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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

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時間を取る効果

 もちろん,何にでもギブアンドテークの関係はあり,1日24時間しかないのにコンピュータ・ゲームばかりして,算数の宿題をやる時間が残らなかったりすることはある。テレビ鑑賞にような受け身の気晴らしに時間を使ってしまい,もっと能動的な認知作業に時間を使って,ワーキングメモリを訓練する機会を失ってしまう場合にも,これは言えるだろう。このようなネガティブんな効果があるのは,ゲーム・プログラムの速射砲のような作り方とか過剰な情報にあるのではない。実際,同様の心的活動の不活発さは,ワーキングメモリを訓練しない別の活動でも引き起こされる。アインシュタイン加齢研究では,多くの時間をサイクリングで過ごした人たちにも,統計的な有意差はないものの,弱いネガティブな影響が認められた。

ターケル・クリングバーグ 苧阪直行(訳) (2011). オーバーフローする脳:ワーキングメモリの限界への挑戦 新曜社 pp.175-176
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カクテルパーティ効果の個人差

 最近心理学者が見つけたのは,カクテルパーティ状況での振る舞いが人によって異なるということである。ある人は自分の名前が背後で引き合いに出されても,現在の会話に注意を集中できるのに,およそ3人中1人は注意が背後にそれてしまう。この人々の違いは,ワーキングメモリに原因があることがわかった。低いワーキングメモリ能力の人は簡単に注意がそがれてしまうのだ。これはすでに述べた,われわれの実験結果とも符合する。つまり注意のコントロールにはワーキングメモリが必要なのだ。ワーキングメモリがうまくはたらかないと注意散漫となり,刺激駆動型システムに乗っ取られてしまう。この別の例は,低いワーキングメモリ能力の人々が,当面の仕事に集中できず「心があちこちさまよう」状態になることが多いという事実である。ノースカロライナ大学のマイケル・ケーンたちがこれを示す実験をしている。彼らは被験者にPDA(個人情報端末)を与え,PDAのアラームが鳴ると(日に8回鳴るようにセットされていた)すぐに今行っていること,その集中度,心がさまよう状態であったかなどの質問紙に記入してもらった。ケーンたちが見出したのは,課題が心的に難しくなるやいなや,低いワーキングメモリ能力の人たちは,心がさまよう状態になりやすいということだった。

ターケル・クリングバーグ 苧阪直行(訳) (2011). オーバーフローする脳:ワーキングメモリの限界への挑戦 新曜社 pp.89-90

ワーキングメモリ

 「ワーキングメモリ」という言葉は,1960年代にカール・プリグラムという神経科学者がすでに使っているが,心理学者であるアラン・バッドレーが1970年代初期にその一般的な意味を定義した。バッドレーはワーキングメモリに3つのコンポーネント(構成要素)を想定した。1つは視覚情報を保持するための視空間的スケッチパッド(visuospatial sketch pad)と呼ばれる。2つ目は言語情報を保持するための音韻ループ(phonological loop)であり,3つ目は視覚空間的スケッチパッドと音韻ループを調整する中枢的コンポーネントで,中央実行系(central executive)と呼ばれる。その後,バッドレーはまた別のワーキングメモリの保持機能をもつエピソード・バッファー(episodic buffer)をコンポーネントに加えたが,これはワーキングメモリにエピソード記憶を保持する役割をもつ。しかし,このバッファーは他のコンポーネントに比べると,その性格が必ずしも明確ではない。チェスのコマの移動を想起するとき,使っているのは視空間的スケッチパッドであり,電話番号を想起するときに役立つのは音韻ループによるリハーサルだ。このどちらの場合も注意に寄る調整が必要で,この調整を行っているのが中央実行系だ。

