I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「認知・脳」の記事一覧

ニアミスバイアス

「ニアミスバイアス」とは,幸運によって良い結果が得られた後に,さらにリスクをとろうとするようになる傾向をいう。当然ながら,運はどちらに転ぶかわからず,悪い結果を招くことも少なくない。にもかかわらず,ニアミスは過度の楽観主義を引き起こしてしまう。人々は,結果が幸運だったのではなく,自分たちが幸運なのだと見なすようになる。

ポー・ブロンソン7アシュリー・メリーマン 小島 修(訳) (2014). 競争の科学:賢く戦い,結果を出す 実務教育出版 pp.216

非陳述的学習

自分ではそれと気付かずに学習がなされることもあるという発見は,ヒトの記憶研究におけるもっとも重要な進展の一つと言えよう。20世紀には,健忘症にかかわる科学研究の多くが陳述的学習と記憶に焦点を当てていたとはいえ,もう一方の非陳述的学習と記憶にも光が当てられるようになり,このタイプの学習と記憶によって,健忘症の患者は学習経験を明確に示すことは無理でも,以前にはできなかった作業が実際にできるようになるということがわかってきた。非陳述的学習は手続き学習,または潜在学習とも言われる。非陳述的学習と一口に言っても,その実態は,運動スキル学習,古典的条件づけ,知覚学習,反復プライミングといった,障害によって失われずに残った実に多様な学習能力をとりまとめたものにほかならない。これらの「手続き」は,課題達成に要する試行回数,必要とされる脳基盤,知識の持続性などいくつかの点において相互に異なる。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.212

三段階

学習と記憶を情報処理と見なす発想が重要な進展となり,研究者は記憶をコンピュータプロセスになぞらえて3つの処理段階に分割できるようになった。第一段階は情報の符号化(記銘)であり,外界からの感覚入力を脳内表象に変換する。第二段階は,これらの表象をあとで取り出せるように貯蔵(保持)する。第三段階は,貯蔵された情報を必要に応じて検索(想起)する。現在の研究者は,これらの三段階を個別に調べ,相互作用を見きわめられるように実験をデザインする。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.166

作動記憶

私たちが日常生活で記憶をどう使うかを研究するにつれ,短期記憶の理解もまたその複雑さの度合いを増していった。外界からの情報を取り入れるとき,私たちは多数の複雑な過程を脳内で行なっている。68×73を暗算するとき,私たちは計算し,答えを保存し,数字を組み合わせ,正確さを確認している。この作業は短期記憶に保存されている項目をただ反復するより労力を要する。つまり,それは頭脳労働なのである。「数字」や「掛け算」という抽象概念を利用し,その知識にもとづいて目前の問題に挑む。この種の過程は作動記憶(ワーキング・メモリー)と呼ばれる—短期記憶の作業拡張版,いわば認知行動が起きる脳内作業領域である。
 作動記憶は短期記憶あるいは即時記憶とどう違うのだろうか。短期記憶は単純で,作動記憶は複雑だと考えるといい。作動記憶とは作業が活発に進行中の短期記憶なのだ。いずれも一時的であるが,短期の即時記憶は,短い遅延時間か遅延時間なしで少数の項目を再現する能力(たとえば,3,6,9と言う)であるのに対し,作動記憶は少量の情報を保存する一方でその情報を用いて複雑な作業をする(たとえば3×6×9の暗算をする)。私たちは短期記憶を使うときにはただ一定量の情報を反復しているだけだが,作動記憶を使うときにはその情報を確認しつつ必要な操作を行なうことができる。作動記憶は短期目標—長文解釈,問題解決,映画のあらすじを追う,会話を交わす,野球の試合運びを覚える—を果たすために必要な認知過程や神経過程を組織化する。

スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.100

認知的不協和

このような不協和について有名な心理学の理論があるが,それは大きな影響力をもつもので,今や心理学の主流となっている。優秀な社会心理学者レオン・フェスティンガーが1950年代半ばに提唱した「認知的不協和理論」は,私たち人間は,自分の信念と行動の間,また同時に存在する2つの信念の間に葛藤があることに気づくと,「心的な調和や協和を求めるという自然な状態」が妨害されると説明する。この妨害によって起こる不快な心的状態は,音楽で協和しない音が出されたときの聴覚的な不協和と同じくらい不快なものである。

