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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

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能力が備わっていることと使えることは別

 これらのポイントから,書き言葉が発明される何千年も前から,人間にはそれを使いこなす能力が備わっていたことがはっきりと分かる。また,現在でもまだまだ読み書きができない人がたくさんいることも指摘しておくべきだろう。書くことに必要とされる生物学的な前提条件には手先の器用さ,空間感覚,そして言語それ自体が含まれる——音声言語も,言語音に対応付けられた所持システムの前提条件であっただろう。音声言語に必要とされる生物学的条件も,自律的な音声言語が発明される前から,やはりわれわれに備わっていた。私の分析が正しければ,書字の進化は言語の進化におけるもう1つの特徴も共有しているだろう。つまり書字もやはり慣習化したのだ。アイコン的な,おおよそ絵画的な表現から抽象的な図へと進化を遂げたのである。ちょうど言語自体がアイコン的ジェスチャーから抽象的な音声言語へ進化したのと同じである。先に見たように,あらゆるコミュニケーションシステムの進化においてアイコン的表現は抽象的になる。これはおそらく自然なことなのだろう。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 p.344
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脳の左右差があるかないか

 だが,ここで私が区別しておきたいことは左半球と右半球の情報処理の差ではない。むしろ,左右差がある脳と左右差がない脳の区別こそが重要なのだ。私が考えるに,大能の左右差は,重要なコントロールを要する行為に関係するものだ。おそらく,階層的な処理過程の構築に関わるもので,例えば,言語や道具づくり,心の理論などに関連する可能性がある。大脳の左右差がないひとたちは迷信やオカルト的な思考を信じやすい。だがその一方で,創造的で空間能力に長けているのかもしれない。これらの両極端な性質のバランスがC対立遺伝子とD対立遺伝子が存在することによって維持されているのだろう。このバランスは個人レベルでの選択によって保たれているだけでなく,社会全体としての選択も維持に関わっている可能性もある。いわば信仰と理性の葛藤である。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.305-306

脳の左右差が少ないこととオカルト信奉

 これまで多くの研究者が,大脳半球の左右差が小さくなると魔術的な考え,いわゆる「オカルト的妄想」を信じやすくなることを指摘している。オカルト的妄想とは,透視のような超感覚的知覚,念力,あるいは宇宙からの侵略者など,常識や常識的な物理法則と一致しない現象を信じることを指す。このような信念は統合失調症のような精神疾患で見られる。統合失調症の患者はどこかの組織が彼らの心におかしな考えを植え付けようとしているという妄想を持つ。そのために,超感覚的な手段,あるいは秘密の科学技術が用いられていると彼らは主張する。しかもそれを極めて強く確信しているのだ。
 両利きの人は統合失調型の性格特性を高く示すと報告されてきた。また,統合失調症の患者自身,両利きの人が多い,あるいは利き手があいまいな場合が多いとする報告もある。ティモシー・クロウはさらに「統合失調症はホモ・サピエンスが言語のために払った代償だ」とまで述べている。オカルト的妄想は大脳半球左右差と関連しているようだ。単語判断課題の結果からこれが支持されている。この課題では左と右の視野に瞬間的に単語が提示された。人間の脳は奇妙なつくりをしていて,左の視野の情報は脳の右側に送られ,右の視野にあるものは脳の左側に送られる。従って,多くの人では単語が右の視野に提示されたとき,左の視野のときより成績がよくなる。これは単語が脳の左側,すなわち言語を優位に処理する脳に送られるからである。逆に左の視野に単語が提示されたとき成績は悪くなる。これは右の脳には限られた言語能力しかないからである。実験の結果によれば,超感覚的知覚を強く信じている人は単語の判断において,予測された右視野の(脳の左半球の)優位が観察されなかった。また,オカルト的妄想の強さを質問紙で測ったところ,その評定値が高い人も同様に右視野(左半球)優位が観察されなかった。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.300-301