ターケル・クリングバーグ 苧阪直行(訳) (2011). オーバーフローする脳:ワーキングメモリの限界への挑戦 新曜社 pp.41

注意

 オレゴン大学の心理学者マイケル・ポズナーは,よく工夫されていて簡単に実施できる一連の実験を開発した。この実験はパソコンで行えるうえ,それぞれ違った種類の注意を必要とする。その1つでは,観察者はパソコンの画面に小さな四角いターゲットが見えたらすぐにボタンを押すように求められる。ターゲットが提示される前に警告信号は出ないので,これは「刺激駆動型の注意」が必要な課題である。もう1つは,ターゲットが提示される前に,三角形の警告刺激が出される。しかし,どこに出るかは分からない。警告刺激は観察者の覚醒水準を上げることになる。3番目のものは,「コントロールされた注意」を見るものだ。ターゲットが提示される数秒前に矢印が画面に提示され,すぐにターゲットが出るという警告に加えて,提示される位置も示す。観察者は注意をコントロールして,ターゲットが出てくると予想される画面位置に注意を向けることができる。
 このようなテストで反応時間を計測することで,科学者は違った種類の注意について定量化を行ってきた。面白いことは,これらの注意はかなり相互に独立しているということである。このような注意の間の組織的な独立性が示しているのは,注意のタイプごとに問題が起こりうるし,それは必ずしも,他の種類の注意にそれほど影響しないということである。

ターケル・クリングバーグ 苧阪直行(訳) (2011). オーバーフローする脳:ワーキングメモリの限界への挑戦 新曜社 pp.27

構造が変わる

 ジャグリングのような一種の曲芸は皆が毎日やるわけではないが,いったん練習を始めれば,以上の例から見て数週間で脳の地図が大いに変化するはずだ。換言すれば,特定の活動が学習ずみになると,脳にどのような変化が生じたかを調べられるということを示している。ある研究では,ジャグリングの練習を3ヵ月した後とする前の参加者グループの脳の構造について調べられている。そこからわかったことは,練習期間を通して脳の後頭葉の運動知覚にかかわる皮質が拡大したが,練習をやめて3ヵ月が過ぎると再び縮小し,トレーニングで拡大した領域のおよそ半分が失われたということだった。つまり,わずか3ヵ月の活動で,あるいはわずか3ヵ月練習をしなかったことで,脳の構造が変わるのだ。

ターケル・クリングバーグ 苧阪直行(訳) (2011). オーバーフローする脳:ワーキングメモリの限界への挑戦 新曜社 pp.12-13

言語の妨害

 だがあいにく,人物の特徴を言葉に置き換えると,あとでその人物を認識する能力が損なわれることがある。この可能性は1950年代に発見されたが,それに対する興味が1990年におこなわれた一連の実験で復活し“言語隠蔽効果”という新しい名称がつけられた。1つの実験では,2グループの被験者が,犯人の顔が映っている銀行強盗のビデオを30秒見た。1つのグループは,見たあと5分間で犯人の顔の特徴を「できるだけ詳しく」書きだした。比較対象グループは見たあと5分間,無関係なことをした。それが終わったところで,被験者は外見に似通った8人の写真の中から容疑者を選び,自分の選択に対する自信の度合を採点した。
 この実験は,実際に事件が起きた時の手続きを,下敷きにしたものだった。警察は目撃者に容疑者の特徴を詳しく訊ね,同じ目撃者がのちに数枚の写真から容疑者を見分ける。実験結果では,ビデオを見たあと無関係なことをした被験者は,64パーセントの確率で容疑者を見分けた。では,容疑者の特徴を詳しくメモした被験者のほうは?彼らの正解率はわずか38パーセントだった!書き出した言語情報は,犯人の顔を最初に捉えた視覚による非言語情報を曇らせた。そして言語情報のほうが,正確度が低かったのだ。皮肉なことに,直感的には外見を分析すれば正確な記憶に役立つように思えるが,少なくともこの例の場合は,分析を引っ込めて反射的なパターン認識にまかせたほうがいいらしい。この実験で調べられたのは客観的な記憶だけで,感情的な評価はふくまれていないが,内生的な熟考は成果をあげなかった。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.299-300