M.R.バナージ・A.G.グリーンワルド 北村英哉・小林知博(訳) (2015). 心の中のブラインド・スポット:善良な人々に潜む非意識のバイアス 北大路書房 pp.103
(Banaji, M. R., & Greenwald, A. G. (2013). Blindspot: Hidden biases of good people. )

理由を考えるほど

私たちが,サンダース氏の例のように他者を不利な立場に追いやるような判断の誤りについてあまり修正しようとしない理由は簡単に推測できるが,自分自身に大きく影響するような判断についてはどうだろうか。私たちは,自分自身の利益が危険にさらされるような状況では,マインド・バグを避けるようにより気をつけるだろうか?一例として,6名の友人と読者が実験に参加していると想像してほしい。6名からランダムに選んだ3名の友人に,それぞれの恋愛相手を好きな理由を3つあげるよう尋ねてみる。また別の3名には,おなじことに着いてつの理由をあげるよう尋ねてみる。その後,両方の友人にこの1つの質問をする。「あなたは,あなたの恋愛関係についてどの程度満足していますか?」。驚くことに,3つの理由のみを書いたグループは,9つの理由を書くよう言われたグループよりも,彼らの恋愛相手について,またその相手との関係についてより幸福感を報告したのだ。
 このバイアスの説明は,直感に反したものではあるが単純である。自分の恋愛相手の良いところについて「9つも」挙げることができる人はいるだろうか。カトリックの列聖でさえ,奇跡は2つでよいのだ!9つも良いところをあげるよう言われた人たちは,3つと言われた人たちよりも苦労するため,「やれやれ,良いところをあげるのはかなり難しかった。もしかして,自分の相手は思っていたほどにはすばらしい相手ではないのかもしれない」という考えに行き着くのだ。これは利用可能性バイアスと呼ぶが,ミシガン大学のノーバート・シュワルツは,このように重要で親しい間柄の愛情でさえも,このバイアスの現象が起こることを示した。

M.R.バナージ・A.G.グリーンワルド 北村英哉・小林知博(訳) (2015). 心の中のブラインド・スポット:善良な人々に潜む非意識のバイアス 北大路書房 pp.40-41
(Banaji, M. R., & Greenwald, A. G. (2013). Blindspot: Hidden biases of good people. )

感情移入の4要素

私の同僚のジーン・ディセティは感情移入を神経科学の観点から研究し,感情移入という形のつながりになくてはならない4つの要素を突き止めた。共有された感情表現,他者は自己とは別であるという認識,それにもかかわらず「人に身になって考える」ための精神的な柔軟性,そして適切な反応をするために必要な情動的自己調節能力だ。
 ディセティはこの4つの要素を分離し,それぞれを脳の別の領域に特定するのに成功した。そして,共有する感情は例外だが,感情移入の各要素には実行機能が必要だという結論を下した。というわけで,孤独感で心がいっぱいになると,実行制御と自己調節を妨げる一因となる孤立感は,心から感情移入する反応の邪魔もしうる。

ジョン・T・カシオッポ&ウィリアム・パトリック 柴田裕之(訳) (2010). 孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか 河出書房新社 pp.215-216

答えられる問題

脳科学リテラシーに関しては,脳科学が答えられる問題とそうでない問題を区別することの重要性を周知徹底させることも大切だ。脳科学の役割は,精神現象に関連した脳のメカニズムを解明することにあり,その専門知識を有効に活用できる問題に適用すれば,発想の大躍進や臨床的な進歩につながる見込みは十分ある。だが,不向きな問題を振り向けられても,答えの出ない袋小路に迷い込むのがおちで,悪くすれば,科学の権威の悪用につながるだろう。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.227-228

神経中心主義の罠

きわめて重要な心理や社会,文化のレベルでの分析に顧みずに,過剰や食欲や社会行動を脳に依拠して説明すると,神経中心主義の罠に陥る。したがって,そのような説明がろくな成果を生まないことはほぼ間違いない。科学者は(ニューロンや心,行動,社会生活といった)さまざまなレベルで人間の行動を記述できるが,物理的側面と心理的側面の大きな隔たりを埋め合わせる段階にはほど遠い。脳は心を,ひいては人間の機能を可能にする。だがその仕組みを,脳科学は(仮にいつかはできるとしても)いまだ十分に解明できていない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.226-227