利き手と認知的スキル

 利き手と読み能力,あるいはその他の認知スキルとの関連について,もっともインパクトのある研究結果は,イギリスにおいて1万2770人もの大集団検査を全国レベルで行ったものだ。利き手は,非常に強い左利きから,非常に強い右利きまでの連続量として測定された。さらに言語能力,非言語能力,読みの理解,数学能力が検査され,利き手得点との関連を調べた。これらの検査の成績はすべて,利き手得点がちょうど中程度のところで,目立って低くなっていた。つまり,左利きと右利きの成績はおおむね似たようなものだったが,両利きの成績が悪くなっていたのである。この現象に背後にクロウらは「半球非決定性」が存在すると主張している。彼らによれば,成績が下降した両利きのところが,半球非決定が起こっているポイントだとされる。半球非決定というアイデアから,CC遺伝子型において知的障害が生ずる可能性が示唆される。しかも,クロウらの研究はその障害が言語能力に限らないことを示した。ただしこのリスクは非常に小さい。CC遺伝子型の人々でも偶然の影響により利き手が一貫するようになることが多いからだ。単に左利きと,右利きを比べた研究ではこの効果が観察されていないことも,リスクが小さいことを示している。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 p.299

ジェインズ本への批判

 ジュリアン・ジェインズは,刺激的な本を書いた。「意識の起源——2つに分かれた精神の消失」(邦題『神々の沈黙——意識の誕生と文明の興亡』)と題した本のなかで,およそ3千年前まで,人間の行動と意思決定は,幻聴や幻覚に強く影響されていたと述べた。つまり,「2つに分かれた」脳によって生み出され,神の声として解釈された幻聴や幻覚が人間の行動を左右したと考えた。ジェインズによれば,大能の左右差は紀元前2000年頃からおよそ1千年にわたって起きた大災害に対する反応として生じた。この大災害には,洪水,地震,民族の大移動,戦争と殺戮,そして株の暴落が含まれる。これらの大災害のせいで,左半球において自己意識が芽生え,さらに個人の行為に対する責任感が出現した。結果として人々は神の声を待たずに,自分の行動を自分自身で決定できるようになったのだ。ジェインズによれば,このような変化は叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」の文体にはっきりと見ることができる。イーリアスには自分自身に対する言及がなく,一人称の使用もほとんどない。一方,オデュッセイアでは一人称がうまく使われており,全体的に「現代的」な仕上がりになっている。脳の左右差は,ジェインズによると,言語それ自体とは何一つ関係がないそうだ。言語はこれらの重要な出来事が起こる遥か前に進化したと彼は述べた。
 ジェインズの理論はまるでナンセンスだ。この本でこれまでに紹介した人間の進化に関する事実と全く相容れない。言語に関連する脳の左右差は,少なくとも200万年も前に存在した証拠がある。さらに,脳の左右差がたった1千年で進化することなど,どう考えてもあり得ない。ただし,左半球が意図的な行為を司っているというアイデアは,長く信じられてきたものだ。マイケル・ガザニガは,35年もの分離脳患者の研究から,左半球が全般的な翻訳機能を持つと結論した。分離脳患者とは,外科手術の結果,左右の脳の連絡が絶たれた患者である。この手術はてんかんの症状を緩和するために行われる。ガザニガによれば,左半球の翻訳機能とは「われわれに自分の行動を制御している感覚」を与えるものだ。これを支持する実験結果もある。健常者の脳活動を測ったところ,形態に関する強制二肢選択課題において,2本の指のどちらを動かすかを選ぶことは左半球が司っていることが示された。これは右手,左手のどちらの手の選択についても同じだった。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.274-275

