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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

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解剖学的探求の問題

 結局のところ,解剖学や生理学の観点から行動を説明しても,別の疑問を生み出すだけで,説明として十分でないことがわかる。このことは,睡眠という不思議な現象についての説明と似ている。研究者は睡眠を「神経系に休息をもたらすものだ」と説明する。すると「なぜ神経系には休息が必要なのか?」,「24時間のうち16時間しか活動できないような神経系にしか進化できなかったのか?」という疑問が生じるだろう。こういった「説明」は,説明すべき謎を別の謎に置き換えているだけに思える。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.45
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)
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思い出せない理由

 私たちがなぜ人生初期の2年ほどを覚えていないのか,近年の心理学者は次の2つの仮説を提唱している。1つは,脳がまだ十分に発達しておらず,記憶を獲得し保持する機能を担う神経系の働きが整っていないためであるという説である。もう1つの仮説は,言語が発達する年齢まで,私たちが保持したり想起したりできる出来事は非常に限られているというものである。
 この2つはまったく別の説明というわけではない。言語の発達と脳の発達はお互いに関連しているので,記憶が言語能力に影響され,その言語能力は脳の成熟に影響されるのだとしたら,結果的に,記憶の発達は脳の成熟と関係していることになるだろう。一方,もし記憶力が言語能力に影響されず,何らかの脳機能に左右されるのだとしたら,その脳機能の準備が整えば前言語的な記憶を獲得できるかもしれない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.41
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

電磁場と霊

 マイケル・パーシンガー博士は,カナダのローレンシアン大学に所属する認知神経科学者である。彼も幽霊が出ると言われる場所は「電磁波が活発でうるさい」ことが多いという事実に着目した。彼は幽霊が出ると言われる場所で計測されるものに近い値の,弱い電磁場を作り出すヘルメット[God Helmetと名づけられた]を開発した。そして実験では,このヘルメットを装着した人々は幻覚を見た。
 「ここで非常に重要な原理は,電磁場の時間的なパターンが幻覚を引き起こすことです」。パーシンガーと彼の共同研究者ドン・ヒルは,人々が霊的な何かを見たり,経験したことがないような大きな音を聞いたり,何かがいると感じたというような,超常現象を経験した現場の電磁波データを集めて研究している。
 パーシンガーは「そういった電磁場は常に存在するのですが,長くは続かないのです。短く一時的な現象で,記録を取るには忍耐と細心の注意を必要とします」と話す。
 パーシンガーとヒルがパターンを研究室で再現すると,ほとんどの被験者が何かの存在を感じたという。被験者はなるべく先入観を持たないように,自分たちは「リラックス」の研究に参加しているのだと聞かされている。しかし,ヘルメットをかぶったあと,
 「自分の左側に影を見ました……私の体の左側を誰かが触っていました……何かを見ました……霊です」というようなことを言った。
 存在を感じたと言ったひとりの女性は,
 「それがゆっくりと消えていくのを感じたとき,私は泣き出してしまいました」と言ったとのことだ。パーシンガーが発見したのは,脳の右半球が「優先的に刺激された」とき,経験はより恐ろしい感じを伴うということだった。
 また別の被験者は,
 「暗い不気味な力が,すぐ上方にぼんやりと浮かんでいた」
 「奇妙な匂い,恐怖感,その他古典的な幽霊の感じ……たとえば点滅する骸骨のイメージ」
 などと報告した。被験者の左側にあらわれた霊は恐ろしいと報告されたが,右にあらわれたものは死んだ親戚,天使,キリストだと思う人が多かった。
 パーシンガーは,若い夫婦が「幽霊が自分たちのベッドサイドを通っていく。息づかいも聞こえる」と訴えた家を調べたことがある。彼がそこで発見したのは,何度も繰り返される短期の電磁場パターンであり,「我々の実験と研究で,人の気配を感じさせるものと似たものでした」と報告している。
 また彼は,自分の左肩の上に赤ん坊の霊を見続けていた少女を調査したこともある。
 「彼女のベッドの上で直接計測してみると,我々が何かを感じさせるために実験室で使っているのとよく似た構造の電磁場が,パルス状に起こっていました」とパーシンガーは言う。
 「<幽霊が出る場所>などを含めて,自然界に存在するパターンは人間の脳内でも発生します。変性意識状態にあるときや,非痙攣性の複合的部分発作に近い状態にあるときです。これらは,なぜ他の人より幽霊を感じやすい人がいるのかを説明する助けになるかもしれません。側頭葉感受性(これは精神測定装置で測れますが)が高い個人は,こうした弱い電磁場にでも非常に強く反応するのです」
 これがパーシンガーの発見したことである。彼は,脳になんらかのダメージを受け,「自分は怪我をする前とはちがう人間になった」と主張するような人々は,見えないものの存在を感じるなど,超常現象を体験することが多いことも発見している。霊媒は側頭葉感受性が高いか,脳に損傷をもっているのかもしれない。ピーター・フルコスは「霊能力はハシゴから落ちてから目覚めた」と言っている。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.268-270