脳トレの効果は

 これまでで最大の実験は,1998年にスタートしたものである。任意に集められた2832人の高齢者が,4グループに分けられた。言葉を記憶するトレーニング,問題解決能力を鍛えるトレーニング,問題処理の速度を上げるトレーニングを,それぞれおこなう3つのグループと,トレーニングをなにもしない対照グループである。この大規模な臨床実験は,国立衛生研究所が後ろ盾になり,多くの大学,病院,研究所の学者たちがおこない,ACTIVE(自立した元気なお年寄りのための認知能力上級トレーニング)テストと命名された。実験では,各グループが6週間強のあいだに,1種類のトレーニングを1時間ずつ10回おこなった。そしてトレーニングのあとに,研究室で出される基本的な問題と,日常的な問題の両方で被験者の能力が試された。ここで期待されたのは,認知能力トレーニングが脳の回転をよくし,べつのトレーニングや日常生活でも成績が上がることだった。
 驚くにはあたらないが,たとえば視覚の探索力を鍛える問題を10時間すれば,視覚探索力がアップする。言葉の記憶を10時間練習すれば,言葉の記憶力が向上する。この実験では被験者(とりわけ問題処理速度のトレーニングを受けた人)の多くが,トレーニング後にたちまち能力が上がり,その効果が何年も持続した。だが向上した能力は,自分が練習した項目にかぎられていた。言葉の記憶力を鍛えてもあなたの問題処理速度は変わらないし,その逆も同様である。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.264-265

10%神話

 「ふつうの人は,脳の潜在能力を10パーセントしか使っていない」この項目には,回答者の72パーセントがイエスと答えた。広告や自己啓発書の喜劇のネタに使われやすいこの不思議な説は,かなり前から信じられており,その出所を探る有名な研究をおこなった心理学者もいる。ここには,可能性の錯覚がもっとも純粋な形で示されている。私たちが,脳を10パーセントしか使っていないとしたら。使い方を知らないだけで,90パーセントの能力がまだ眠っていることになる。だがこの信仰には,問題が多すぎる。第1に,人の「脳の潜在能力」を計測する方法も,その能力のうち個人がどれくらい使っているかを計測する方法も,知られていない。第2に,どんなたぐいの活動であれ,長いあいだ働いていないと脳組織は死んでしまう。そこで,もし私たちが脳の10パーセントしか使っていない場合,奇跡の蘇生や脳移植がない限り,その割合を増やせる可能性はない。最後に,進化が——あるいは神が——,その9割もが使えない器官を私たちに用意するだろうか。大きな脳は,人間という種の存続にとって明らかに危険である——脳は産道を通過できる大きさである必要があり,大きな頭は出産時に死をもたらしかねない。人の脳のごく一部しか使っていなかったとしたら,自然選択によって脳はとっくの昔に小さくなっていただろう。
 この「10パーセント神話」は,MRIやPETなどの脳画像技術が発達するはるか以前に出現したのだが,画像化された脳に対する誤った解釈が,神話の影響を強めた可能性もある。神経科学の研究結果として,脳の活動を映した写真(脳ストリップ)がメディアで紹介されるとき,脳の大部分は暗く,明るい色がついた部分はほんの一部だ。だが,色のついた部分は,脳の「活動的な」部分を示すものではない——それが示しているのは,状況や個人差に応じてほかより活発になる部分である。脳全体はつねに(少なくとも基本的な活動レベルでは)「オン」の状態にある。そしてあなたがどんな行動をするときも,脳の広範囲にわたる部分が活動を開始する。というわけで,脳を「これまで以上に」使っても,もちろん日常的な錯覚を避けることはできない。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.252-253

モーツァルト効果を信じますか?

 モーツァルト効果の報道量について分析をおこなったエイドリアン・バンガーターとチップ・ヒースは,1999年に『ネイチャー』誌の記事および論争と時をおなじくして,モーツァルト効果に関する報道量が急激に増えたあと,その後ふたたび低下したと報告している。クリスのメタ分析,スティールとシェレンバーグの研究によって,ようやくモーツァルト効果に実体のないことが理解されたのだろうか。答えはイエスでノーだ。バンガーターとヒースによると,成人がモーツァルトを聞くプラス効果についての報道は少なくなったものの,モーツァルトは乳幼児の知能を高めるという誤った記事が,以前より一般的になったという!たしかに,この風潮はラウシャーの最初の報告がでたわずか1年後からはじまった。念のためもう1度繰り返しておくが,乳幼児に対する効果を調べた研究結果は,いまだかつて発表されたことがないのだ!クリスのメタ分析の結果が公表された10年後の2009年に,私たちは1500人の成人を対象に全国調査をおこなった。結果を見ると,4割の人が「モーツァルトを聞くと頭がよくなる」と考えていた。否定派のほうが数は多い。だが,科学的事実はこの説をまったく支持していない。本来なら大多数の人が否定していいはずだ——「一般的に女性のほうが,男性より背が高い」という言い方が,受け入れられないように。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.247-248

