憶は細部に至るまで蘇る。この点に関して言えば,「記憶にアクセスする」という行動は,呼吸と同じで,ごく自然になされることだ。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.35-36

ビデオテープではない

 人間心理の「真実」を明らかにするために,科学は優れた方法を次々と発展させてきたけれど,世間一般には相変わらず記憶はビデオテープのようなものだというイメージが根強く残っている。しかし,自分の記憶について振り返ってみるだけでも,記憶がビデオテープのようなものではないことがわかるだろう。私が非公式に行ったメールによる調査に協力してくれた回答者のなかには,頭のなかのスクリーンにはっきりと映し出された記憶が,事実ではなかったことに気づいた人もいた。ただし,直感的に気がついたわけではなく,よくよく考えてみたところあり得ないことに気がついたのだ。その人は英国の片田舎で,家族で飼っていたラブラドールと遊んでいる父親の姿を覚えているけれど,本当はそのとき父親はエジプトに行っていて,そのまま帰ってこなかったことが判明している。そうだとわかっているけれども,いまもその記憶があるのだ。
 そんなことにおかまいなく私たちは,法廷やプレイルームで子どもに何を覚えているか質問し,その質問に対して子どもが答えた内容を正確な記憶であるかのように受けとめる。少なくとも,子どもの記憶が正しいかどうかを判断するときの基本姿勢は,子どもの話に耳を傾け,それを信じることから始まる。おそらくは,記憶内容の矛盾に突き当たることではじめて,記憶が間違っている可能性を考え始めるのだ。
 残念なことに,まだまだ先は長い。幼い子どもから事情を聞きとる警察官やソーシャルワーカーのなかにはいまだ,記憶は「ビデオテープ」のようなものだと考えている人がいる。さらにそういった人たちは,子どもの語る体験内容を変容させてしまう誘導的な質問の悪影響について積み重ねられてきた数多くの研究成果をほとんど知らないか,少なくとも,そういった研究成果をほとんど信頼していない。そのため,インタビューするものが望んだとおりの供述を,子どもから引き出すことになる。おまけに,子どもは権威のある人が望むようなことをいうだけでなく,誤った話や嘘の話を自分自身でも信じ込んでしまうことがある。科学的な研究によれば,子どもの頃の記憶がもともと正しくても誤っていても,子どもが成長するにつれて,その記憶はだんだん正確になっていくことはなく,不正確になるだけだ。時間の経過とともに,記憶が以前より正確になることは決してないのだ。そして,記憶の正確さを損なう要因が日常生活にはたくさん潜んでいる。たとえば,自分で記憶を振り返ること,記憶の自然な減衰,他者との会話,覚えていたい・忘れたいという願望,人からよく見られたいという願望,似たような印象の記憶どうしを誤って結びつけてしまうこと,これらは記憶の正確さを損なう要因のごく一部だ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.320-321
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

繰り返し語られる記憶は

 本当に虐待の被害を受けた子どもや大人を信じないことが,どれほど危険なことであったとしても,本書で紹介してきた研究をもとに考えれば,誰の体験談であっても,それを信じる根拠を考え直さない限り,もはや機械的に「子どもを信じる」ことはできないように思う。ブラックやシンをはじめとした研究者たちの発見から判断すれば,信頼できる記憶であるかのように思わせるものが,特にその記憶がいろいろな場面で繰り返し語られるようなときには,逆にその記憶が誤っていることを示す特徴であることも多いのだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.307
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

ロフタスが受けた仕打ち

 世界でも認められた研究者で,偽りの記憶に関する研究分野の「女王」エリザベス・ロフタスは,世間から敵意を向けられる経験をしている。その理由の1つは,子どもに対する性的虐待の重大さを軽視するものとして,ロフタスの研究が理解されているからだ。

 大学で同じ学部にいる同僚全員に,怒りの電子メールが送られてきた。無差別に送られてきたあるメールの書き出しは次のようなものだった。「ロフタスのような人間と一緒に働いていることを恥ずかしく思え」と。私の「敵たち」は,私の招待講演を取りやめるよう,専門団体に働きかけたことがあった。いくつかの大学では,もし講演が中止されなかったら危害を加えるという脅しの電話があったので,招待講演の間ずっと武器を携帯した護衛が側にいたこともあった。倫理的な苦情を送ってくる人もいた。私がいる大学の学部長,学長,州知事宛に抗議の手紙を書き,送りつけるキャンペーンを大々的に行って,私を困らせようとする人もいた。飛行機で隣に乗り合わせた人が,私が誰かわかると,持っていた新聞で私を叩いたこともあった。そのときはじめて,卑劣な攻撃というのが,どのようなものか実感した。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.269
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