脳と行動

脳科学者は,脳のデータと行動の間に緊密な因果関係をいまだに構築できていない。有責性——つまり,誰が理性に従うことができて,誰ができないか——の判断に重要だと法律が見なすほどの有意義な特性を脳科学が明らかにできるまでは,脳画像の価値は法的妥当性をはるかに踏み越えた,ただの誇張にとどまるだろう。法律の枠内では,刑事的・道徳的責任の帰属は,悪しき行動を引き起こした原因にはかかっておらず,加害者が予見可能な結果に影響を受け,それに従って行動を改めるに足る理性を有していたかどうかで決まる。これが今日の法廷で「行動は画像より雄弁だ」と言われる所以であり,本来あるべき姿である。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.226

エネルギー節約

もし認知作用にかかるエネルギーを節約しなかったら,私たちは日常生活が突きつけてくる要求に圧倒されて,機能停止に近い状態に陥るだろう。歯を磨く,タクシーを止める,感情を抑える,制限速度を守るといった日々の活動に逐一注意を払わなくてはならないとしたら,どうだろう?実際,テニス選手としての才能の大部分——そして,市民としての道徳的責任の大部分——は,一連の適切な「自律的」行動を習得することにある。よく知られているように,アリストテレスも「美徳とは,有徳の行動を重ねることによって人間の中に形作られる」と言い切っている。
 したがって,この種の自由を,あるかないか,白か黒かという観点で捉えたら誤りになる。おそらく,白や黒や灰色の要素から成るモザイクと捉えるべきなのだろう。私たちの行動のある面はときおり,意識の制御下にある。とりわけ,難しい判断を下す必要があったり,計画を立てたり,重大な局面に立たされたりしたときなどがそうだ。だがその他の場合には,意識は蚊帳の外に置かれている。けっきょくのところ,ほとんどすべての行為が意識的な過程と無意識的な過程の入り交じったものから生じ,その割合は時々の状況によって変わると言えそうだ。行動や自制心をもたらしうる意識的な精神状態を人間が持っているかぎり,とくに法律も人々の道徳観全般も,根底から見直す必要はない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.209

関連の曖昧さ

現在のところ,脳に損傷や重い障害がある最も極端な場合を除いて,脳の特定の異常が当該の犯罪行為と関係するかどうかは,神経学者や精神科医や心理学者にはわからない。こうした曖昧さには多くの理由がある。
 すでに見たように,脳画像法は血液中の酸素濃度の変動を測定することはできるが,脳の活性化の変化を,被告人が(理性が著しく損なわれている,意志を形成できない,衝動を制御する力が弱まっている,などの理由で)十分な責任を負う法的基準を満たすことができない証拠だとする解釈は,まだ科学的に確実な基盤に立っていない。「異常」に機能的な意味があるとはかぎらないことも重要だ。神経学者が何十年も前から認めてきたように,「悪い」脳(不審な損傷が見られたり,機能的スキャンで異常な活性化のパターンを示したりする脳)を持ちながら,法を守っている人は大勢いる。たとえば,前頭葉の損傷は統計的には攻撃性の増加と関連づけられているが,それでもそうした損傷のある人のほとんどは,敵対的でも暴力的でもない。おそらく,各脳領域が緊密に接続しているおかげで,一部の領域が他の領域を調節したり,他の領域の埋め合わせをしたりできるのだろう。逆に,深刻な問題行動があっても,脳スキャンをすると,ほとんどあるいはまったく欠陥を示さない人もいる。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.172-173

脳指紋法

脳指紋法は,特定の情報が「脳に保存されている」かどうかを検知できるとファーウェルは主張する。だが,「脳に保存されている」というのは,記憶の仕組みの隠喩としては欠陥を孕んでいる。脳は,忠実な音声・画像レコーダーのようには機能しないし,静的な記憶の保管所でもない。記憶は誤りを犯しやすい器械であり,ときにはものの見事に間違える。すべてが記憶されるわけではないし,記憶されるものも,歪められることがよくある。事象のコード化,保存,永続的な記録の作成,想起という,記憶の各段階で不具合が生じうる。罪を犯した人も,脳波を使った訊問に「合格」するかもしれない。激しい怒りなどで我を忘れ,犯罪の極めて重要な詳細が頭に入ってこないこともあるからだ。頭に入ってこなければ,脳は記憶としてコード化できない。仮に詳細がコード化されても,毎回永続的に保存されるわけではない。記憶は通常しだいに薄れていくし,時がたつうちに,それ以前やそれ以後の記憶と混ざり合いかねない。そのような合成記憶は,正確な記憶に劣らず鮮明で,本当に真に迫っているように思えることもある。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.138