憑依と脳

 最近の神経科学分野で,憑依に関する興味深い研究がある。ペンシルバニア大学医学部の研究者が2006年に出版した,「異言」[学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操る超自然的な現象]と呼ばれる宗教的な経験を体験した人々の試験調査結果である。もともとは,これは憑依状態を医学的に解明するのを目的とした研究だった。しかし研究者はすぐに,ある期間内に十分な数の憑依者を探し出し,研究室に連れてくるよう説得するのは不可能だということに気がついた。ゲイザー・ブラットがかつて指摘したように,憑依されている人々は恐慌状態にあって,「治癒は望むが,研究は望んでいない」のである。
 ペンシルバニア大学の研究者たちは,代わりにいくらか類似した経験である異言を研究することにした。SPECT(単光子放出コンピュータ断層撮影)画像を使用し,威厳を話しているときと讃美歌を歌っているときに撮影された脳の画像を比較した。すると異言を話しているときには,人は憑依されているときのように,自分自身を統制,支配できていると感じていないのがわかった。今回の研究の主任研究員で,ペンシルバニア大学の放射線科と精神科の教授であり,宗教学の教授でもあるアンドリュー・ニューバーグ博士は「前頭葉は,我々が自分を統制していると感じる働きの手助けをしている脳の一部ですが,異言を話しているときは前頭葉に血液の流れが少なく,活動が不活性化していることがわかりました」と言う。被験者が讃美歌を歌っているときには,画像に変化は認められなかった。ここに見られる脳の活動のちがいは,異言を話す人々の訴えを裏づけているようである。「<自分が乗っ取られている>という感覚を起こしているのは,神か悪魔か,それとも脳の他の部分かはわかりません」とニューバーグ博士は述べている。

ステイシー・ホーン ナカイサヤカ(訳) 石川幹人(監修) (2011). 超常現象を科学にした男:J.B.ラインの挑戦 紀伊國屋書店 pp.131-132

マシン語レベル

 再帰的な予想プロセスは,一瞬で行われる決断の根拠となるには時間がかかりすぎるように思えるかもしれない。過去の選択を見直して,自分の行動性向について内心で読み取り,それが将来についてどういう予測結果をもたらすかを予測し,現在の希望を改訂する——そして場合によってはこの改訂結果を組み込むべくプロセスをさらに繰り返す——これはすさまじく時間を喰うように思える。でもこのプロセスはもちろん,言語化されるレベルで起こるわけではない。そうでなければ,もっと口で説明できるはずだから。これはまちがいなく,心の速攻レベルで起きている。「口では説明できない」けれど,でも知っているあのレベルだ。もし心がコンピュータなら,これは「機械語」のレベルとも言うべきものだろう。

ジョージ・エインズリー 山形浩生(訳) (2006). 誘惑される意志:人はなぜ自滅的行動をするのか NHK出版株式会社 pp.198

サブリミナルの影響?

 1958年の7月,WTTV4チャンネルを見た人びとは,「フランク・エドワーズを見なさい」と「ベーコンを買いなさい」というメッセージを浴びつづけた。実験まえ,フランク・エドワーズの平均視聴率は4.6パーセントだったが,2時間サブリミナルメッセージを流しつづけたあとは3パーセントに落ち込んだ。ベーコンを買いなさいというメッセージの効果も同じくぱっとしなかった。ジョン・フィグ社のベーコンは,放送まえはインディアナ州で週に6143個売れていたのが,6204個に増加したが,じつにささやかな差である。ようするに,サブリミナルメッセージは,ベーコンの購入にはほとんど影響がなく,あったとすれば,多くの人にフランク・エドワーズを見させなかったことぐらいで,サブリミナル攻撃の影響はたいしたことはなかった。
 デフロアーとぺとらのふは,知らないうちに自分の行動や考えを操られることはないから。安心して眠ってよさそうだと結論を出した。