確信と正確さ=無関係

 陪審員の意思決定に関する諸研究によれば,陪審員はさまざまな要因を考慮して目撃証言の信頼性を判断するが,そのなかには証言の真偽を判断するのに役立たない要因が含まれている。陪審員に関する心理学実験について報告するなかで,ダニエル・シャクターは次のように述べている。

 強い確信をもって証言する目撃者を目の当たりにすると,たとえその状況が目撃者が犯人を知覚し識別することが困難なものだったとしても,陪審員は,状況よりもその目撃者の信憑性に注目する傾向がある。陪審員は自信のない目撃証言よりも,確信に満ちた目撃証言を信用する。だが,目撃証言の自信の強さは目撃証言の正確さと,あったとしてもせいぜい取るに足らないほどの関係しかない。つまり,目撃者が強い確信を持って証言した場合とあまり自信なく証言した場合を比べると,自信が強い証言のほうが正確であるわけではない,ということが往々にしてある。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.209-210
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

起きなくても信じる

 エイリアンによる誘拐などという,多くの人はどうでもいいと思っているようなテーマについて長々と話をしてきたが,記憶の科学とはあまり関係がないように思われるかもしれない。子どもへの性的虐待に関する記憶と違うのは,UFOに誘拐されたという記憶が何か有害な影響を及ぼすとすれば,それは「誘拐された人々(アブダクティーズ)」の精神的な幸福感に関わる問題だけであることだ。身に覚えのない罪でエイリアンが訴えられ裁判になるわけではないし,誘拐の罪で有罪判決が下されたエイリアンが刑務所送りになるわけでもない。性的虐待に関する偽りの記憶によって,親子関係が悪化する。これは現実に起こる悲惨な出来事だ。これに対して,エイリアンが人間を誘拐しているというのは完全に想像の世界の話で,ファンタジー小説やテレビゲームの世界に浸りたいという願望と同じくらいの害しか及ぼさないと捉えることができる。しかし,これらの話は互いに関連している。それは,性的虐待の記憶とエイリアンに誘拐された記憶のどちらも,人間には自分の人生において決して起こらなかった出来事を頑固に信じてしまう心理があるのだということを,私たちに教えてくれるものだ。さらに,こんなばかげた出来事を体験したと自分自身に信じこませることができるのであれば,抑圧された記憶というものが存在し,特別な心理学的手法を使えばその記憶を回復させることができるのだと,心理療法家やソーシャルワーカー,警察官に信じさせることは,どれほど簡単なことだろうか。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.201-202
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

エイリアンに誘拐される

 「私が話した人たち全員に共通する特徴が1つあった」とスーザン・クランシーは述べている。「彼らは,何か異常と思われる体験,奇妙で,まともでなく,ふつうでない体験をした後で,それがエイリアンによる誘拐と関係しているのではないかと疑い始める。この異常な体験というのは人によって異なる。人によっては,いつもと違うちょっとした出来事(『朝起きたとき,どうしてパジャマが床に落ちているのだろうか』)であり,ある人にとっては,何らかの体の症状(『なんでこんなに鼻血が出るんだろうか——いままで鼻血なんて出したことがないのに』)や体についたマーク(『どうして背中にコイン形のあざがあるのだろう』),多かれ少なかれ安定した自分の性格特徴(『自分は他者と違っているように感じる。孤独で,まるで外側に立って覗き込んでいるみたいだ』)だったりする。また,これらのすべての事柄が含まれている場合もある。体験内容は幅広く多様だが,こうした体験から共通の疑問に行き当たるのだ。『一体どうしてこんなことが起きるのだ?』と。つまり,UFOによる誘拐を信じるのは,自分が体験した奇妙で,ありそうもない,得体の知れない出来事を説明したいという気持ちを反映しているのである」
 人間というものは,不確かなままの状態でいるよりは,どんな説明にでもしがみつこうとするものだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.200
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

面接者の先入観

 バイアスのかかった面接者とは,ある出来事に対して先入観を持っており,それに一致するように質問をしていく面接方法をとる人物である。自分の先入観に一致する話だけを採用し,一致しない話を無視するのは,バイアスのかかった面接者に見られる顕著な特徴だ。自分の念頭にある考えとは別の可能性について質問することはしない。自分が持っている仮説に一致しない事実を引き出すような質問はおそらくしないだろう。さらに,子どもが自分の先入観と一致しない話や突飛な供述をした場合には,その発言を無視するか,面接者の先入観に合致するように歪めて解釈する。また,面接者の先入観に一致する答えが出てくるまで質問をくり返し,証言をまとめようとするだろう。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.184-185
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