法外な主張

ところが,脳画像法の専門家たちはそのような包括的な主張は避ける。生物学的な指標から精神状態を推断する概念的限界を熟知しているからだ。fMRIは驚くべき科学技術であり,依然として比較的未熟ではあるものの,今後の発展が運命づけられている。ただし,その優れた能力が最もうまく実証できるのは認知あるいは情動の実験室であることが,彼らには容易に理解できる。危険が生じるのは,スキャンが実験の範囲を離れ,法やビジネスといった,社会的に重大な領域に入り込んだときだ。そこでは,解釈を抑制するという大切な要件がなおざりにされ,脳スキャン画像が心について何を解明できるかに関して,法外な主張がなされることが多い。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.60

ダブル・ディッピング

標準的な統計検査を使って「擬陽性」の問題を補正するのは比較的易しい。だが,それ以外にも落とし穴はたっぷりある。ある同輩脳科学者が「爆弾」論文を呼んだものの中で,マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院生エドワード・ヴァルは,多くの脳画像研究者が自分のデータを分析する方法に関して,根本的に問題があると結論した。ヴァルは,心理状態とさまざまな脳領域の活性化との間に,彼に言わせれば「ありえないほど高い」関連性が推定されているのを目にしたとき,疑わしいと思った。たとえば,怒りに満ちた発話に対して不安を示す傾向と,右の楔状葉(脳の後部にあって衝動制御に関わると考えられている領域)での活動との間に,ほぼ完璧な0.96という関連性(1.0が最大)が見つかったとする2005年の研究に,ヴァルは疑問を感じた。また,気持ちのうえでの不倫をめぐってパートナーに感じる嫉妬の自己報告と,島での活性化との間に0.88という相関を報告した2006年の研究もにわかには信じがたかった。
 ヴァルと共同研究者のハル・パシュラーは,もともとの論文を熟読しているうちに,研究者たちが偏った結果のサンプルから結論を引き出していることに気づいた。彼らは刺激と脳の活性化との相関を探すとき,基準を緩めすぎることが多い。その結果,まず,活性化の度合いが際立っている小さな領域に行き着く。そうした小領域にいったん狙いを定めると,研究者は当該の心的状態と脳の活性化との相関を計算する。そのときに,のちの研究では通用しそうにないような,データ中の偶然の変動を図らずも利用してしまう。
 ヴァルの批判は多くの面で専門的だが,要点は簡単に理解できる。統計的に有意の関連性を探して膨大な数のデータ(この場合は,何万というボクセル)を調べてから,見つかった関連性だけをさらに分析すると,何か「有効なもの」が出てくるのは,ほぼ請け合いであるということだ(この誤りを避けるには,二度目の分析は最初の分析とは完全に独立したものでなければならない)。この誤りは,「循環分析問題」や「非独立問題」,もっとくだけた言い方では「ダブル・ディッピング」など,さまざまな呼び名で知られている。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.54-55

死んだサケの脳スキャン

この誤りに,脳画像法のプロセス自体ではなく,統計的な誤差が加わる。研究者がBOLDの信号を,同時に膨大な数の統計的試験にかけると,試験のいくつかは,単なる偶然のせいで「統計的に有意」となるのが必定だ。言い換えると,そうした試験結果は,被験者が課題に取り組んでいるとき,実際には必要とされなかった脳の領域が活発になる,と誤って示唆してしまう。この点を劇的に示すために,脳科学者のクレイグ・ベネットは,脳スキャン画像が胡散臭い結果を生み出しうることを実証することにした。ベネットと彼の率いるチームは,鮮魚店で死んだサケを買い,この協力的な被験者を脳スキャナーに入れ,さまざまな社会的状況にある人々の写真を「見せ」,彼らが何を感じているか想像するように「頼んだ」。すると,ベネットのチームは,探し求めていたものを見つけた。その死んでいるサケの脳の小さな領域が,この課題に反応してぱっと輝いたのだ。この脳の小領域の活性化は,もちろん統計的な作り物だった。ベネットと仲間の研究者たちは,意図的にやたらに多くの「引き算」を行ったので,結果のいくつかが,まったくのでっち上げであるのにもかかわらず,ただの偶然のせいで,統計的に有意になったのだった。2012年度のイグノーベル賞(「まず人々を笑わせ,それから考えさせる」研究のための賞)を受賞したこの「サケ研究」は,データ分析における決定がfMRIの結果の信頼性に影響を及ぼしうることを例証してくれる。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.53-54