具体例で

 説得力のある実話に影響された思い込みには,なかなか勝てない。すでにご紹介したように,2つの文章があった場合,原因と結果がはっきり書いてあるものより,因果関係を推理する必要があるもののほうが強く心に残る。体験談も同じだ——私たちは反射的に1つの例を一般化し,すべてにあてはめようとする。そしてそのように推理したものの記憶は長く残る。個人的な体験は私たちの心に残るが,統計値や平均値は心に残らない。そして実話が私たちに強い影響力をもつのも,当然のことなのだ。私たちの脳は,事実として受け入れられるものは自分自身が体験したことと,信頼できる相手から聞いたものだけという条件のもとで進化した。私たちの祖先は膨大なデータや統計や実験は知らなかった。というわけで,やむなく具体例で学んだ——状況の異なる大勢の人たちから集めたデータで,学ぶのではなく。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.226

ブラウザ状態

 ブリティッシュコロンビア大学の視覚科学者で,変化の見落としに関する研究のリーダーであるロナルド・レンシンクは,脳の働きがウェブブラウザに似ているという興味深い指摘をおこなった。コンピュータが発明されるずっと以前に生まれたクリスの父親は,インターネットの膨大な情報がどうやって自分の受信機(彼は自分のパソコンをそう呼んでいる)に入ってこられるのか,教えてほしいと繰り返しクリスに訊ねる。たいていの人は,インターネットの情報は何千万台ものパソコンに配信されるもので,パソコン1台ごとに情報のコピーが蓄えられているわけではないのを知っている。だが,インターネットの接続が早く,ネットワークのサーバーの速度も早い場合,インターネットの仕組みについて,そう考えたくなるのもわかる。画面上では,ブラウザのリンクに沿って進むとページの中身がたちどころに現れ,知りたい情報が即座に手に入るからだ。1台1台のパソコンに情報が蓄えられているというのは,納得できる誤解であり,誤解してもふつうは支障がない。だが,いったんインターネットの接続に不具合が生じた場合,あなたの「受信機」は,機械の中にそなわっていると思っていた情報へアクセスできなくなる。そして自分が話していた相手が別人に代わっても気づかないという実験結果が示すとおり,パソコンと同じく私たちの記憶の中にも情報がほとんど蓄えられていない。パソコンがウェブの中身を蓄える必要がないのと同じように,私たちは情報を蓄える必要がないのだ。自分の目の前にいる相手を見たり,サイトへアクセスしたりすれば,たいていその場で情報を入手できるからである。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.179

思い込みを捨てる

 知識の錯覚を避けるためにまず必要なのは,自分の計画はほかに類がないという思い込み,その計画にかかる経費や時間に対する自分の予測が正しいという思い込み,それをすべてやめることだ。やめるのは,むずかしいかもしれない。なぜなら自分の計画については,ほかの誰よりもあなたがよく知っているはずだから。だが,この「自分が知っている」という感覚が,誤りのもとである。その感覚があるため,計画について正確に見積もれるのは,もっとよく理解している自分以外ないと思い込んでしまうのだ。かわりにお勧めしたいのは,ほかの人や組織が立てた同様な計画で,すでに完成したもの(あなたの計画に類似したものほどいいことは,言うまでもない)を探しだすこと。そしてそれらの計画にかかった実際の時間や経費を参考にして,自分の計画に予測を立てること。自分の内部にしまってあるものに対して,こうした“第3者の目”を取り入れると,計画に対する見方が大きく変わってくる。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.165