必ずしも真実とは

 これらの研究が意味するのは,人の語る思い出はどれも信じられない,ということではない。そうではなく,詳細で確信に満ちた子どもの頃の「記憶」を目の前に示されたとしても,それが真実であるに違いないとはもはや断言できないということだ。もちろん,その記憶は真実であるかもしれないが,必ずしも真実とは限らない。さらにいえば,私たち自身が覚えている子どもの頃の感動的な出来事の記憶も同じく真実とは限らない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.169
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

クランシーの虚記憶

 スーザン・クランシーは,自分の研究について紹介した本のなかで次のように述べている。「私の一番幸せな思い出について友人が質問してきたとき,じっくり考え込んでから答える必要はなかった。私はすぐに,アスペンで過ごしたある日のことを思い出した。ある休日のことで,ゲレンデには真新しいパウダースノーが3フィートも積もっていて,私はオーストラリア人でスキーのインストラクターをしている新しい素敵なボーイフレンドと一緒にスキーに出かけた。午後遅くのことだった。迂回コースを滑った後で,彼のコンドミニアムのルーフデッキにある温水プールに入った。雪が降り始め,大きくて美しいぼってりとした雪のかけらが,彼の金色の髪のなかで溶けた」
 色鮮やかに語られ,幸せに彩られた光景が目に浮かぶようだ。誰もがこのような記憶を持っているのではないだろうか。もちろん,すでにおわかりのように,これは再構成された記憶だが,間違っているとは限らない。けれども,このケースに限っては,間違いだったのだ。
 「この話を聞いて,友人は笑い出した」とクランシーは続けた。「そして私に,別の分野を研究するように勧めた。なぜか?というのは,彼女もそこにいたからだ。彼女は,私にとってそこまで楽しい思い出ではなかったことを思い出させてくれた。私は雪質に合わないスキー板をはいてしまい,転んでばかりいた。ボーイフレンドはゲレンデのこぶでジャンプするたびに『まったく最高だぜ!』と叫んでばかりいた。私は風邪をひいていて,本当は温水プールに入りたくなかったし,6時までに仕事に戻らなければならなかった。そして借りた水着はたるんでいて,ずっと気泡でぶくぶくいっていた。雪も降っていなかった」
 記憶の働きをよく知っているクランシーでさえ,実際に起ったことから,自分が望む方向に記憶を歪めてしまったのだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.155-156
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

ロフタスの虚記憶

 面白いことに,抑圧された記憶に対する懐疑論者の女王であるロフタスは,突如として記憶を取り戻す,という体験をしたことがある。ロフタスが14歳のときに母が水死した出来事についての記憶だ。彼女の44歳の誕生日,親戚が集まって話をしていたときのことだ。彼女は叔父から「おまえも母親の遺体を発見した1人だった」という話を聞かされた。そのときまで,母親の死そのものに関してほとんど何も覚えていなかったのだが,自分が母親の遺体を発見した瞬間のはっきりした記憶が蘇ってきた。ジョージ・フランクリンの娘と同じように[訳注:『抑圧された記憶の神話』によれば,この出来事があったのはロフタスの誕生日ではなく,叔父のジョーが90歳を迎えた誕生日である]。
 それから数日後,叔父は間違っていて,母の遺体を発見したのはロフタスではなくて叔母だったと兄から聞かされた。そのため,この数日間にロフタスが「回復した」記憶はまったくの誤りだった。「私は自分でやっている実験を,不覚にも自分で体験してしまったのです!懐疑的に物事を見る私の心でさえ,信じやすいことが本質なのだということに,不思議な感覚を覚えました」とロフタスは述べている。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.124
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

誤りは免れない

 私たちの記憶はすべて,それが「子どもの頃に関する子どもの記憶」であっても,「子どもの頃に関する大人の記憶」であっても,「昨日起こったことに関する大人の記憶」であっても,誤りを免れないことは明らかだ。これが何かの役に立つものではない。そんな発言をするよりも,記憶の誤りを引き起こす具体的な要因について理解するほうが,ずっと役に立つだろう。正確な記憶と不正確な記憶を区別する方法はあるだろうか?ある出来事はほかの出来事よりもたやすく忘却されるのだろうか?想起と表裏一体である忘却のプロセスは,研究や分析ができるのだろうか?間違いなく体験した出来事を思い出せず,記憶がどこかに行ってしまった場合でも,その記憶を取り戻すことができるだろうか?
 この20年の間,子どもの頃の記憶が「20世紀のもっとも有名なメンタルヘルスをめぐるスキャンダル」と呼ばれる戦場と化してから,多くの心理学者がこれらの疑問を解明しようと努力してきた。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.108-109
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