リチャード・ワイズマン 殿村直子(訳) (2008). Qのしっぽはどっち向き?:3秒で人を見抜く心理学 日本放送出版協会 pp.152

まだ曲がっている

 これに関して,私が最近行った実験室ベースの簡単な実験を紹介しよう。ある事柄を頭に植えつける実験である。私は学生たちに,あるマジシャンが念力を使って(実際には手のトリックを使って)金属製の鍵を曲げている場面のビデオを見せた。マジシャンは,テーブルの上に鍵を置くと,あとずさりし,「おう,すごい,鍵がまだ曲がっている」と言った。終わってから,学生1人ひとりに面接し,見たことを聞きとった。半数以上が,「テーブルに置いた鍵が曲がりつづけていた」と答え,「マジシャンはどうやって,あんなみごとな技を見せられるのだろう」と不思議がった。
 これこそ,だましの専門家が長年の経験を利用して観客をだますあざやかな実例である。マジシャンは,こんな大胆な一言で,現実にありえないことが目の前で起こっていると,人びとに信じさせることができるのだ。

リチャード・ワイズマン 殿村直子(訳) (2008). Qのしっぽはどっち向き?:3秒で人を見抜く心理学 日本放送出版協会 pp.96-97

虚記憶

 この研究をさらに進めて,実際には経験していないことを経験したと思わせる実験も行われた。最近では,ヴィクトリア大学ウェリントン校のキンバリー・ウェイドらによる実験で,この暗示のパワーの強さが示された。ウェイドは,「なぜ人は子どもの頃の出来事を思い返すのか」という実験をすると称して,家族を一人,実験協力者としてリクルートしてくるよう,20人に頼んだ。さらに,その家族が子どものころの写真を,当人には内緒で4枚持ってきてもらい,そのなかの1枚を気球の写真と合成して,協力者が気球に乗っている写真をでっちあげた。左ページに示すのが,オリジナルの写真と合成写真の例である。あとの3枚は,誕生日パーティ,海水浴,動物園など,協力者が子どものときに本当にあった出来事の写真だ。
 2週間のあいだに3回,協力者に面接した。各回とも,3枚の本当の写真と偽の気球旅行の写真を見せ,そのときの体験をできるだけくわしく話してくれるよう頼んだ。1回目では,ほとんどの協力者が本当の出来事についてくわしく思い出し,3分の1ほどが行ったはずのない気球旅行のことを「覚えている」と言い,なかにはかなりくわしく話す人もいた。それから,「家でもっと思い出してきてください」と言って協力者を帰した。3回目の最終面接になると,半数が気球旅行を思い出し,その出来事を多少なりともくわしく語る人が多かった。

リチャード・ワイズマン 殿村直子(訳) (2008). Qのしっぽはどっち向き?:3秒で人を見抜く心理学 日本放送出版協会 pp.91-92

知能とは

 しかし,知能とはいったい何なのでしょう。私たちが通常思い描くのは,意味を読み取り,解釈し,適切に処理した上で,反応したり表現したりすることかもしれません。そういう意味では,Jabberwackyは,一切考えていません。人工知能というより,むしろ「人工無能」だといってよいくらいです。何しろ,こちらの言っていることの意味を,まったく理解していない,いえ,理解しようとさえしていないのですから。
 それなのに,ときにJabberwackyが知的に見えてしまうのはなぜでしょう。それは,Jabberwackyが出す反応(会話文)の妥当性が高いからです。つまり,意味を理解して,それに対しての適切な処理をしなくても,アウトプットとしての反応が妥当であれば,知的に見えてしまうわけです。
 そして,それこそが,チューリングテストを定式化した際に,チューリングが発した問いなのです。

新井紀子 (2010). コンピュータが仕事を奪う 日本経済新聞出版社 pp.46-47

(引用者注: http://www.jabberwacky.com/)

「見る」ことが中心

 しかし,想像が現実性をもち,現実が不安定であることは,シィーの人格形成に,非常に強い影響を及ぼした。
 彼は,いつも,何かを期待し,実際に行為するよりも,夢想したり,「見る」ことの方が多かったのである。彼には,何かもっとよいことが起こるにちがいないとか,何かがすべての問題を解決してくれるにちがいないとか,自分の人生は突然このように単純な,明瞭なものになるにちがいないとかの気持ちが,いつも残っていた。そして,彼はそれを「見」,そして持っていたのである。そして,彼が行なったことすべては,「一時的」なもので,現実に起きていることは,期待しているものが,自然に生じてくる当面の間のことであると思っていたのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.193