逆推論

この例から明らかなように,逆推論は厄介だ。逆推論というのは一般的な慣行で,研究者が神経の活性化から主観的経験へと逆向きに推論することだ。逆推論の難しさは,脳の特定の構造が単一の課題しか実行しないことが稀で,ある領域と特定の精神状態を一対一で対応させるのはほぼ不可能な点にある。ようするに,脳の活性化から心的な機能へと,気安く逆向きに推論できないということだ。ジェフリー・ゴールドバーグがマフムード・アフマディネジャードの写真を眺め,彼の腹側線条体がユダヤ教会堂で使われる燭台のように輝いたときに,「ふーむ,腹側線条体は報酬の処理にかかわっているのがわかっているから,この被験者は,腹側線条体が活性化したところを見ると,この独裁者に対してポジティブな感情を経験しているらしい」と考える研究者がいるかもしれない。だが,じつはそうではない。目新しいものも腹側線条体を刺激しうるのだ。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.45

脳マッピング

骨相学は,人格特性と脳の解剖学的特徴を結びつけるための体系としては,ものの見事に破綻したが,特定の種類の心的現象は脳の中で局在化しているという,その根底を成す概念はおおむね正しく,今日の重要な臨床慣行には,この概念に基づくものもいくつかある。手術前の計画立案のときに,脳外科医がfMRIを使って脳のマッピングをし,言語領域と運動領域の位置を突き止め,そうした機能的に重要な領域に与える損傷を最小限に食い止めつつ,腫瘍や血栓,癲癇性の組織を取り除くようにするのが,しだいに一般的になってきている。脳のマッピングは,深刻な慢性の鬱や強迫性障害の患者の脳で,異常な活動の中心箇所を正確に突き止め,治療用電極を最も望ましい位置に挿入して,その箇所を刺激する,「脳深部刺激」と呼ばれる技術を使ううえでも重宝している。さらに,脳卒中による損傷を確認したり,アルツハイマー病や癲癇の経過を追ったり,脳の成熟度を測定したりするのにも使われる。科学者は,fMRIによって医師が意識のレベルを直接測定できるようになり,昏睡状態の患者の治療が進歩することを期待している。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.42-43

酸素消費量や血流量

感じる,考える,知覚する,行動するなど,脳のおかげで私たちのできることはすべて,脳内の酸素消費量と局所的な血流量の変化と結びついている(相関している)という事実を,fMRIは裏づけてくれる。写真を見たり,計算問題を解いたりといった課題に取り組むと,たいてい脳の特定領域が使われ,酸素を豊富に含む血液がより多く流れ込む。血流量が増え,それに伴って酸素の量が急増すれば,ニューロンの活動が増加していると解釈できる。なぜ「増加」なのかといえば,それは,生きている脳全体がいつも活動しているからだ。常に血液が循環し,常に酸素が消費されている。本当に沈黙した脳というのは,死んだ脳にほかならない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.35

実社会の問題の場合

だが,実社会の問題の帰趨がかかっているときに脳スキャン画像を深読みすると,由々しき事態を招きかねない。法律を考えてほしい。人が罪を犯したときの責任の所在は?咎めるべきは加害者か,それとも加害者の脳か?これは無論,選択しの設定を誤っている。もし私たちが生物学から学んだことがあるとすれば,それは,「私の脳」と「私」という区別が虚偽であるということだ。それでもなお,行動の生物学的な根源が特定できれば(そして,目を奪う色鮮やかな斑点として脳スキャン画像で捉えられれば,なおさら好都合なのだが),吟味の対象となっている行動は「生物学的」なものに違いなく,したがって「生まれつき組み込まれて」いる,故意ではなかった,あるいは制御できなかったと,素人があっさり思い込むのも無理はない。刑事訴訟で弁護士が,依頼人に殺人を犯すように「仕向けた」生物学的欠陥を示しているという触れ込みの脳画像に頼る例がしだいに増えているのは,少しも意外ではない。

サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.17

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