記憶の歪み

 ブラウンとクーリックのフラッシュバルブ記憶説にもとづいて,記憶の正確さを調べる実験がいくつかおこなわれている。その多くは悲劇的な事件の直後の記憶を集め,同じ対象者に数か月後,あるいは数年後にもう1度話を聞くという形がとられた。これらの実験では,フラッシュバルブ記憶が(いかに豊かで鮮明ではあっても),ふつうの記憶と同じようにゆがむという結果が一貫してでている。1986年1月28日の朝,スペースシャトル,チャレンジャー号が打ち上げ間もなく爆発した。その翌朝,心理学者ウルリック・ナイサーとニコル・ハーシュは,エモリー大学の大学生たちに,自分が爆発事故について知っていたいきさつを書いてもらったあと,細かく質問をおこなった。それを知ったのは何時だったか,そのときなにをしていたか,誰から教えられたか,ほかに誰かいいたか,事故についてどう思ったかなどである。直後に書かれたこのようなレポートは,実際にあったできごとに関する最良の記録的証拠になる——ボビー・ナイトとニール・リードの事件で,首をしめたかどうかビデオが事実を記録していたように。
 その2年半後,ナイサーとハーシュは,同じ学生たちにチャレンジャーの爆発事故について同様なアンケートに答えてもらった。すると学生の記憶は大幅に変わっていた。自分が事故について知ったいきさつに合わせて,ありそうではあっても実際にはなかったできごとが,混じり込んでいたのだ。たとえばある学生は,事故の翌日のレポートに,自己についてはスイス人の学生Yから聞かされ,部屋でテレビをつけるように言われたと書いた。聞いたのは午後1時10分,車で出かけられなくなるのが心配だった。一緒にいたのは,友人Zだった。ところが同じ学生が2年半後には,授業のあと寮に帰ると,入り口のホールでみんなが騒いでいたと書いている。そしてXという友人から事故のことを聞き,テレビをつけて爆発時の映像を見た。時刻は午前11時半,自分の部屋にもどったあと,自分以外には誰もいなかった。つまり,ときとともに事故について知ったいきさつ,知った時刻,一緒にいた仲間についての記憶が変わっていたのだ。
 こうした食いちがいにもかかわらず,学生たちは数年前の自分に関する記憶に,驚くほど自信をもっていた。それはできごとを非常に鮮明に思い出せるためだった——これもまた記憶の錯覚作用である。2度目の調査のとき,アンケートに書き込んでもらったあとの面接で,ナイサーとハーシュはチャレンジャー号爆発の翌日書かれた回答を,本人に見せた。学生の多くは,自分が以前に書いた回答と現在もっている記憶の食い違いにショックを受けた。そしてなんと,以前書いたものを見て,自分の記憶ちがいを認めるよりも,自分の「現在の」記憶のほうが正しいと言い張る学生のほうが多かったのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.96-98

誤った思い込み

 ある意味で変化の見落とし以上に要注意なのが,自分が見落としを“するわけがない”という,誤った思い込みである。ダニエル・レヴィンはこの誤った思い込みを,「見落としを見落とす見落とし」と冗談めかして呼んだ。すなわち,自分が変化を見落としたことも気づかないほどの,盲目状態である。ある実験でレヴィンは,大学生のグループにサバイナ/アンドレアの会話場面のスチール写真を見せ,ビデオについて説明し,赤い皿が次のカットでは白く変わっていると教えた。つまり,変化の見落とし実験をするかわりに,作為的に入れ込んであるミスをふくめ,すべての種明かしをしたのだ。そして学生たちに,途中で皿の色が変わることを教えられずにビデオを見た場合,自分は変化に気づくと思うか訊ねた。すると7割以上の学生が自信ありげに,変化に気づくと答えた。もとの実験では,誰も気づかなかったのに!消えるスカーフについても,9割以上の学生が自分なら気づくと答えたが,もとの実験では,やはり全員が見落としている。これはまさに,記憶力に対する錯覚である。たいていの人は,自分は予期せぬ変化に気づくと思いがちだが,実際にはほとんど誰も気づかない。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.76-77