イメージによるコントロール

 シィーは,自分の心臓の働きや,自分の体温を随意にコントロールできると話したが,それは口先だけではなかった。実際に,そのようにコントロールすることができたのである。しかも,その範囲はかなり大きい。
 今,彼の安静時の通常の脈拍が示されている。毎分70〜72回だ。しかし,しばらく休止すると……脈拍はひんぱんになり,速くなる。ほら,すでに,毎分80……96……100に達する。つぎに,逆の場合を見てみよう。脈拍は,再び遅くなり,その回数は,通常の域に達し,ほら,今は,脈拍はさらに少なくなり……毎分64……66だ。
 どのようにして,このようなことができるのだろうか?

 「何が不思議なのでしょうか?私はたんに,私が汽車を追いかけているのを見ているのです。汽車は出たばかりで,どんどん離れていきます……私はなんとか追いつき,最後の車両の階段に飛びのらなければなりません……心臓がこのように速くなったことが,いったい驚くべきことでしょうか?……次に眠るために横になります……私はベッドの上にじっと動かずに横になっています。……ほら,私は眠りはじめます。……呼吸は平静になり,心臓はゆっくり,均等に拍動するようになります……」。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.171-172

見るものしか理解できない

 具体的に表象することが不可能なものを扱った場合,どうであろうか?複雑な関係を表わしている抽象的概念や,人間が長い歳月をかけてつくりあげてきた抽象的概念の場合,どのようになるであろうか?それらは実在し,われわれはそれらを理解することはできるが,見ることはできない……。シィーの場合,実に,「見えるものしか理解することができない」のであるから……。彼は,このことを,何度われわれに告げたことか。
 このような問題を与えると,新しい困難,苦しみの新しい波,統合させることが不可能なものを適合させようとする一連の新しい試みが始まる。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.161

文章理解の困難

 文の理解,情報の受容は,われわれの場合には,常に本質的なものを抽出し,非本質的なものを捨象していく仮定で,短縮しながら経過するのであるが,この場合には,浮かび上がってくる像との苦しい闘いの過程になりはじめている。つまり,像は認識を助けるものとはなり得ず,反対に——脇道へそらしたり,本質的なものの抽象を妨げたり,他の像と一緒になったり,新しい像になったりして——認識の妨げとなり,そのつぎには,像が,テキストが進む方向と別の方向に進んでいることがわかり——なにもかも再びやりなおさなければならない。簡単に思える文の一節や,単純な文の場合ですら,その読解は,非常に徒労の多い作業になるのである……。しかも,これらの鮮明な心像が,意味の理解を助けているという確信はけっして残らない——もしかすると,それは意味理解をそらしているかもしれない。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.138-139

視覚的知力で計算する

 疑いもなく,「鉛筆と紙による計算」もしくは内的な図式による計算は,課題解決の基本的方法に入れざるを得ない。しかし,直観像にたよらないこのような計算が,正しい解決の道をそらしたり,あるいは単純な解決方法を複雑で無駄の多いものにしてしまう,そのような課題が何と多くあるのだろうか。
 一見すると単純に見えるつぎの課題,「1枚の煉瓦の重さは1キロと,あと煉瓦半分の重さだけある。1枚の煉瓦はどの位の重さか?」も,ある場合には何と難しくなってしまうのだろうか。数に注目した人は,きわめて容易に,信じられない答え——1.5キログラム——を出してくるのだ!このような形式的な答えに滑り落ちるという現象はシィーの場合,まったく無縁であった。いいや,彼の場合,このようなことは不可能でさえあるのだ。彼の「視覚的知力」による解決様式——このため,彼は常に対象をあつかい,常に数を直観・具体的な物と結びつけざるを得ないのであるが——形式的な解決は許されず,他の人々の場合に葛藤をひきおこした課題も,彼の場合には,このような葛藤によって生じる困難を経験することなく経過したのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.126-127

視覚的な知力(visual-intellect)

 シィー自身は自分の思考を,「視覚的な知力(visual-intellect)」と特徴づけている。しかし,この知力は,合理主義哲学者の言う抽象的・思弁的(speculative)な判断とは何ら共通しているものはない。それは,視覚心像の助けをかりて働く知力,つまり,視覚的な知力である。
 他の人々があいまいに思い浮かべていると考えられていることが,シィーの場合,見えるのである。彼の前には,明瞭な像が生じ,その像は,現実に近似するほど,その感受性が高い。彼の思考のすべては,これらの像をひきつづき操作することにある。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.116