音声は文脈や状況に依存する

 単語が異なると,同じと認識される音素でも物理的には異なっている。これはいわゆる「同時調音」と関連する。「bonnet」の/b/音と「bed」の/b/音が違うのは,次の音である/o/(あるいは/e/)を出すために唇と口の形がすでにでき上がっているからだ。そのせいで実際に出てくる音が変わってしまうのだ。鏡の前に立って,「bonnet」と「bed」を言うときの口の動きを注意してみて欲しい。口が違う動きをしているのが見えるだろう。/b/音の違いをほとんど聞き取れないのは,脳の素晴らしい補完能力(あるいは偽装能力?)のためである。実のところ,/b/音は,別の有声音の音素が後に続かなければ,適切に発音することなど全くできない。つまり,音素は完全に文脈や状況に依存したものだと言ってよい。特に驚くべき差が子音にある。この差は前あるいは後に付く母音によるものだ。例えば,「rob(奪う)」と「rod(棒)」という単語について考えてみよう。これらの単語を単独で発声するとき,あるいは,文末で発声するとき,最後の音素はたいてい発音されない。ただし,発音はされないが,前にある母音をほんの少しだけ変調させる。つまり,発音はされないが前後の音には確かに影響を与えるのだ。私が考えるに,この区別は話し手の口を見ていることでしかできないだろう。「rob」の時は最後に口が閉じ,「rod」の時は口が開いたままである。逆に「bog(沼地)」と「dog(犬)」のような単語は/b/と/d/の音は遥かに区別が簡単だ。まるで違ったように発音できるだろう。このように見てくると,音素には,特にいわゆる破裂音と呼ばれる/b/,/d/,/g/,/p/,/t/,/k/には,幽霊のような性質があることが分かる。ちょうど存在しているのか疑わしいという点で幽霊にそっくりだ。こんな幽霊が出てきてしまう理由は,それぞれの音素があまりにも激しく変化するためだ。何しろあまりにも変化が激しいので人間の音声言語を正確に聞き取るコンピュータが作れない位である。人間の脳はこの問題を実にエレガントに解いている。ただし,誰もその仕組みをきちんと理解できていない。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.194-195

音声言語は音の錯覚だらけ

 実際の使用において,同じと認識される音素でも物理的にはさまざまな違いがある。決して単一の音ではない。まずはじめに,個人個人で声が違う。だから厳密に言えば,私達は全員が異なった音素で言葉を発している。さらに,同一人物が発する音素ですら,文脈に依存した違いがある。例えば,物理的な音のパターンからすると,「fish」の/f/音と「coffee」の/f/音は同じではない。「bonnet」の/b/音と「bed」の/b/音もやはり違う。そういわれてもピンとこないかもしれないが,物理的に測定すると確かに違う。つまり,私たちには物理的には異なる音素でも,同じものとして聞いてしまう傾向があるのだ。実は,音響スペクトログラフという装置が発明されるまで誰もそんなことは知らなかった。この装置は,時間経過に従って,測定した音の周波数帯域を視覚的に出力するものだ。つまり,音に含まれる情報を正確に視覚情報として理解できる。この装置の出力を見てみると,多くの音素が,たとえ私たちにはっきり聞こえたとしても,音響スペクトログラフに記録すらされていないことが明らかになった。また,同じと考えられていた音素が周波数的には全く違うこともあった。技術的には,発話される実際の音は「単音(phones)」と呼ばれる。これが,音響スペクトログラフで記録されるものだ。一方,音素(phonemes)は単音の抽象的カテゴリーである。極めて抽象的なものと言ってよい。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 p.194

発声とジェスチャーの干渉

 指示的ジェスチャーには発声の先駆けになったことを示す側面がある。ジェスチャーと発声を同時に行うとき,例えば二重課題で,画面に出てきたシンボルの名前を言うことと,そのシンボルに対応した手の形をつくることを同時に行うとき,発声とジェスチャーが干渉し合うことがある。ただし干渉の程度は等しくないようだ。ジェスチャーのせいで発声はわずかに遅くなるが,ジェスチャーが発声の課題のせいで遅くなることはない。また,説明のためのジェスチャーは関連する発声に先立って行われ,後になることはない。また,ジェスチャーは単語検索を促進することも知られている。これらの現象はジェスチャーがコミュニケーションの体系の中にしっかりと確立されていることを示す。おそらく進化の過程に原因を見つけることができるだろう。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.167-168

ジェスチャーが先行する

 初期のホモ・サピエンスも少しはしゃべっていただろう。しかし,この200万年間の言語の発達は,音声よりも,むしろおおむね手を使ったジェスチャーにおけるものだったと私は考える。それを支持する証拠もある。まずはじめに,先述のようにわれわれ霊長類の祖先は意図的に音声シグナルを生み出すことにあまり適した体の構造をしていなかった。むしろ,手や腕が意図的な運動にはずっと向いていたのである。第2に音声コミュニケーションは音のせいで敵に見つかる危険性があるが,手を使ったジェスチャーでは音がしない。現存する狩猟採集民族のクン・サン族は,獲物を探しているとき,鳥の鳴き声をつかてコミュニケーションをする。その後,再び音のしないシグナルを交換しながら,,気づいていない獲物に近づいていくのである。第3にコミュニケーションの多くは位置を指し示すことに関わっている。例えば,敵や獲物がどこに潜んでいるかを示すときに使われる。位置情報は指さしや視線を向けることで的確に,しかも素早く伝達することができる。喉から出てくるノイズはこれより劣る。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 p.164