ゼロサムゲーム

 人間の脳にとって,注意力は本質的にゼロサムゲームである。1つの場所,目標物,あるいはできごとに注意を向ければ,必然的にほかへの注意がおろそかになる。つまり非注意による見落としは,注意や知覚の働きに(残念ながら)かならずついてまわる副産物なのだ。そのように,非注意による見落としの原因が視覚的な注意力の限界にあるとすれば,見落としを減らしたり取り除いたりすることは不可能だろう。つまり,非注意による見落としをなくそうとするのは,人間に両腕をパタパタ動かして飛べと言うようなものなのだ。人間の体の構造は,飛ぶようにできていない。同様に脳の構造も,つねにまわりの世界をすみずみまで知覚するようにはできていないのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.56

注意の個人差はあるか

 だが,1つの仕事に対して注意を集中させる能力に,個人差があるということは考えられる。ただしその能力は,一般知能や教育程度とは関係がない。そして注意力の個人差で,予想外のものに気づく割合もちがうとしたら,パスを数える作業をらくにこなせる人のほうが,ゴリラに気づく確率が高いはずだ。数える仕事に苦労がいらないため,ゆとりができるからである。
 この仮説を試そうと考えて,ダンと大学院生のメリンダ・ジェンセンが最近実験をおこなった。彼らはまず,「赤いゴリラ」の実験で使ったような,コンピュータ画面でパスを数える仕事を被験者に頼んだ。はたしてパスを正確に数えられた人のほうが,予想外のものに気づく割合が高かっただろうか。結果はそうはならなかった。予想外のものに気づく能力は,注意力と関係がなさそうだった。同様に,ダンとスポーツ科学者ダニエル・メンメルト(ゴリラのビデオを眺める子どもの目の動きを調べた研究者)も,予想外のものに気づく能力は注意力を無関係であることを発見した。これらの発見は重要な実際的意味をもっている。訓練で注意力を高めても,予想外のものに気づく助けにならないのだ。完全に予想外のものについては,いかに集中力のいい人でも(悪い人でも)気づく可能性は低い。
 私たちに言えるのは,世の中には「気づき屋」も「見落とし屋」も存在しないということだ。どんなときも予想外のものをつねに見逃さないという人もいないし,つねに見落とすという人もいないのだ。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.49-50

携帯しながら運転

 運転,携帯電話,気が散るという話を聞いて,こう思う人は多い。運転中に助手席の相手と話すのは,べつに悪いことではない。なぜ電話で話すのは,それ以上に危険なのだろう(読者の中には,これまでの私たちの話に深くうなずき,「話しながらの運転」をすべて彙報にする運動を,はじめようと思った人もいるかもしれないが)。じつは,助手席と話すことは携帯電話で話すよりも問題が少ないのだ。実際に,助手席と話しても運転能力への影響力はゼロに近いことが,数々の調査で証明されている。
 助手席の相手と話すことは,携帯で話すよりはるかに問題が少ない。それにはいくつか理由がある。第1に,となりにいる相手と話すほうが,話が聞きやすくわかりやすい。そのため,携帯の場合ほど会話に注意を奪われずにすむ。第2に,となりにいる相手の目も,あなたの助けになる——不意になにかが道路に飛び出してきたときに,気づいて知らせてくれるかもしれない。それは携帯で話している相手には,できないことだ。携帯の相手と助手席にいる相手とのちがいで,もっとも注目すべき第3の理由は,会話に対する社会的要求と関係がある。車の中にいる相手と話す場合,相手にはあなたの状況がわかっている。そのため,運転のむずかしい場所にさしかかったあなたが急に口をつぐんでも,相手はすぐにそのわけを理解する。あなたに対して,会話を続けるようにという社会的要求はなされない。あなたが運転中であることを車にいる全員がわかっており,それにあわせて会話に求められる社会性も調整される。だが,携帯で話している場合,たとえ運転のむずかしい場所にさしかかっても,あなたは会話を続けるようにという強い社会的要求を感じる。なぜなら会話の相手には,あなたが突然黙り込む理由が見えないからだ。これら3つの要素がからみあうため,運転中の携帯電話はあなたの気を散らすその他のことがら以上に危険である。

クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.41-42

見えるもの

 しかし,過去の臨床経験によると,生まれたときから目の見えなかった人に,開眼手術を受けた後にはじめて見る世界を表現してもらうと,明るいところと暗いところがさまざまに混ざり合った複雑な模様が見えるばかりで,何が「図」で何が「地」なのかの区別ができないという。また,何が「近く」にあるもので,何が「遠く」にあるものか区別ができない風景であると報告するそうだ。そして,こうした手術によって視覚を手に入れた人が,目に入る世界のしくみに慣れて,自分の近くにあるものと遠くにあるものとの区別ができるまでには,大変な時間がかかるという。
 こうした経験は,生まれたばかりの赤ちゃんの視線を追ってみてもわかることである。養育者としては,生まれたばかりの赤ちゃんに初めて対面したら,にっこりと微笑んでほしいなどという期待をしている。しかし,実際の赤ちゃんは,生後何週間かは,目が泳ぎ,大人の顔の輪郭あたりを見つめるばかりである。だから,私が期待する目と目で見つめ合うようなふれあいはまだまだ先のことなのである。
 これは,ちょっと残念な気がするが,赤ちゃんは,この3次元の世界で,どこまでが対面している大人の範囲で,どこからが背景なのかを必死に探しているのだと考えれば,いとおしくも思えるのではないだろうか。

増田貴彦 (2010). ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 講談社 pp.36-37

都市の機能のよう

 脳のどの部分がどの機能を補助しているのかを把握することが難しいのは,脳の驚くべき複雑さのせいである。脳は並はずれて複雑であり,1000億個の細胞からなり,それぞれの細胞が複数(しばしば未知数)の細胞とつながっており,それぞれの細胞が未知の数の細胞を活性化したり抑制したりしている可能性をもち,それぞれの細胞が他のニューロンの影響を受け,その人が何を食べるか,何をするか,何を感じるか,そしてその人が細胞に何をしたかによって影響を受けるのである(実際のところ,ある理論家は,脳梁の中で興奮性ニューロンが増加すると数学能力が高まると述べているが,そのニューロンに抑制機能が数学能力を高めると述べる者もいる)。さらに,前述したように,脳機能は特定の場所だけから生じるのではなく,同時に活動する多くの神経連鎖の複雑度や強度も関与しているのである。(たとえば市の機能は,1人の仕事だけではなく,いろいろな人々が関わっている多くの仕事から成り立っていることを考えてほしい——交通管理センター,警察署,消防署,救急車が協力している姿は,それぞれの部署がどのくらい効率的かということよりも,市がどのくらいうまく機能しているかについて多くのことを語ってくれる)。反応は非線形であることが多く,それゆえ追跡するには手腕が問われることになり,そして,反応の性質は予測しがたい。

P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.134-135

ゆるい結びつき

 前に述べたように,合理化の特徴は考え同士のゆるい結びつきだ。事実Aは事実Bをさほど含意していない。2つは相性がよいため,1つを信じれば,もう一方も信じようという気になる。このゆるい結びつきの原理を用いると,一方の側に偏った政治的論拠を構築するのに絶大な効果がある。ばかげたことに,妊娠中絶についての討論相手の見方が突然,経済統制の議論に持ち込まれる。この2つの一連の問題が完全に独立していることはその際問題ではない。私たちの心の中では,個人についての異なる見方が結びつく。つまり,私たちは,Xについてその人を疑っていれば,Yについてもその人を疑う傾向がある。私たちは,多くの別々の一連の考えを(政治的に)「右」か「左」という包括的な表題の下にくくられるようにみえる。実は,そのことをずっと不思議に思ってきた。妊娠中絶と医療,アラスカにおける石油の掘削,課税,神の存在はすべて,単独で,重大で,細かく,複雑な問題だ。これらのどれ1つを取ってもそれについて見解を形成するのは,複雑で詳細な作業のはずであり,異なる問題に対して,その複雑さと細部はまったく別々のものだ。

ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.281-282

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