こんなに忘れる理由

 これほど多くのことを忘れているのには,いくつか理由がある。子どもの頃は,環境に適応するために,毎日の生活の決まりきった流れを理解しスクリプトを構成することが重要で,スクリプトに一致しない完全に新奇な出来事は,忘れ去られてしまう。また,ほどほどに新奇な出来事であれば,もう一度同じような出来事が起きた場合にはスクリプトに組み込めるよう,しばらくの間は保持されるかもしれないが,統合されなければ忘れられてしまう。そして,スクリプト自身は,一般的な知識の一部に組み込まれてしまい,それ自体固有の経験として想起することができなくなってしまう。
 成長して言語能力が増し,社会的な役割を担うことが必要となってきたときにはじめて,記憶は今までとは違う価値を持つようになる。「あなたのことを話してくれる?私は私のことを話すから」といったように,記憶を交換することが,社会的通貨としての役割を担うようになるのだ。そして,このような社会的通貨としての記憶の利用もまた,家庭内の会話から始まる。母や父,兄や姉に話すために私たちが思い出すのは,家族が興味を抱いていると思われる内容である。では,私たちはどのようにして,彼らが何に興味を持っているか知るのだろうか?実は,一緒に過去の経験について会話し,記憶をまとめあげる会話を通して彼ら自身がそれを教えてくれるのだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.83-84
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

共有するかどうか

 ネルソンによれば,残存する記憶とそうでない記憶の決定的な違いは,思い出を他者と共有するかしないかである。子ども時代に会話能力が発達するに従って,他者と記憶を共有することで喜びと社会的な承認を得るようになる。さらに,もしこの他者というのが自分の親であれば,単に話に耳を傾け,そうだねと頷く以上のことが,対話のなかで展開される。それは,会話を通じて,子どもの自伝的アイデンティティ全体が形成される,ということである。
 この点について,ネルソンは次のように述べている。「幼年期に学習されるこの活動は,将来の出来事を予測しそれに備えるためにスクリプトをつくっていくという記憶の一般的な機能とは,まったく異なったものだ。この活動によって,他人と共有することができ,最終的には自分だけでも振り返ることができる記憶が形づくられ,その存在自体に価値がある個人史の記憶が形成される」

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.70
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

記憶のアップデート

 ヘインやほかの研究が示しているのは,話せるようになる以前の出来事で覚えていると思っているものが,視覚的であり,漠然とした印象のようなもので,原始的であるといった場合に,その記憶は本物である可能性が高く,他者から間接的に聞いた情報でない可能性が高いということである。言語的に洗練された物語のような記憶であるほど,他者から聞いた話や家族アルバムの写真,さらにはそうあってほしいという願望によって再構成されたものである可能性が高くなる(ここでごく簡単に注意しておきたいのは,とてもシンプルな視覚的記憶であっても,それを説明するには言葉が必要であり,そのため,言葉を獲得する以前の出来事を説明するためには,それ以降に獲得した言語的スキルが多少なりとも必要になるということだ)。
 さて,こんなにも幼い頃の記憶があるのだと自慢のタネだった初期の記憶が,このように否定されることに対して,反発を覚える人もいるだろう。たとえば,私の頭のなかでは,格子窓の真下にゴリウォグ人形が見えるけれど(白状すると,これが私のもっとも古い記憶だ),これは私がまだ「格子」という言葉を覚える以前の出来事だっただろう。
 とはいえ,ヘインたちは別の論文でこう述べている。

 人生のごく初期に経験した出来事は,「アップデート」されない限り,発達段階を越えて次の発達段階の言葉に翻訳されることはない。もしその記憶が保持されているのなら,それは前の発達段階で符号化されたそのままの形で保持されているだろう。

 かなり初期の記憶で言語的に表現できるもののなかには,おそらく本物の記憶も混じっているだろうが,何らかの形でアップデートされているのだろう。アップデートというのは,子どもが体験したことを親に語り,その後,発達が進むなかで親が子どもと会話しながらその記憶を引き出すといったようなやりとりを指している。そうした会話で使われる語彙は,出来事を体験した当初よりも洗練されたもので,大人になってから思い出すのはこの会話の記憶なのだ。
 私の「ゴリウォグ人形」の記憶についていえば,それは私が第二次世界大戦中に避難していて,母親と一緒にいなかったときに体験した(と私は信じている)ものなので,私が現在覚えているバージョンの記憶は,おそらく,私が母親に語ったものを,もっと後の発達段階において,母親が私に語り直したものだと思われる。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.52-53
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

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