水辺での進化と脳の大きさ

 脳サイズの増大は水辺での暮らしとも関連するかもしれない。脳の発達には複合脂肪酸の一種,ドコサヘキサエン酸が必要である。DHAと呼ばれているものだ。この脂肪酸は発達の過程において体内で合成される。しかし,人間の赤ちゃんは自分の体内だけではこの物質の十分な量を合成できない。この不足を補うには脂肪酸を外から,つまり食べたり飲んだりして摂取する必要がある。DHAは地上の食物だけでは不足する。地上生物の食物連鎖に沢山は含まれていないからだ。しかし,面白いことに貝や魚など海の生物に多分に含まれている。子供の頃,もしお母さんに「魚は頭に良い」と言われたなら,それはまさにその通りで,お母さんは正しかった。ただし,今頃になって食べはじめてももう遅い。DHAは大人の脳を大きくはしないのだ。二百万から三百万年前に海辺で生活していたホミニンたちはDHAがふんだんに含まれている食料を採っていたに違いない。これが進化の過程でわれわれの脳を大きくした原因だったのだろう。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 p.150

手の動きと発声

 極めて発達した手や腕のコントロール,そして正確な三次元視覚を身につけたことで,霊長類は世界とのコミュニケーションに生得的な基盤を手に入れた。手と腕の動きは大脳皮質の高次中枢でコントロールされるのに対し,発声は(完全にではないが)もっと初期の皮質下の領域でコントロールされる。これは手の動きが「意図的」であることを意味する。いわば,その場で柔軟にプログラム可能で,新奇な状況に対応できるようになっているのだ。一方,発声は大部分決まった状況に結びついている。前章で見たように,チンパンジーでさえ適切な感情状態になければ音声を発することはできず,逆に感情的に生じた音声を抑制することもできなかった。ちょうど人間が笑うことや泣くことをしばしば抑制できないのとよく似ている。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.75-76

サルの言語獲得の重要な結論

 サルに言葉を教える挑戦もすでに50年続いてきた。専門家の間では結論がどうなるかまだまだ意見が分かれている。おそらくびっくりするぐらい意見は不一致だ。しかしながら,今のところ重要な結論を2つ述べることができる。1つめは,サルに声を出して話させようとしても無駄だということだ。カンジは言葉を聞いて理解することに驚くほど長けていたが,声を出して話すことはできなかった。彼の叫び声と話し言葉に似ているところはまるでない。また,彼の声はジェスチャーやレギングラムによるコミュニケーションにおいて感情を込めるために使われるおまけのようなものだった。
 2つ目は,少なくとも大型類人猿は,視覚的な手段を使えばとてもうまくコミュニケーションができることだ。彼らはジェスチャーをやって見せることも理解することもできる。ジェスチャーには顔の表情も含まれる。また,彼らは人工的なシンボルを使い,シンボルを指差すなどの操作をすることによって,対話者とコミュニケーションができる。このように視覚的にコミュニケーションを行うことは間違いなく意図的なものであり,単に感情状態に依存しているわけではない。実際,ジェーン・グドールが紹介したチンパンジーが食べ物に関する叫び声を抑制しようとした例は,意図でコントロールできない叫び声とそれを抑制しようと口を手でふさぐという意図的なジェスチャーが別であることをうまく表している。彼らは口で嘘をつくことはできないが,手で人の目をあざむくことはできるのだ。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.63-64

少ないほど豊か(less is more)原理

 文法の学習で問題になるのはその階層構造である。句の挿入や句全体の移動に関する規則もあれば,個々の単語の置換や屈折に関する規則もある。さらに単語内の要素に関する規則すらある。エルマンの研究は,このような問題がネットワークに成長要因を導入することにより解決できることを示唆する。初期状態での大まかな全体的分析が,徐々にどんどん細部に至るようになるからだ。発達心理学者のエリザ・ニューポートはこれを「少ないほど豊か(less is more)」原理と呼んでいる。ニューポートによれば,子どもたちが言語をたやすく学習できるのは,はじめはかなり大雑把に情報を処理しているからである。この大雑把な処理は時間とともに細部に及ぶようになる。スティーブン・ピンカーが指摘するように,子供たちがうまく学習するのは,彼らが言語の天才だからではなく,彼らの学習が散漫でうまく形づくられていないからだ。それは徐々に焦点が合っていく望遠鏡に似ている。最初はぼんやりと輪郭だけが見え,やがて詳細がくっきりと浮かび上がるのである。

マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 p.21

脳画像研究の変遷

 脳画像法の発達とともに,研究テーマは精神的能力の探究をより深めている。知覚神経の機能と運動性についての初期の研究から,言語,記憶,理性,感情,道徳的判断など,もっとも入念につくられた機能へとテーマは移った。スタンフォード大学のジュディ・イレスは出版物に載ったテーマ群の変化を分析した。彼女は1991年から2001年までに498の異なる雑誌に掲載された,3426にのぼる機能的MRIと次第に複雑になっていく認知機能の研究についての論文をリストにした。「社会的・政治的影響があるテーマ,たとえば個人間の協力と競争,暴力的な人間の脳の違い,脳の構造と機能への遺伝子的影響などの著しい増加が,分析によってわかった」。そして彼女はこう警告を発している。「応用範囲の拡張を慎重におこなわなければ,観察結果の適用範囲を有効と認めたり確認したりはできない」。そして,とりわけ強調されたのは,「利益がリスクを上回ることを保証するために,医療,教育,立法府,そしてメディアの分野における行為者が神経科学者との間で相互作用すべき」ということだ。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 p.125

化学的分析で知能は分かるか

 研究室には,脳の化学分析によって知性の測定ができるという神話が,相も変わらずはびこっている。2000年,アメリカの心理学者たちが発表した研究論文では,知的能力は神経細胞によってつくられる分子,N-アセチルアスパラギン酸(NAA)とともに変化することが明らかにされている。このことから,NAAが知性の<指標>になると彼らはすぐさま結論づけた。性急きわまりないこの結論は測定のなんたるかを気にもかけていないが,科学的アプローチを装っている。生成物の量を測ることがそのまま知性の計測になることはありえないし,この知性という基礎概念ですら知性の形態の多様性を考えると問題点が多い。それに,2つの測定値が同時に変化するからといって,2つの間に原因と結果の関係があるわけではない。車の速度を落としたときにガソリンの残量の値が下がってきたことに気づいたとしても,だからといってこの2つの現象につながりはないのと同じだ。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.114-115

私たちが優れたゲーム理論家ではない理由

 なぜ私たちはみなすぐれたゲーム理論家ではないだろう?なぜ,意識せずに正確な計算を行っているということがわからずに,曖昧な概念(この人は「好ましい」,この集団は「友好的」だ)をもつのだろう?推論システムで行われていることが意識できないのには,いくつかのもっともな理由がある。第1に,私たちの心的システムは強い動機づけを生み出すように設計されており,感情という価値の報酬を私たちにもたらすことでそれを成し遂げる。もしそれが強い感情的な経験でなければ,私たちは,理想的な配偶者を選ぶのに多大な努力と資源を投資したりはしないだろう。感情は,選択を誤ったらどうなるかという抽象的な記述よりもずっと容易に,私たちを正しい方向に駆り立てる。第2に,私たちの推論システムはきわめて複雑である。理想の配偶者を選んだり,大きな会社のなかで信頼できる協力者を選ぶのがかなり難しいのは,抽象的な「適切な人」などというものがないからである。それは,もっぱら文脈——自分がなにを必要とし,なにを提供しなければならないか,ほかの人たちがなにを必要とし,なにを提供してくれるか——に依存し,これらの変数の変化にともなって,すべてが変化する。膨大な数の関連する手がかりに注意し,たえずその重要性を評価することは,反応が鈍く慎重な私たちの思考にとってあまりに複雑すぎる。そして,社会的相互作用のための私たちのシステムは,国家,企業,団体や社会階級のような巨大な集団や抽象的な制度を背景に進化したのではない。私たちは,狩猟採集の小さな集団として進化した。そしてそのような生活が,私たちの社会的心という特別な特徴を発達させたのである。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.325-326
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