未変換

 シィーの幼い時の記憶の世界は,われわれにくらべてはるかに豊かで,それは,驚くべきことではない。われわれの場合には大分幼い時から記憶装置となっている情報の言語処理装置によって変換されているが,彼の記憶は,変換されていないのである。つまり,意識の形成の初期の段階に特有な,像が直接的に思い浮かぶという特徴を保持していたのである。われわれは,たんに信じただけでなく,時に,聴いたことを検証することをも行なったが,大方,彼がわれわれに話したことを信じることができる。われわれが,注意深く耳を傾けなければならないのは,われわれの前にあらわれる状景についてである。しかも,特に興味あることに,その状景はわれわれが常に疑うことができる事実に関することではなく,シィーにとって非常に典型的な伝達のスタイルに関するものである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.88

忘れる方法を探求する

 われわれの多くは,よく記憶するためにどうしたらよいのか,その方法を見つけ出すことを考えるのが普通である。そして誰も,どうしたら,よく忘れることができるかという問題は考えない。しかし,シィーの場合は,問題が反対である。どのようにしたら,忘れることができるようになるのか?シィーをしばしば悩ませる問題は,ここにあるのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.79

顔が覚えにくい

 シィー自身は,人の顔の記憶がよくないことについて,何回となく愚痴をこぼしていた。

 「人の顔は,実際に不安定です。人の気持の状態や,どういう場合に会うかに依存して,しょっちゅう変わり,このニュアンスはめちゃくちゃになります。したがって,大変覚えにくいのです」。

 この場合,先に述べた諸実験で把持した材料の想起に必要な正確性を保証していた共感覚的な経験が,今度は対立する作用に変わり,記憶の把持を妨害しはじめているのである。人の顔を覚える際にわれわれが行なっている再認に必要な,重要な拠点をとり出す作用(この過程は心理学で十分研究されていないが)が,シィーの場合,明らかに脱落しているのである。そして彼の場合,人の顔の知覚は,われわれが窓のそばに坐り,波立っている川波を見ている時に,観察することができる,常に光陰が変化しているものの知覚に近いものになっている。揺れ動いている川波を誰が「覚える」ことができようか?

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.74-75

知覚の法則に従う記憶

 われわれによく知られている記憶の法則は,シィーの場合にあてはまらないことについては,すでに述べてきた。
 一つの刺激の痕跡は,他の刺激の痕跡を抑制しない。それらの痕跡には,減衰のきざしは何ら認められず,また,その選択性を失うこともない。シィーの場合,記憶容量の限界や記憶材料の長さの限界について研究することができない。時間が経過する中で生じる痕跡の消失の力動性について研究することもできない。また,彼の場合,系列のはじめや終わりの要素の力が,系列の中程の要素よりもよく記憶されるという,いわゆる「初頭終末要因」の作用が生じることがない。しばらく休息すると消失したかに見えた痕跡が再び浮かび上がる,いわゆるレミニッセンス現象も認めることができない。
 彼の記憶は,すでに述べたように,記憶の法則というよりも,むしろ知覚,注意の法則にしたがっているのである。つまり,彼が語を再生できなくなるのは,それがよく「見え」なかったり,あるいは,それから,注意をそらした場合なのである。また,彼の想起は,像の明るさ,像のサイズ,像の配置や,無関係な音声によって生じた「斑点」によって像が不明瞭になるか否か等に依存しているのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.72-73

論理の欠如

 しかし,このような印象ほど,真実からかけ離れたものはない。すべてのぼう大で,かつ巧妙な作業や,今引用した多くの手法は,シィーの場合,像にもとづいて記憶を行うという特徴をもっている。言いかえるならば,それは,私が,この章の題名で,独自の「イメージ技術」と名づけたように,得た情報の論理的な処理方法とは著しく異なっているのである。まさにそれ故,シィーは,提示された材料を,有意味な像に配列するのに例外的な強さを発揮するにもかかわらず,記憶材料を論理的に組織化するとなるとまったく弱く,彼の「イメージ技術」の方法は,これまで多くの心理学的研究の対象になり,その発達と心理学的構造が研究されてきた「論理的記憶技術」と共通しているものは,何もないのである。この事実から容易に知ることができるのは,強大な像記憶力があるにもかかわらず,論理的記銘の可能な諸手法が完全に無視されているという驚くべき分裂があることである。これは,シィーの場合,容易に示すことができる。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.67-68

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