本来とは別の場面で機能する能力

 おそらく間違いは,人間の心に特有の能力や傾向が,手順の規定された儀式があらゆる人間集団に存在することを説明すると仮定したことである。これまで何度も述べたように,多くの文化的創造物——視覚芸術から音楽,皮なめし職人の低い地位,遺体への強い関心にいたるまで——がうまくいっているのは,それらがさまざまな心的能力を作動させたからである。そうした心的能力のほとんどは,本来それとは異なるきわめて明確な機能をもっている。言い換えると,多くの文化は,注意を引きつける大きな力と人間の心にとって大きな重要性をもつ適切な認知的小道具からなるが,それは人間の心の現在の編成のしかたの副産物である。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.307
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

人間の心は物語的心

 人間の心は,物語的心あるいは文学的心だと言える。すなわち,心は,まわりの出来事を,いかに些細なことであれ,因果的な物語——つまり,個々の出来事が別の出来事の結果であり,あとに続く出来事への道を開くような連鎖——によって表象しようとする。しかし,物語への衝動はさらに核心にまでおよぶ。それは,私たちのまわりで起こるすべての出来事についての心的表象のなかに埋め込まれている。さらに,人間は生まれついての計画者である。私たちの心のなかは,何が起こりうるか,ああしないでこうしたらどんな結果になるか,ということで満ちている。このような切り離された思考をもつことは,ほかの動物種よりもはるかにうまく長期的なリスクの計算を可能にするので適応的な特徴と言えるだろう。しかしそれらはまた,私たちが実際の経験よりもはるかに多くの致命的状況を表象しており,死の予期が私たちの心的生活においてきわめて頻繁に登場する特徴である,ということも意味している。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.267
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

知識は空っぽの容器に入るものではない

 文化的な情報を獲得するには,さまざまなやり方がある。これは,人間の脳のもつ学習能力がどの領域でも同じというわけではないからである。たとえば,適齢期(1歳から6歳ぐらい)にある正常な脳なら,言語の正しい文法と発音を容易に習得できる。社会的相互作用の能力は,これとは違うタイミングで発達する。しかし,これらすべての領域において学習が可能なのは,利用可能な情報を超えてゆけるからである。これは,言語の場合には明らかにそうである。子どもが聞くものにもとづいてしだいに文法を形づくってゆくのは,彼らの脳が,言語がどう機能するかについて一定のバイアスをもっているからである。しかし,言語だけでなく,ほかの多くの概念領域についても,同様のことが言える。たとえば,日頃使う動物の概念について考えてみよう。子どもは,動物の種類によって繁殖のしかたが違うということを学習する。ネコは子ネコを産み,ニワトリは卵を産む。子どもは,動物を実際に観察することによって,あるいは具体的な情報を与えられることによって,これがわかるようになる。しかし,子どもたちがすでに知っているので,教えなくてもよいことがある。たとえば,1羽のニワトリが卵を産むのなら,おそらくすべてのニワトリが卵を産むはずだ,ということを言ってあげる必要はない。同様に,5歳児は,1頭のセイウチが赤ちゃんを産むのなら,ほかのすべてのセイウチもそのように子を産む,と推測するだろう。これは,さらに次のような単純なことを示している。つまり,知識を獲得する心は,あらかじめ消化しやすく加工された情報が経験と教育を通して注ぎ込まれる空っぽの容器などではないということだ。心は,見て学んだことを理解するために,情報を組織化する方法を必要とし,一般にはそうした方法をもっている。これにより,心は,与えられた情報を超えることができる。専門的な言い方をすると,与えられた情報にもとづいて推論することができる。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.56-57
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

無意識のうちに認知分類をしている

 私たちは生物にしろ無生物にしろ,雑多なものをそのまま呑み込んで理解できるだけの能力をもち合わせてはいません。とにもかくにも対象物を分類し,少数のカテゴリーにまとめようとするのは,そうしなければ多様な相手を理解できないからです。
 そのような認知的分類はいまでももちろん有効です。人間は誰でも無意識のうちに認知分類をしてきたし,今でもしています。それと同じくらい系統樹思考は私たちの理解を支援してくれると私は考えています。系譜をたどるのは「知りたい」という欲求があるからです。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 p.26

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